-
エホバの御霊により活動的になりなさいものみの塔 1961 | 10月15日
-
-
彼らを動かしてきました。全世界179の国々や区域でエホバの証者が一致して伝道のわざをしていることについて,何人も誉をうけることができません。すばらしい聖書の真理が与えられることに何人も誉をうけることができません。神権制度についての決定,ものみの塔のギレアデ聖書学校の運営,御国宣教学校の取りきめ,世界の多くの場所で印刷工場を設置したり拡張したりすること ― これらのことや,もっと多くのことは,人間の考える能力や先見だけに頼っては,とうてい達成できないものです。数多くの法律上の大勝利によって,地上の真の崇拝は守られ,合法的に確立されました。それは実際にはエホバの勝利です。エホバの御霊はこのわざの全部を指示しました。エホバの民は,一般人のかたく信じている輸血に対しても独自の立場を取ります。たしかに,神の指導的な御霊がないなら,嘲笑や侮べつを耐え,そして誠実な心をいだく親族や尊敬をうけている専門家たちによる輸血勧誘の「助言」を拒絶することは不可能でしょう。神聖な血に対するそのようなかたい立場は,人間の考えや指導によるもではありません。すべてのさんびとほまれは,エホバの指導的な御霊にあたえられます。
19 神の御霊にそむく罪を犯すとはどういう意味ですかなぜこれはそんなにも危険ですか。
19 エホバの聖霊の他の表われは,犯罪者を排斥して処刑するときに示されます。たとえば,コラ,ダタン,アビラム,アカン,イスカリオテのユダ,アナニアそして,サッピラの場合です。後者の二人については,彼らは神の聖霊を『あざむいた』と聖書は述べています。したがって,神の御霊に対して罪を犯さぬよう細心の注意を払わねばなりません。イエスの時代のパリサイ人たちは神の奇跡を否定して,神の御霊に逆らう罪を犯しました。彼らは御霊の働きの明白な表われを拒絶したのです。人は,御霊の指示と助言に反対したり,反抗すべきでなく,むしろよろこんでそれに従うべきです。御霊の働きに逆らったり,御霊の指示に反対の生活をすることによって御霊をさまたげたり,制限したりしてはなりません。―民数記 16:1-35。ヨシュア 7:1-26。マタイ 27:3-10。使行 5:3。
20 どこにエホバの御霊の実を見出しますか。なぜそこで見出しますか。
20 「御霊の実は,愛,喜び,平和,寛容,慈愛,善意,忠実,柔和,自制であって……」とガラテヤ書 5章22,23節(新口)は述べています。今日そのようなよろこばしい実をどこに見出しますか。この世界の多数の社会の中に見出しますか。そのようなことはもちろんありません! そこにはくさっ実 ― 憎しみ,戦争,偏見,いつわり,盗み,不道徳その他が見られます。それに反して,エホバの証者の新しい世の社会はエホバの御霊の美しい実を産出しています。これは秘密なことではありません。この世の人々は,聖霊がこのように明白に示されているのを見ます。しかし,不思議に思えるかも知れませんが,彼らはこの一致した幸福な制度の一員になる気持をいだきません。エホバの目に見える制度の平和,調和そして一致に驚嘆する人々の中のある者は,驚嘆して目撃するものエホバの強烈なエネルギーによってのみ産出できるものに対して,実際に戦かっています。彼らは偽善的なパリサイ人と同じ類の者であって,神の御霊に対して罪を犯します。これはゆるすことのできない罪です。―マタイ 12:32。ヘブル 6:4-6; 10:26。
エホバの力によって共産主義を征服する
21,22 エホバの証者は,共産主義者の迫害に耐えるのに必要な力をどこから得ますか。どんな結果が得らますか。
21 神の御霊が御自分の民を活動させる別の証拠は,彼らが全体主義政府のたえまない迫害にも耐えることができたことです。迫害をうけるこれらのエホバの証者は,詩篇記者の言葉を借りてこう歌います,「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに,たとい地は変り,山は海の真中に移るとも,われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき,あわだつとも,そのさわぎによって山は震え動くとも,われらは恐れない」。―詩 46:1-3,新口。
