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  • 初期クリスチャンの,神に対する忠節は試みられた
    ものみの塔 1974 | 5月15日
    • 初期クリスチャンの,神に対する忠節は試みられた

      わたしたち人間は,愛されたいという欲望を生まれながら持っています。ですから,偽りの非難や不当な扱いや憎しみなどが絶えず浴びせられる中でじっと耐えるのは容易なことではありません。しかし初期クリスチャンは,まさにそうした試練に耐えたのです。

      初期クリスチャンの行なっている活動を阻止しようとして,反対者たちは群衆を扇動して暴力行為にかりたてたり,当局者を動かしてこれらクリスチャンたちに反対させたりしました。こうした反対者たちは,初期クリスチャンの業に偽りの非難を浴びせ,キリスト教を受け入れるほどの愚か者は世間知らずの無知な人間だけだ,と公言しました。そうした反対者の一人セルシウスはこう述べました。

      「彼らは,子どもをこっそり仲間に引きずり込み,またそうした子どもたちの母親の中の愚かな者たちをたぶらかすと,父親や教師など重んじる心要などない,自分たちに従えばよいのだといった,途方もないことを口走る。父親や教師たちはたわごとを言っており,何も理解していないとか,実際には価値あるものを何も知らず,正しいことも行なえず,むしろたわいのないむだ話にふけっているのだ,とか言っている。その反面,自分たちだけが生活の正しい仕方を知っており,もし子どもたちが自分たちを信じるなら,彼ら自身幸福になり,家庭も幸せになる,と言う。そして,彼らがちょうど話しているときに,教師もしくはだれかそう明な人,あるいは父親自身がやって来るのを見ると,彼らは注意深く逃げ去ってしまう。そのくせ大胆にも,子どもたちには反抗するよう勧めている」。

      こうした,偽りのばかげた非難にもかかわらず,なぜ初期クリスチャンは宣べ伝え,弟子を作る業に引き続き努力を傾けたのでしょうか。自分たちの信仰を率先して広める代わりに,なぜ他の人が近づいて来るまで待たなかったのでしょうか。これら初期クリスチャンたちは,真理を他の人々に宣明し,弟子を作るその使命を,自分たちが主イエス・キリストから受けていることを十分認識していました。(マタイ 28:19,20)彼らは,たとえそれが迫害を受ける結果になるとしても,その使命に忠実でありたいと願っていました。

      クリスチャンが憎しみの的となった別の理由は,彼らが世から離れていることにありました。(ヨハネ 15:19)彼らは政治活動に携わりませんでしたし,ローマの軍役にも服しませんでした。ですから,当時のクリスチャンには非国民のレッテルが張られ,その立場は事実上,国家の安全に危険なほど愚かであるとされました。

      では,クリスチャンが説得に負けて,ローマ防衛の軍務に服すことがなかったのはなぜでしょうか。彼らは,イザヤ書 2章4節(新)に明示されている次の原則を認識していました。「彼らは自分の剣を打ってすきの刃に変え,自分のやりを打って刈り込みばさみに変えねばならなくなるであろう。国は国に向かって剣を振り上げず,また,彼らはもはや戦争を学ばないであろう」。

      初期クリスチャンの著述家,殉教者ユスティヌスは,明らかにこの預言に言及してこう語りました。

      「戦争や殺りく行為,またあらゆる種類の悪行にふけっていたわれわれは,全地にわたって,戦争の武器であるわれわれの剣をすきの刃に,やりを耕作用の道具を変えた」。

      またさらに,クリスチャンたちは,自分たちが国際的なクリスチャン愛のうちに結ばれていることを認識していました。反対者たちは,クリスチャンがいだいているその愛を理解してはいませんでしたが,それでもそうした愛が実在することは認めざるをえませんでした。当時のクリスチャンについてこう書かれています。「彼らは,互いに知り合いになる前からお互いを愛している。……また,彼らは互い同士差別することなく,お互いを兄弟,姉妹と呼んでいる」。互いに対する深い愛のゆえに,初期クリスチャンは世の憎しみや分裂に身をまかせて,その一致を砕くことはしませんでした。―ヨハネ 13:35。ペテロ第一 5:9。

      また彼らは,偶像崇拝に関係したいかなる活動にも携わることを拒否しました。「キリスト教史」という本にはこう書かれています。

      「異教の儀式に参加することを拒んだゆえに,それらクリスチャンは無神論者と呼ばれた。異教の信条や宗教慣行と関連し,かつ不道徳に満ちた一般的な娯楽や異教の祝祭など,社会生活の多くの面から離れているため,彼らは人間ぎらいとみなされ,嘲笑された。また広く一般から,最もはなはだしい不道徳行為を犯しているとも非難された」。

      偶像崇拝に携わることを,初期クリスチャンはなぜそれほど強固に拒んだのでしょうか。彼らは,偶像崇拝が無分別で嫌悪すべき行為,つまり神に対して不忠節な行為であることを認識していました。殉教者ユスティヌスはこう語りました。

      『われわれは,これらの偶像が生きておらず,神の形をしているのでもないことを知っている。細工師は自分たちの手で作ったものを神と呼ぶ。しかしわれわれは,それを単に無意味なこととみなすだけでなく,こうした朽ちる物に神の名称を付し,それに絶えず崇拝を捧げるように求めることは,神を侮辱する行為であるとも考える。こうした像を作る職人は,大酒飲みで,ありとあらゆる悪行をならわしにしている。彼らは,ともに働いている自分の娘たちをさえ堕落させる』。

      これらクリスチャンは,世の戦争,政治,偶像崇拝などから離れているために,また熱心に宣べ伝えるために,世の憎しみを買いしばしば官公吏の前に引き出されて罰されました。これらの当局者はクリスチャンに,キリスト教を否認し,時には死をさえ意味した処罰から逃れる機会を提供しました。

