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時について平衡の取れた見方を保つものみの塔 1976 | 10月15日
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を逃れることに成功しました。しかし,歴史の示すところによると,他の幾十万もの人々はそれを逃れることができませんでした。彼らの住んんでいた時代の支配的な状態の意義や時代の緊急性について,彼らは事実上眠っていました。西暦70年,ローマはついにその軍隊を再び差し向け,わなを締めるかのようにエルサレムを突如包囲しました。その時ローマは,同市がその年の過ぎ越しを祝う多数の訪問者であふれているところを捕えました。わずか五か月ほどの期間に,それらの訪問者や土地の住民のうちの幾十万という人々が死にました。彼らは,神のみ子を通して与えられた神の警告に信仰を示しませんでした。『自分たちが検分されている時を見分けなかった』のです。―ルカ 19:41-44。
14,15 イエスが当時ご自分の弟子たちに与えた警告がわたしたちの時代に世界的な成就を見ることを示す,どんな証拠がありますか。
14 わたしたちは,その重大な時から19世紀へだたった今日に住んでいます。しかし,わたしたちの時代はその時よりもはるかに重大な危機に面しています。一世紀の終わりごろ,したがってエルサレムの破滅から何十年かたった後に聖書を書いた使徒ヨハネは,イエスがエルサレムの破滅を含む預言の中で弟子たちに「しるし」としてお与えになった事柄と同じ事柄を描写しています。しかし,ヨハネがイエスから受けた啓示は,やがて起こることになっていた,将来の事柄でした。(啓示 1:1)そしてヨハネが記録した事柄は,イエスの与えた「しるし」が地球的性格を帯び,戦争,飢きん,食料品の値段の高騰,流行病などが,世界の多くの地域の多数の人々に影響を及ぼすことを示しています。(啓示 6:3-8)そのあと彼は「大患難」に言及し,神のしもべの「大群衆」,つまりあらゆる国民,部族,国語の中から出て来た人々が,その大患難を生きて無事に通過することを述べています。(啓示 7:9-15)その大患難もこれからくる事柄の一部です。
15 したがって,この「イエス・キリストによる啓示」は,マタイ 24章,マルコ 13章,ルカ 21章に記録されている「大患難」についての預言が,第一世紀のみに限られていないことを実証しています。このことから,エルサレムが経験した大患難はその預言の縮図的成就であったこと,そして地球的規模の大きいほうの成就に比べれば,そのエルサレムの大患難はごく小さなものに見えることが分かります。第一世紀に生きていてイエスの警告を聞いていた世代が,確かにイエスの言葉の成就を経験した世代であったのと同じく,この世代,すなわちこの事物の体制の終わりの日を示すイエスの「しるし」の大規模な成就を見ている世代は確かに,きたらんとする地球的大患難を経験する世代です。―マタイ 24:34。
16 わたしたちは「大患難」のぼっ発する日または年さえ知らないので,無関心でいてよい理由がありますか。
16 では神はこのことについてわたしたちにどんなことを啓示されたでしょうか。確かに神はわたしたちを導きのないままに放置してはおられません。さきほど取り上げたような預言により,神はわたしたちが時の流れのどのあたりにいるかを知ることができるようにしてくださっています。神の預言の成就は,わたしたちに次の確信を与えてくれます。すなわち,神は眠気をもよおしているのでも遅いのでもなく,また,使徒ペテロが悪行者について述べた通り,「昔からの裁きは手間どっているのでもなければ,その滅びはまどろんでいるのでも」ないということです。(ペテロ第二 2:3)邪悪な現体制について言えば,その「終わりの時」である時にわたしたちが住んでいるということを確信させる情報や証拠は十分あります。しかしこの外に,神がわたしたちに啓示しておられない事柄があります。その一つは,エルサレムに臨んだ患難が予表していた「大患難」,すなわちその成就においては地球的なものとなる患難のぼっ発する時です。
神が啓示しておられない時間的要素
17 わたしたちは自分たちが人間の歴史の6,000年の終わりにあることを知っています。しかしこれは,神の安息の日とどんな関係にありますか。
