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    ものみの塔 1961 | 1月15日
    • 親切の力

      「あなたがたは,敵を愛し,人によくしてやり,また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく,あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は,恩を知らぬ者にも悪人にも,なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように,あなたがたも慈悲深い者となれ。」― ルカ 6:35,36,新口。

      1 なぜ,そしてどのように親切は力ですか。

      親切は力です。なぜなら,親切の源は最高の神エホバにあるからです。エホバは「あらゆる良い贈り物,あらゆる完全な賜物」の偉大な与え主です。最高の模範を示し給うエホバは,すべての者に「恩を知らぬ者にも悪人に」も親切を示します。クリスチャンは親切であることによって天の御父のようになれます。それで,親切は報いを与える力です。いと高き者の子になるとは,なんとすばらしい報いでしょう! イエスが言われたように,ほんとうに「受ける報いは大きい」でしょう。この言葉は,ずっと以前に述べられた親切の力についての神の規則を思い起させます。「いつくしみある者はおのれ自身に益を得…」。親切な人は,親切は与え放しになと考えるかも知れません。実際には天の父のようになりたいとのぞんで親切を愛して親切を行なう人に,それは報いとなって戻ってくるのです。―ヤコブ 1:17。ルカ 6:35。箴言 11:17,新口。

      2,3 (イ)親切についてのこの世の本は,どこに欠陥がありますか。どんな結果をもたらしますか。(ロ)親切を示す正しい動機何ですか。

      2 この世の本には,親切の報いについてのことがたくさん書かれています。行儀作法,礼儀魅力的な振舞などについての記事を書く人々や哲学者は,この親切の性質を賛めています。しかし,このような世俗の本に頼る人々は神の御霊の実をむすびません。高度にみがき上げられたうわべだけの礼儀正しさ,端正さは,しばしば神の御霊に全く反する心をおおっています。どこに欠陥があるのですか。暖かさと愛が欠けているのです。なぜならエホバとその御心が無視されているからです。

      3 親切についてのこの世的な論議の中で,エホバは度外視されています。それで,ある人々が自分の利を求めるために親切を用いるのも当然です。彼らは親切を示しますが,物や恩恵でお返しを受けることを希望します。彼らは,欲しいものを買うお金のように親切を用います。彼らの動機は悪いものです。クリスチャンが実際的な仕方で親切を示すとき,「お返しを当てに」しません。クリスチャンは,天の御父を愛する故に親切です。しばしば驚かされることですが,ある人を愛するとき,私たちは格別努力しなくても,その愛する人の良いくせや性質をまねようとします。それでは,愛の心から私たちはエホバ神の持ちたまうすばらしいいろいろな性質をぜひともつちかうようにすべきです。「神にならう者になれ」とは神からの命令です。神にならう者になってのみ,人は最高者の子であることを証明できます。親切はクリスチャンを助けて,天の父にならわせます。―エペソ 5:1。

      4 人は親切をどのように表わすかを説明しなさい。

      4 人はどのように親切を表わしますか。たくさんの仕方で表わします。すべての人に善を行なおうとすること,あわれみ深いこと,情け深いこと,慈悲深いこと,耐え忍ぶこと,親しみやすいこと,もてなしをすること,寛大であること,思いやりのあること,温和なこと,そして世話を見ることによって示します。親切は愛に根づいています。パウロは「愛は忍耐づよく親切である」と言いました。(コリント前 13:4)新世訳聖書は「愛は長く耐えしのび,世話を見ることである」と訳しています。親切は,友情や礼儀正しさ以上のもので,世話を見ることです。そうです,物質面でも霊的な面でも,特に努力を払って他の人を援助することです。

      神の要求

      5,6 親切を示すことがなぜ神の要求であるか,その理由を述べなさい。

      5 「愛ある御親切」という言葉があるとおり,親切は聖書中で愛と密接にむすびついています。これは愛を源とする親切で,しっかりした愛,忠節な愛であります。この愛ある親切を持つ人は聖霊を内に宿していることを示します。なぜなら,神の御霊の実は,「愛,喜び,平和,寛容,親切,善意,忠実,柔和,自制」であるからです。神の御霊は人を変化させて,真のクリスチャンに要求されている「新しい人格」を着させます,「あわれみの心,親切,謙そん,柔和,寛容を身に着けなさい」。それで,親切はクリスチャン愛をはっきり証明するものであると共に,神の要求でもあります。―ガラテヤ 5:22,23。コロサイ 3:12,新口

