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    ものみの塔 1967 | 11月15日
    • 安全の必要

      「〔エホバ〕よ,わたしを安らかにおらせてくださるのは,ただあなただけです」― 詩 4:8,〔新世訳〕。

      1 人間が地球上に生存した期間のほとんど全部を通じて,人間の生命はどんなことのために不安なものでしたか。

      人間が地上に生存した期間のほとんど全部をとおして,人間の生命は安全なものではありませんでした。歴史は人間に臨んだ多くの危険を記録しています。あらゆる種類の病気が人々を倒し,災害とききんが無数の人の生命を奪い,大小の戦争は多くの国を荒廃させ,何百万の人を時ならぬ死へ追いやりました。犯罪もまた絶えたことはなく,その犠牲者も数知れません。

      2 科学の進歩は人間の安全にどう影響してきましたか。

      2 科学の進歩によって人間は以前にはなかった多くの有用な物 ― たとえばある種の病気をいやす薬など ― を持つようになりました。しかし人間の生命はこの科学時代になって前よりも安全かといえば,決してそうではありません。原子兵器,細菌兵器,化学兵器のことを考えてもわかるように兵器の発達は驚くべきもので,二,三の国にとどまらず世界中の国の人の生命が,人類史上かつてなかったほどにおびやかされています。生活はたしかに近代的になりましたが,しかし同時にきわめて不安で危険なものになりました。世界中に大きく報道される政治家や著名な人々のことばが,「平和」と「安全」を多く話題にしているのも不思議ではありません。それは世界に増しくわわる不安を反映しています。

      3 不安が特色となっている現代について,聖書はどのように預言していましたか。

      3 世の人々のあらゆる努力にもかかわらず,真の安全は得られていません。一つの紛争が解決されるかされないうちに,別の紛争が始まります。将来を見通そうとする多くの人が見るものは,大きな疑問符にすぎません。不安定と不安は増し加わっています。今日見られるこの状態は,聖書に次のように正確に預言されていました。「また日と月と星とに,しるしが現れるであろう。そして,地上では,諸国民が悩み,海と大波とのとどろきにおじ惑い,人々は世界に起ろうとする事を思い,恐怖と不安で気絶するであろう」― ルカ 21:25,26。

      4 (イ)現在の世に真の平和と安全がないのは,なぜですか。(ロ)真の安全の源はだれですか。

      4 聖書によれば,動揺する現在の世界が平和になり安全になることはとても期待できません。それはなぜですか。まちがったところに,まちがった方法で安全を求めているからです。ふつうの人は,人間や人間の組織が真の安全をもたらし得ないということを悟っていません。彼らは,「もろもろの君に信頼してはならない。人の子に信頼してはならない。彼らには助けがない」と述べた聖書の明白な助言を無視しています。(詩 146:3)どんな高い位にある人も,宗教あるいは政治上のどんなに大きな権力を持つ人も,この世のどんな国も国際組織も真の安全と救いを人類に提供することはできません。人々の求めるこれらの貴重なものはただ一つの源すなわちエホバという名を持たれる全能の神から与えられ,また神のご準備と一致して与えられます。―イザヤ 43:11。

      古代イスラエルにおける安全

      5 (イ)イスラエルの歴史は安全に関して何を示していますか。(ロ)ソロモン王の祝福された統治を描写しなさい。

      5 一般に知られているように,イスラエル人はヘブル人アブラハム,その子イサクと孫ヤコブを先祖とする民族であり,かつてはエホバの選民でした。エホバとイスラエルとの交渉には,安全を得る道と安全を失う原因とが予表されています。イスラエルの歴史が示しているように,国家の安全と個人の安全は,賢明で平和な王であった有名なソロモンの治世の時に最高に達したようです。ソロモンは見えない王エホバを代表して治めた人間の王のひとりでした。その時の祝福された状態について,列王紀の筆者は次の印象的なことばをしるしています。「彼は……周囲至る所に平安を得た。ソロモンの一生の間,ユダとイスラエルはダンからベエルシバに至るまで,安らかにおのおの自分たちのぶどうの木の下と,いちじくの木の下に住んだ」― 列王上 4:24,25。

