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慰めを必要としない人がいますかものみの塔 1979 | 1月15日
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慰めを必要としない人がいますか
人は慰めや励ましを切に必要とする時がいつかはあります。人生には悲しみをもたらす出来事があまりにも多いからです。
親は一生懸命働いて子供に必要物を十分備えようとします。しかし息子や娘は大きくなるにつれ,反抗的になり,父母にとって言うに言われぬ悲しみや心配の種になるかもしれません。
職場で正しく認められず,不公正な扱いを受ける人がいます。私利を図って駆け引きすることは良心が許さないので,その人は正直で勤勉であるにもかかわらず,昇進しないかもしれません。無能な人にあれこれ仕事を指図されることさえあるでしょう。いらいらさせられることが多いのに耐えかねて,勤めに出るのがいやでたまらなくなるかもしれません。
活動的だった人が病気で衰弱したり,事故のため不具になったりして活動できなくなることもあります。その人は自分が幸福になる上で大きな力となった事柄をもはや行なうことができず,やむなく強い薬を用いて激しい痛みを和らげているかもしれません。
そして親しい友あるいは親族に死なれた時の深い悲しみを味わったことのない人がいるでしょうか。それを味わった人は無力感,孤独と失意に打ちひしがれたことでしょう。
このような時,どこに慰めを見いだせますか。他の人々がこのような問題にどう首尾よく対処し,苦難の時に何が支えになったかを知ることのできる源を見いだせるなら,それは本当に心強いことです。聖書はまさにそのような本です。ある人々に振りかかった出来事,そして彼らがどのようにその試練にも苦々しい気持ちを抱かずに耐えたかを率直に記した記録を聖書に見いだせます。
ダビデについて読むとわかるように,その息子の中でアムノンは親族を強姦する罪を犯し,アブサロムは殺人と王位を狙う陰謀に関係しました。ダビデの生涯には,最年長の兄からの痛烈な非難に耐えなければならなかった事や,しっと深いサウル王から動物のように追跡され,法の保護を奪われた者の生活を何年間も余儀なくされたり,幾度も中傷されたこと,腹心の相談相手に裏切られた事,そして病気になり衰えたことがありました。
賢王ソロモンは人生の厳しい現実を次のように述べています。「必ずしも速い者が競走に勝つのではなく,強い者が戦いに勝つのでもない。また賢い者がパンを得るのでもなく,さとき者が富を得るのでもない。また知識ある者が恵みを得るのでもない。しかし時と災難はすべての人に臨む」。「わたしはしもべたる者が馬に乗り,君たる者が奴隷のように徒歩であるくのを見た」。―伝道 9:11; 10:7,口。
もちろん,聖書に出ている男女のすべてが同じ問題に取り組んだ訳ではありません。しかしアベルの命が兄カインの暴力によって絶たれて以来,人間は愛する者を亡くすとはどんな事かを経験してきました。アブラハムは愛する妻サラの死を嘆きました。(創世 23:2)ヤコブが死んだ時,「ヨセフは父の顔に伏して泣き,口づけし」ました。(創世 50:1,口)ダビデは友ヨナタンの死を嘆いてこう言いました,「わたしの兄弟ヨナタン,わたしはあなたのことで苦しんでいる。あなたはわたしにとって,非常に気持ちの良い人だった。あなたの愛はわたしにとって女の愛よりすばらしかった」― サムエル後 1:26,新。
つらい経験や苦難にもかかわらず,ダビデ,ナオミ,ハンナ,アブラハム,ヨセフその他,聖書に述べられている多くの人々は悲しみに打ちひしがれてしまうことがありませんでした。神に対する信頼が彼らを支えたのです。
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悲しい時の慰めものみの塔 1979 | 1月15日
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悲しい時の慰め
