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  • エホバの保護に感謝する
    ものみの塔 1970 | 2月15日
    • 自分が神よりも低い者とされたことを憤慨した彼は,その悪感情のためにいつもの適切な処置を思うように行なえませんでした。ぼくが手術室の外で待っていると,外科医に逆らうよう仲間をそそのかす彼の声が聞こえてきました。ぼくはふたたびエホバに助けを求めました。やがて外科医が姿を現わしました。外科医はどうしましたか。人は患者の宗教上の信念を批判すべきでないと述べ,病院側が受け入れた契約を破ることはできないという断固とした態度を示しました。

      麻酔医はしぶしぶ仕事を進めたものの,手術のための準備処置をぼくに施す仕方はかなり粗雑で,簡単な操作もしくじり,まごつきました。怒りが高まるにつれて落ち度はいっそうひどくなり,通常の準備処置で重大な失敗を7回も重ねてしまいました。そしてついに麻酔科の主任教授があいだにはいり,自らその仕事をすることになりました。

      手術は劇的な成功を収め,じん臓を切除して2分とたたないうちに血圧は降下しはじめ,やがて正常値に戻り,ぼくは退院しました。しかし血圧はふたたび上昇しはじめ,危険に思えたので,もう一度病院に戻らねばなりませんでした。でもそれから7日後快方に向かいはじめました。これは明らかに,それまで多量のレニンを分泌していたぼくのからだが,手術を受けたので反応を示したためでした。今では手術後の反応がすっかりなくなったので,ぼくはかつて経験したことのない健康の喜びを味わっています。

      病気が直って以来,ぼくはいろいろの事をもう一度勉強し直さねばなりませんでした。過去3年にわたり,ぼくの記憶は特に著しくそこなわれたように思います。しかし,正常な機能を取り戻し,また,こうした試練をエホバの保護の下に乗り越えることができて感謝しています。そして,エホバにより頼む人に健康と平安とをもたらす,神の約束された御国を宣べ伝える全時間奉仕者になるため,やがて自分の生活を調整したいと願っています。

      愛する仲間の証人である

      あなたとともに

      エホバを賛美しつつ,

      あなたの友より

  • 葬式で遺族の人々を慰める
    ものみの塔 1970 | 2月15日
    • 葬式で遺族の人々を慰める

      エホバの証人の行なう葬式は,エホバの証人でなく,悲しみに沈んだ遺族の人々の目にどのように映りますか。一遺族がアメリカ,オハイオ州に住むエホバの証人にあてたつぎの手紙は一つの参考になるでしょう。

      「1935年に父が死に,残された母は,未亡人にしか理解できない悩みと悲嘆に暮れました。母があなたがたの門をたたいたのはその時です。当時エホバの証人はラジオを使い,大ぜいの人にたいへん活発に音信を伝えていました。わたしたちはあなたがたがすばらしい人々の集まりだということを理解すべきでしたが,その時はまだ理解していませんでした。あなたがたは母の人生を,絶望の暗やみから平和で満ち足りたものに変えました。先週死が臨むまでの30年以上のあいだ,母はひと時も喜びを失うことなく平穏な一生を送りました。

      「しかし,わたしたちが失意を感じたのはその時です。ご存じのごとく,母のように84歳まで生きた人は,友人や親族の大部分をすでに失っています。少なくともわたしたちはそう思ったのです。

      「わたしたちがその事を気がかりに思いはじめたきっかけは,母の葬儀の前夜に葬式の司会者がした話でした。わたしたちの町に来て住みついた,ある著名な大金持ちの身に最近起きたことです。この人は下町の大きな高級ホテルの一室で,数年のあいだ,世捨て人のように暮らし,ついにそこで息を引きとりました。その遺言には,こよなく愛するようになったこの町に自分を埋めるようにとありました。猛吹雪のため,彼の死んだ翌日はだれも訪れませんでした。次の日,おいの一人がピッツバーグから雪の中を到着しました。その夜,そのおいと葬式の司会者が,長くわびしい通夜をしました。翌日,この金持ちの葬儀に参列したのは,そのおいだけでした。

      「わたしたちの事情はその人の場合ほど悪くはありませんでしたが,母の葬式の前夜,わたしたちは少し心配し,翌日の母の葬儀には大ぜいが出席してくれるだろうか,それともわずかの出席者しかいないだろうかといぶかっていました。

      「翌朝,エホバの証人の奉仕者と,その会衆の成員であるすばらしい人々が到着すると同時に,それまでわたしたちの心にあった心配は消えました。この人々が身に着けておられる熱意と親切心のすばらしさは言い表わせないほどです。わたしの思いつく中では,清朗ということばが一番ふさわしいでしょう。各へやがエホバの証人でいっぱいになり,そのかたがたの口からなぐさめのことばを聞くと,陰うつな気持ちは消え,この世が急に明るくなったように感じました。前の夜に話を聞いた著名な大金持ちより,こうしたすばらしい友人を持つ母のほうがはるかに豊かであったと考えざるを得ませんでした。参列した親せきのひとりは,感嘆し,このように人を力づける葬式ははじめてだと言いました。

      「皆様から贈られた美しい花々,また棺の付き添いをしてくださったかたがたのご親切,それと同時に参列してくださった皆様の暖かいお気持ちなどにわたしたちがどれほど深く感謝しているかを申し上げねばなりません。わたしたちはこれらのことをいつまでも思い出すでしょう。慎しんでお礼を申し上げます。皆様の上に神の御祝福がありますように」。

      確かに,葬式は,神からの復活の希望とクリスチャン愛,およびクリスチャンのふるまいによって,遺族の人々を慰めるよい機会となります。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1970 | 2月15日
    • 読者からの質問

      ● イザヤ書 19章18節に述べられている「カナンの方言」とはなんですか。

      「エジプトにかかる重荷のよげん」の中で,預言者イザヤは次のように予告しました。「その日エジプトの地に五のまちあり カナンの方言をかたりまた万軍のエホバに誓ひをたてん」― イザヤ 19:1,18。

      紀元前732年ごろに書かれたこの預言は,紀元前607年のエルサレム滅亡後に起きる事柄に触れています。ネブカデネザルの率いるバビロニア人は貧しいユダヤ人をエルサレムに残して行きました。その中のある者は反逆して総督ゲダリヤを殺し,人々はエレミヤの助言に逆らってエジプトに逃亡しました。(エレミヤ 41:1-3; 42:9–43:7)聖書の記録には,彼らがミグドル,タパネスおよびノフの三つの町に住んだことが明示されています。(エレミヤ 44:1)この時エジプトに難をのがれた人々は,それ以前からエジプトにいたユダヤ人に合流したと考えられます。―エレミヤ 24:1,8-10。

      ヘブル語聖書は今日古代ヘブル語として知られていることばをヘブル語という名称で扱ってはいません。ヘブル語は時には,「ユダヤ語」とか,「ユダヤの言語」と呼ばれました。(列王下 18:26。ネヘミヤ 13:24)このことばは言語学でセム語群に属しており,アブラハムの時代にカナンの地で使われていた言語はヘブル語の同族語だったと考えられます。イスラエル人が約束の地,すなわちカナンの地をひとたび手中に収めたとき,彼らのことばは二つの意味で「カナンの方言」と言うことができたようです。つまりそれは,滅ぼされたカナン人のことばに似ており,また,カナン人の領域を新たに支配するようになった人々のことばという意味です。

      したがって,住民が「カナンの方言をかた(る)」エジプトの町々に関するイザヤ書 19章18節は,エジプトの町々にのがれたユダヤ人が用いていたヘブル語をさしています。

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