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  • 世界宗教に対する厳しい非難
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • 世界宗教に対する厳しい非難

      いったい世界宗教は人類をどこへ導いているのでしょうか。この質問の答えに,あなたは驚くかも,いえ,強いショックを受けるかもしれません。

      そうであっても,わたしたちは,あなたがこの問題に関する率直な討議を望んでおられることと思います。

      しかし,なぜわたしがこの問題に関心を持たねばならないのか,とあなたはお尋ねになるかもしれません。たぶん,自分には直接関係がない,と考えておられるかもしれません。

      ですが,自分自身とご家族の福祉には関心を持っておられるのではありませんか。むろんお持ちでしょう。では,あなたが教会に行こうが行くまいが,世界宗教はあなたに関係を持っており,あなたと,あなたの愛しておられるかたがたをともに悲劇的な結末へと導きかねないのです。

      どうしてそんなことがありうるのだろうか。少し飛躍しすぎていないか。宗教がそれほどの影響を及ぼすことはありえない,とお考えになるかもしれません。しかし,神ご自身が世界宗教に浴びせた非難の一つを聴いてください。「地上でほふられた者たちすべての血が彼女の中に見いだされた」― 黙示 18:24,新。

      考えてみてください。歴史を通じて幾百万のもの人をほふったすべての戦争に対し,世界宗教が主な責めを負っている,と神のみことばは述べているのです。

      聖書は世界宗教を娼婦とも描いています。彼女が地の支配者たちと『床に入り』,地に住む者たちは「彼女の淫行のぶどう酒で酔わされ」てきたと述べています。この女,世界宗教は,「娼婦たちと地の嫌悪すべきものとの母」と呼ばれています。―黙示 17:2,5。a

      このことにあなたは驚かれますか。しかし,神のみことばは世界宗教についてそう述べているのです。それに,宗教についての真実を神ご自身よりよく知っている者がいるでしょうか。

      それにしても,世界の諸問題についてほんとうに宗教を責めることができるのでしょうか。共産主義は,また多くの人を共産主義に転じさせた,富んだ人たちによる圧制はどうですか。

      チェコスラバキアのプラハにある,コメニウス神学部教授団の学部長ヨセフ・フロマドカはこう語りました。「私は共産主義者ではありません。クリスチャンです。ですが,共産主義に対して責任があるのは,われわれクリスチャン以外の何者でもないことを知っています。…われわれは『言うだけで,実行しなかった』。…共産主義者もかつてはクリスチャンだったのです。彼らが正義の神を信じないのなら,それはだれの責任ですか」。1b

      何百万人もの人々が教会に背を向けているのは,単に偽善的な信心のためだけではなく,それ以上のわけがあります。世界宗教は概してだれを支持してきましたか。富んだ圧制的な人たちや裕福な地主階級,また勢力のある財閥などではありませんでしたか。少しでも楽になることを願って,多くの人は共産主義に転じました。

      また,今日の道徳の崩壊はどうですか。これに対してもやはり宗教が主な責めを負っているといいうるでしょうか。今日キリスト教世界の至る所で淫行・姦淫・同性愛・性病などがはびこっているのは,宗教に大いに責めがあると言えるでしょうか。

      戦争・共産主義・不道徳 ― こうした事態に人類を導き入れた責任が宗教にあるなどということは,多くの人にとって信じがたいことかもしれません。しかし,イエス・キリストが当時の宗教指導者を「盲目の案内人」と呼んだことを思い出してください。彼はこう言いました。「それで,盲人が盲人を案内するなら,ふたりとも穴に落ち込むのです」。(マタイ 15:14,新)それら宗教指導者は人々を誤らせていました。

      イエスはそればかりか,その時から40年も経ないうちにエルサレムとユダに臨んだ惨めな滅亡にユダヤ人を導いた責任は,直接それら宗教指導者にあることを示されました。―マタイ 23:29-36。

      今日これと平行した事態が見られますか。現代の宗教は実際に人類を同じような滅亡に導いているといえるでしょうか。こんなことは,ほのめかすことすら,人々の気に障るかもしれません。しかし,それがほかでもない神のみことばの述べていることであるならどうですか。もしそうなら,なぜそう言われているのか,わたしたちには何ができるのかを,少なくとも考える時間を設けるべきではないでしょうか。