17 これをわたしたちが知ることができないのには理由があります。まず,聖書の年譜は最初の人間アダムの創造の時から今までに6,000年が経過したことは明示していますが,その出来事からどれほど後に創造の六日が終わり,七番目の創造の期間すなわち「日」,つまり神の大安息日が始まったかは告げていません。創世記 2章3節には,エホバはその「日」を祝福し神聖にされた,と述べられています。したがって,その日のうちに,神のみ子の千年統治という手段によって邪悪な古い秩序が除かれ,神の義の新秩序が確立されるのは,妥当と考えられます。ですから,その1,000年という期間は,その大安息日の終わりの部分に当たり,地球とその住民が完全な状態に回復される時である,と信じてよい理由があるのです。そのときに神は,第七日とその結果について,他の創造の日に関して言われたように,「良し」と仰せになることができます。―創世 1:4,10,12,18,21,25,31,新。
18,19 (イ)アダムが創造されたあと,そして神の安息の日が始まる前に,どんなことが起きましたか。(ロ)創造されたときのアダムは,生まれたばかりの子供とはどのように異なっていましたか。
18 しかし,その大安息日は,アダムの創造の直後に始まったのではありません。アダムが創造された後ですがしかし創造の第六日が終わる前に,他の出来事が生じました。そのうちの一つは,わたしたちすべてにとって大きな重要性を持ちます。それは最初の女エバの創造でした。エバの創造がなかったなら,わたしたちのうちのだれも今日生きてはいないでしょう。なぜなら,使徒パウロがコリント第一 11章12節で,「女が男から出ているのと同じように,男も女を通してあるからです」と言っている通り,わたしたちは皆,生まれ出るのに人間の母を必要とするからです。
19 男の創造から女の創造までには,どれほどの時が経過したのでしょうか。聖書はそれを示していません。それが比較的に短い期間であったことは考えられます。アダムは ― 子供または若者としてではなく ― 成人として,肉体的にも知能的にも十分に成熟した人として,創造されました。歩けるようになるまではっていることも,話せるようになるまで片言を言っていることも必要ではありませんでした。彼はそうした能力を持つ者として創造されていましたから,天におられる創造者と対話することができ,また彼の住まいの園を耕し,その世話をする仕事に着手することができました。アダムは神の指示や,禁じられていた善悪の知識の木についての禁令も理解できました。(創世 2:15-17)ですからそうした面では,いつでも妻を迎える立場にあったでしょう。
20 しかし,創造されたときのアダムはどんな面で,生まれたばかりの子供に比べることができましたか。
20 ところがある面ではアダムは創造されたときに,生まれたばかりの子供のようでした。なぜでしょうか。なぜなら,全くの成人であったとは言え,彼が創造された日はまだ彼の生涯の第一日目だったからです。彼の目に映るもの ― すべての樹木,花,植物,すべての小川,湖,川,あらゆる鳥,動物,それに魚 ― は皆,初めて見るものでした。彼がしたことすべてについても同じことが言えます。彼が歩いたとき,彼はまさに初めての第一歩を踏み出したのです。走り,登り,触り,かぎ,味わい,食べる経験も同じことで,彼にとってはすべてが新しい経験でした。エホバ神の魅惑的なみ手の業を観察し,自分の園の住まいを知るようになるにつれ,アダムはどんなにか大きな好奇心を感じたことでしょう。家族の頭として加えられた責任を担うようになるまでに,彼はその好奇心を満たす時間をどれほど許されたのでしょうか。
21,22 エバが創造される前にアダムがエデンにかなり長くいたと考えさせられる,どんな要素がありますか。
21 そのエデンの住まいは,小さな地所ではなかったようです。創世記 2章によると,その境界内には,あらゆる種類の木が生えていました。またそこには「エデンから発して園を潤」す川がありましたが,それは分かれて四つの大河の上流を成すほどのものでした。そのうちの幾つかは今日も依然として流れています。(創世 2:8-10)アダムが,世話をし耕すよう自分に割り当てられた地域をよく知るためにこれらをすべて踏査するには,時間がかかったことでしょう。