愛する者の死は人の一生の中でもいちばん気を転倒させる出来事です。テキサス州南部のある婦人は次のように語っています。「二人目の子供を身ごもっていた時,夫が殺されるという悲劇を体験したことから,私は憂いの底に沈んでいました。生まれた子供が死んだことは衝撃を更に増し加えました。私は小さい息子をも含めてだれとも話をしなくなりました。言葉を覚える年齢になっているのに息子がまだひと言もしゃべらないので,その事も心配でした。その当時,私の心は自分だけに向けられていたため,私は,自分が子供に話しかけなければ,子供は思っている事柄を表現する方法を学ぶすべがないということに気づかなかったのです」。この婦人は慰めを切実に必要としていました。幸いなことにこの婦人は,職場の同僚が聖書のことについて彼女に話し始めた時,元気になりました。
死のもたらす悲しみを体験する人に,聖書はいったいどんな希望を差し伸べていますか。死んだ人のことを心配したり,悲しみに打ちひしがれる理由は何もないことを,聖書は明白に示しています。それは死んだ愛する者が,神の定めの時,命によみがえるからです。「わたしは神に対して希望を持っています…その希望は…義者と不義者との復活があるということです」とクリスチャン使徒パウロは述べました。(使徒 24:15)生命によみがえらされる人々には,悲しみ,病気あるいは死に再びつながれることはないという見込みがあります。(啓示 21:3-5)人類が味わってきたすべての悲しみは,彼らの復活後に存在する一変した状態によって全く相殺されてしまうため,「以前の事柄は思い出されることなく,それらは心の中に上ることもない」でしょう。―イザヤ 65:17,新。
一世紀のクリスチャンは復活を信じていたゆえに,愛する者を亡くしても,それに耐えることはずっと容易でした。彼らは希望を持たない人がするように悲しみを極端に,また大げさに表わすことをしませんでした。(テサロニケ第一 4:13)しかし復活があることをどうして確信できますか。
使徒パウロの希望が神に対する信仰に基づいていたことに注目すべきです。全能者は人類の創造者であられるゆえに,死者を復活させ,再創造する知恵と力を持たれるに相違ありません。事実,最初の人間アダムの創造について聖書に記されている事柄は,復活という奇跡を理解する上で助けとなります。
アダムは土の元素から形づくられました。もちろん,これらの元素は人格を持たず,意識的な活動や思考の能力を欠いています。しかし神がこれらの元素を組織して,調和のある人体を作り上げ,生命力をもってその体を活気づけられた時,まぎれもない人間 ― 生殖によって生命を伝えるとともに,考え,推論する能力を持つ人間が存在するようになりました。―創世 2:7。
アダムをひとりの人間にしたものは,アダムの体を作っていた元素ではなかったことに注目してください。むしろそれは土の元素に神の働きが加わったことの結果でした。ゆえに復活は,死ぬ前に人が体の中に持っていた分子を保存あるいは復元することに依存していません。生きている間でさえ,体を作っている分子は絶えず変化しています。それで今あなたの体を構成している分子は,7年前のものとは全く異なっています。にもかかわらず,あなたは今も同じ人です。同様に,人間の命と霊者の命のいずれによみがえらされるとしても,よみがえらされる人の体の中には,生前の人と同一の人間とする,神から与えられるすべての特性が備わっていることでしょう。―コリント第一 15:36-49。
復活の希望を差し伸べるのに加えて,聖書はこの希望の根拠を示しています。死者を命によみがえらせるのは何も新しい事でも,以前に起きなかった事でもありません。わたしたちは聖書からそれを知ります。それどころか,聖書は復活した男女,子供の特定な例を述べています。(列王上 17:21-23。列王下 4:32-37。マルコ 5:41-43。ルカ 7:11-15。ヨハネ 11:38-45。使徒 9:36-42; 20:9-12)最も顕著なのはイエス・キリストの復活です。イエスが死からよみがえらされた後,500人にも上る証人がイエスを見ました。(コリント第一 15:6)これは十分に確証された出来事であるため,使徒パウロは復活を否定することがキリスト教の信仰全体を否定することを意味すると語っているのです。次のように書かれています。「実際,もし死人の復活ということがないのであれば,キリストもよみがえらされなかったことになります。そして,もしキリストがよみがえらされなかったとすれば,わたしたちの宣べ伝える業はほんとうにむだであり,わたしたちの信仰もむだになります。さらに,わたしたちは神の偽りの証人ともなります。神はキリストをよみがえらせたと,神に逆らって証しをしてきたことになるからであり,死人が実際にはよみがえらされないのであれば,彼をよみがえらせることもされなかったからです。死人がよみがえらされないのであれば,キリストもよみがえらされなかったのです。さらに,キリストがよみがえらされなかったのであれば,あなたがたの信仰はむだになります」― コリント第一 15:13-17。