      では,宗教は人類を実際どこに導いているのかを検討することにしましょう。そうすれば,神がこの問題にどう対処されようとしているかがわかりますし,それがあなたご自身と,あなたの愛しておられるかたがたとどんな関係があるかも明らかになってくることでしょう。

  • 宗教はどのように人々を導くか
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • 宗教はどのように人々を導くか

      一見したところ,政治支配者が宗教を導いているように思えます。ある場合はそのとおりです。それにしても,支配者が,なかでもキリスト教であると主張する国の独裁者が権力を振ってこられたのはいったいなぜですか。

      それは宗教が人々の考え方をどの方向に導いてきたかに原因があるのではありませんか。実際,宗教が人々の思いをある型にはめてしまったために,独裁者が権力を得,それを保持するという事態が生じうるのです。人々は宗教の影響を受けて,政治指導者が自分たちの望む状態を社会にもたらしてくれると期待するようになっています。

      少数の例外を除けば,宗教指導者みずから政治支配者を賞賛し,追随してきました。時には,どちらの側に投票すべきかを人に告げることにより,僧職者が直接政治に介入することさえあります。

      したがって独裁者が登場して,人々に彼らの欲しているものを約束すると,多くの人は彼に従います。ところが彼が戦争を命じるとどうなりますか。大多数の人はこの点でも従うよう僧職者からしむけられているのです。

      政治支配者のやり方に行き過ぎの見られることがあります。僧職者の意に沿わないことをする場合です。ですが,そうした悪政に対してまず責任があるのはだれですか。たとえば,ヒトラー政府は,僧職者の大多数が彼を支持するよう人々に命じなかったら,少なくとも支持することを許さなかったら,あれほどの権力を振うことができたでしょうか。ナチ主義の地位は,ヒトラーとバチカンの間に結ばれた政教条約によって強化されたのではありませんか。

      ロシアの教会が富裕な地主階級や他の圧制的な分子を支持するあまり,必然ともいうべき反動が起きましたが,もしそういう事態が生じていなかったら,共産主義がロシアで政権を握っていたでしょうか。キリスト教世界の国民が中国人に対してもっと別の扱い方をしていたなら,共産主義が中国大陸を手中に収めていたでしょうか。

      今日の急進的な僧職者の中には,革命を勧める人さえいます。しかし,彼らはそうすることによって,自分たちの態度を実際に変えているのでしょうか。神のみことば聖書に教えられている真の解放を示す代わりに,人々を別の利己的な支配形態に導いているに過ぎないのではありませんか。

      また,道徳はどうですか。淫行や姦淫,性的に異常な行為をならわしにする教会員はどうなりますか。相変わらずりっぱな会員として留まるのが普通です。道徳上の訓練や指導を与える面での教会の怠慢こそ,キリスト教世界の至る所で見られる性病,私生児の出生,あるいは堕胎などの驚くべき増加の主要な原因を作っているのではないでしょうか。

      今日のこの状態は,イスラエルがバビロンに流刑にされる前,彼らの首都エルサレムが破壊される前の状態と全く同じです。聖書は当時について,「預言者と祭司は偕に邪悪なり」と述べています。―エレミヤ 23:11。

      その結果どんな状態が生じましたか。聖書は次のように答えています。「ただ詛 偽 凶殺 盗 姦淫のみにして互に相襲ひ血血につゞき流る」― ホセア 4:2。

      僧職者は今日,古代イスラエルにおけると同様,神についての信仰を保たなかった,というのが真実です。信徒に神のみことばの真理を教えていませんし,自分自身それに従いもしません。神に命令されることを行なうよりは,自分の考えを遂行することに関心を示してきました。

      これは,神の名によってなされた嫌悪すべき事柄を非難した僧職者が全くいなかった,という意味ではありません。政治に携わる人々のなかの誠実な人々が事態を正そうと努めてきました。しかし,妥協と利己主義という支配的精神,さらに幾世紀もかかって築き上げられた,正しい原則を無視する体制とのために,キリスト教世界をよくしようとする人々は無力な状態に置かれてきました。たぶん,世界宗教の失敗が招いた最も悲惨な結果は,人類の戦争に関するものでしょう。その記録を調べるなら,わたしたちは大いに考えさせられます。たとえば,ベトナム戦争に関連した,宗教はどんな記録を示しているでしょうか。