22 「しかし,最初から人間の伴侶である妻と共にそうした新しい経験をすれば,楽しいだろうに」と言う人もあるでしょう。そうかもしれません。しかしまた一方,アダムが先に相当の知識と経験を積んでいれば,そのほうがもっと良かったとも言えないでしょうか。そうすれば彼は,配偶者と一緒になる時に,彼女の質問に答えたり,物事について彼女に説明してやったりして,博識の頭である自分に対する彼女の尊敬を深め得る立場にあったでしょう。(エフェソス 5:22,23)背いて禁じられた木から取って食べた場合の結果について神から直接に警告されたアダムは,神が後ほど人のために創造される伴侶に対する神の預言者の立場に置かれました。―創世 2:16,17。
23,24 アダムがすべての動物に名前を付けたことは,時に関して何を明示していますか。
23 聖書が実際に与えている唯一の情報はこれです。すなわち神は,エバの創造に先だって,ご自分が造っておられたすべての生き物を人のところへ連れて来ることを始められ,そして「人は,すべての家畜と天の飛ぶ生き物と野のあらゆる野獣の名を呼んでいたが,人のためには,自分を補うものとしての助け手が見当たらなかった」ということです。(創世 2:18-20,新)このことを説明するには数語で足りますが,実際にはどのくらいの時間がかかっているでしょうか。
24 創世記の記録は簡潔で,そこには,神が単に全部の動物と鳥を集めて一つの大きな群れにし,それから彼らを一列にしてアダムの前を通らせ,一方アダムはその一つ一つに大きな声で素早く名前を付けていった,と考えることを要求するような点は確かに見られません。なるほどアダムは,基本となる種族を扱うだけで,それらの種族から生まれ出た変種の動物すべてを扱わなくてもよかったのかもしれません。しかし,たとえそうであったとしても,次の可能性を認めないわけにはいきません。すなわち,神がそれらの動物をアダムのところへ『連れてこられた』ということは,アダムがしばらくの間彼らをよく研究し,彼らの特殊の習性や性質を観察したうえで,それぞれに特に適した名前を選べるように,彼らがアダムに十分近い所までやって来ることであったかもしれないということです。もしそうであったら相当の時間が経過したことが考えられます。また,アダムが新しく創造された妻をついに目にしたとき,彼の口から最初に出た言葉が,「これこそついにわたしの骨の骨,わたしの肉の肉」であったことも注目に値します。(創世 2:23,新)このことも,彼が自分と対をなす喜ばしい人間を得るまでにかなり待ったことを暗示していると取ることができます。
25 人間の歴史の始まった時からエバの創造までの時の長さ,そして神の『安息』について,わたしたちはどんな結論に到達しますか。
25 では以上のことは何を意味するでしょうか。それはこういうことに過ぎません。そうした要素や,またそれらの要素から生まれ得る幾つかの可能性がある以上,アダムの創造から最初の女の創造までにどれほどの時が経過したかを,はっきり言うことはできない,ということです。それが一か月,数か月か,または一年といった短い期間であったのか,あるいはもっと長い期間であったのか,わたしたちには分かりません。しかし,それがどれほどの期間であったにせよ,神の第七「日」,すなわち神の大安息日が始まってからどれほどの時がたっているかを知るには,その期間を,アダムの創造以後経過した時間に加えなければなりません。そういうわけで,人間が存在し始めてから6,000年たったということと,神の七番目の創造の「日」が始まってから6,000年たつということは,全く別の問題なのです。そしてこの点に関してはわたしたちは,自分たちが時の流れをどこまで下っているか知りません。
26,27 以上検討した事から考えると,年譜はわたしたちに興味のないものですか。
26 といってもこれは,わたしたちが年代計算に関心を持たないということではありません。神がそれを,ご自分の霊感による言葉の肝要な要素とすることを良しとされたのですから,わたしたちがそれに関心を持つのは当然です。使徒ペテロは,古代の預言者たちについて,「彼らは,自分のうちにある霊が,キリストに臨む苦しみとそれに続く栄光についてあらかじめ証しをしている時,それが……特にどの時期あるいはどんな時節を示しているかを絶えず調べました」と述べています。―ペテロ第一 1:10,11。