      6 (イ)イスラエルの福祉と安全に貢献した要因はなんでしたか。(ロ)しかしイスラエルの後期の歴史は何を示していますか。

      6 ソロモン王の治世の時に見られた平和と安全と福祉は,人間の知恵の賜物ではありません。それは天からの知恵がもたらしたものです。イスラエルの人々はすぐれた律法を与えられていました。何世紀も前にそれはエホバからモーセに授けられ,モーセをとおしてイスラエル国民に与えられていたものです。この画一的な律法はイスラエルの全領土において施行され,イスラエル人と他国人に等しく適用されるものでした。それはこの国民と神との関係また人と人との関係を規制していました。それは良い律法であり,クリスチャン使徒パウロも次のようにあかししています。「このようなわけで,律法そのものは聖なるものであり,戒めも聖であって,正しくかつ善なるものである」。(ローマ 7:12)支配者も人民もこの律法を遵守すればするほど,神エホバの恵みを得,平安と安全を享受しました。ところが,たいていは悪くなった支配階級の影響で人々が律法から離れると,不安が増し加わりました。贖い主として神からつかわされたメシヤを国民の大多数が受け入れなかった時に起きた悲劇的な出来事は,それを例証しています。西暦70年,イスラエルの有名な首都エルサレムがローマ人によって滅ぼされた時,かつての恵まれた民も国民としてはその存在を失いました。その後19世紀間のユダヤ人の歴史は,不安と逆境という点に関するかぎり類のないものです。そのすべては,人間の創造者との正しい関係をおろそかにして真の安全が得られるものではないことを示しています。―詩 91:2。

      のがれの町 ― 保護を与えるための備え

      7 わたしたちがモーセの律法になお関心を持つのはなぜですか。

      7 モーセの律法に定められていた事柄のひとつを,詳細に検討することにしましょう。多くの定めと罰則を備えたモーセの律法がもはや適用されないのは事実です。19世紀前にメシヤであるイエス・キリストが来られた時,この律法は終わりました。それは目的をはたしたのです。律法は成就されて廃止されました。聖書はそのことを次のように述べています。「神は……わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は,わたしたちを責めて不利におとしいれる証書[モーセの律法]を,その規定もろともぬり消し,これを取り除いて,[イエス・キリストの]〔刑柱〕につけてしまわれた」。(コロサイ 2:13,14,〔新世訳〕)イエス・キリストは西暦33年ニサン14日,この律法を終わらせるために用いられました。それ以後,効力を失ってはいますが,この古い律法には多くの教訓的なひな型つまり影,それに原則が含まれており,クリスチャンはそれから益を得,啓発を受けられるのです。たとえばモーセの律法に定められていた週の安息日すなわち休息の日は,きたるべき良い事柄の影であって将来の事柄つまりメシヤなるキリストの治める平和で穏やかな千年期を指し示すものでした。―コロサイ 2:16,17。ヘブル 10:1。

      8 のがれの町はいくつありましたか。それらの町はどんな名でしたか。

      8 モーセの律法に定められた事柄の中で非常に興味深いのは,のがれの町です。それらの町はどこにあり,どんな目的をはたしましたか。律法にはヨルダン川の東に3つ,西に3つ,合計6つののがれの町が定められていました。その名前と位置は,モーセの後継者としてイスラエルの指導者となったヨシュアの次のことばに示されています。「そこで,ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシ,エフライムの山地にあるシケム,およびユダの山地にあるキリアテ・アルバすなわちヘブロンを,これがために選び分かち,またヨルダンの向こう側,エリコの東の方では,ルベンの部族のうちから,高原の荒野にあるベゼル,ガドの部族のうちから,ギレアデのラモテ,マナセの部族のうちから,バシャンのゴランを選び定めた」。―ヨシュア 20:7,8。

      9 (イ)これらの町は土地全体から見てどのように配置されていましたか。(ロ)それらの町は実際にどんな目的をはたしましたか。

      9 約束の地の地図を見るとわかるように,これらの町は土地全体から見てほぼ均等に配置されていました。それはなぜでしたか。これらの町は,イスラエル人,他国人の居留者,定住者を問わず,町の保護を必要とした場合に土地の住民のだれもが到達できるところに位置していることが必要でした。これらの町は避難所であり保護を与える場所であって,生命の危うい人々に開放されており,したがって保護を求める人が自分の力の及ぶ,また時間の許す範囲内で逃げ込むことのできる場所にありました。人が保護を受ける資格は,国の律法に定められていました。仕事中でも,あるいは他の事情の下でも,悪意なしに過失によってひとりまたはそれ以上の人を死に至らせた者は,だれでもこれらの町のどれかに逃げることができたのです。

      10 たとえばどんな事情のとき,人はそこへのがれることができましたか。

      10 のがれの町に逃げ込むことが必要になる事態には,たとえば次のようなものがあります。「人を殺した者がそこにのがれて,命を全うすべき場合は次のとおりである。すなわち以前から憎むこともないのに,知らないでその隣人を殺した場合,たとえば人が木を切ろうとして,隣人と一緒に林に入り,手におのを取って,木を切り倒そうと撃ちおろすとき,その頭が柄から抜け,隣人にあたって,死なせたような場合がそれである。そういう人はこれらの町の一つにのがれて,命をまっとうすることができる」― 申命 19:4,5。