      6 エホバは,彼の是認を得たいとのぞむすべての者に愛ある親切を要求しています。そのことを示すあかしの言葉は聖書中にたくさんあります。「人よ彼さきに善事の何なるを汝に告げたりヱホバの汝に要めたまふ事は唯正義を行ひ憐憫を愛しへりくだりて汝の神とともに歩むことならずや」エホバが私たちに親切を愛せと要求していることは不思議ではありません。霊感をうけた筆者たちはしばしば神の愛ある御親切をほめたたえています。私たちは,天の御父の持たれるこの御性質を深く認識すべきであります!「神よなんぢの仁慈はたふときかな」。エホバがこの性質を人間に求めておられるのは当然です,「人の持つ願わしきことは,その愛ある親切である」。私たちは犠牲だけで神をよろこばすことはできません。エホバは,預言者ホセアを通して次のように言われています,「私は親切をよろこびて犠牲をよろこばず」。神に奉仕するクリスチャンは大きな犠牲を払うことでしょう。しかし,愛ある親切がないならそのクリスチャンは最高者の子と証明することはできません。エホバ神が愛ある親切をこの顕著な地位に置かれたということに,私たちは考えをめぐらさなければなりません。愛の動機と表われがないなら,その犠牲がどんなに大きなものであっても神からの報いを受けることはできません。「たといまた,わたしが自分の全財産を人に施しても,また,自分のからだを焼かれるために渡しても,もし愛がなければ,いっさいは無益である」。―ミカ 6:8。詩 36:7。箴言 19:22,新世。ホセア 6:6。コリント前 13:3,新口。

      7 天の御父は,人間の中に主として何を求めますか。

      7 エホバ神にとっては,人間の動機とその心の性質は,頭脳の力よりも大きな意味を持つものです。もしエホバが主として頭脳の力に興味を持っているなら,この世の賢人や知恵のある人々を選んで御国の良いたよりを全地に伝道させるという大きなわざをさせたことでしょう。しかし,エホバはこの世の高慢な者たちや賢明な者たちに御霊を注ぎませんでした。使徒はこう述べています,「人間的には,知恵のある者が多くはなく,権力のある者も多くはなく,身分の高い者も多くはいない。……それは,どんな人間でも,神のみまえに誇ることがないためである」。天の御父のようになろうとつとめる人は神に用いられ,その「受ける報いは大き」いでしょう。―コリント前 1:26-29,新口。

      8 親切を示すことは,毎日の生活にどんな報いをもたらしますか。

      8 いま親切を行なうなら,たくさん報いをうけます。親切は,私たちを助けて生活のあらゆる事がらで善を行なわせます。例えば,巧みさは親切に根づいていると認識するとき,より良く理解できるでしょう。親切なことをするなら,私たちは巧みなことをしています。礼儀についてのタルムッドのようなたくさんの規則は必要でなくなるでしょう。なぜなら,良い行儀の根本には親切があるからです! 礼儀正しさは,小さなことに親切であることと定義できます。丁重さは小さな事柄における親切です。親切は行いだけでなく言葉によっても表わされます。「どうぞ」という言葉を使用することは小事に見えるかも知れません。しかし,冷やかな礼儀を示さず,愛ある親切を示すとき,それは大きな意味を持ちます。アブラハム,ロト,そしてエホバが,形式的にその言葉を使用したなどとは考えられません。―創世 12:11-13; 19:1,2,18-20; 15:5; 22:1,2。

      9 親切はどのように人を援助して平和を追い求めさせますか。

      9 親切は,クリスチャンが平和を追い求めて一致を保つことを援助します。それで,それは力であります。親切は誤解を吹き飛ばし,互に許し合うようにします。考えを伝え合うことはむずかしい技術です。そしていつでも思ったとおり正確に考えを伝えるということはできません。誤解は起こるでしょう。このところで親切は私たちを援助して,平和を維持させます。忍耐して親切を示すなら正しい理解に達することは容易です。親切な人を許すことはやさしいことです。たとえ不親切な仕打をうけても,親切は不親切の針をにぶらせます。親切はすべての人を援助して使徒の次の助言に従わせます,「互に忍びあい,もし互に責むべきことがあれば,ゆるし合いなさい。……あなたがたもゆるし合いなさい」。―コロサイ 3:13,新口。

      10 どんな聖書的な原則を適用することによって,人は問題を解決することができますか。

      10 親切はいろいろな問題を解決します。クリスチャンは聖書にはっきり示されていない状態に直面するとき,その事がらを解決するための原則を探します。その原則は,エペソ書 4章32節に述べられています,「互に情深く……」。それで,『どうしようか』と人が質問するとき,なすべき行いは明白です,親切なことをしなさい。なぜなら親切なことは正しいことだからです。

      親切は弱いものではない

      11 親切についての間ちがった見解は何ですか。なぜ親切は弱いことではありませんか。

      11 人間の前と神の前の両方において善を行なう力になるためには,親切は弱いものであってはなりません。親切は,クリスチャン会衆内の悪行,あるいは悪い状態をゆるす甘いものであると考えるのは間ちがいです。クリスチャンの監督は,聖書的に悪いことをゆるすことができません。そのようにゆるすことは親切であるなどと信ずるのは間ちがいです。親切とは,悪に対して,あるいは神の御心と一致しないことに対して目を閉じることではありません。両親が子供たちに好き勝手なことをさせるなら,それは真実の親切ではありません。まちがった親切は,多くの青少年犯罪をひきおこしました。クリスチャン会衆の監督が,親切とはきぜんとした態度のないものと見なすなら,霊的な面で悪い結果が生ずるでしょう。真の親切は,きぜんとした態度をとって,神の目から見て正しいものを支持します。それは,神のいましめに従うことをすすめます。真の親切とは,敬意をなくして,他の者から不当につけこまれることではありません。主イエス・キリストは親切ときぜんとした態度を完全に合わせもった良い例となりました。

