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私たちはボクシングのリング上で名声を追い求めていた目ざめよ! 1980 | 12月22日
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人が勝っている時,また“友人たち”がボクサーの勝利によってお金をもうけている時だけだ,ということを幾度も見せられてきました。負け始めると,“友人たち”は姿を消します。
富はといえば,私はボクシングで財を成すことなど決してありませんでした。賞金の3分の1ほどはトレーニングやマネージャーの費用をまかなうのに充てられます。そしてその残りは,試合と試合の間,家族を扶養するために用いられます。
しかしエホバの証人になって以来,他の面でずっと多くを得てきました。今では誠実な友人たちがいます。その友情は,真実で,永続的な価値に基づいており,アイドルの栄光の七光りにあずかろうという考えに動かされてはいません。その人たちは私の霊的な兄弟たちで,ここ北スペインのビズカヤ県サンサルバドル・デル・ベーユで,「良いたより」の伝道に共にあずかる人たちです。この業にあずかることにより,宇宙で最も偉大な方,エホバ神の証人となる特権を享受しています。
クリスチャンの大会に出席すると,しばしばボクシングをしていた時代のことを思い起こさせられます。とはいっても,幾年も前にボクサーとして私が試合をした競技場が大会に使われるからに過ぎません。1978年に,バルセロナで開かれた国際大会もその一つです。市営スポーツ・パレスも会場として用いられましたが,そこは私がナイジェリア人のボクサー,ダウドゥーの命を絶つのにひと役買った場所でした。実に対照的な光景です。KOを求めて叫び声をあげる血にうえた群衆はなく,愛と静けさに満ちた雰囲気の中で神の言葉に耳を傾ける,平和を愛好する人々がいるのです。
それよりも前の1974年に,サラマンカのフットボール場で開かれたエホバの証人の地域大会に出席した際,一人のがっちりしたエホバの証人が反対側から歩いて来るのに出会いました。その顔には見覚えがありました。その人は私を見て,そのまますれ違ってから後ろを振り返りましたが,私も同じことをしていました。そして互いにあっけにとられ,「ベン・バチール/サンホセ二世じゃないか」と,ほとんど同時に叫び声をあげていました。正にその通りです。かつてはリングの上で敵同士だった二人が,今ではクリスチャンの兄弟として一致しているのです。
私もフランシスコも,残忍さや暴力,飽くことを知らぬ金銭欲,不正,搾取などに満ちた汚ないボクシングの世界を捨てて,うれしく思っています。私たちはそれよりも勝った生き方,愛に基づくクリスチャンの生き方を見いだしました。それは永続する報い,つまり神の是認と永遠の命をもたらします。―ヘブライ 11:6。ローマ 6:23。
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見知らぬ人を訪問するですって? 何のために?目ざめよ! 1980 | 12月22日
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見知らぬ人を訪問するですって? 何のために?
カナダの連合教会の発行するザ・オブザーバー紙は,「この私が,見知らぬ人を訪問するですって?」と題する記事を掲載しました。同紙は僧職者と平信徒の双方がそうした訪問を手がけることができると提案していますが,次のようにも尋ねています。「見知らぬ人がドアを開けてくれて,中へ招き入れてくれたとしよう。それから何をしたらよいのだろうか。何を言うのだろうか」。その記事はお金のことについて話さないよう注意している。「教会が拭い去らなければいけないイメージの一つは,我々が訪問するのは手を差し出して寄付を求める時だけだというものである」。
話し合いの材料として勧められている事柄には次のようなものがあります。「教会の会報に電話番号と集会の日時が載っているならば,その会報。PR誌。所属する教会の詳細を示し,かつ興味深いようであれば,年次報告」。イエスが弟子たちを遣わし,今の“ベル”に当たるものを“鳴らす”ように言われた際,イエスが弟子たちに提案された事柄は,連合教会の訪問者たちに有益であったかもしれません。「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし……わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい」― マタイ 28:19,20。
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