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世界展望目ざめよ! 1974 | 2月22日
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世界展望
賛成者の多い婚前交渉
◆ 最近のギャラップ調査の示すところによると,インタビューを受けたアメリカ人のうち,婚前交渉を悪いと考えている人は半数以下であった。4年前には,3人のうち2人が悪いと考えていた。ザ・サンデー・オクラホマン紙はこれを,「アメリカに『性革命』が起きていることを示す劇的な証拠」と呼んでいる。
しかし,政治に対しては好意を持っていない
◆ 別のギャラップ調査は,息子を政治家にしたいと考えているアメリカ人は成人4人につき1人以下(23%)であることを明らかにしている。1965年には,その割合は36%であった。そうした職業に反対する主な理由としてあげられているのは,政治は「あまりにも腐敗している」という点である。
余暇の時間
◆ 読者は余暇をどれほどお持ちだろうか。ニューヨークにある安全調査会社である,アンダーソン会社の最近の報告書はこう述べている。「アメリカの平均的な成人勤労者は人生の約三分の一を眠って過ごす。1週間のうち,起きている時間は113時間ある。そのうち38時間は仕事をするのに,また25時間は食事をしたり,服を着たり,通勤したりするのに費やす。それゆえ,50時間が余暇の時間として残る」。こうした余暇の時間はどのように用いられているだろうか。同報告書の示すところによると,そのうちの40時間はテレビを見たり,ラジオを聴いたりするのに費やされている。
競技の引き起こした略奪行為
◆ 最近のパプア対ニューギニアのラグビーの試合でパプアが勝った後,パプア-ニューギニアの主席大臣は,住民に対し「試合を路上にまで持ち出さないよう」に要請した。「その試合をおもしろく思わなかった不満をいだいた観客の群れがグランドからどっと流れ出し,走り回ったり,叫んだり,清涼飲料の入っていたビンを投げつけたりして怒りをぶちまけていた」と,パプア・ニューギニア新報は報じている。怒りたけった群衆は,「商店や通行中の車や歩行者に当たり散らして……うっぷんを晴らしていた」。両チーム間で行なわれる試合を今後禁止することを求めた内務大臣ギーズ博士はこう語っている。「こうした試合は……いつもけんか騒ぎで終わり,多くの場合群衆の感情をあおり立てるという評判だ」。
たばこの後退
◆ アリゾナ州は,エレベーター,屋内の劇場,図書館,美術館,コンサート・ホール,バスなどの公共の場所では,指定されている場所以外での喫煙を禁ずる法令を制定した。たばこをぷかぷかふかしながらその法令を「プライバシーの侵害」であると非難したある州議会議員は,1か月後,心臓発作を起こし67歳で死亡した。アメリカ議会も,たばこの宣伝を禁じる現行の法令の目をごまかすためにこれまで行なわれて来た,「葉巻は控えめに」という広告を,テレビとラジオから締め出す議案を可決した。
輸血に関する疑惑
◆ 医師および政府当局者は,輸血用血液の高価なこととそのはなはだしい乱用に最近ますます非難の声を強めている。米保健教育福祉省はこう述べている。「血液が高いひとつの理由は,価格と関連があるとは思えないような要素が経費として数えられていることである」。ある血液銀行の医療部長はメディカル・エコノミックス誌の中で,新聞記者や使用者や保険会社が,「1単位の血液が75㌦(約1万9,500円)もする理由を問い始めたり,弁護士たちが,血清肝炎のことを神の仕業以外だと考え始めたりする」なら大騒動が持ち上がるという恐れを表明している。同部長はさらにこう語っている。「より安全で,より廉価な代わりの治療法を慎重に考慮せず……むとんちゃくに輸血に頼る傾向がある」。
死に向かって車を走らせる
◆ 「1974年中にアメリカは,自動車出現以来の車両交通事故死亡者200万人という,血で染まった里程標を通過するであろう」と,アメリカ議会のある分科委員会は指摘している。アメリカの高速道路上で死亡する者はまもなく,独立戦争以後のすべての戦争で死亡したアメリカ人の数の2倍に達するだろう。自動車に乗る人4人のうち3人がシート・ベルトを使用していないことは,死亡率を高める一因となっている。しかし,同分科委員会の6年にわたる研究によると,他にも次のような要素がある。「アメリカの最近の州間高速道路の中には……調査による基本的な情報や技術的原理を応用することなしに設計され,また施工された道路がある。ある場合には,古い常識さえ生かされていない道路もある」。
わざわざ出かけて行く理由がどこにあろうか
◆ 長い間,ある人びとが教会へ行く理由と見られてきた事がらは,もはやその人たちの多くにとっては存在しなくなっている。それゆえ,彼らはわざわざ教会に行くことなどしない。『教会に行かせる隣人からの社会的圧力がなくなった』ことは,この調査を受けたテキサス州サンアントニオ近郊の住民の半数近くが,教会に行くことをやめた理由である。サンアントニオ・イクスプレス・アンド・ニューズ紙によると,「教会を放れる原因として最もしばしば指摘されている点は,キリスト教に対する真の信仰の欠如である」。
