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    ものみの塔 1961 | 5月1日
    • カトリックの僧侶,ジョン・エー・オブライエンは1959年1月号の「拡張」の中でこう述べました,「イエスは『わたしにはまたこの檻のものでない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも,わたしの声に聞き従うであろう。そして,ついに一つの群れ,ひとりの羊飼となるであろう』と言った。これらの者たちはどのようにして真の檻に導かれるのか。家に坐って待っているのではなく,彼らのところに出かけて行くことによってである。これには皮靴をつけた使徒,戸口に立ってベルをならすこと,いんぎんに家庭訪問をすることが必要となってくる」。

      カトリックによってこれがなされていますか。オブライエンは答えています,「3700万にのぼる我らの一般信徒が,上着を脱ぎ袖をまくり上げて自分たちの霊的な羊飼と共に働くなら,このことをすることができる」。これを始めるようにとすすめられている事実からみても,彼らが現にそれをやっていないということがわかります。ひとりの改宗者を得るのに250人のカトリック信者が必要だったということを述べてから,彼はこうつけ加えています,「245人は指先を動かそうともしなかったし,そのことを少しも考慮しなかった。これに比べてエホバの証者はだれでも信者を得るために1週間に数時間を費やしている」。彼があげた良い模範はだれですか。エホバの証者です!

      別の牧師は教会の全国会議の席上でこう語りました,「証言することは基礎的なこととして認めねばならぬ。それは我々の信仰の基礎である」。英国のキャノン・ブリヤン・グリーンは1960年5月14日の「バーミンガム・ポスト」にこう書いています,「我々は費用のかさむ大規模な福音伝道運動のためあるいは中央組織のために金をつぎこみ,また建物を過度にかざりたてるためにも金を使う。このような金と精力は使徒のごとくに家から家へ行くように一般信徒を訓練するのに費やした方がよいのではないか。使徒のごとくと言った理由はパウロが使徒行伝で『人中でも,家から家へ行っても教えるのをためらわなかった』と言ったからである」。

      キャノン・グリーンは,自分の教会の者がこの助言に従うと期待しているでしょうか。彼は次のようにいってなげいています,「これはたぶん良い思いつきだ。しかしこれを大いに必要としている場所,つまり世界中に,このわざを成功裡におしすすめていくための献身と忍耐がクリスチャンの教会の中にあるだろうか。……クリスチャンの教会の中に ― 教職者は別として ― キリストとその福音のためによろこんで犠牲になるような若者がいるだろうか」。明らかにこの宗教指導者は,一般信徒を動かして家から家の宣教を行なわせることができるようになるなどとは考えていません。しかし彼はひとつの例を取り出しています。彼はこう述べています,「エホバの証者がクリスチャン教会に教えていることは要するに,彼らが文書の力を信じ,家から家にそれを配布することが効果的だということだ。事実彼らはこの仕事に従事し,誠実にまた献身的にやっている。彼らはそれをつとめだと思っている……なぜなら神からの任命を受けたと信じているからである」。

      1960年5月5日付のニュージャージー・パターソン・イブニング・ニュースは,この種の宣教に大きな宗派が賛成していることを指摘してこう言っています,「人々の口にのぼっているこの『平信徒の宣教』というのは一体どういうことか。新教あるいは旧教の文筆家たちが,最近この問題にかんして実に多くの本を書いているが,次の点で一致している……つまり,平信徒のひとりひとりはキリストの良いおとずれを,まだ聞いていない者あるいは理解してない者に伝えるように要求されている。福音を『生きとし生ける者』に伝えよという命令は,任命された教職者のみに向けられているのではない。それは全教会に課せられている任務である。しかも平信徒というのは教会の99パーセント以上をしめているのである」。

      1959年10月20日号の「ルーテルのあかし」という雑誌は,すべての者が証言すべきだということを指摘して次のように言っています,「ルーテルは一般信徒をその低い地位からたかめ,クリスチャンのひとりひとりを『司祭』とした。この『司祭の』活動の中で一番重要なものは,生活,愛,そして唇によってキリストのためにあかしすることである。彼のものとなるためには,彼の証人となることである!……神のもとに各クリスチャンは,証言を行なうチームにはいるべきである。4世紀にはすでに,有名な神父,ジェロームはこう宣言している,『洗礼は平信徒の任命式を意味する』」。

      これと同じ雑誌の中でひとりの神学校の教授は,この教会における一般信徒の活動が全く信じがたいものだということを示しています。すなわちハーマン・サッセ博士は「世界中のルーテル派の信者は,無関心になりルーテル派の教理を鳴りひびかせなかったために,はっきりした満足のゆく解答をすることができなかった……我々の教会は聖公会と全く同じことになってしまった。聖公会の教会は,新教の教会の世界でみられるように,何を一体信じているのかを言うことができなくなってしまった」と言っています。

      バプテスト派の牧師でカナダのエル・ターは,参加しないことが重大な問題だということを示してこう述べました,「すべてのクリスチャンは,福音のためのわざに活発にあずかるべきである。今の時代は弟子を必要としている。それ以下のものはすべて偽善である」。彼は教会にかよう者が「自分たちは傍観者であり,参加しなくてもよいのだと考えている」ということを認めました。

      どこに責任があるか

      兵器の使用法も知らない軍隊が,進撃することができるでしょうか。走り方を知らない走者は競走に加わることができますか。何を証言してよいやらわからないクリスチャンは,どのようにして証言することができますか。キリスト教国には聖書の真理にかんする知識が驚くほど欠けているので,彼らには証言はできません。ミシガン州,ランシングの1960年5月11日号の「ステイト・ジャーナル」はこの点を指摘しています,「これはやさしい仕事ではない。アメリカの教会には宗教的無知が行きわたっている。それで一般信徒は,自分もはっきり理解していない信条の主唱者になるようなことは,なりたくてもなれない」。

      正確な知識がこのように欠けていることは宗教指導者たちの責任です。彼らは聖書の真理を忠実に教えなかったのです。模範を示すために,家から家へ行く聖書的な方法を自分たちが取りいれなかったのです。隊長が戦争に参加するのをこばみ,キャプテンが自分のチームを助けなかったのと同じことです。その結果,牧師も,信徒も,そうです,隊長も,その隊員も,あるいはキャプテンも,走者たちも偉大な審判者エホバ神の前で失格してしまいました。イスラエルの国におきたことと同じことが,キリスト教国におきたのです,「神の国はあなたがたから取り上げられて,御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう」。―マタイ 21:43,新口。

      神は,喜んで参加し,彼の証者となる者を用いるでしょう。今日,何十万というエホバの証者は家から家へ御国の良いたよりを伝えよというイエスの命令にこたえ応じています。エホバの証者だけがこの命令に忠実に従っています。ほかの宗教でも証言のわざをきわめて重要なものと認めていながら,実際にその通り行なっているものを迫害し反対するとは何とおかしなことでしょう!

      永遠の生命はすばらしい賞です。傍観者はそれを得ることができませんが,実際に参加するものはそれを得ます。活動的でない傍観者にならず,神の是認と新しい世での生命を得るように参加する者となって下さい。

  • 創造を証拠づける
    ものみの塔 1961 | 5月1日
    • 創造を証拠づける

      太陽系の不思議に感動したサー・アイザック・ニュートンは言いました,「単なる機械的な原因が,こうした多くの規則的な運動を生み出しえたと考えるべきではない。……この最もすばらしい太陽,遊星,彗星の組織は,深い知恵と力をもつ神の意図と支配のみから生じうるものである」。

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