  • ベトナム戦争 ― 宗教は人々をどこへ導いたか
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • ベトナム戦争 ― 宗教は人々をどこへ導いたか

      カトリック,プロテスタント,その他の宗教団体に属する若い人々が何千人となくベトナムで戦ってきました。そして今なお多くの人が戦っています。僧職者は直接戦場で兵士に仕えています。宗教は人々をこの戦争に送り出すことに関与したでしょうか。

      ベトナムの戦闘に関して,プロテスタント諸教派は今どんな立場を取っていますか。イエズス会士ロバート・ドリナンは近著「ベトナムとハルマゲドン」の中で,「ベトナム戦争は道徳的に見て弁明の余地なしとする,プロテスタント神学者が一様にいだいているともいえる心情」を指摘しています。2 プロテスタントのいろいろな宗派は,同戦争に反対する声明を発表してきました。

      ユダヤ教の組織にも,最近になって戦争に反対するものが現われました。昨年12月のワシントン・ポスト誌には次のような見出しが載せられました。「ケンジントン神殿<テンプル>の決議ベトナム戦争終結を勧告」。同決議は,「ベトナム・ラオス・カンボジア本土及び上空での戦闘に参加しているアメリカ軍の完全撤兵を決定し,発表する」ようニクソン大統領に勧告しました。3

      ローマ・カトリックはどんな立場を取っていますか。昨年11月アメリカの司教は全国会議を開きましたが,ニューヨーク・タイムズ紙はその模様を報告し,第一面に次の見出しを掲げました。「アメリカのカトリック司教インドシナ戦争の終結を要請」。4 司教たちによって採択された決議は,「人間の生命と道徳的価値感の破壊」を指摘し,さらにこう述べています。「ゆえにわれわれは,戦争の即時終結は道徳的に極めて当然のことであって,急を要する問題であると堅く信ずる」。5

      デトロイトの司教補佐トマス・ガンブルトンは,決議は「戦争が不当なものであることを示している」と説明しました。6 したがって,カトリックの立場に同意する人はだれも「この戦争に携わらなくてもよい」と彼は語りました。7

      こうした証拠を前にして,宗教は人類を戦争から遠ざけてきたと結論する人がいるかもしれません。しかし過去数年間なぜ,若いカトリック教徒やプロテスタントの信者たちが幾十万人もベトナムで戦ったのですか。彼らは教会から受けた指導に反して行動してきたのでしょうか。

      混乱した指導

      ベトナム戦争に対する教会の反対は,現実には前に述べたことが示すほどはっきりしたものではありません。例えば,ニューオーリアンズの大司教フィリップ・ハナンは,自分が最近アメリカの司教たちによって採択された「決議を完全に支持しない相当数の司教」のひとりであると語っています。8 そうであれば,カトリック教徒が今でさえ自分たちに与えられる指導に混乱させられているのも理解に難くありません。

      プロテスタントの諸教派にしても同じです。1968年アメリカのルーテル教会は,選択制良心的兵役拒否を公式に認める立場を取りました。しかしそれ以後でも,ベトナムでの戦いを支持する発言を行なうルーテル教徒が出ています。例えば,ルーテル教会の出版物「スプリングフィールダー」1970年春季号の中で,教授兼牧師マルチン・シャールマンはこう書いています。

      「わたしたちは,自分のように隣人を愛すべし,とのことばを聞いている。言うまでもなくそれは正しい。主のことばである以上,だれがそれに異論を唱えられるだろう。だが,これには別の側面がある。…ベトナムの兵士に対するわたしの関係は一対一というものではない。両者の間には二様の忠節が介在している。わたしの国に対するわたしの忠節心と,彼の国に対する彼のそれとである。わたしは自国に対して責任があり,それは彼の国に対するわたしの配慮をしのぐ。同じことは彼の側にしても真実である。ところが,彼が傷ついてわたしの助けを必要とするとなると,彼はもう一度新約聖書の倫理的な意味でのわたしの隣人となる。一対一の関係が戻ってくるわけである」。9