27 自分たちが現在どの「時期」にいるかを知ることにわたしたちが今関心を持っているのは正しいことです。ですから神はわたしたちにその必要な情報を与えてくださいます。神の昔の預言者たちは,神の言われたことがすべて確実に成就することを固く信じていました。詳細な事柄や時間的要素に分からないところがあっても,神の目的が不変であることに,わたしたちも同じように不動の信仰を持つことができ,また持つべきです。神のみ子は,その目的の成就を油断なく見守っていなければならない強力な理由を与えてくださいました。次の記事はそのことを示しています。
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確信を与える確かな根拠ものみの塔 1976 | 10月15日
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確信を与える確かな根拠
1 エホバの民は,この世との関係について言えばどんな状態にありますか。
献身し,バプテスマを受けて神のしもべとなった人々は,その魂を神にゆだねました。彼らの現在,将来,全生活,そして神のきたるべき新秩序で生きる希望など,彼らが持っているものはすべて,彼らの今の状態や将来の状態はすべて,エホバの手中にあります。彼らは,この世の現体制の中で持っていたかもしれない「より幸福に生きる機会」または希望,あるいはこの体制が将来もたらすかもしれない何かを一切捨てて,事実上「背水の陣を敷きました」。
2 世の人々や,いわゆる“兄弟たち”の幾人かに嘲笑されても,パウロはどう考えましたか。
2 このことについて,主イエス・キリストの一使徒は,当時獄につながれたにもかかわらず,そしてまた嘲笑や反対のために彼のいわゆるクリスチャンの“兄弟たち”の幾人かが彼から離れていったにもかかわらず,次のように言いました。「わたしはこうした苦しみに遭っているのですが,わたしはそのことを恥じていません。わたしは自分が信じてきたかたを知っており,わたしが託したものを,そのかたがかの日まで守ってくださることができると確信しているからです」― テモテ第二 1:12。
3 エホバの「日」の来ること,そして自分たちが神の「休み」に入ることについて,クリスチャンはどんな確信を抱くことができますか。
3 「かの日」とは,クリスチャンたちが例外なく待ち望んでいる日のことで,神が地を清め,「天におけると同じように,地上においても」ご自分の意志を成し遂げられる時です。(マタイ 6:10)このことに関してわたしたちは神の言葉を有しています。この時は人類にとって確かに安堵の時,すなわち休みの時でしょう。その休みを享受することについてわたしたちはどんな確信が抱けますか。最も強い確信を抱くことができます。というのは聖書が,「神は……すべての作業を終って第七日に休まれた」と告げており,そして神は従順な者たちに,彼らがご自分の休みに入ることを約束しておられるからです。(創世 2:2,口。ヘブライ 4:1,4,9)わたしたちは本当にその約束を信じるでしょうか。
4 エジプトを出たとき,イスラエル人の前にどんな機会が置かれましたか。しかし彼らはそれについての神の言葉をどのように見ましたか。
4 イスラエル人は,エジプトでの奴隷状態から解放されたとき,神の休みに入るという約束,また約束の地で彼らが生きている間に,以前の奴隷状態と圧制から解かれたすばらしい休みを得るという約束を得ました。彼らは神が楽園のような状態に保っておられた一部の地で生活を楽しみます。(申命 11:11,12。創世 13:10)しかし大多数は,自分たちに対する神の言葉にひどく信仰を欠いていることを示しました。彼らは,エジプトに戻りたいと思うほどこの不信仰を表わしました。神の約束の言葉をもはや生きていないもの,死んだ約束,弱いもの,完全には実現させることのできないものと見ていました。
神の約束の確実さ
5,6 (イ)イスラエルに対する神の言葉が弱くなかったことを何が証明していますか。(ロ)なぜわたしたちは神の「休み」に入ることに関する神の言葉を全く信頼することができますか。
5 ヘブライ 4章12節に記録されているなじみ深い言葉は,使徒パウロがこのことと関連して書いたものでした。「神のことばは生きていて,力を及ぼし,どんなもろ刃の剣より鋭く,魂と霊,また関節とその骨髄を分けるまでに刺し通し,心の考えと意向とを見分けることができるのです」。