      人の生命の神聖さ

      11 (イ)のがれの町にのがれる必要が生じたのはなぜですか。(ロ)ノアに対するエホバのことばは何を示していますか。

      11 しかしこのような人が保護の場所にのがれる必要があったのは,なぜですか。人を死なせた場合には,その人自身,生命を失う危険があったからです。最も近い親族の者には,殺された人の血の復讐者となる権利がありました。彼は報復することができ,その資格をもってすみやかに行動できました。当時,血の復讐者のこの権利はじゅうぶんに認められていたのです。明らかにその起源は聖書の最初の本,創世記の9章4節から6節の定めにあります。これは世界的な洪水を生き残ったノアとそのむすこたちに告げられたエホバのことばで,創造者が人間の生命の価値を重く見られていることを示しています。「しかし肉を,その命である血のままで,食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには,わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にもわたしは人の命のために,報復するであろう。人の血を流すものは,人に血を流される。神が自分のかたちに人を造られたゆえに」。不法に人間の血を流した者に死の刑罰を加える権利は,この昔の布告に基づいていました。

      12 流血の罪を負ったのは故意の殺人者だけでしたか。

      12 この昔の布告はモーセの律法の中で認められていました。故意に,そして不法に人間の血を流す者はだれでも,殺人が証明され,証人たちによって確証されたならば,自分の生命でつぐなわねばなりませんでした。(申命 17:6)悪意を持っていたわけではなく,故意にではなくて人を死なせた者にも,流血の罪がありました。しかしそのような不幸な人はいちばん近いのがれの町に逃げれば死を免れることが,律法に定められていたのです。これに関する律法のことばは次のように定めています。「〔エホバ〕はモーセに言われた,『イスラエルの人々に言いなさい。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときは,あなたがたのために町を選んで,のがれの町とし,あやまって人を殺した者を,そこにのがれさせなければならない。これはあなたがたが復讐する者を避けてのがれる町であって,人を殺した者が会衆の前に立って,さばきを受けないうちに,殺されることのないためである。あなたがたが与える町々のうち,六つをのがれの町としなければならない……これらの六つの町は,イスラエルの人々と,他国の人および寄留者のために,のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が,そこにのがれるためである』」― 民数 35:9-15,〔文語〕。ヨシュア 20:1-6。

      13,14 (イ)故意の殺人者はのがれの町で保護を受けることを許されましたか。(ロ)避難者がふさわしい者か,それとも故意の者かは,どのように決定されましたか。

      13 それでこれは条件にかなう人すべてにとって,人間の貴重な生命を救う法的な備えであったことがわかります。これら6つの町はレビ人の町でもあり,なかでもヘブロンはアロンの家の祭司に属する町でした。しかし実際には権利のない者たとえば人殺しの悪人が6つの町の一つにおいて法的な保護を利用したならば,どうなりましたか。律法は故殺人に保護を与えておらず,このような人はこれらの町に保護されるにふさわしい者とは認められませんでした。ふさわしくない者が庇護されるのを防ぐため,ある人を町の保護の下におくことを決める前に審問を行ない,事情を調べることが律法によって要求されていました。事件を調べて最終的な決定を下すのは,人を殺した者が住んでいた土地の長老でした。避難した者にとって有利な決定が下されると,以後その者は神聖な格を有するのがれの町に庇護されました。このことは次のようにしるされています。

      14 「しかし,もし恨みもないのに思わず人を突き,または,なにごころなく人に物を投げつけ,あるいは人のいるのも見ずに,人を殺せるほどの石を投げつけて死なせた場合,その人がその敵でもなく,また害を加えようとしたのでもない時は,会衆はこれらのおきてによって,その人を殺した者と,血の復讐をする者との間をさばかなければならない。すなわち会衆はその人を殺した者を血の復讐をする者の手から救い出して,逃げて行ったのがれの町に返さなければならない。その者は聖なる油を注がれた大祭司の死ぬまで,そこにいなければならない」― 民数 35:22-25。

      15 故意でない殺人者は,のがれの町にいつまでとどまることが必要でしたか。

      15 引用した聖句の最後の部分は,故意でない殺人者が,律法の設ける避難所にどれだけの間とどまるべきかを示しています。必ずしも一生の間とどまらねばならなかったわけではありません。それは人がこれらの避難所の一つにのがれた時に奉仕していた大祭司が死ぬまででした。大祭司が死ぬと,避難していた人のすべては直ちに町を去って以前の居住地に帰ることができました。血の復讐者の手にかかるおそれはなかったのですか。その心配はもはやありません。釈放された避難者に危害を加える権利は,血の復讐者にはもはやないのです。その事件は終結を見ました。申し開きをすべき流血の罪はもはやありません。「彼は大祭司の死ぬまで,そののがれの町におるべきものだからである。大祭司の死んだ後は,人を殺した者は自分の所有の地にかえることができる」― 民数 35:28。