      つまりこの僧職者の論によれば,自国に対する忠節が隣人を愛するようにとのキリストの命令を無効にするというのです。教会が良心的兵役拒否を承認しているのに僧職者が戦闘を奨励するのでは,人々は当然のことながら混乱させられてしまいます。

      今日,このルーテル教会の僧職者のような見解は例外で,現在教会はベトナムで戦うことを拒む方向へ人々を引っぱっている,と結論を下す人がいるかもしれません。しかし,そうした結論は五,六年前には真実だったでしょうか。

      戦争に対する当初の見方

      5年ほど前アメリカ合衆国各地のローマ・カトリックの司祭は,カトリック世論調査所から質問を受けました。質問は,アメリカはベトナムで勝利を得るために強硬な政策を取るべきか,というものでした。

      司祭の答えは,賛成 ― 2,706人,反対 ― 371人でした。10

      しばしば,司祭は戦争努力を全面的に支持する発言をしたり,行動を取ったりします。例えば一新聞の報道によると,ひとりの司祭と他のふたりの僧職者は,「ブルックリンの学生グループに,殺すことを禁ずる聖書の命令はベトナム戦争には当てはまらないということを確信させ」ようとしたとのことです。司祭のロバート・J・マクナマラは,「われわれが当地でしていることは小数独裁政治を阻止するために必要である」と述べました。11

      もっと積極的に戦争に関係した司祭もいます。ある司祭の写真がライフ誌に1ページ半にわたって大きく載ったことがありますが,その表題は肉太の活字で「自ら戦う勇敢な司祭」となっていました。その記事はこう述べています。「戦いの最中にあって,ヘルメットをかぶり銃を抱えた人の上記の姿は,珍しくもあり,心あたたまる光景でもある。彼はベトコンに対して自分自身の戦いをいどむカトリック司祭である」。12

      ベトナムでアメリカが勝利を収めることを司祭がほとんど全員一致して願ったのはなぜですか。司教の与えた指導が強い影響を及ぼしたことには疑いの余地がありません。1966年11月アメリカの司教たちは公式声明の中でこう述べました。「われわれがベトナムに参戦しているのは正当である,と論ずるのは理にかなっている。…われわれは同胞たる兵士の勇気をたたえ,かつ感謝を表明するものである。…われわれは現状における我が国の立場を良心的に支持することができる」。13

      この戦争を十字軍の戦いでもあるかのように語った司教もいます。故フランシス・スペルマン枢機卿は,アメリカの部隊は文明のための戦いをしている「キリストの兵卒」14 であり,「勝利以外の何物をも考えられない」15 と言いました。アメリカの行動の根拠が正当かどうかの質問に対する答えになるものとして,スペルマンは「正しかろうが間違っていようが私の国だ」と述べました。16

      スペルマンの「勝利」に対する願いについて,首都ワシントンにあるナショナル・シティ・キリスト教会の牧師ジョージ・R・デービスは,「私も同感です」と語りました。17 プロテスタントの他の牧師たちも,さまざまの方法で同意を示しました。

      クリスチャン・サイアンスの牧師ロバート・マミーは戦争を支持する意見を述べ,大学生の一グループにこう語りました。「殺すことは純粋な心をもってなされねばならない。そうでないと,道徳的に正しくない殺し方をしたことになる。もしわたしたちの兵士が敵を憎むように教え込まれているなら,敵を殺すことは道徳的に正しくない行為である」。18

      僧職者は戦死した人に誉れを与えることによっても,戦争を支持していることを明らかにしました。アイオワ州デモインのルーテル教会牧師マーチン・ハーザーはある葬儀において次のように語りました。「兵士が正当な[ベトナム]戦争で義務を果たして死ぬなら,それは国に尽くした輝かしい死であるばかりか,本人にとって祝福された最期である。…天使が彼の魂を天に携えたであろうし,彼が平和を今享受していることを私は確信している」。19

