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ベトナム戦争 ― 宗教は人々をどこへ導いたか目ざめよ! 1972 | 10月8日
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必要とするとなると,彼はもう一度新約聖書の倫理的な意味でのわたしの隣人となる。一対一の関係が戻ってくるわけである」。9
つまりこの僧職者の論によれば,自国に対する忠節が隣人を愛するようにとのキリストの命令を無効にするというのです。教会が良心的兵役拒否を承認しているのに僧職者が戦闘を奨励するのでは,人々は当然のことながら混乱させられてしまいます。
今日,このルーテル教会の僧職者のような見解は例外で,現在教会はベトナムで戦うことを拒む方向へ人々を引っぱっている,と結論を下す人がいるかもしれません。しかし,そうした結論は五,六年前には真実だったでしょうか。
戦争に対する当初の見方
5年ほど前アメリカ合衆国各地のローマ・カトリックの司祭は,カトリック世論調査所から質問を受けました。質問は,アメリカはベトナムで勝利を得るために強硬な政策を取るべきか,というものでした。
司祭の答えは,賛成 ― 2,706人,反対 ― 371人でした。10
しばしば,司祭は戦争努力を全面的に支持する発言をしたり,行動を取ったりします。例えば一新聞の報道によると,ひとりの司祭と他のふたりの僧職者は,「ブルックリンの学生グループに,殺すことを禁ずる聖書の命令はベトナム戦争には当てはまらないということを確信させ」ようとしたとのことです。司祭のロバート・J・マクナマラは,「われわれが当地でしていることは小数独裁政治を阻止するために必要である」と述べました。11
もっと積極的に戦争に関係した司祭もいます。ある司祭の写真がライフ誌に1ページ半にわたって大きく載ったことがありますが,その表題は肉太の活字で「自ら戦う勇敢な司祭」となっていました。その記事はこう述べています。「戦いの最中にあって,ヘルメットをかぶり銃を抱えた人の上記の姿は,珍しくもあり,心あたたまる光景でもある。彼はベトコンに対して自分自身の戦いをいどむカトリック司祭である」。12
ベトナムでアメリカが勝利を収めることを司祭がほとんど全員一致して願ったのはなぜですか。司教の与えた指導が強い影響を及ぼしたことには疑いの余地がありません。1966年11月アメリカの司教たちは公式声明の中でこう述べました。「われわれがベトナムに参戦しているのは正当である,と論ずるのは理にかなっている。…われわれは同胞たる兵士の勇気をたたえ,かつ感謝を表明するものである。…われわれは現状における我が国の立場を良心的に支持することができる」。13
この戦争を十字軍の戦いでもあるかのように語った司教もいます。故フランシス・スペルマン枢機卿は,アメリカの部隊は文明のための戦いをしている「キリストの兵卒」14 であり,「勝利以外の何物をも考えられない」15 と言いました。アメリカの行動の根拠が正当かどうかの質問に対する答えになるものとして,スペルマンは「正しかろうが間違っていようが私の国だ」と述べました。16
スペルマンの「勝利」に対する願いについて,首都ワシントンにあるナショナル・シティ・キリスト教会の牧師ジョージ・R・デービスは,「私も同感です」と語りました。17 プロテスタントの他の牧師たちも,さまざまの方法で同意を示しました。
クリスチャン・サイアンスの牧師ロバート・マミーは戦争を支持する意見を述べ,大学生の一グループにこう語りました。「殺すことは純粋な心をもってなされねばならない。そうでないと,道徳的に正しくない殺し方をしたことになる。もしわたしたちの兵士が敵を憎むように教え込まれているなら,敵を殺すことは道徳的に正しくない行為である」。18
僧職者は戦死した人に誉れを与えることによっても,戦争を支持していることを明らかにしました。アイオワ州デモインのルーテル教会牧師マーチン・ハーザーはある葬儀において次のように語りました。「兵士が正当な[ベトナム]戦争で義務を果たして死ぬなら,それは国に尽くした輝かしい死であるばかりか,本人にとって祝福された最期である。…天使が彼の魂を天に携えたであろうし,彼が平和を今享受していることを私は確信している」。19
宗教は人々をどこへ導いたか
アメリカの教会がベトナム戦争をその初期の段階において支持したことは明らかとなっています。それはどんな結果を招きましたか。
一つには,同じ教会員同志が戦場で互いに殺し合うという事態に至りました。例えば,北ベトナムには推計100万人のカトリック教徒がいますが,北ベトナムの司祭たちはどんな立場を取りましたか。ニューヨーク・タイムズ紙はこう報じています。「ハノイのパデュアにある聖アンソトニオ教会の司祭ヨセフ・ングエン・バン・クエ氏は,…[北ベトナム]の軍隊に入隊する青年をきまって祝福すると話した」。20 ですから,同じ教派の会員たちが戦場で殺し合ってきたのです。しかも僧職者たちの祝福を受けてです。
しかしながら前に注目しましたように,最近になって変化が見られるようになりました。事実,各宗派が合同で,戦争の終結を促す「悔悟と行動への要請」を発表しました。21
それにしても宗教指導者はなぜ自分たちの見解を変えたのでしょうか。この質問に対する答えを頼りに,宗教はしばしば何によって取るべき立場を決定するか,したがって人類をどこに導くかを明らかにすることができます。
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宗教団体の方向を決定するのは何か目ざめよ! 1972 | 10月8日
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宗教団体の方向を決定するのは何か
ベトナム戦争をその当初容認することにより,教会は戦闘に加わるのが正しいと考える方向に人々を導きました。ところが今になって,ある教会組織やその役員は戦争を非難し,戦争参加は誤りだと言明します。
なぜこのように変わったのですか。教会は今や会員たちが聖書の教えに調和して生活するよう指導しているのですか。それとも他の要因が宗教の指導方針を決定しているのでしょうか。
オレゴン・ジャーナル誌は最近,『教会人は群集に同調しているに過ぎない』と評しました。22 つまり,人々が戦争にほとんど反対を表明しなかったときには教会はそれを支持し,一般の人が長びく戦闘と流血にうんざりしてくると,僧職者は戦争に反対しはじめたということです。
メソジスト教会の出版物「合同メソジスト」の論説委員オールデン・ムンソンはこう説明を述べています。
「度重なるミライのような酷薄な事件,それに戦争に関する史上最も充実した報道が全国民に影響を与え,教会も遂に反戦の空気の中をとぼとぼと他のあとに付いて行くことになった。…1965年以来,ベトナム一般市民の犠牲者の推計は男女子供合わせて100万から400万人に上るが,教会は今ごろになってやっと驚きの色を表わしている」。23
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