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  • 地獄は熱い所ですか
    今ある命がすべてですか
    • 想像しうる最も残酷な行為を偽りにも神に帰するものです。

      したがって,地獄の火の教理を唱える人は神に冒とくとなる事柄を語っているのです。聖書の示す証拠に十分に通じていない牧師がいるかもしれませんが,それはあるべき姿ではありません。彼らは,神の音信を語り告げる者と自ら唱えていますから,聖書の述べる事柄を知る務めがあります。彼らは,自分の話したり行なったりする事柄が,彼らに教導を仰ぎ求める人々の生活を大きく左右しうることは十分に知っています。これは当然,自分の教える事柄の真偽を確かめるよう,慎重な態度を取らせるはずです。神について何か誤った事柄を伝えるなら,人を真の崇拝からそらせ,人に危害をもたらすことにもなるからです。

      偽りを教える人々をエホバ神が是認されないことは明らかです。古代イスラエルの不忠実な宗教指導者に対して,エホバは次の裁きを宣告されました。「あなたがたがわたしの道を守ら……なかったことのゆえに,わたしとしてもまた,必ずあなたがたをしてさげすまれさせ,民すべての前に卑しめる」。(マラキ 2:9)今の時代の偽りの宗教教師に対しても必ず同様の裁きが下されることになるでしょう。聖書は,そうした人々が世界の政治勢力によってまもなくその地位と影響力とをはぎ取られることを示しています。(啓示 17:15-18)偽りを教える宗教機構を支持し続ける人々もまたそれと同様の運命をたどるでしょう。イエス・キリストは,「盲人が盲人を案内するなら,ふたりとも穴に落ち込む」と言われました。―マタイ 15:14。

      こうした点を考えるとき,あなたは,火の燃える地獄の教理を教える宗教組織を引き続き支持してゆくことを願いますか。自分の父親がだれかから悪意の中傷を受けたとすれば,あなたはどのように感じますか。その中傷者を自分の友として引き続き迎え入れてゆきますか。むしろ,そうした人々との交わりをいっさい断つのではありませんか。わたしたちの天の父を中傷する行為をしてきた人々との交わりについても,同様のことを求めるべきではありませんか。

      責め苦に対する恐れは神に仕えるための正しい動機ではありません。神はわたしたちの崇拝が愛に根ざしたものであることを求めておられます。これはわたしたちの心に訴えるはずです。死んだ人々は全く意識がなく,死んだ人類すべてに共通な,生命のない沈黙の墓に眠っているのであり,燃えさかる炎の中,叫びと苦痛の満ちる所にいるのではありません。この点を理解するなら,愛を抱いて神に仕えるさいの妨げは除かれます。

  • 富んだ人とハデス
    今ある命がすべてですか
    • 第12章

      富んだ人とハデス

      ハデスが死んだ人類の共通の墓にすぎないものであるとすれば,なぜ聖書は,ある富んだ人がハデスの火の中で責め苦に遭うことについて述べているのですか。これは,ハデスが,あるいは少なくともその一部が,火の燃える責め苦の場所であることを示しているのでしょうか。

      地獄の火について教える人々は,この記述こそ,悪人の前途に責め苦の場所の地獄が控えている明確な証拠である,としきりに指摘します。しかし,そのようにしつつも,そうした人々は,「罪を犯している魂 ― それが死ぬ」と聖書が繰り返しはっきり述べている点を無視します。(エゼキエル 18:4,20)そしてまた,「死者は,なんの意識も全くない」と述べられているのです。(伝道 9:5)「失われた魂」が火の燃える地獄で責め苦を受けるという考えを,これらの言葉が支持していないことは明白です。

      それゆえ,死者の状態に関する聖書の教えは,キリスト教世界の多くの牧師を苦しい立場に立たせています。彼らがその教えの基であるとする聖書そのものが,彼らの教理と相入れないからです。それでも彼らは,意識的にも無意識的にも,自分たちの論点を証明する何かを聖書の中に読み取らねばならないと考え,こうして自らと他の人々を真理に対して盲目にならせています。これが故意になされる場合さえ少なくありません。

      他方,誠実な態度で真理を探求しようとする人々は,何が正しいのかを知りたいと思います。そうした人々は,自分の信仰が聖書のある部分に基づいていると唱えても,それによって神の言葉の他の部分を退けているなら,ただ自分を欺く結果になることを知っています。彼らは,死者の状態について聖書が真実になんと述べているかを知りたいと思います。そして,十分な理解を得るために,ハデスで責め苦を経験したある富んだ人について述べられている事柄の意味を知り,それが聖書の他の部分とどのように調和するかを知りたいと思います。

      ある富んだ人およびラザロという名のこじきに関する話をしたのはイエス・キリストでした。そのイエスの言葉はルカ 16章19-31節にあり,以下のとおりです。

      「ある富んだ人がいて,紫と亜麻布で身をかざり,豪しゃな日々を楽しんでいました。一方,ラザロという名のあるこじきは彼の門のところに置かれ,かいようだらけの身で,その富んだ人の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。そのうえまた,犬が来ては彼のかいようをなめるのでした。さて,やがてこじきは死に,み使いたちによってアブラハムのふところの地位に運ばれました。

      「また,富んだ人も死んで葬られました。そして,ハデスの中で目を上げると,自分は責め苦にありましたが,はるか離れた所にアブラハムがおり,ラザロがそのふところの地位にいるのが見えました。それで彼は呼びかけて言いました,『父アブラハムよ,わたしにあわれみをおかけになり,ラザロを遣わして,その指の先を水に浸してわたしの舌を冷やすようにさせてください。わたしはこの燃えさかる火の中で苦しみもだえているからです』。しかしアブラハム

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