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聖書の著者の力強い性質ものみの塔 1963 | 7月15日
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持っていましたが,今度は異なった動機を持ち,美しい釣合と調和を見せました。テサロニケ人に書き送ったパウロの言葉は,その事を示しています。「あなたがたの間で,ちょうど母がその子供を育てるように,やさしくふるまった。このように,あなたがたを慕わしく思っていたので,ただ神の福音ばかりではなく,自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに,あなたがたを愛したのである」。たしかに大きな相違です。いまパウロを動かしたのは,無私の献身と愛でした。―テモテ前 1:13。テサロニケ前 2:7,8,新口。
14 どのようにして,私たちの人格を神のかたちに造り変えられますか。
14 以前にどんな気質を持っていた人も,気落ちする必要はありません。「われわれのかたちに,われわれにかたどって人を造り」と御子に言われた父なる創造主は,おふたりにかたどった「新しき人」をその人の中に造ることができます。それは人を変える力を持つ神の御霊,「心の深みまで新たに」する力と,神のことばの力によって可能となるのです。聖書全巻がおひとりの神から出たものであることを悟り,また確信すればするほど,その著者エホバの大いなる性質を認識できます。またその事は「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着る」助けとなります。―創世 1:26。エペソ 4:23,24,新口。
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真の教会は何を基礎に建てられるか?ものみの塔 1963 | 7月15日
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真の教会は何を基礎に建てられるか?
聖書が明らかにしている事は多くの人の驚きとなるかも知れません。しかし,確かな答を得る事は大切です。
真の教会はどれかという問題になると,ローマカトリック教会の牧師は好んでマタイ伝 16章18節を引用します。その聖句は次の通りです。「汝はペテロなり,我この磐の上に我が教会を建てん,黄泉の門はこれに勝たざるべし」。カトリック訳聖書の中でこの部分は次のようになっています。「あなたはペトロである。私はこの岩の上に,私の教会をたてよう。地獄の門はこれに勝てないだろう」。(バルバロ訳,口語訳新約聖書)イエスのこの短い言葉から,ペテロが神とキリストとの教会をその上に建てるべき基礎の岩となる事をイエスはここで明らかにしたのであり,また,これによってペテロは初代の法王,我らの主イエス・キリストの後継者となり,ローマカトリック教会はこの時に始まり,最初にして,唯一真の教会であるとローマカトリック教会は結論しています。
ギボンズ枢機卿は,自著「我らが教父の信仰」の100頁で次のように述べています。「我らの主イエズスはたゞ一つの教会を設立され,ペトロをその基とする事を喜ばれた。それゆえ,いかなるものであれ,ペトロが教会の基礎石なる事を認めぬものはキリストの教会でなく,また,神の御業によらぬゆえ存続し得ない。以上は明白である」。1953年トーマス・ネルソン社発行の「カトリック版聖書の注釈」には次の一節が見られます。「この啓示により,天主はペトロを御自分の御子の社会の礎として抜てきせられた」。
しかし,これが,「この磐の上に我が教会を建てん」と言われたイエスの言葉の真の意味ですか。また,この言葉の中でイエスはペロテの事を言っていましたか。ペテロは神の会衆の頭になる事になっていましたか。