6 イスラエルに対するその言葉すなわち約束は死んだものでも,弱いものでもありませんでした。事実,信仰を働かせた少数の人は,確かに約束の地における地的「休み」に入りました。(民数 14:5-9,30。ヨシュア 14:6-10)今日においても同様に,わたしたちは義の新秩序における命についての神の貴重な約束を得ています。この「終わりの時」に住んでいる世代は,「大患難」を経験する世代であるという神の「ことば」を聞いています。(マタイ 24:34)信仰によって今神の「休み」に入ることができ,神のしもべの大群衆はその大患難を生き残って,次に来る新秩序に入ることができる,という約束の言葉を聞いています。(啓示 7:9-14)その「ことば」は生きていて,エホバが意図されたことすべてを成し遂げる力を持っています。失敗に終わることは決してありません。(イザヤ 55:10,11)なぜでしょうか。それを約束した神は生きておられ,ご自分の約束を成就すべく,絶えず綿密に事を運んでおられるからです。神は人間とは違い,眠っておられるのでもなく,その「ことば」の細かい部分を何かお忘れになるということもありません。(民数 23:19)確信をもってそう言えるのはなぜですか。
7,8 (イ)神の言葉の確実さについてわたしたちに一層の保証を与えるものを幾つか挙げなさい。(ロ)ペテロは当時におけるその確実さについてなんと言いましたか。
7 わたしたちは確実な証拠を持ってはいないでしょうか。わたしたちは幾百もの証拠を指摘することができます。歴史のみならず聖書にも,神の言葉の成就した例が豊富にあります。a そしてこの言葉に対する信仰,この言葉を自分の生活に当てはめること,このようにして神の備えに希望を置き,神の約束に信仰を置くことは,わたしたちの生活に良い影響を及ぼし,わたしたちを幸福にしたではありませんか。もしこの言葉から離れてこの世と歩みを共にするなら,わたしたちの将来はどうなるでしょうか。―マタイ 16:25,26。
8 神の言葉が信頼できる証拠について言えば,イエス,パウロ,それにペテロは,わたしたちが今論じていること,すなわちクリスチャンであると公言する人々の中に信仰を失う人たちがいる,ということを預言していました。その背教は,キリスト教世界の宗教制度の中にはっきりと見られます。(マタイ 13:38,39。使徒 20:29,30。テサロニケ第二 2:3。ペテロ第二 2:1-3)ペテロはまた,彼も彼の同労者も,巧みに考え出された作り話に従っているのではなく,目撃者の話に従っていること,そして当時でさえ彼ら,すなわち一世紀のクリスチャンたちは,単なる預言以上のものを持っていたことを指摘しました。実際の成就を目撃することにより,「預言のことばは」,彼らの眼前で「いっそう確かなものに」されました。―ペテロ第二 1:16-19。
9 わたしたちが神の預言の言葉に注意を注ぐことは,なぜ使徒たちにとって重要であったのと同じほど重要なことですか。
9 19世紀後の今日のわたしたちは,それよりもずっと多くの証拠を有しています。ペテロはこう結論します。「あなたがたが,夜があけて明けの明星が上るまで,暗い所に輝くともしびのように,心の中でそれに注意を向けているのはよいことです」。(ペテロ第二 1:19)神の言葉は,いつの時にもまして,わたしたちがより綿密な,心のこもった注意を注ぐだけの価値があります。というのは,神がその預言の言葉の中で言われている通り,わたしたちは世界が今多くの難問題を抱えているのを見ているからです。またわたしたちは,良いたよりが全地に広められ,幾百万という人々が集められて,「大患難」を生き残るあの「大群衆」を形成しているのを見てはいないでしょうか。
平衡の取れた見方を保つように注意する
10 (イ)神の言葉はわたしたちについてどんなことを示しますか。(ロ)このことに関してわたしたちはどんなことを自問できますか。
