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海難の恐怖目ざめよ! 1972 | 5月8日
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のだが,私にはそれがどうしてもできなかった。疲労しきってしかも右足はこむらがえりを起こしていた。それで二人の水夫は船ばたに身を乗り出し,強い腕で私を引き上げてくれた。彼らはすぐさま私を毛布で包み,コニャックのようなものを飲ませて,飲み込んでいた海水を吐かせた。
からだはすっかり力が抜けていた。しかし3時間以上の苦闘ののち,荒れ狂う海の腕から解放されてボートの中にすわったときのなんという満足感!
死んだ連れの人はほんとうに気の毒だった。水夫たちは彼女を海に捨てねばならなかった。生きて見つかる人たちを救い上げるために急いでいたからだ。それにしても,彼女が知らずに与えてくれた助けがなかったら,私も生きのびてはいなかったかもしれない。
そのボートの中には,すでに救い上げられていた生存者たちがいた。みんな毛布にくるまれ,疲労しきった表情をしていた。モーターボートは猛烈なスピードでさらに生存者の捜索をつづけ,ボートがいっぱいになったら根拠地のユーゴスラビア船スボボダ(自由)号にもどった。
乗組員たちは措しみなく援助を与えた。彼らは船に積まれている物をほとんど全部わたしたちに自由に使わせた。ヘレアンナの船長とその妻,そしていく人かの乗組員を含め,100人以上の生存者がすでにスボボダ号の中にいた。
複雑な気持ち
難船の生存者たちの様子は哀れを誘った。疲れた顔に,生き残れた喜びと満足と感謝が見られたことは事実であるが,病気の人や,やけどをした人,腕の折れた人たちもいた。そしてほとんどの人は,私のように,綱を伝って海にすべり降りたときに手にけがをしていた。多くの人は,家族のゆくえがわからなくて非常に心配していた。
ひとりの青年がその妹を発見したときの光景は痛ましかった。二人は抱き合って泣いた。母親がどうなったかわからなかったのだ。青年は母親を助けようとしたが,力がつきてしまったのである。4人の子どもを連れて旅行していた女の人がいた。二人の子どもは彼女といっしょに生きのびたが,幼いほうの二人はゆくえ不明になった。隅のほうには,父親が目前ででき死するのを見たイタリア人の少女が黙ってすわっていた。そういうわけで,多くの人は深い悲しみの空気に包まれていた。
スボボダ号がイタリアのバリに向かうあいだ ― 約3時間後そこに到着した ― わたしたちは暖かい太陽で衣服をかわし,少しの休息を取った。これがもし夜間に,あるいは海岸からもっと遠く離れたところで出火していたらどうなっていただろう,とみな考えていた。生き残る者はひとりもいなかったかもしれない。しかしそうでなかったので,1,000人以上が救助され,死亡したのは20人あまりにすぎなかった。
警察,報道員,看護婦,救急車などが岸でわたしたちを待ちうけていた。治療の必要な人々はただちに病院に連れて行かれ,そこで注意のゆきとどいた,親切な世話を受けた。わたしたちの気持ちをくつろがせるためにあらゆることが行なわれ,私はそれに感謝している。また私を見舞いにきて,誠実なクリスチャンの愛を自発的に惜しみなく示して,病院内の私の周囲の人々によい印象を与えた多くの友だちを,私はいつも感謝の念をもって思い出す。
傷の痛みもすっかりなくなった。わたしはかなり物質的な損失をこうむったけれど,こういう慰めがある。つまり,私には価の知れない貴重なもの,私の命がある。―寄稿
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都市居住者目ざめよ! 1972 | 5月8日
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都市居住者
● 世界の人口のおよそ10%つまり3億7,500万ほどの人々が,人口100万人以上の都市に住んでいる。現在,全世界にはそのような都市が200ほどあると考えられている。
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