      16 のがれの町の備えは,人間の生命の価値について何を教えていますか。

      16 のがれの町が設けられていたことは,わたしたちにいろいろな事柄を教えています。それは人間の創造者エホバが人間の生命を価値ある貴重なものと見られていることを示しています。神の主権に敵対し,その目的を無視する人間の生命を神が奪っても,それは神の当然の権利です。しかし人間の立場は創造者のそれとは異なっており,自分の意のままに人の命を奪う権利は人間にはありません。生命はきわめて貴重です。ある意味においてそれは神聖です。モーセの律法によれば,故意でない殺人者にも流血の罪がありました。それは流血の事柄に関する神の厳しさを示しています。明らかにこの厳しさは,人間の生命の神聖さに対する正しい認識をイスラエル人に教え,銘記させるためでした。それはまた,隣人の最も貴重な持物 ― 生命を周到におもんばかってすべての事を行なわねばならないことを教えました。詩篇の筆者は生命の偉大な源をさし示して,「いのちの泉はあなたのもとにあり」と書いています。―詩 36:9

      17 この特別な法的備えには,エホバの偉大などんな二つの資質が反映していますか。

      17 他方,のがれの町が備えられたことは,エホバがあわれみの神であること,および至上のさばき主として人間の心をご存じである神は,故意にではなく悪をした者と,故意に神の律法を破る,心の悪い者とを区別されることを示しています。それで古代イスラエルに避難所の町が備えられていたことは,エホバの二つの偉大な属性すなわちエホバの正義とあわれみを明らかにしています。詩篇の筆者は次のように書きました。「義と公平はあなたのみくらの基,いつくしみと,まことはあなたの前に行きます」― 詩 89:14。

      18 この備えは預言的な型であるゆえに,どんな質問が起きますか。

      18 のがれの町という備えは預言的な意義を持ち,来たるべきいっそう大きなものを示しているゆえに,次のような質問が提起されます。この町は何を表わしていますか。そこにのがれることを許された,故意でない殺人者はだれを表わしていますか。故意でない殺人者を追った血の復讐者はだれを表わしていますか。これらの町に通じていた道は何を意味していますか。大祭司はだれですか。また大祭司の死後,避難者が町を離れることができたという事実は,何を示していますか。これらの質問の満足な答えは,わたしたちが神の聖霊によって「真理に導」かれるときに得られます。(ヨハネ 16:13)これらの問題は次の記事の中でくわしくとりあげられています。

  • 安全への道
    ものみの塔 1967 | 11月15日
    • 安全への道

      「わたしは道であり,真理であり,命である」― ヨハネ 14:6。

      1 のがれの町は何を表わしていますか。

      古代イスラエルの人々にとって,のがれの町の備えが生命を救うことになった場合はしばしばあったに違いありません。その目的は,正当な血の復讐者に命を狙われている,故意でない殺人者を安全に保護することでした。これらの町は犯罪者を保護したのではありません。律法に含まれる多くの「影」と同じく,これらの町の備えは,クリスチャンに多くのことを教える預言的なひな型であるゆえに,それは,流血の罪に対する刑罰から救ってあらゆる種類の人を益するためにエホバ神が施行された救いの偉大なご準備を予表するものと結論しなければなりません。どのようにそうですか。―ヘブル 10:1。

      2 イエス・キリストが地にこられた理由にどんなものがありますか。

      2 この備えに関する偉大な真理を知らせるため,神は最高の御子イエス・キリストを地に遣わされました。それはまたイエスにほんとうの信仰を働かせる人々を確かな永遠の死から救って,終わることのない生命を得させるために,イエスが犠牲の死を遂げるためでもありました。エペソ人への手紙 1章7節はそのことを次のように述べています。「わたしたちは,御子にあって,神の豊かな恵みのゆえに,その血によるあがない,すなわち,罪過のゆるしを受けたのである」― マタイ 20:28。

      3 イスラエル人と他国人の両方がのがれの町に避難できた事実は,何を示していますか。

      3 ひな型となったのがれの町の場合と同じく,実体的なのがれの町もまた,神の律法を破っても悔い改めた人をイエス・キリストのあがないに基づいて許し,その世話と保護の下に受け入れるための,あわれみ深い神のご準備です。使徒パウロは次のように書いています。「それだから,キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは,彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果,召された者たちが,約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない」。(ヘブル 9:15)実際ののがれの町には,イスラエル人と他国人の住民の両方が避難できました。(民数 35:15)それは実体的なのがれの町が,霊的なイスラエル人すなわち天的な級の成員となり,キリスト・イエスとともに治め,祭司として勤める人々のみならず,地上に永遠の生命を受けるすべての人々,「他の羊」にも強力な保護をさしのべている事実を表わしています。―ヨハネ 10:16。