10 エホバの言葉に,わたしたちが今神の休みに入り,その中に入ったまま「大患難」を通過し,そのあとキリストの千年統治が地球を楽園に変える,とあれば,その言葉すなわち音信は真実です。神の言葉は本当に『もろ刃の剣のように鋭い』ものです。それはわたしたちがどんな考えを持ち,心にどんな意向を抱いているかをあらわにして,真のわたしたちを示します。わたしたちは,神を愛し,信頼し,そのみ言葉に全き信頼を寄せているがゆえに,エホバ神に奉仕しているでしょうか。それとも,他の人々の命にはほとんど関心を示さず,わたしたちが楽になるときとしてある特定の日の来るのを第一に求め,『良い事を行なうことに倦み疲れ』ているでしょうか。(ガラテア 6:9)わたしたちはエホバから頂いたもの,エホバの民との交わりから得たものすべてを感謝しているでしょうか。わたしたちが学んだ事柄は,家族生活を営む上で役立たなかったでしょうか。わたしたちは真理を知った結果として得た,現在の多くの真の友を愛していないでしょうか。―マルコ 10:29,30。
11 ある人々は,クリスチャンの歩む道についてどんな間違いをしている可能性がありますか。
11 神に奉仕してきた人の中には,特定の日または特定の年に何か起こる,という間違った考えに従って生活の計画を立てた人たちがいるかもしれません。そしてそういう理由から,さもなければ注意を払ったであろう事柄を延期したり,怠ったりしてきたかもしれません。しかしその人たちは,この事物の体制の終わりに関する聖書の警告の要点を捕えそこない,聖書の年代記述は明確な日を示すと考えていました。
12,13 イエスはルカ 21章34-36節の言葉を,どういう意味で言われたのではありませんか。
12 イエスご自身の言葉は,終わりに関する正しい態度について,どんなことを示しているでしょうか。それはある日を期待することですか。それとも何をすることですか。イエスはこう言われました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:34-36。
13 わたしたちが自分で,終わりの日,と考えるある特定の日まで資力が続けばよいのだから,そのように経済面の事柄や世俗の事柄を調節すべきである,という意味でイエスはこう言われたのでしょうか。もし自分の家がひどく傷んでいるなら,もう数か月必要なだけなのだからと仮定して,放置しておくべきでしょうか。または,家族の中に特別の医療を受ける必要がありそうな人がいる場合に,『まあ,この事物の体制の終わりも間近いことだから,治療は受けないで置きましょう』と言うべきですか。イエスが勧めたのはそのような考え方ではありません。
14 (イ)イエスと使徒たちは,終わりの時について語ったとき,どんな態度を取ることをわたしたちに勧めましたか。(ロ)終わりが近いということは,クリスチャンたちがその生活様式を大きく変化させねばならないということですか。それともどういうことですか。
14 では,イエスと使徒たちは,終わりのしるしを油断なく見張ることや,「エホバの日の臨在を待ち,それをしっかりと思いに留める」ことについて話したとき,どういうつもりで話したのでしょうか。彼らはわたしたちに,その日は一瞬も遅れることなく,エホバの意図された時に必ず臨む,ということを確信させるつもりでした。ペテロの言葉によると,わたしたちはこのことに鼓舞されて,「聖なる行状と敬神の専念」とに励み,聖書の原則に従って生き,また王国の音信を熱心に宣べ伝えて,神に心を向けることが緊急に必要であることを人々に確信させなければなりません。(ペテロ第二 3:11,12)わたしたちは皆,神を崇拝する仕方を改善して,神との関係をより堅いものにすることができます。今までも最善を尽してきたでしょうし,その間に進歩してきたことでしょう。では終わりが非常に近いということは,わたしたちが自分の生活様式や神への奉仕の仕方を大きく変えなければならないということでしょうか。必ずしもそうではありません。しかしながら,聖書的に見て大いに改善を必要とする点はあるかもしれません。またもし,現体制内でのむなしい仕事から時間を買い取れるようなところがわたしたちの生活の中にあれば,それを買い取るべきです。この方法で多くの人は幾年にもわたり,全時間「開拓」奉仕の喜びを味わっています。わたしたちはだれでも,自分に何ができるかを調べてみることができます。―エフェソス 5:15,16。
15 もしある特定の日に終わりが来ると考えて自分の生活を調整した人がいるなら,その人は今どうすべきですか。