      宗教は人々をどこへ導いたか

      アメリカの教会がベトナム戦争をその初期の段階において支持したことは明らかとなっています。それはどんな結果を招きましたか。

      一つには,同じ教会員同志が戦場で互いに殺し合うという事態に至りました。例えば,北ベトナムには推計100万人のカトリック教徒がいますが,北ベトナムの司祭たちはどんな立場を取りましたか。ニューヨーク・タイムズ紙はこう報じています。「ハノイのパデュアにある聖アンソトニオ教会の司祭ヨセフ・ングエン・バン・クエ氏は,…[北ベトナム]の軍隊に入隊する青年をきまって祝福すると話した」。20 ですから,同じ教派の会員たちが戦場で殺し合ってきたのです。しかも僧職者たちの祝福を受けてです。

      しかしながら前に注目しましたように,最近になって変化が見られるようになりました。事実,各宗派が合同で,戦争の終結を促す「悔悟と行動への要請」を発表しました。21

      それにしても宗教指導者はなぜ自分たちの見解を変えたのでしょうか。この質問に対する答えを頼りに,宗教はしばしば何によって取るべき立場を決定するか,したがって人類をどこに導くかを明らかにすることができます。

      [6ページの図版]

      「ライフ」誌に写真が載ったこの人のように,司祭のある者たちは戦争に積極的に参加した。

      [7ページの図版]

      ベトナム戦争についてスペルマン枢機卿はアメリカ合衆国の軍隊は「キリストの兵卒」であると語った

  • 宗教団体の方向を決定するのは何か
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • 宗教団体の方向を決定するのは何か

      ベトナム戦争をその当初容認することにより,教会は戦闘に加わるのが正しいと考える方向に人々を導きました。ところが今になって,ある教会組織やその役員は戦争を非難し,戦争参加は誤りだと言明します。

      なぜこのように変わったのですか。教会は今や会員たちが聖書の教えに調和して生活するよう指導しているのですか。それとも他の要因が宗教の指導方針を決定しているのでしょうか。

      オレゴン・ジャーナル誌は最近,『教会人は群集に同調しているに過ぎない』と評しました。22 つまり,人々が戦争にほとんど反対を表明しなかったときには教会はそれを支持し,一般の人が長びく戦闘と流血にうんざりしてくると,僧職者は戦争に反対しはじめたということです。

      メソジスト教会の出版物「合同メソジスト」の論説委員オールデン・ムンソンはこう説明を述べています。

      「度重なるミライのような酷薄な事件,それに戦争に関する史上最も充実した報道が全国民に影響を与え,教会も遂に反戦の空気の中をとぼとぼと他のあとに付いて行くことになった。…1965年以来,ベトナム一般市民の犠牲者の推計は男女子供合わせて100万から400万人に上るが,教会は今ごろになってやっと驚きの色を表わしている」。23

      このとおり,戦争が『不評』になってはじめて,「平和」を求める教会の叫びが聞かれるようになりました。人々は,教会がその時々に一般に受け入れられているものが何かを決定し,それからそれに即して自分の立場を決めることに気づいています。ニューヨークの僧職者ロバート・J・マクラッケンはこう認めています。「われわれは風向きがはっきりつかめない限り,どんな立場も取らないように注意する」。24

      指導の方針が一貫しているように見せるための努力

      カトリック教会は戦争に対する自分たちの立場に変化のないことを最近示しました。カトリックの指導方針がベトナム戦争を支持したことはない,と主張しています。この主張は事実上,全国カトリック司教会議の行政機関であるUSカトリック会議(USCC)によって昨年出版された文書の中でなされています。

      しかし著名なカトリックの神学者たちでさえ,司教たちは戦争に反対する代わりにそれを支持したと述べています。事実USCCの文書が発表されるのとほとんど時を同じくして,ラ・サール大学の宗教学教授でカトリック司祭のピーター・J・リーガーはこう書いています。

      「今日における最大の道徳問題であるのに,この問題に対して道徳的指導を行なう点で途方もない失敗を犯したのであるから,この戦争を支持したこれらアメリカのカトリック司教(約95パーセント)はこぞって退陣すべきである。もはや職務にふさわしくない。…手を血に染めた者は奉仕者たりえない。アメリカの司教は道徳面での失敗ゆえに,自分の手を人の血で染めているのである」。25