      4 (イ)救いのご準備の中で何を見すごすことができませんか。(ロ)神のみたまと天使は,なんのために働きますか。

      4 イスラエルにおいて故意ではない殺人者は自国を去って国外にのがれたのではなく,のがれの町を目ざしました。それらの町は祭司以外のレビ人に属し,ヘブロンの町はアロンの家の祭司に属していました。これは救いのご準備がエホバの組織と密接に結びついていることを意味しています。霊的な祭司の級の人々の残れる者は今日なお地上にあり,エホバの民の中核を成しています。救いのこのご準備の中でエホバの証人の見える会衆がはたす役割を無視することはできません。使徒行伝 2章47節には,「〔エホバ〕は,救われる者を日々仲間に加えて下さったのである」と述べられています。〔新世訳〕これは「救われる」者が初期クリスチャン会衆の見える組織に加えられたという意味です。彼らは一致したひとつの信仰の家族の中に集められました。それで神の民の見える会衆は,今日,救いのご準備と関係があります。確かにそれは救いのご準備の中で重要な位置を占めているのです。どの会衆も神の民の一小部分を成しています。エホバの保護を受けたいなら,神の民の組織から離れてその外にいることはできません。エホバのみたまと天使は,考えと目的および行動の一致をもたらす方向に働いています。こうして実体的なのがれの町におけるエホバの保護は,「忠実な思慮深い僕」の督監下におかれた霊的イスラエル人の見える会衆と切っても切れない関係にあります。―エペソ 4:3-6。マタイ 24:45-47。

      実体における故意ではない殺人者

      5 故意にではなく人を殺した者はだれを表わしていますか。

      5 しかし,あやまって人を殺し,保護の町にのがれた者は,だれを表わしていますか。それは,なんらかの面で,またエホバの見地からみて流血の罪にあずかっていることを意識するようになった人すべてを表わしています。このような自覚は,誠実な人が,人間の生命の神聖さを教える神のことば聖書の音信に接して啓発される時に得られます。古代イスラエルにおけると同様,今日においても,人は事故により他の人あるいは人々を死なせることがあります。交通事故のため,毎年何万人の人が世界各地の路上で生命を失っています。そこになんらの悪意がなかったとしても,ある程度まで罪があることは確かです。それで国家の法律はこのような場合に対する罰を規定しています。

      6 現代において多くの人はどのように流血の罪にあずかりましたか。

      6 しかし現代の実体において,故意でない殺人者の意味はもっと広い範囲に適用され,前述のような場合に限られていません。今は人類史上にその例を見ない戦争の時代です。第一次,第二次世界大戦のことを考えてごらんなさい。何百万人の人が心ならずもこれら流血の行為に加わることを余儀なくされました。1914年以来,世界支配をめぐる戦い,またイデオロギーの闘争と革命のために何千万人の人が死んでいます。西暦1914年以後のことを考えてみただけでも,人類は歴史上かつてなかったほどの重い流血の罪を負っているのです。生命の神聖なことを宣言された人間の創造者が,このすべてをごらんになって大きな不興を感ぜられていることは言うまでもありません。―ハバクク 1:13。

      7 (イ)偽りの宗教には,どうして重い流血の罪がありますか。(ロ)そのことは黙示録 17章5,6節にどう描かれていますか。

      7 このように組織的また大量に人間の血を流すことに対して世界中の宗教指導者が祝福と支持を与えたために,多くの人はそのような流血が神のみこころであり,キリスト教とも相容れるとさえ考えています。それで大ぜいの人は自分の行ないを正しいと信じて悪をしていたと言えるでしょう。多くの教会またキリスト教国の内外を問わず宗教が組織的な流血を支持したことは,一つの事すなわち全世界の偽りの宗教に重い流血の罪があるという事実を明白にしています。この流血の罪は過去何十年のみならず何世紀にもわたって重ねられてきたものです。宗教戦争,宗教指導者が扇動し,また支持した戦争,十字軍,異端審問所,キリストの時代以前また以後における神の忠実なしもべたちの迫害によって,おびただしい血が流されました。黙示録 第17章において,偽りの宗教のこの世界帝国は,「大いなるバビロン」と呼ばれる不道徳な女によって象徴されています。「その額には,一つの名がしるされていた。それは奥義であって,『大いなるバビロン,淫婦どもと地の憎むべきものらとの母』というのであった。わたしは,この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た」― 黙示 17:5,6。

      8 教会はどのように人々を惑わしてきましたか。

      8 教会が神の目的をいかにあやまり伝え,戦争を正当化したかは,第一次世界大戦中,ドイツの新教の一日曜新聞に出た次の記事からもよく伺われます。「わが国の兵士は故国と家と国王と祖国のために戦っているのみならず,神の器,神の執行者として神のために戦っている神の軍隊である。これらクリスチャンの兵士が自分の携わる崇高な軍役と務めを知り,自分たちが神のわざを行なっているゆえに,戦争を首尾よく終結させるために主がくすしくも我らとともにいますことを知るのは良い。神のみにほまれあれ」。(ウォルター・デグナス,Kirche,Krieg,Kriegsdienst,51頁)預言者エレミヤのことばは,キリスト教国の偽りの宗教組織の流血の罪を的確に言い表わしています。「あなたの着物のすそには罪のない貧しい人の命の血がついている」。(エレミヤ 2:34)しかし異教の宗教組織にも流血の罪があります。

