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    目ざめよ! 1972 | 7月8日
    • は,霊感を受けた神のみことばである聖書の中に見いだされる。テモテ後書 3章16,17節はこう述べている。「聖書はみな神の感動によるものにして教誨と譴責と矯正と義を薫陶するとに益あり,これ神の人の全くなりて,諸般の善き業に備を全うせん為なり」。

      キリスト教は聖書に基づく宗教である。しかし,聖書の教えを手加減したり,聖書を否定したり捨てたりすれば,クリスチャンと唱える人々の間に問題が生ずるのは必至である。キリスト教の土台をくつがえせば,大混乱が起きずにはすまない。なぜなら,聖書はクリスチャンの一致を保つ基盤だからである。

      僧職者は,一つには,同性愛行為を容認もしくは弁護することによって,聖書を否定し,捨てている。たとえば,前述の公開討論会において,ゴッチャーク司祭は,古代ソドムの住民の悪行とは同性愛行為ではなく,「もてなしに関する律法を犯すこと」と関係があったと主張した。また,同司祭はエルセビエルズ誌の記者との会見で,「同性愛行為はその体質上,聖書に照らしてうんぬんすべきものではない」と語った。

      しかし,それは真実ではない。それは同性愛行為に関する神ご自身のみことば聖書を直接否定するものである。一例として,イエス・キリストの弟子のひとりがしるしたユダ書 7節(バルバロ訳)には,こう書かれている。「ソドマとゴモラと同様にその付近の町々も,淫行にふけり,異なる肉におぼれたので,見せしめのために永遠の火の罰をうけた」。

      それらの人々はどんな「異なる肉」におぼれたのだろうか。創世紀 19章4,5節(バ訳)は次のように述べている。「まだ床についていないのに,町の人,すなわちソドマ町の人たち,若者も年寄りも,町じゅうこぞって,家をとりかこみ,ロトを呼びだして,『今晩あなたのところにはいったあの人たちは,どこにいる? われわれに渡せ! かれらを知りたいのだ!』とい(った)」。したがって,彼らが同性愛行為をしようとしていたことに疑問の余地はない。

      同様に使徒パウロも,そうした性的倒錯について,「男もまた同じく女の順性の用を棄てて互に情欲を燃し,男と男と恥づることを行ひ(たり)」と語った。神のみことばは,そのような忌まわしい行為をする者は「死罪に当る」と述べ,また,「人の之を行ふを可しと(する)」者は「神の真を易へて虚偽と」する者であるとも述べている。―ロマ 1:24-32。コリント前書 6章9,10節,レビ記 18章22,29節もご覧ください。

      同性愛行為の問題に関する聖書の見解は非常に明確であるにもかかわらず,オランダの司教の要請で1966年に発行された「新公教要理」は次のように述べている。「聖書が同性愛的性交に関してきわめて厳しい立場を取っているというのを,まちがって理解してはならない。聖書は,自分自身の何らかのおちどによらずにそうした倒錯を心の中で経験する人がいることを公に非とするためにそのような立場を取っているのではない」。

      同性愛行為に対するこうした聖書的に誤った手ぬるい薄弱な態度は,非常に多くの僧職者が聖書に対して批判的な態度を持つ直接の原因になっている。彼らは,自分勝手な,しばしば神と正面衝突する途方もない考えをいだいているのである。

      この点に関するもう一つの例は,聖書のある部分は神話であると唱える僧職者の少なくないことである。カトリックの勢力の強い,ヌールド・ブラバント州のある教区司祭は,歯科医の未亡人とひとりのエホバの証人に向かって,自分としては,イエスは神のみ子でもなければ,処女から生まれたわけでもないと思うと語った。さらに,自分(同司祭)がタイに生まれていたなら,仏教にも良いところがあるのだから,おそらくローマ・カトリックの司祭のかわりに仏教の僧侶になっていたと思われるとも述べた。また,イエスは西洋文明と結びつけられたが,他の文明には,救いに通じるそれなりの道があると述べた。そして,ヨハネ伝 14章6節に出ている,「我に由らでは誰にても父の御許にいたる者なし」というイエスのことばに同意できないと語った。

      オランダ改革教会の牧師たちも,神のみことば聖書の内容を手加減するという同様の罪を犯してきた。そのことは,同派のある牧師たちによってさえ認められている。最近,同派の神学者数名が,教会の危機に注意を喚起するための公開状を教会員に送った。それら神学者たちは,「説教は往々にして,確信よりも疑いを,教理よりも議論を,聖書の証よりも人間の意見を優先させている」と述べた。

      教会の指導者がこのように神のみことばを軽視し,その内容を手加減し,否定している以上,オランダの教会員の多くが混乱し,憤りをいだいているのは当然ではあるまいか。それはある教会員が牧師について語ったとおりである。「羊飼いがこんなしまつでは,われわれ羊はどうすればよいのか」。そして彼はこの自らの質問に対して,「われわれは自分自身の道を歩むだけだ」と断言した。

      人々は自分自身の道を歩む

      不満を感じて自分自身の道を勝手に歩んでゆく人々はふえる一方である。なかには閉鎖された公認の教会の建物の中で独自の礼拝を行なうことにした人たちもいる。

      他の場所では,いわゆる「公認教会内の教会」を組織した人々もいる。それらの人々は,オランダ・カトリック教会の多くの変革に反対し,物事を従来どおりに維持したいと考えており,したがって,独自の教会,司祭,司教を欲している。

      西ドイツの国境付近の住民は,西ドイツの教会に行く。そこで行なわれる礼拝のほうがよいと考えているからである。さらに,“セプトウアギンタ・グループ”と称する,『進歩的な』司祭たちの一派がある。彼らは独自の行き方を取り,公認のローマ・カトリック教会と手を切ることを望んでいる。さらには,宗教はいっさい捨ててしまう人もふえている。

      しかしながら,エホバの証人と交わる人々もふえている。それらの人は,エホバの証人の訪問を受けたり,エホバの証人である友人や親族を持っていて,エホバの証人が行なっている無償の家庭聖書研究の取り決めのことを知り,その取り決めを利用する。こうして,彼らは,現代の宗教的危機の理由,および,神が示しておられる解決策を知るために自分の聖書を調べており,聖書の証に従いさえすれば,教会制度の数多くの論争は容易に解決されるものであることを知るようになってきた。

      現在,オランダでは個人や家族を対象としたそのような家庭での聖書の討議が1万件ほど行なわれている。それら誠実なかつての教会員たちは,神に喜ばれる宗教について聖書が実際に何と述べているかを学んでいる。また,まもなく悪を終わらせ,現在の腐敗した事物の体制を新しい秩序で置きかえるという,神のすばらしい約束をも学んでいる。さらに彼らは,その新しい秩序のもとで,正しいことを好む人々に永遠に生きる機会が差し伸べられることをも学ぶのである。―ペテロ後 3:13。

  • 定年退職
    目ざめよ! 1972 | 7月8日
    • 定年退職

      ◆ 最近,アメリカ医科大学の学長,I・S・ライト博士は,30年にわたって老人問題を研究したのち,現行の定年退職制は人間のエネルギーと能力を浪費し,人間を差別し,経済的損失をもたらすものであって,嘆かわしい制度であると述べた。記録は65歳以上の勤労者のほうが20代の勤労者より欠勤が少ないことを示している。保険会社の統計によれば,退職を余儀なくされる人は保険会社の生命表に載せられている年齢までさえ生き伸びられないように思われるが,働き続けている人はもっと長生きすることを示しているようである。

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