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  • 私たちの宣教の目的
    ものみの塔 1961 | 5月1日
    • に仕えている者たちは,躍進している新しい世の社会の繁栄,よろこび,そして幸福をまのあたりに見ています。彼らは,地のあらゆる場所から来た男,女,子供たちであって,物事を見たり聞いたりすることができます。そして彼らはエホバ神の御名を高くかかげています。神とその御子の御国の栄光と輝きは,また善意者によっても反映されます。彼らは,過去10年間,1週間に1000人以上という割合で制度のなかにはいってきました。主の他の羊を集めるよろこびを知ることは,宣教の別の祝福であります。宣教の地位あるいは特権をこの世の提供するあらゆる地位と交換してはなりません。宣教は私たちの主要な職であり,私たちの世俗の職業は二次的なものでなければなりません。世俗の職業は,私たちが宣教をつづけて行くのを援助する手段に過ぎません。神の奉仕者である私たちの関心事は,「まず神の国と神の義とを求める」ことです。(マタイ 6:33,新口)この要求が,エホバの奉仕者ひとりびとりの上に課せられていることを認識するとき,「私がいなくてもわざは大丈夫行なわれる」などという気分になってはなりません。もちろん,エホバ神は私たちがいなくても,この宣教を行なわせることができます。エホバ神は,私たちがいなくても新しい世を設立することができます。むしろ次のように見る方がずっと良いでしょう。エホバは私たちを用いられるのであり,もし私たちがいま私たちの宣教の目的を達成するなら彼の新しい世においても永遠にわたって私たちを用いつづけられるだろう,という見方です。この世の人々が物質的な富,権力,人気,名声,および快楽を求めるなら,求めさせなさい。しかし,これらの目標は,ハルマゲドンまでしかつづかないということを忘れてはなりません。しかし,神の奉仕者として,エホバの御名の立証に参加し,他の人々を援助してエホバ神を知らせ,あなた自身忠実な者の産出の多い奉仕者と証明することを目標にするなら,その目標はハルマゲドンの後の新しい世にいたるまであなたをみちびくでしょう。私たちの宣教がエホバ神をよろこばし,忠実な者には,それぞれ永遠の生命という報いがあたえられますように。

  • 神の会衆と神の御国とを区別する
    ものみの塔 1961 | 5月1日
    • 神の会衆と神の御国とを区別する

      神の会衆とは何ですか。神の御国とは何ですか。聖書はこのふたつの間にどんな区別を設けていますか。答を得るために,カトリックやプロテスタントの神学者の矛盾する色々な意見に聞くことなく,使徒パウロの次のすすめに従って神御自身の言葉をしらべることにしましょう。「あらゆる人を偽り者としても,神を真実なものとすべきである」。―ロマ 3:4。

      クリスチャン・ギリシャ語聖書を書いた人々は,神の会衆を指すのにエクレシアという言葉を用いました。これから英語の教会<エクレシア>という言葉が出たのです。このギリシャ語はek(外へ)とKaleín(呼ぶ)の二つの語根がその語源になっていて,公式また非公式に召し出された,あるいは呼び集められた人々の群れ,集まり,会衆を意味します。

      エクレシアに関してインペリアル聖書辞典の述べるところによると,「新約聖書の中でエクレシアという言葉は,クリスチャンが公の崇拝のために集まった実際の建物を指していない。このような建物のことが出てくるのは,使徒時代のずっと後のことである」。ですからたいていの英語の聖書のようにこれを教会<チャーチ>と訳すよりも,新世界訳にあるように会衆<コングリゲーション>あるいは集まり<アセンブリー>と訳す方がよいのです。たいていの人は,「教会」という言葉を聞くと,崇拝を行なう会衆ではなくて建物のことを考えます。

      エクレシアは宗教に関連して用いられるようになりましたが,言葉そのものは宗教の意味を持っていません。世俗の集まりにこの言葉を用いた例は使徒行伝 19章29-41節にありますが,そこには使徒パウロとその仲間の伝道のため,神殿作りの仕事が少なからぬ影響をこうむったことを抗議してエペソの人々が呼び出された,すなわち集まった集会のことが書かれています。

      ノアとその家族は神の最初の会衆と言えるでしょう。彼らは同時代の人々すなわち大洪水前の悪い人々から分けられ呼び出されたからです。神の清い崇拝と箱舟の建造を行なった彼らは他の人々から分けられました。

      しかし聖書の中ではつまり会衆と名づけられている最初のものは,イスラエルの人々です。ヘブル語聖書を訳したギリシャ語七十人訳はモーセの時以来ずっとこの会衆を指すのにエクレシアを用いています。(申命 9:10)詩篇の筆者ダビデもまた書きました,「わたしは会衆の中であなたをほめたたえるでしょう」。ルカは,ステパノが荒野のイスラエル民族のことを述べた言葉を引用したとき,この同じ言葉を使いました。「この人(モーセ)が荒野における集会にいて……」。―詩 22:22。使行 7:38。

      たしかにイスラエル民族はエクレシアすなわち会衆でした。神はモーセを用いて彼らをエジプトから呼び出したからです。後に神は預言者を通して言われました,「わたしはイスラエルの幼い時,これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した」。七十人訳において「呼び出した」という言葉は会衆<エクレシア>と同じ語根を持っています。―ホセア 11:1。

