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『エホバの名はかたき櫓のごとし』ものみの塔 1972 | 10月1日
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の一方にはアメリカ軍,他方にはソ連軍がいました。状況がしだいに不安になってきたために,SSの看守は囚人たちを自由にしました。ソ連兵はわたしたちを二,三日とどめておいたあと,釈放しました。
私は5月の半ばに,収容所から二人の証人を伴って,ディンスラーケンの両親の家に帰りました。2週間後,私たちから引き離されていた娘ももどってきました。娘はもう18歳近くなっていました。8年間も両親なしで過ごしたのです。その時からは私たちは毎日,朝早くから夜遅くまでいつもいっしょに暮らし,親せきや友人を訪問しては,エホバが備えてくださったすばらしい救いについて話しました。妻は8月に強制収容所からもどってきました。
私たちは8人の証人とともに,ディンスラーケンの会衆の再組織にとりかかりました。わずかの間に会衆は非常に大きくなり,学校の教室を借りなければならないほどでした。
特権
1945年,私は会衆の監督に任命されました。誘惑的な申し出も種々ありましたが,世俗の職業にはつきませんでした。妻にも私にも,今は一つの関心事しかありません。神の王国の良いたよりを伝えることです。多くの特権が次々と与えられました。たとえば,ウィスバーデンに,ものみの塔協会のローデル・シュトラッセ事務所をつくることを手伝う特権をえました。それから1946年には,全時間伝道をする特別奉仕者に任命されました。
さらには,マグデブルクへ行って,奉仕のための特別訓練を受ける特権にもあずかりました。そして1947年の3月には,巡回するしもべとして多くの会衆を訪問する仕事をはじめました。それは会衆を励まし,強化する仕事でした。エホバの過分のご親切によって,今日に至るまで,このすばらしい特権を享受しえていることを,私は感謝しています。
私たちのかたき櫓であるエホバとの関係を深める新しい事柄を学び,また経験するにつれ,私たちの喜びは年ごとに増し加わってゆきます。経済上,健康上の問題もすべて,エホバの過分の親切によって解決しました。どんな状況のもとに置かれても,エホバのみ名を信頼するときには,ほんとうに安全であるということを私は体験しました。
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人々は教会を離れ去っているものみの塔 1972 | 10月1日
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人々は教会を離れ去っている
今日キリスト教世界の教会を離れ去る人々の中には,正義に対する真の愛を持つ人がいます。そうした人たちは教会で目にした偽善に悩むだけでなく,聖書を学ぶことに非常に強い関心を持っています。それらの誠実な人の多くは,現在,エホバの証人との聖書研究を楽しんでいます。また,自分たちが学んだ良い事柄について他の人々に話すことに熱心です。
● インドのシロンで,大学生がエホバの証人と聖書を学びはじめました。その後彼は自分の村に帰り,そこに王国会館を建てて集会を定期的に開くようになりました。最近,エホバの証人のひとりがシロンからその村を訪問しました。彼が驚いたことに,18名の人がかつての大学生と集まり合っていました。それらの人が聖書に深い関心を持っていることは,彼らがたくさんの質問をしたことから明らかでした。出席している人のうち12人はすでにルーテル教会との関係を断ち切っていました。その中には,16年間ルーテル教会で説教者をしていた,70歳の老人も含まれています。その人にとって教会を去ることは,収入源を失うことを意味しました。しかし,彼は喜んで,「わたしは大いなるバビロンを出て,今は神の組織にいます」と言いました。
● さらにインドの別の村で,新しい教会が建築中のところへ,エホバの証人が簡素な王国会館を建てはじめました。やがて教会の出席者は減少し,王国会館の出席者はふえました。その村の他の人々と聖書の音信をわかち合う人の数は28人に増加しました。最近,エホバの証人の旅行する奉仕者が王国会館で日曜日に公開講演をした時には,149名の人が出席しました。ところが,その日に教会に出席した人は5名にすぎませんでした。
教会の幹事がひとりの男を雇い,彼に太鼓をたたきながら村中をまわって人々を教会に呼び集めさせたのですが,王国会館の出席者数はそのようにすばらしいものでした。教会員たちは,ひとりの男に,エホバの証人の旅行する奉仕者が滞在している小屋へ糞を投げ込ませることさえしました。
一番新しい情報によれば,その幹事は教会を離れ,会計係りもそうすることを真剣に考えています。まだ教会員としてとどまっている人々の間では,エホバの証人がやがて教会の建物を王国会館に使うだろうということが考えられています。
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