15 しかし,ある特定の日に照準を合わせて,自分や自分の家族に本当に必要な事柄など,わたしたちがクリスチャンとして普通に注意を払うような日常の事柄を怠るのは賢明ではありません。その「日」が来ても,クリスチャンは常に自分の責任をすべて果たさねばならない,という原則は変わらないことを,わたしたちは忘れかけているかもしれません。こういう考え方をしていなかったために失望している人がいるなら,その人は,自分の期待に背いて,あるいは自分を欺いて自分を落胆させたのが神の言葉ではなく,自分自身の理解が間違った根拠に基づいていたためであることを悟り,自分の見方を今調整することに注意を注がねばなりません。
16 もしあなたが全く誠実な気持ちである特定の日を非常に重要視していたなら,どんな慰めを見いだせますか。
16 一方,あなたはある日を非常に重要視し,感心にも時の緊急性と人々の聞く必要とに一層深い注意を払ってきた人であるとしましょう。そして今,一時的に,多少失望を感じているとしましょう。あなたは本当に敗者でしょうか。あなたは本当に傷ついているでしょうか。あなたは,そのように良心的に行動することにより得をし,益を得た,と言えるとわたしたちは思います。またあなたは,本当に円熟した,より穏当な見方ができるようにされました。―エフェソス 5:1-17。
17 イエスが裁くために「来る」正確な日を,わたしたちは前もって知らされないということは,どうして分かりますか。
17 終わりは全く不意に世界の上に臨む,と聖書は繰り返し告げています。使徒はこのことについて次のように述べています。「[裁きが行なわれる]エホバの日がまさに夜の盗人のように来ることを,あなたがた自身がよく知っているからです」。(テサロニケ第一 5:2)イエスは,真のクリスチャンたちが,『盗人が襲われるように』襲われることのないよう,当時の弟子たちにまで,そしてまた今日のわたしたちにこう言われました。「それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなたがたは,自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです」。そしてそのあと,「あなたがたも用意のできていることを示しなさい。あなたがたの思わぬ時刻に人の子は来るからです」と言われました。(マタイ 24:42-44)イエスのこうした明確な陳述は次のことを暗示しています。すなわち,キリストが裁きのために「来る」時は,それが実際に生ずる時まで,神のしもべたちに知らされることは決してないということです。実際,その時は,彼らにとって『考えられない』ように思えるときに臨むでしょう。―ルカ 12:39,40。
諸国民が多くの危機を“生き残っても”,それに欺かれてはならない
18 「大患難」が始まる前に,あらゆる場所のすべての国民が今にも餓死しそうな状態になると考えるべきではありませんが,なぜですか。
18 しかし,イエスが実際にどんなことについて警告されたかに注目してください。イエスの言葉は,「大患難」が近づくにつれ,あらゆる場所のあらゆる人々が飢餓状態に陥るような世界情勢が出現することを示してはいません。そうでなければ,どうしてイエスの弟子たちがその時に『食べ過ぎや飲み過ぎに押しひしがれる』危険があるでしょうか。またイエスが,大洪水前のノアの日の状態と,ソドムおよびゴモラの滅びる前のロトの日を例として用いておられることも忘れないようにしましょう。当時,人々の生活の仕方が普通の状態に見えたことを,イエスは示しておられます。彼らは,破滅が突如彼らを襲うその日まで,『飲んだり,食べたり,めとったり,嫁いだり,買ったり,売ったり,植えたり,建てたり』していました。―ルカ 17:26-30。
19 諸国民は,間に合わせ的なことをして事を運ぶことができるかもしれませんが,わたしたちは何を念頭に置いていますか。
19 ですからわたしたちは,「大患難」の必然的前兆として世界の諸体制が今にも停止しそうになる,あるいは事実上崩壊状態に達するのを予期してはいません。また,それらの体制が深刻な危機から明らかに立ち直るように見え,その明らかな回復の影響で神の裁きの日の到来が先に延びるかのように思えても,わたしたちは欺かれません。この体制が無限に続くものであるかのように,この
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