使徒パウロそして何百万人という他の人々にとって,死者の復活に対するゆるぎない信仰は絶対確実な慰めの源でした。今日においてさえ,それはなお同様です。なるほど,死人のよみがえりなどは見たことがないと言って,復活という考えを嘲笑する人も中にはいるでしょう。しかし彼らは死に面した時,その不信仰のゆえに,より優れた立場に立つことができますか。過去における復活の歴史的な証拠を否定することによって,彼らは遺族にどんな慰めを与えることができるのですか。彼ら自身が親しい親族や友人を亡くす時,彼らの不信仰は悲しみを和らげるのに助けとなりますか。事実を見る時,その答えはおのずから明らかです。
ゆえに死によってもたらされた悲しみの時には,聖書に述べられている復活という神の確かな約束から慰めを得つづけてください。それ以外に希望はありません。それを手放してはなりません。また復活についての聖書の音信を分かつことにより,悲しむ人々に真の慰めを与える満足を見いだしてください。
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病気に耐えて生きてゆくものみの塔 1979 | 1月15日
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病気に耐えて生きてゆく
ダビデ王は重い病気にかかり,その敵たちは王が死ぬことを願っていました。訪問客は,王の健康状態に悪化のきざしが少しでも見えないかと鵜の目鷹の目になっていながら,偽善的にも表面では王が快方に向かうようにと言います。あとでその者たちは自分の否定的な観察を他の人々に告げては喜んだものです。「彼の体は悪性の病気で満ちている。病気で伏しているので,二度と起き上がれないだろう」と彼らは言います。親しい友人で,信頼を寄せていた助言者アヒトペルでさえ,裏切者と化してしまいました。―詩 41:6-10,新アメリカ訳聖書。
ダビデにこのきびしい苦難の時を耐えさせたのは何でしたか。彼は希望を失って恐れに屈するようなことはありませんでした。神に対するダビデの信頼は弱まりませんでした。ダビデはこう宣言しているからです。「エホバご自身が病の床で[そのしもべ]を支えてくださる。あなたは彼の病気の間そのすべての寝床を必ず変えてくださいます」。(詩 41:3,新)結局,ダビデは確かにその病気から回復しました。
しかし,至高者は苦難に遭っている,ご自分のしもべをどのようにして元気づけられるのですか。エホバ神は,ご自分の霊によって,病気の人に,慰めを与え希望を強める考えを思い起こさせるのです。この点で神の行なわれる事柄は,人が健康を取り戻す上で重要な役割を果たします。ですからダビデは,エホバが苦難に遭っている人の床を,病の床から回復の床へと変えてくださる,と言うことができたのです。
現代の医師たちが,病気からの回復に当たって希望の果たす役割の価値を認めるようになってきているのは注目に値します。例えば,「欠くことのできないバランス」という本の中で,カール・マニンガー博士はこう書いています。「現在の科学の知識は,回復に役立つ力すべてを認識し,識別し,正しく評価するまでには至っていないが,それはどんな場合であれ,我々が克服せねばならない力すべてを理解していないのと同じである。ただ,次のことは分かっている。時として希望がくじかれ,そのあと死が臨む場合もあるが,希望が保たれて起こり得ない事の起きる場合もある」。
絶望と恐れの有害な影響について,アメリカーナ百科事典はこう述べています。「精神的な不安が生ずると,特に病気があったり病の恐れのあったりする場合,もし正されないなら,しばしば極めて重大な結果を招く。恐れは,多くの人々に不安がられているどの疾患の最悪のものよりはるかに重大な影響を及ぼす。流行病の場合,それが引き起こす恐怖は,大抵,感染そのものと同じほど致命的である。それは,全身を麻痺させ,体からは神経のスタミナの自然の順応性を,頭の中からは元気を回復させる希望を奪い,年齢と体力からすれば助かる可能性の最も高かった人を犠牲者にしてしまう。恐れは精神的な毒薬であり,健康と医学の敵すべての中で,最も手ごわい」。