まず第一に,多くの聖書訳の中に見られる「教会」という言葉には石の建築物というような意味が少しも含まれていない事をはっきり知らぬばなりません。神は「手にて造れる宮に住み給はず」と聖書は述べています。(使行 17:24)マタイ伝 16章18節において,「教会」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は「エクレシア」です。これは人手による石造や木造の建物とは少しも関係なく,会衆または人の集まりを指す言葉です。前述の「カトリック版聖書の注釈」の881頁には次のような注解が出ています。「『教会』(エクレシア,宗教的な集合体または会衆を意味するヘブライ語『カハリ』のギリシャ語訳として七十人訳聖書中に散見せられる訳語)とは,旧約聖書中の『カハリ』に対応し,また,それに代わるものとして成立したキリストの忠実な弟子たちからなる新しい社会のことである。シメオンはこの社会の地上における終局的な権能者となる」。
このカトリック学徒の記述にも明示されているように,神はキリスト以前の時代にも,教会すなわち人の集団また会衆を所有しておられました。その,人の集団とはユダヤ国民でした。殉教者ステパノは荒野放浪時代のイスラエル国民全体を指してエクレシア,すなわち教会ないしは神の集団と呼んでいます。この言葉は宗教的な集団を指すためにだけ使われたというわけではありません。特定な目的のために召集された人たちの集合体ならばどんなものでもエクレシアと呼びます。パウロの伝道活動に反抗してエペソの町に集まった暴徒の集団を指してルカはこの言葉を使っています。(使行 7:38; 19:29-41)ロマ書 16章5節でパウロは「その家にある教会にも安否を問へ」と書いています。またコリント前書 16章19節でも,「アジヤの諸教会なんぢらに安否を問ふ」と書いています。一つの建物の中にある別の建物の安否を問う事をパウロは話していたとか,あるところにある宗教的建造物がコリントにある建造物にあいさを送っているなどと考えるのはおかしな話でしょう。明らかにパウロはクリスチャンの集まり,人の集団または会衆について書いていたのです。
この点を心にとめ,「この磐の上に我が教会を建てん」,あるいは『我が会衆を建てん』と話された時,イエスはだれの事を言っていたのか考えてみましょう。イエスは「ペテロの教会」とか「パウロの教会」などとは言わず,「我が教会」と言っている点に良く注意して下さい。ここでイエスは御自身の足跡に忠実に従う人々の事を話していました。「カトリック版聖書の注解」も「キリストの忠実な弟子からなる新しい社会」と記述してこの点を明らかにしています。イエスの足跡に忠実に従うこれらの人々のことをイエスは御自分のからだ,花嫁,また,御自分の教会ないしは会衆と呼び,その人々がイエスと共に天に場所を得るために所をそなえました。黙示録はその種の人々の数を定め,14万4000人と記しています。―マタイ 16:18。コリント前 12:12-28。エペソ 1:22,23。黙示 14:1,3。
岩,また,磐
磐,または,岩,またはその上にクリスチャンの会衆が建てられるべき基礎とはなに,あるいは,だれを指しているのでしょうか。すでに見たように,ローマカトリック教の神学者は,その基礎は使徒ペテロの事であると論じます。この点につき,カトリック百科事典第11巻746ページも「『岩』という言葉で救い主が表わされたのは御自身の事ではなく,使徒ペテロの事である」と述べています。カトリック神学者のこの考え方は正しいでしょうか。
全能の神エホバは御自身の全宇宙的組織の永遠のもといであられる故,聖書の中で何度も「いわ」にたとえられている事に聖書学者ならだれでも気付くでしょう。申命記 32章3,4節は次の通りです。「我らの神に汝ら栄光を帰せよ エホバは磐にましましてそのみわざは完く」。全能の神エホバは決して動かされる事のない礎石です。サムエルの母親ハンナは祈の中で,「われらの神のごとき磐はあることなし」と述べました。―サムエル前 2:2。
聖書の中ではイエス・キリストも岩にたとえられています。事実,イエス自身も自分の事を造家者がすてた石,隅の首石であると述べました。(マタイ 21:42)使徒ペテロもまた自分の記述の中でこの点を明らかにしました。「主は人に棄てられ給へど,神に選ばれたる貴きいける石なり。なんぢら彼にきたり,いける石のごとく建てられて霊の家となれ。これ潔き祭司となり,イエス・キリストに由りて神に喜ばれる霊の犠牲を献げんためなり。聖書に『視よ,選ばれたる貴き隅の首石を我シオンに置く。之に依り頼む者ははづかしめられじ』とある
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