      小プリニウムは,皇帝トラヤヌスに宛てた書簡の中で,クリスチャンを扱う手順についてこう語っています。

      「わたしは彼らに,クリスチャンであるかどうかを尋ねました。クリスチャンであると認める者には同じ質問を二度繰り返し,さらに,処罰すると言っておどしました。……わたしの前には数人の者を告発する匿名の手紙が置かれていました。しかし実際に尋問してみると,彼らはクリスチャンであることを否定し,これまでにもクリスチャンであったことはないと言いました。彼らはわたしのあとについて神々への祈りのことばを復唱し,あなたの像(この像はこの目的のためにわたしが命じて他の神々の像とともに持って来させたものです)の前でぶどう酒と香を用いて礼拝を行ない,キリストの名をののしることさえしました。真のクリスチャンには,これらの行為のどれ一つをも強制的に行なわせることはできないと聞いております。それゆえ,彼らを釈放するのがよかろうと考えます」。

      処罰を免れるのに必要なことは,ただ1度の礼拝行為でした。しかし,真の意味で神に献身していたクリスチャンたちは,神に対する忠節のうちにとどまりました。彼らは,妥協したり,神の許しを求めればそれですむようなささいなことだなどと理屈をつけたりすることはありませんでした。―ルカ 4:6-8と比べてください。

      多くの初期クリスチャンが自らの手で作り上げた記録は,極度の拷問を受けて死に面した時でさえ曲げることのなかったりっぱな忠節の記録です。皇帝ネロの時代に,ローマの大半を灰にした大火が起き,ネロはその責めをクリスチャンに負わせました。こうして恐しい迫害が始まったのです。歴史家タキタスはそれについてこう書き記しています。

      「初めのうちは身に覚えがあると言う者だけが逮捕されていたが,彼らから聞き出した資料をもとに,やがて莫大な数の人々が有罪を宣せられた。大半は,市に放火したというのではなく,人間に対する憎しみをいだいているという理由であった。彼らはありとあらゆるあざけりを受けて死んだ。獣の皮をかぶらされた後,犬に食いちぎられて殺されたり,十字架にくぎ付けにされたり,火あぶりの刑の宣告を受け,日没後に夜の明かりとして燃やされたりした」。

      今日でも同様に,死に面するまでの忠節を神に対して示したクリスチャンがいます。彼らは,互いを“兄弟”また“姉妹”と呼び,この世の戦争や政治とのかかわりをいっさい避け,互いに対して深い真の愛を示しています。彼らは,偽りの非難を受けているにもかかわらず,熱心に真理を宣明しています。あなたは神に対するこれほどの忠節を示すのに足る信仰を培っておられますか。エホバの証人は,そうした信仰を得たいと真に望んでおられるかたがたを喜んでご援助いたします。

  • 一世紀当時の収税人はどのようにみなされていたか
    ものみの塔 1974 | 5月15日
    • 一世紀当時の収税人はどのようにみなされていたか

      収税人が一般に人気を博したことはかつて一度もありませんでした。西暦一世紀当時,ガリラヤおよびユダヤの地方に住んでいたユダヤ人の間では特にそうでした。

      ユダヤ人はローマ当局による課税に激しい憤りを感じていたため,付加税が課せられるかもしれないと伝えられるだけで反乱が起きるほどでした。使徒 5章37節には,そうした暴動の一例が次のように記録されています。「ガリラヤ人ユダが登録のころに立ち上がり,民を引き込んで自分につかせました」。

      この種の登録は,単なる税金の支出以上の種々の大きな問題を引き起こしました。『現在,この土地の主人はだれなのだろう。こうした新たな要求が加えられるたびに,ローマが課しているくびきは重くなるばかりではないか。平和を維持するためにユダヤ人にはある程度の自治が許されてはいるが,ユダヤ人の権利をさらに侵害する行為に対して今は戦うべき時ではないか』と,ガリラヤ人ユダのような人々は考えました。また歴史家ヨセハスによると,彼らは,『ローマ人に屈服して税を払う者は憶病者だ』と言って,抵抗することを同胞に勧めました。

      しかし,ユダヤ人が課税に対しで憎しみをいだいていた理由には,外国の国家権力に対する服従を認めることになるという理由以外にもう一つ別の理由がありました。税金の徴収方法やそれに伴って生じた税金の悪用について考えると,その点が明らかになります。

      ローマの徴税制度

      人頭税と租税はローマ帝国の官吏によって徴収されました。しかし,商人によって一国から持ち出される品物や輸出入品に課税する権限は公売に付され,その種の税を課す権利は最高入札者に与えられました。彼らは税を徴収するさいに,入札時に支払った額以上の利益をその税収入から得ました。収税吏として知られるこうした人々は,自分の領地内のある地方では徴税権を下請人に委ねました。次にそれら下請人は,直接徴税に当たる他の者たちを監督しました。

      たとえばザアカイは,エリコおよびその周辺の収税人の頭であったようです。(ルカ 19:1,2)また,イエスに召されて使徒となったマタイは,実際に徴税の仕事を行なっていた人のひとりでした。レビという名でも知られているマタイは,カペルナウムもしくはその近郊に収税所を持っていたようです。―マタイ 10:3。マルコ 2:1,14。

      西暦137年の日付の入ったパルミラの税率に関する布告は,当時の税制が悪用された例を示すものとなっています。その序文は,初期の時代(西暦一世紀)には税率が一定していなかったことを述べています。課税額は慣例に従って,多くの場合収税人の気の向くままに定められました。このため,しばしば争いが起きました。

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