神とそのみ言葉の約束とに揺らぐことのない信仰を抱く人は,そうした破壊的な恐れに屈しないよう保護されます。そのような信仰を持つ人は,いかなる苦難もやがては終わるという事実に慰めを得ます。それが結局のところ死をもって終わるとしても,その人は恐れに圧倒されてしまうことはありません。死からの復活に関する神の約束がその人を元気づけるからです。そうした人は,苦難に耐えながら,忍耐してゆくための助けをエホバ神に請い求めます。そうすると,神の霊,つまり活動力は,必要とされる力を賦与します。それに加えて,病気の人は,次の聖書の約束の成就を,確信を持って待ち望みます。「[神]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:4。
この壮大な約束の生み出す希望は,病気や事故の結果として生じる大きな苦難に直面しても,明るい見方を保つよう人を助けることができます。末期的な脊椎ガンに襲われた,43歳のロバートの場合を例に取ってみましょう。医師は彼に,あと一週間ほどしか持たないだろうと告げました。しかし,四か月ほど後,その容態が重かったにもかかわらず,彼はエホバの証人の大会に出席するよう取り決めました。そして自分のベッドに横になりながらも,大会のプログラムの多くを聴くことができました。医師たちは,この人が上きげんでいられることをとても信じられないといった様子でした。ロバートは,『私は,エホバの約束してくださった新秩序の希望で命をつないでいるのです』と言ったものです。また,絶えず祈り,忍耐するための力を至高者に請い求めました。
この同じ約束は,優子という日本の若い婦人の生き方をも変化させました。31歳のとき,この人は膠原病にかかりました。これは,皮膚がこわばり,その結果体が硬直してちょうどミイラのようになり,それが広がるにつれて少しずつ死へ向かってゆく病気です。まず彼女の右手が硬直し,指が曲がってしまいました。その治療法は知られていないので,特に,自分の三人の子供の将来を考えると,優子はとても憂うつになりました。入院中に彼女は貧血症になり,口とあごの筋肉が硬くなって,もはや自由に話せなくなりました。それで,優子は流動食をとらねばなりませんでした。
ところが,聖書を研究するようになって以来,どんなことが起きたでしょうか。人が病気になったり,死んだりすることのなくなる,エホバの新秩序について学ぶのは,彼女に大きな慰めとなりました。優子はこう語っています。「私は初めて確かな希望を見いだしました。やがて私は,同じような境遇に置かれている他の人々に自分の信仰を表明したいという強い願いを抱くようになりました。それによって,他の人々もエホバのみ手にすべてをゆだねることを学ぶためです。私の貧血を心配して,医師は私が外出して,日光に身をさらすことを望みませんでした。しかし,私は自分の学んだ事柄をどうしても他の人に分かたなくてはならないと感じました。結果はどうでしたか。それ以上貧血の問題はなくなりました。外へ出て聖書について他の人々に語るようになった結果,食欲が出て,体重が増えました。また,口の筋肉も自由に動くようになったのです。私の健康状態が奇跡的に快方へ向かったのを診察して,医師は驚いてただ首を振るばかりで,一体何がそうした変化をもたらしたか計りかねていました」。
多発性硬化症に冒された一人の若者も,同様の変化を経験しました。この青年は半身不随になって,養護施設の個室で車イスに座って時を過ごしたものです。片手で自分の車イスを操り,前後左右に動くのがやっとでした。すっかり希望を失って,この若者は死を待つようになりました。ところが,エホバの証人の一人とある期間聖書を研究した後,この人は生きることにより深い関心を示すようになりました。彼は家具につかまって歩くことを幾度も試み,やがて,歩行器をかなり上手に使えるようになりました。この青年はそのまま養護施設に住み続けるかわりに,自分のアパートに引っ越し,自分で食事を準備し,部屋を掃除するようにさえなりました。死を待つかわりに,この若者は,病気のない世界に関する聖書の約束の成就を待ち望むようになりました。
このように,まさにわたしたちの時代に至るまで,聖書の音信は,お年寄りや虚弱者,そして事故や病気で苦しんでいる人々に,慰めと励ましを与えてきました。力を得るためにエホバ神に頼ることを学び,神の差し伸べてくださる希望を自らの希望にすることにより,そうした人々は大きな苦難に耐えてくることができました。これは,聖書が尽きることのない慰めの源であることを示す,実に優れた証拠ではありませんか。
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