      血の復讐者の実体

      9 (イ)流血の罪を持つ者の上にいつ罰が臨みますか。(ロ)実体において血の復讐者となるのはだれですか。

      9 重い流血の罪に対して,避けることのできない罰が臨まなければなりません。それは必ず,そしてすみやかにこの時代のうちに臨みます。神からのこの罰について預言者イザヤは次のように書きました。「見よ,〔エホバ〕はそのおられる所を出て,地に住む者の不義を罰せられる。地はその上に流された血をあらわして,殺された者を,もはやおおうことがない」。(イザヤ 26:21,〔文語〕)古代イスラエルにおいて,流血の事件を清算し,罰を加えたのは血の復讐者でした。では実体において,だれが血の復讐者となりますか。それは「天においても地においても,いっさいの権威を授けられた」イエス・キリストです。黙示録 第19章に描かれているとおり,キリストは白い馬に乗って天の軍勢をひきい,正義の戦いをします。およそ19世紀前にイエスは完全な人間として地上に生まれ,この理由でご自分のことをしばしば「人の子」と呼ばれました。(マタイ 28:18; 25:31)そのことのゆえにイエスはいわば人類に最も近い親族となられ,したがって実体における血の復讐者の資格を備えていられます。

      10 のがれの町の表わすものが特に適用されるのは,いつからですか。なぜそうですか。

      10 西暦1914年,人間社会の現在の秩序に「終りの時」が臨みました。そして特にその時以来,のがれの町の表わすものが時宜を得,適用されるようになりました。それはなぜですか。イエス・キリストが偉大で強力な血の復讐者として行動されるのは,この時代のことであり,この世代のうちのことだからです。キリストは,流血の罪を持つこの社会すなわち秩序を完全に終わらせます。(ダニエル 2:44)血の復讐者とそのぼう大な天使の軍勢は,保護を与えるのがれの町に前もって逃げなかったすべての人に追いつくでしょう。何ものも,この迫っている災害を決して阻止できません。どんな国家もそれを免れないでしょう。しかし各人は免れることができます。―箴言 1:24-33。

      安全を求めて逃げる

      11 どのようにすれば,血の復讐者の手にかかることを避けられますか。

      11 しかしどうすれば人は,迫ってくる血の復讐者イエス・キリストに追いつかれないようにできますか。時間のあるうちに安全なところに逃げるというのがその答えです。安全を求めて逃げることは確かに可能です。古代イスラエルにおいては,6つののがれの町が国の領土全体にほぼ均等に配置されていました。それで必要に迫られた人にとり,安全を求めてのがれる道が遠すぎることはありませんでした。安全は手の届くところにありました。この預言的なひな型の成就においても同じことです。正直で真理を愛する,そして真の安全を見いだすことを真実に望んでいる人は,それを見いだすことができます。救いは得られるのです。保護を与える町すなわち神の救いのご準備は近くにあります。しかしそこに達するにはある程度の努力が必要です。安全への道は春の散歩のようなものではありません。それは勤勉な働き,「信仰の戦い」をすることを意味します。―テモテ第一 6:12。

      12 流血の罪を持つ人がどのように行なうべきかを示す良い手本となっているのは,だれですか。

      12 この点で使徒パウロはすぐれた手本です。彼もサウロと呼ばれた時代にはユダヤ人の宗教組織の負う流血の罪にあずかっていました。彼は真のクリスチャンが殺されるのを見てそれを是認していたのです。たとえばステパノの殺害について「サウロは,ステパノを殺すことに賛成していた」と述べられています。(使行 8:1)しかしその後キリスト教に改宗したサウロは,真の信仰のために目ざましい戦いをしました。最後まで走りぬいて救いを確実にするために,彼は大変な努力をしました。伝道し,クリスチャンの兄弟にあてて多くの手紙を書き,あらゆる苦難を経験し,遂にはクリスチャンとして殉教したのです。パウロや他の多くの人の例は,永遠の生命を得るために真の努力が必要なことを示しています。―コリント第二 11:23-27。テモテ第二 4:6-8。