      カトリック教徒みずからこうした非難をしていることを考えると,司教の発表した内容が真実かどうか疑わしく思われませんか。

      真実を偽って伝える

      カトリックの雑誌「コモンウィール」はこの問題を取り上げました。執筆者であるカトリックの大学教授でまた社会学者のゴードン・ザーンは,USCC文書を検討したのちにこう述べました。

      「私はこれに挑戦せざるを得ない。歴史に対して極めて取捨選択的なアプローチをすることにより,教会の正規の指導方針は,慎重を期すために控え目であったにしても,一貫して戦争反対の気運を生みだす源であった,との偽りの印象を与えるための作為の行跡が明らかに見られる」。26

      同文書が「歴史に対して極めて取捨選択的なアプローチ」をしていることを例証するものは,戦争を支持したカトリックの指導者たちの発表が載せられていないという事実です。故スペルマン枢機卿の行なった,戦争を是認する発言が省略されているのは最も注目に値します。

      事実,この文書の中で省略されているもので,教会指導者が戦争を支持して行なった発言は非常に多く,「コモンウィール」誌はこう評しています。「USCC調査員はニューヨーク大司教管区に保存されている記録だけからでも,少なくともこれと同じ相当の分量の,戦争を支持する司教の発言を収録できたはずだ,と疑いたくなる人もいよう」。27

      ところが,そうした証拠はいっさい,故意に省かれているのです。しかし「コモンウィール」誌は,「誠実さ」があれば次のような文章が載って当然であると述べています。「それらは今では当惑させるものであるにしても,この戦争が道徳的に間違いであることはだれの目にも歴然としている」。28

      USCC文書の紛れもないねらいが,今や不評となった戦争を教会が当初支持した事実を覆い隠すことであるのは明白ではありませんか。こうした不誠実な態度にあなたは驚かれることでしょう。

      宗教の指導方向を決定するのは何か

      牧師が聖書からしばしば『地の平和』や『隣人への愛』について教えることは事実です。このことから,教会は人類を聖書の教えに調和した生活をする方向へ,戦争や暴力から離れる方向へ導いている,とあなたはお考えになるかもしれません。

      しかし,教会の言うことだけを考慮するのは誤りです。むしろ,教会が実際に行なうことも合わせて調べてみることが肝要です。戦争をすることが自国の益になると国家の指導者が決定すると,教会はどうしますか。

      そのような事態になると,諸教会はイエスの次のことばに人々の注意を向けるでしょうか。「もしあなたがたが互いの間で愛を持っているならば,これによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るでしょう」。(ヨハネ 13:35,新)真のクリスチャン愛は国境などに左右されない,ということを教えるでしょうか。キリストの真の追随者は,どの国に住んでいようと,どの人種であろうと,それに関係なく互いに愛し合う,ということを明らかにするでしょうか。

      また,諸教会はイエスの弟子ヨハネの次のことばを会員たちに強調するでしょうか。『わたしたちは互いに愛し合うべきです…カインのようにならないことです。彼は邪悪な者から出て,自分の兄弟を虐殺しました』。(ヨハネ第一 3:10-12,新)教会は,戦場で同じ人間を殺すこと,わけても同じ教派の会員を殺すことは愛を示す行為ではありえないことを教えているでしょうか。また,そのような行為をする者が実際には「邪悪な者」悪魔サタンに仕えていることを指摘しているでしょうか。

      極めて明らかなことですが,諸国家が戦争の備えをする事態が生じると,教会はこうした聖書の教えを傍らに押しやってしまいます。著名なプロテスタント僧職者,故ハリー・E・フォスディックはこう認めています。

      「西洋の歴史は戦争に継ぐ戦争の歴史である。われわれは戦争のために男子を育成し,戦争のために男子を訓練した。そして戦争を栄化し,戦士を英雄に仕立て,教会内に軍旗を掲げさえした…一方では平和の君に対する賛美を口にしながら,他方では戦争を栄化してきた」。29

      聖書に記されていることではなく,国家指導者の言うこと,その時々に人々に受け入れられていることが,宗教が人を導くさいの方向を決定するものである,というのが事実です。バンクーバーのサン紙は,社説で次のように評しています。「これは組織化されたすべての宗教の弱点と思われるが,教会は国旗に追随する…交戦国が自分の側に神がついていると互いに主張しなかった戦いが今までにあったであろうか」。30

      「正当な戦争」だけを支持?