国連加盟国
◆ 国連は,‘国際’機構たるべきその目標にどれほど近づいているだろうか。昨年の9月末には,加盟国は135か国であった。どんな国がまだ未加盟だろうか。アンドラ,リヒテンシュタイン,ナウル,サンマリノ,中華民国,トンガ,バチカン市国,西サモア,および南北両ベトナムがまだ加盟していない。バングラデシュはまもなく加盟するものと思われる。スイスは,自国の中立性ゆえに加盟することはできないと主張している。韓国および北朝鮮は加盟国ではないが,「オブザーバー」として招かれている。
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聖書の第四十一番めの本 ― マルコによる書目ざめよ! 1974 | 2月22日
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『聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です』
聖書の第四十一番めの本 ― マルコによる書
筆者: マルコ
書かれた場所: ローマ
書き終えられた時期: 西暦60-65年ごろ
含まれている時代: 西暦29-33年
1 マルコとその家族に関してどんなことが知られていますか。
イエスがゲッセマネで捕縛され,使徒たちが逃げて行った時,「裸の体にりっぱな亜麻布の衣を着けたある若者」がイエスのあとについて行きました。群衆がその若者をも捕えようとした時,「彼は亜麻布の衣をあとに残して,裸のまま逃げて行」きました。この若者とはマルコのことであると一般に信じられています。彼は,「使徒たちの活働」の中では,「またの名をマルコというヨハネ」として描かれており,エルサレム内の恵まれた家庭の人であったと考えられます。その家族は自分の家としもべたちとを有していたからです。彼の母マリアもクリスチャンであり,初期の会衆は彼女の家を集会場所として用いました。み使いによって獄から救出された時,ペテロはこの家に行き,そこに集まっていた兄弟たちに会いました。―マルコ 14:51,52。使徒 12:12,13。
2,3 (イ)マルコが宣教者奉仕に入るうえでどんなことが彼の鼓舞となったに違いありませんか。(ロ)彼は他の宣教者,特にペテロやパウロとどのような交わりを持ちましたか。
2 キプロス出のレビ人であり,宣教者であったバルナバはマルコのいとこでした。(使徒 4:36。コロサイ 4:10)飢きんの救援のためにバルナバがパウロとともにエルサレムに来たおり,マルコもパウロと知り合うようになりました。こうした会衆での交わりや,そこを訪ねた熱心な奉仕者たちとの交わりが,マルコの心に,宣教者奉仕に入りたいとの願いを吹き込んだに違いありません。こうしてわたしたちは,パウロとバルナバの第一回めの宣教旅行のさいにマルコが彼らの仲間また従者となっているのを見ます。しかし,なんらかの理由で,マルコはパンフリアのペルガで彼らを離れてエルサレムに帰りました。(使徒 11:29,30; 12:25; 13:5,13)このことのために,パウロは二回めの宣教旅行のさいにマルコを連れて行くことを拒み,それがパウロとバルナバの離別の理由となりました。パウロはシラスを伴い,一方バルナバは自分のいとこマルコを連れ,彼とともに船でキプロスに向かいました。―使徒 15:36-41。
3 マルコは宣教奉仕において自分の働きを示し,バルナバだけでなく,のちにはペテロやパウロに対しても有用な助け手となりました。マルコは,西暦60年ごろ,パウロのローマにおける最初の投獄のあいだ彼とともにいました。(フィレモン 1,24)その後,西暦62年から64年ごろに,マルコはバビロンでペテロとともにいます。(ペテロ第一 5:13)パウロは,おそらく65年ごろに再びローマにおいて囚人となり,テモテにあてた手紙の中で,マルコを連れて来るように,「彼は奉仕のためにわたしの助けになるから」と述べています。(テモテ第二 1:8; 4:11)聖書の記録の中で,マルコに対する言及はこれが最後です。
4-6 (イ)マルコは自分の福音書に記述した詳細な事項をどこから得ましたか。(ロ)彼がペテロと親密な交わりを有していたことはどんな点に示されていますか。(ハ)この福音書にはペテロの性格が反映されていますが,その例を幾つか挙げなさい。
4 いちばん短い福音書の作成はこのマルコに帰せられています。彼はイエスの使徒たちの同労者であり,良いたよりに関する奉仕のために自分の命をささげた人でした。マルコは十二使徒のひとりではなく,また,イエスの直接の仲間でもありませんでした。イエスの宣教活働に関する彼の記述は終始生彩に富んでいますが,彼は詳細な事項を何から知ったのでしょうか。パピアス,イレナエウス,オリゲネス,テルツリアヌスなど,ごく初期の人々からの伝承によると,マルコの資料の源は,彼が密接な交わりを持ったペテロでした。ペテロは彼のことを「わたしの子」と呼んでいないでしょう
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