-
多くの人がもはや僧職を望まないのはなぜか目ざめよ! 1972 | 2月22日
-
-
信仰および信条の土台そのものを危くしたためでしょうか。このことは,多数の司祭がある道徳上の問題に関する教会の立場に失望している理由の一つではありませんか。
聖書の教えに従っていない
使徒パウロはテモテにこう書き送りました。「聖書はみな神の感動によるものにして教誨と譴責と矯正と義を薫陶するとに益ありこれ神の人の全くなりて,諸般の善き業に備を全うせん為なり」。(テモテ後 3:16,17)使徒パウロのこのことばは,聖書が正しい教えと行為の規準であるべきことを示しているのではありませんか。したがって,自分の属する教会の教えが聖書と一致していないことに気づく人々の信仰はかなり動揺するのではありませんか。このことからもう一つの質問が生じます。カトリック教会は聖書にしるされている真理を教え,かつ聖書が霊感のもとに書かれたということを支持していますか。
幾世紀にもわたってカトリック教徒および他の宗教団体の信者は,魂は不滅であり,肉体が死んだ後にも生き残る,人間の霊的な部分であると教えられてきました。しかしそれは聖書が教えることですか。新アメリカ聖書(ワシントンのカトリック大司教,神学博士,パトリック・オボイル枢機卿の出版認可を受けた)は,その中の「聖書神学用語解説」の「魂」の項目でこう述べています。
「新約聖書の中で,『人の魂を救う』(マルコ 8:35)とは,人の(プラトン哲学の意味における)『肉体』とは対照をなす,人間のある『霊的な』部分を救うという意味ではない。それは,具象的かつ身体的(肉体と対比せよ)存在であることに加えて,生きて欲望を持ち,愛と欲求をいだく人間であるという事実を強調したうえでの人そのものを救うという意味である。魂と肉体の間には対立状態もなければ相違もない。この両者は,一個の具体的な実体を単に異なった仕方で描写しているに過ぎない」。
また「肉体」という見出しのもとにはこう書かれています。
「聖書の中では,魂とは対照的なものではなくて,総体的なかつ具体的な十全の人間,つまり人そのものなのである。ギリシア語本来の意味において魂と肉体を区別することは聖書とは相容れない」。
カトリック教会が幾世紀にもわたって,魂と肉体とは同じものではないと教えておきながら,これは聖書の教えではないと言うのはおかしなことではありませんか。教会が教えてきたことと,神のみことばに実際に述べられていることの間の矛盾は,多くの人の信仰をそこなう原因の一つになってきたのではないでしょうか。人間は不滅の魂を持っていると信じてきた人が,それは聖書の教えではないということを認めるカトリックの公式の出版物を読むなら,いったいどう感じるでしょうか。聖書と一致しない他の多くの事柄を教えられてきたのではないだろうかと疑うようになるのではありませんか。
明らかに聖書に反する教理が教えられてきただけでなく,聖書が霊感のもとにしるされたということさえ疑問視されてきたのは注目すべきことです。神学者ハンス・クングの述べた点を論じた聖オーガスチヌス修道会のグレゴリー・バウムは最近次のように書きました。
「昔われわれは聖句を誤りのないものとみなしてきた。それが神のみことばであるという理由で,教会は聖書のページに見られるいかなる誤りも容易に認めようとはしなかった。しかしながら,もっと批判的かつ歴史的に調べて見ると,聖書には多くの誤りのあることが明らかになった。神学者はこの問題をどのように扱ったであろうか。彼らは聖書の中で,神の霊感によってしるされたゆえに誤りのない部分と,霊感を受けずにしるされたゆえに誤りとされうる部分とを区別しなかった。むしろ,われわれが聖書中に間違いを見つけようと,後世の人々が誤りを見つけようが,聖書全体は霊感のもとにしるされたものであること,聖書全巻は神のことばを人間に伝達するものであることを提唱したのである。この見解は最初,カトリック教徒の間に驚がくと怒りを引き起こし,教会当局からは消極的な反応をさえ招いたが,ついには教会に認められ,教会の公式の見解となった」。
カトリック教会が,みずから聖書に反するものとして公に認める事柄を教え,今や,聖書は誤りに満ちているという考えをさえ受け入れる点で行なってきたことからすれば,カトリック教会が危機に見舞われているのは驚くべきことでしょうか。もしカトリック教会が聖書の教えに従い,すべての面で聖書の規準に一貫してつき従っていたなら,こんなことにはならなかったのではないでしょうか。もし教会がそうしていたのであれば,司祭に対する強制的な童貞制など問題にさえならなかったでしょう。なぜなら,聖書はそのような考えを支持してはいないからです。
-
-
『祝福された武器』目ざめよ! 1972 | 2月22日
-
-
『祝福された武器』
● ワールド・ブック百科事典,第1巻682ページによれば,中世の時代には,人が騎士の誓いを立てる場合,その前に当人のよろいや武器は司祭によって『祝福された』。「なんぢの剣をもとに収めよ,すべて剣をとる者は剣にて亡ぶるなり」といわれたイエスとはなんと異なっていたのであろう。―マタイ 26:52。
-
-
赤ちゃんが死ぬのはなぜか目ざめよ! 1972 | 2月22日
-
-
「あなたのみことばは真理です」
赤ちゃんが死ぬのはなぜか
子どもの死は,それが何歳の子どもであっても親にとっては悲痛な打撃です。生まれてまもない子どもの生命が突如終わりを告げるとき,幾か月もの妊娠,出産の苦しみ,生後何日か何週間か何か月かの間その子につくした優しい世話はすべてがむなしく,徒労に終わったかのように感じられます。ですから,子どもを失った親が,「どうしてこんなことが起きるのだろう」と嘆くのも当然です。
子どもを失った親は多くの場合,赤ちゃんが年長の人たちと同様の原因でつまり病気や事故,もしかすると先天性の欠陥,あるいは貧困の場合の栄養不良などで死ぬことがあると説明されても納得できません。赤ちゃんには少しも罪がないように思えるため,神がなんらかの方法で赤ちゃんにそうした死因を免れさせてやるべきではなかろうかと考える親は大ぜいいます。こうしたむずかしい問題に聖書はなんと答えていますか。
神のみことばは死の根元的な理由を指摘してこう述べます。「一人の人[アダム]によりて罪は世に入り,また罪によりて死は世に入り,凡ての人,罪を犯しし故に死は凡ての人に及べり」。(ロマ 5:12)それにしても生まれたばかりの赤ちゃんや乳幼児が,死をもたらすそうした罪を宿しているのでしょうか。聖書によれば,宿しているのです。どうしてですか。受け継いでいるのです。霊感を受けた詩篇作者が言い表わしたとおりです。「視よわれ邪曲のなかにうまれ 罪にありてわが母われをはらみたりき」。(詩 51:5)このことが問題をどのように解くかを考えてみましょう。
創世記の歴史上の記述は,最初の人間アダムが神の律法にあえてそむいたことを示しています。人類の最初の親がその創造者との良い関係を切り断たれた結果,罪・心配・不安・恥辱などの意識がもたらされました。(創世 3:1-13)それは必然的に最初の人間の体組織に有害な影響を及ぼしました。人体は悪行に対するなんらかの「生来の耐容性」をもつものとして作られてはいなかったからです。周知のとおり,有害な感情は人体の化学作用に悪影響を及ぼします。最初の男女についても同じことで,生殖に関係のあるふたり
-