      諸教会はそれぞれの国の戦争を支持する言いわけをして,自分の国には正当な根拠があるしわれわれは「正当な戦争」しかしない,とよく言います。したがって,自国の戦争の努力を支持するのは宗教の義務であると論じます。

      しかし,このことをしばらくの間考えてみてください。戦争に関係する国はいずれも自分のほうに「正当」な根拠があると主張するのではありませんか。最近出版されたある百科事典が評しているとおりです。「戦争をする根拠は利己的で,低劣で,邪悪なものではあっても,正式に述べられている理由はたいてい崇高,高潔なものである。交戦国が両方とも,自分の側にとって正しいと考える理由を挙げることができるのである」。31

      こうして,人々は互いに全く逆の見方をしていることがあっても,各国は自分たちが『正しい理由』と考えることに基づいて,いわゆる「正当な戦争」をするのです。国家主義が盛んになると,教会はその勢いに押され,各宗派は『国旗に追随します』。著名なプロテスタントの教会指導者マルチン・ニーメラーは,ローマの皇帝の時代以来キリスト教世界の実状はそうであったと述べています。同氏の説明によると,「教会はいまだかつて不当な戦争というものを知らない。むしろ自分の主権者また国家の戦争を常に正当化してきた」。32

      カトリックの歴史者E・I・ワトキンはこう述べています。

      「この〔事実を〕認めるのはつらいことにちがいないが,司教が自国の政府によって行なわれた戦争をことごとく同じ姿勢で支持してきたという歴史的事実を,偽の薫陶や誠実さを欠いた忠節心のために否定したり無視したりすることはできない。実際のところ,国家の階級制度が戦争を不当なものとして非難した例を私は一つとして知らない…公式の論理がどんなものであろうと,現実には,『我が国は常に正しい』というのがカトリックの司教が戦時に従ってきた命題である。…好戦的なナショナリズムが問題となる場合には,彼らはカイザルの代弁者として発言してきた」。33

      諸教会が「自国の政府によって行なわれた戦争をことごとく同じ姿勢で支持してきた」というのはほんとうに真実でしょうか。宗教は善を支える力であるかのように装ってきただけで,実際には戦争と暴力を助長してきたのでしょうか。歴史の事実は何を明らかにしていますか。

  • 過去の戦争における宗教の役割
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • 過去の戦争における宗教の役割

      かつて,英国の哲学者ジョン・ロックは,「歴史の内容はおおかた戦争と殺りくに尽きる」と語りました。34 しかも,ある権威者は,「宗教は歴史上最も強い勢力の一つであった」と述べています。35

      宗教がそれほど強力な影響を及ぼしてきたにもかかわらず,人類が生存のほとんど全期間を通じて恐ろしい戦争に見舞われてきたのはなぜでしょうか。過去の戦争において宗教はどんな役割を果たしてきたのでしょうか。

      アズテック人と戦争

      アズテック人の宗教は,人間のいけにえによって神々をなだめなければならないと教えました。この点,歴史家V・W・フォン・ハーゲンはこう説明しています。

      「戦争と宗教は,少なくともアズテック人にとって,密接不可分の関係にあった。…神々に供える犠牲としてふさわしい捕虜を得るために,小さな戦争が絶え間なく行なわれた」。36

      1486年には,フイツロポクトリ神の大ピラミッドを献堂するために,2万人を越す捕虜が集められました。それから犠牲の捕虜たちの心臓は次々に切り取られ,フイツロポクトリ神にささげられたのです。宗教の息のかかったこうした戦争は,昔のアメリカ人にどれほどの恐怖をもたらしたことでしょう。

      古代帝国と戦争

      アジアやアフリカ,またヨーロッパの昔の帝国と人民の間で宗教はどんな役割を果たしたでしょうか。それら古代の諸国家は,多くの

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