      安全への道

      13 (イ)のがれるには,どんな要求をはたすことが必要ですか。(ロ)信仰とは実際に何を意味しますか。

      13 安全を目ざしてのがれるため,まず根本的に必要なのは,自分がエホバ神の前に悪を行なった者であり,神の目には罪人であるという自覚です。(詩 51:3-5)このことから,誠実な人は悔い改めに導かれます。それはまた心の変化を意味します。聖書,エホバ神,イエス・キリスト,神の国に対する信仰がそれに伴います。(使行 3:19。ヘブル 11:6。使行 16:31)しかし信仰は神の存在,またイエス・キリストが罪人を救うために来られたという事実を信ずるだけのことではありません。単にそれだけを信じている人は大ぜいいますが,それではとうてい不十分です。聖書によれば信仰はそれ以上のこと,すなわちエホバに全く信頼すること,神への全き従順を意味します。それは行動を意味します。(ヘブル 11:1)それはエホバに献身してキリストの追随者すなわちキリストの弟子,聖書にしるされた神のみこころに従って生きる者になることです。普通に考えられている意味での信仰は,真実の,深い聖書的な意味においての信仰とは全く違うことがおわかりでしょう。イエス・キリストはこう言明されました。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は,またわたしのしているわざをするであろう」。(ヨハネ 14:12)生命を救う実体ののがれの町に逃げて安全を得る道は,イエスが言われた狭い道と実際には同じものです。「命にいたる門は狭く,その道は細い。そして,それを見いだす者が少ない」― マタイ 7:14。

      14 人は何から離れねばなりませんか。なぜですか。

      14 この狭い道を歩むと同時に,滅びに通ずる広い道を行くことはできません。つまりわたしたちは現存する悪の事物の制度から離れなければなりません。(ローマ 12:2)真のクリスチャンは流血にまき込まれるおそれのあるどんな運動にも関係しないでしょう。そしてこの世の事柄に対して中立の立場をとります。(ヨハネ 18:36)すでに述べたように,この世そして特にその宗教は重い流血の罪を負っています。その中にとどまる人はその一部であり,これらの組織が全体として負う流血にあずかることになります。ゆえに使徒パウロが,流血の罪を持つユダヤ教から離れたように,今日でも誠実な人は大いなるバビロンから離れることでしょう。それはあらゆる偽りの宗教と縁を切るということです。偽りの宗教に臨む滅びのさばきにまき込まれたくないとすれば,だれでもそうしなければなりません。聖書はそうすることの必要を明らかにしています。「わたしの民よ。彼女から離れ去って,その罪にあずからないようにし,その災害に巻き込まれないようにせよ。彼女の罪は積り積って天に達しており,神はその不義の行いを覚えておられる」― 黙示 18:4,5。

      15 キリスト教国の教会が大いなるバビロンの一部であることは,どのように認められていますか。

      15 キリスト教国の諸教会が大いなるバビロンの一部であることは,その著名な成員によっても認められています。世界教会協議会の前事務総長フーフト博士は諸教会のおかれている事態に通じていたに違いありません。同博士の最近の講演を論評した一宗教出版物は次のように述べていました。「[宗教上の]一致をはばむ別の要因として,フーフト博士は教会の“バビロン捕囚”をあげた。あらゆる教会は世の権力者,国家および国民のみならず,民族,文化,国家の実体ともなんらかの形で手を結んできた」― Schweiz.evang.Pressedienst, 1964年9月30日付。

      16 のがれることを,なぜおくらせてはなりませんか。

      16 命を愛し,神の目に正しいことを行なおうとする賢明な人は,政治,社会,宗教のいずれを問わず自分がこの世のどんな面に関係していたとしても,流血の罪があるこの世から離れることをちゅうちょしないでしょう。今はのがれる絶好の時です。血の復讐者が刑罰の執行を始めてからではまにあいません。時があるうちにのがれることの必要を強調して実体における血の復讐者イエス・キリストはこう言われています。「あなたがたの逃げるのが,冬または安息日にならないように祈れ。その時には,世の初めから現在に至るまで,かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである」。(マタイ 24:20,21)逃げおおせることを不可能にする事態がやがて起きます。それは大いなるバビロンの滅びと,それに続くハルマゲドンの戦いの時です。―黙示 16:14から17:18。

      「のがれの町の中にとどまる」

      17 今日,のがれの町の大祭司はだれですか。

      17 すでにみたように,故意にではなく人を殺して,のがれの町に保護された者は,のがれた時に勤めていた大祭司が死ぬまでそこにとどまらねばなりませんでした。そして大祭司が死ぬと,自分が前に住んでいた土地に帰ることができました。血の復讐者にはその時もはや危害を加える権利はありません。預言的なひな型を成就してイエス・キリストもまた大祭司の役目をはたされます。ヘブル人への手紙 3章1節にあるとおり,イエス・キリストは確かにこのような大祭司です。「そこで……聖なる兄弟たちよ。あなたがたは,わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを,思いみるべきである」。