      神のクリスチャン会衆

      西歴33年の五旬節の時までイスラエル民族は神の集会,エクレシアすなわち会衆でした。その後,神は別の会衆,クリスチャン会衆を呼び出し始めました。クリスチャン会衆を作りあげる最初の人々は,捨てられたユダヤ人の会衆から呼び出されました。ユダヤ人の会衆は神の御子と彼らのメシヤを拒絶したために捨てられたのです。コルネリオをそのはじめとしてこのクリスチャン会衆の成員は異邦人の中からも呼び出されました。それがクリスチャン会衆と呼ばれるのは正しいことです。イエス・キリストはこれを「私の会衆」と言われました。イエスがそう言われたのは正しいでした。なぜなら「キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられた」。しかしそれにもましてこれは「神の会衆」です。会衆はイエスとその体すなわちイエスの足跡に従う追随者の両方を含むからです。―マタイ 16:18。エペソ 5:25。使行 20:28。ガラテヤ 1:13。

      エクレシアすなわち会衆という言葉が建物を指すことは決してありませんが,クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者はこの言葉を少なくとも4通りに用いています。まず「天に登録されている長子たちの会衆」全体を指すために用いられています。聖書の他の句が示しているように,その数は14万4000人に限られています。この言葉はまた呼び出された人々で一定の時に生きている人の全部を指して用いられます。そこでパウロは「ユダヤ人にもギリシャ人にも」つまり外の人にも「神の会衆」にも「つまずきになってはいけない」とクリスチャンに忠告しました。―ヘブル 12:23。コリント前 10:32。黙示 7:4; 14:1,3。

      クリスチャンとして呼び出され,集められた人々でひとつの場所にいる人の全部を指して会衆と呼ぶこともあります。「エルサレムにあった会衆」,「コリントにある会衆」,「エペソ,スミルナ,ペルガモ,テアテラ,サルデス,ヒラデルヒヤ,ラオデキヤの会衆」などはその例です。(使行 8:1。コリント前 1:2。黙示 1:11)これらは互に独立して行動したのではありません。そのすべてはエルサレムにあった統治体の権威を認めました。その統治体は使徒たちと他の古い人々から成り立っていました。司教の管轄権の争いなどは使徒の時代にはなく,これは後の時代に起きたもので最後にはローマ法王が他の者をおさえて首位を占めるようになったのです。―使行 15:22-41; 16:4,5。

      最後にエクレシアという言葉は,呼び出された人々のグループで,ある家に何時も集まるようになった人々を指して用いられます。これもまた会衆と呼ばれました。「キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに,よろしく言ってほしい。……また彼らの家の会衆にも,よろしく」。パウロがピレモンに書き送った手紙はなかでも「あなたの家にある会衆」に宛てられたものです。―ロマ 16:3-5。ピレモン 2。

      「神の会衆」に属することを言い表わす人々のうち,今日ではわずかの残れる者,約1万3000人がいるに過ぎません。これらの人々は176の国々にある2万の会衆の中に散らばっていて,約80万人の活発なクリスチャンがその人々と交わっています。これら80万人のクリスチャンは「天に登録された」者ではなく,そのことを言い表わしていません。イエスはこの人々のことを呼んで天の群れには属さない「他の羊」と言われました。彼らは「数えきれないほどの大ぜいの群衆」で「御座と小羊との前に立」っている人々です。彼らは天の群れに属する人々と同じ信仰を表わし,同じわざを行なっているゆえに,いま地上にある「クリスチャン会衆」と交わるようになりました。―ヨハネ 10:16。黙示 7:9。

      神の御国

      神の御国とは何ですか。有名なプロテスタントの神学者によれば,それは「愛に根ざす人間の組織」です。これら宗教指導者の主張に従えば,労働者や圧迫されている民族の益となる立法に力をつくすことはクリスチャン会衆のつとめです。彼らはその言うところの「社会の福音」を伝道し,これによって人々の心の中に神の国をきたらせようとします。しかし,このような宗教指導者はクリスチャン会衆の目的と使命を知らず,神の御国の何であるかを正しく理解していません。

      五旬節の日以来,神がクリスチャン会衆にお与えになった使命は神の国をもたらすことではなく,第一にはイエス・キリストの如く「真理についてあかしする」ことです。神が「諸国民を顧み」たのはなぜでしたか。それは「御名を負う民を選び出」すためでした。彼らは「暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを……語り伝えるため」に召されたのです。第二に,彼らに対する神の御心はそのきよめ,すなわち彼らが天の御国に入る準備をすることです。そのために彼らは伝道の使命を忠実にはたし,正義の道を行なってサタンの支配する世に打ち勝たねばなりません。イエスは言われました,「勝利を得る者には,わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど,わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」。―ヨハネ 18:37。使行 15:14。ペテロ前 2:9。黙示 3:21。

      神の御国について言えば,それは本当の政府です。クリスチャン・ギリシャ語聖書の中でいつも「御国」と訳されているのはバシレイアという言葉です。それは「御国,王の支配を受ける領域,地域あるいは国,王の力,権力,支配,統治。王の尊厳,王の栄誉,称号」と定義されます。

      たしかにイエスは「神の国は,実にあなたがたのただ中にあるのだ」と言われました。(ルカ 17:21,新口)しかしイエスはパリサイ人に向かってこの事を言われました。イエスは彼らを偽善者と呼び,彼らの父は悪魔であると言われました。神の国がパリサイ人の中にあるはずはありません。「神の国はあなたがたの間にある」はすぐれた翻訳です。バシレイアは御国の王,「王の尊厳」をも意味するゆえに,イエスはこれを言うことができました。―ルカ 17:21,新世訳。改訂標準訳,欽定訳の注も参照して下さい。

      イエス・キリストは,神の御国のくることを祈るようにと弟子たちに教え,同時に神の御心が地に行なわれることを祈り求めよと命じました。自称のクリスチャン会衆の手によって神の御心が地に行なわれるようになるとき,神の国がくるとすれば,神の国は決してこないでしょう。神の御心に反する事は今までになく広く行なわれているからです。悪の力は余りにも強く,利己心は余りにも深く人々の心に根づいているので,不完全な人間が神の国をもたらすことはできません。

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