22 神を認めぬ全体主義的な要素に対するこの戦いにおいて,エホバの民はその力の天的な源にたえず頼り,次のように言います,「神はわたしに力を帯びさせ……あなたは戦いのためにわたしに力を帯びさせ……」(詩 18:32,39。サムエル後 22:2,3,40)鉄のカーテンの背後にいるエホバの証者は,そのような備えを身につけているので,たとえ世界の他の場所にいる兄弟たちとの連絡が切りたたれても,その忍耐において,活力において,強烈な力において,無情な迫害者たちよりはるかにすぐれていると証明します。神より与えられた彼らのわざは,ますます進歩繁栄し,暴君的な独裁者たちを大いにあわてさせ,おどろかせています。
23 物事を深く考える人々は,エホバの忠実な証者たちを注意深く考慮して後,どんな結論にかならず達しますか。
23 すべての人の中でも,物事を良く考えるあなた方はエホバの証者を注意ぶかく観察して下さい。エホバの証者が,分裂をもたらすすべての国家的,人種的,社会的,および宗教的な障害をうちくずしたことに気をつけて下さい。彼らがひとつになって,一致して活動し,崇拝をささげていることに気をつけて下さい。彼らは全世界からひどい反対をうけて試練をうけているにもかかわらず忠実を保っていることに注意して下さい。彼らの制度が繁栄し,その数が増加しているのに気をつけて下さい。エホバの正義の御国にささげる彼らの燃えるような熱心と愛を見て下さい。このすべてを注意深く考えるとき,強力な見えざる力,すなわちエホバの聖霊がこの民をして活動させているということをたしかに知るでしょう。それは大きな世界的な規模において「御霊の一致」を表わすものです!―エペソ 4:3。
24 (イ)クリスチャンの力は,軍事力や人間の力から来るものでないなら,どこから来ますか。(ロ)どんな大切な理由の故に,神の奉仕者たちはエホバの与える力に依存しなければなりませんか。
24 さて,このすべてはエホバがずっと以前に言われた通りです,「万軍のヱホバのたまふ是は権勢に由ず能力に由ず我霊に由なり」このわけで使徒パウロは彼の力がエホバの力によると言明して次のように語りました,「わたしを強くして下さるかたによって,何事でもすることができる」。それで,エホバの僕は,自分自身の力や他の人の力に頼ってはならず,むしろ「奉仕する者は,神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは,すべてのことにおいてイエス・キリストによって,神があがめられるためである」。―ゼカリヤ 4:6。ピリピ 4:13。ペテロ前 4:11,新口。
25 エホバの御霊によって活動的にされるすべての者はいまどんなすばらしい幸福を十分に楽しみますか。
25 エホバの献身した僕たちは,あらゆることを行ないエホバを賛美してあがめます。それでエホバは彼らに多くの祝福を与えます。これらの祝福の中にはよろこびと幸福があります。聖書の言葉によると,「あなたがたは,多くの患難の中で,聖霊による喜びをもって御言を受けいれ……」ました。(テサロニケ前 1:6,新口)さらに次のように約束されています。「その力なんぢに……ある者はさいはいなり……かれらは力より力にすゝみ……」。このよろこびと幸福は,この世の「こっけいな人」によるうわべだけの楽しみではありません。むしろ,それは真実の深い,内面的な満足の感情です。たとえかびくさい刑務所内の防音室で無情に打ち叩かれて,苦痛のためほほに涙が流れ落ちようとも,満足感をおぼえさせます。それはエホバの心を幸福にさせる者たち,エホバの大いなる御名と聖なる御言葉の立証に参加する者たちにのぞむ幸福です。―詩 84:5,7。箴言 27:11。
-
-
「安息日の必要がない」ものみの塔 1961 | 10月15日
-
-
「安息日の必要がない」
西暦第2世紀に,ふたりのクリスチャンの著者は,安息日にかんして次のような興味深い意見を述べています,「モーセ以前には,安息日とか祭日はなかったし,律法によって供え物を捧げるということもなかった。それで,今も同じように,それらは必要でない。そのわけは,神の御子であるイエス・キリストが,神の確固とした御旨によって,アブラハムのすえとして,処女から罪を持たずに生まれたからである」。―ジャスティン・マーター(ダィアル・カム・トリフ・23より)
「アダムが安息日を守ったということ。あるいはアベルがその聖なる犠牲を神に捧げた時,安息日を守ることによって神を喜ばせたということ。または,うつされたエノクが安息日を守っていたということ。アブラハムは安息日を守っている時に,息子のイサクを捧げたというようなこと。あるいは,祭司だったメルキゼデクが安息日の律法を与えられたということ…このようなことがあったとしたら,私に示してもらいたい。われわれは,安息日とか,新月あるいは祭日とは,何ら関係がない。」― ターツリヤン(ド・マイドラリア,C4,C14より)
-