      18 大祭司の死ぬまでのがれの町にとどまることは,(イ)天的な級の人々,(ロ)ハルマゲドンを生き残る人々にとって何を意味しますか。

      18 したがってのがれの町の示す興味深い事柄の中で,キリストは二つの役割すなわち血の復讐者としての役と大祭司の役をはたされます。大祭司が死ぬと,町に保護された者は自由の身となりました。では,大祭司が死ぬまで町にとどまることは,実体的なのがれ町の場合何を意味していますか。二つの級の人々,「イスラエルの人々」と「他国の人」すなわち天国の成員と地的な級の成員とがこの町に避難しようとしていることから,次のように言えます。天国の級の人々である霊的なイスラエル人が不完全な人間としての地上の生涯を終え,天的かつ霊的な復活によって報われる時,大祭司は彼らに対していわば“死ぬ”ことになります。つまり彼らに対しては大祭司としての働きをやめます。もはや人間でない彼らは,罪をおおうための大祭司の働きをもはや必要としません。彼らは不滅の命によみがえらされ,キリストとともに王また祭司として千年のあいだ治めるのです。(黙示 20:6)ハルマゲドンを生き残る人々について言えば,キリストの千年統治が終わって,すべての人が地上で完全な人間にされた時,イエス・キリストは彼らのための大祭司としての勤めをやめられるでしょう。のがれの町のひな型に即して言えば,イエス・キリストはそのとき彼らに関しては“死なれた”ことになります。すなわち罪をおおう大祭司としてイエス・キリストは登場しません。そのとき大祭司の勤めはもはや必要ないでしょう。そのとき人々は,義に対していつまでも全く献身していることを証明するため,神の御手の中に直接に来ます。―コリント第一 15:24-28。ローマ 8:33; 6:7。

      19 どんな警告が与えられていますか。

      19 しかし不完全な人間であってのがれの町に逃げた人が大祭司の死ぬ前に町を離れるようなことをすれば,死の危険つまり合法的な血の復讐者の手で処刑される危険に身をさらすことになります。彼は大祭司のあがないの犠牲の益をもはや受けないからです。これはわたしたちに対する警告となっており,神のご準備に関連してそれが要求されているかぎり,実体的なのがれの町の中にとどまらねばならないことを示しています。永遠の救いを確実にするには,神の大祭司によって監督され,神の見える組織と結びついている,エホバ神の愛あるご準備の境界内にとどまっていなければなりません。永遠の死の危険にわたしたちをさらす欺きの自由を僅かのあいだ楽しもうとして,のがれの町の強力な保護を見捨てるような誘惑に陥ってはなりません。のがれの町にとどまる以上,いくらかの拘束を受けることは事実です。なんでも思いどおりに行ない,また語ることができるわけではありません。神のみこころに従い,あがない主であられる大祭司イエス・キリストの下にとどまることが必要です。それでも正しいことと善を行なう自由はじゅうぶんに与えられています。

      20 弟子ヤコブはどんな助言を与えていますか。

      20 それで昔のモーセの律法中にあるのがれの町の定めは,生死にかかわる緊急さをもってわたしたちに追ってきます。それは厳しゅくな教訓であり,流血の罪を持つ20世紀の人間社会に住むわたしたちにとって時宜を得た教訓となっています。それはわたしたち各人が,世の集団的な流血の罪と,悪の事物の制度に臨もうとしている神の罰をのがれる道を示しています。神の御要求を読み,聞くのみならず,直ちに,そして熱心にそれを自分の生活の中で実行する人は,ほんとうに幸いです。弟子ヤコブは次のように述べています。「そして,御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて,ただ聞くだけの者となってはいけない」― ヤコブ 1:22。

  • 「益のあること」が認識された
    ものみの塔 1967 | 11月15日
    • 「益のあること」が認識された

      ● カリフォルニアで開催された巡回大会で次の経験が述べられました。「私の働いている職場で数人がエホバの証人について話し合っていました。その中のひとりは自分の考えをのべ,エホバの証人は正しいと言い,証人はその題に『バビロン』という名の入った啓発的な本を持っていると語りました。私と一緒に働いている人はその男のひとに,私にたのめばその本を入手できるでしょうと知らせました。その翌朝,彼女から話を聞いて,その人に本を入手できることを話し,『聖書はみな神の霊感によるものにして益あり』という本を手許に1冊もっていることもつけ加えました。彼は『その本もください』と言い,私が『大いなるバビロンは倒れた! 神の国は支配する!』の本を明日もってきましょうと言うと,『そうしてください。10冊頼みます』と答えました。その本を昼休みに渡すことになりました。それを渡す時,『この本をどうなさるつもりですか』とたずねたところ,『この中の数冊は郵送し,あとは友人に渡すつもりです。この真理がそれを読んだ人に少しでも受け入れられるなら,とても良いことだと思います』と彼は言いました。後日,彼は電話で『バビロン』の本と『聖書はみな神の霊感』の本をそれぞれ2冊ずつ,そして新世界訳聖書を2冊注文してきました。彼は『ものみの塔』誌と『目ざめよ!』誌の両方を予約し,さらに多くの聖書の手引きを注文しました。彼は他の土地に移転しましたが,近くで奉仕している証人が,この興味をもつ人をさらに援助するための取り決めを設けました」。

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