      12 イエス・キリストの親切については,どう言えますか。

      12 主イエスほどに親切な人がかつて存在したことがありますか。彼は天の御父に倣った者として,弟子たちに完全な模範を残しました。この世の王や支配者たちに近づけるというようなことは,ほとんど稀です。いつの場合でも,彼らはたいへんいそがしいのです。しかし,神の御子にはいつでも楽に近づくことができました。彼が忙しすぎて,物質的な面であるいは霊的な面の両方で,他の者を助けることができなかった,というようなことは一度もなかったのです。彼はなんというあわれみの心を示したのでしょう! 群衆を見て「(彼は)群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れているのをごらんになって,彼らを深くあわれまれた」。あらゆる階級の人々が,イエスに気やすく近づくことができました。両親は子供たちをイエスのもとにつれて来ることをためらいませんでした。「イエスにさわっていただくために,人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り,彼らに言われた,『幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。神の国はこのような者の国である』。そして彼らを抱き,手をその上において祝福された」。イエスはあらゆる面で親切でした。しかし,きぜんとした態度をとって正しいことを守りました。―マタイ 9:36。マルコ 10:13,14,16,新口。

      13 偽善的な宗教指導者たちをばくろし,ペテロを叱られたイエスは,なぜ不親切ではありませんでしたか。

      13 ある人々は,イエスが偽善的な宗教指導者たちをばくろして,非難しているマタイ伝 23章を読むと,主イエスは親切な者でないと考えるでしょう。実際には宗教指導者たちの方が不親切な者でした。彼らは御子を通して示された神の過分の御親切をはねつけたのです。イエスは次のように言われました,「ああ,エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど,めんどりが翼の下にそのひなを集めるように,わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに,おまえたちは応じようとしなかった」。神の愛ある御親切は拒絶されました! イエスはきぜんとした態度を取って,神の御心を行ないました。それで,彼は偽善的な宗教家たちを叱っただけでなく,自分の弟子たちをも叱ったのです。弟子たちを叱らないなら,それは不親切なことになったでしょう。イエスは「多くの苦しみを受け,殺され」ると弟子たちに「あからさまに」告げたとき,ペテロは反対しました,「ペテロはイエスをわきへ引き寄せて,いさめはじめ,『主よ,とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません』と言った」。しかし,イエスはこう答えられたのです,「サタンよ,引きさがれ,わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで,人のことを思っている」。イエスは不親切であったのではありません。真の親切は,神の御こころを行なわせるように人を励ますゆえ,力であります。エホバの御心と一致しないことを行なう者あるいはそうするように励ます者は,決して親切ではありません。イエスは力のある仕方で神のみこころを述べました。しかも,このペテロが強い反対の言葉を述べたにもかかわらず,そうされたのです。これらの者たちは,強いしかりを受けるにふさわしい者たちでした。―マタイ 23:37。マルコ 8:31,32。マタ 16:22,23,新口。

      14 パウロは,ときおり何を与えることが必要であると見出しましたか。なぜ実際にはこれは親切でしたか。

      14 使徒パウロも叱責を与えないことは悪いことであり,不親切なことであるとき,強い叱責の言葉を語りました。パウロは,コリント人に宛てて次のように書きました,「ある人々は,わたしがあなたがたの所に来ることはあるまいとみて,高ぶっているということである。しかしエホバのみこころであれば,わたしはすぐにでもあなたがたの所に行って,高ぶっている者たちの言葉ではなく,その力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく,力である。あなたがたは,どちらを望むのか。わたしがむちをもって,あなたがたの所に行くことか。それとも,愛と柔和な心とをもって行くことであるか」。高ぶってごうまんな者たち,そして平和をみだす者たちに対して,パウロは「私は親切な振舞をして彼らに思い通りのことをさせよう」などという態度を取りませんでした。パウロは勇気のある態度を示し,自分の口のむちを用いて,正しいこらしめを与えました。このことは,そのことに関係した各人とグリスチャン会衆の両方に益のある結果をもたらしたでしょう。こらしめの結果から,こらしめが親切であることは分かります。エホバ御自身は,御自分の御子になるすべての者をこらしめることをさしひかえません。「神はあなたがたを,子として取り扱っておられるのである。いったい,父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が,あなたがたに与えられないとすれば,それこそ,あなたがたは私生子であって,ほんとうの子ではない。その上,肉親の父はわたしたちを訓練するのに,なお彼をうやまうとすれば,なおさら,わたしたちは,たましいの父に服従して,真に生きるべきではないか。すべての訓練は,当座は,喜ばしいものとは思われず,むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば,それによって鍛えられる者に平安な義の実を結ばせるようになる」。―コリント前 4:18-21。ヘブル 12:7-9,11,新口。

      15 監督は,どのように神の群れを正しく取り扱いますか。彼は非行者をどのように取り扱いますか。

      15 今日のクリスチャン監督は,愛と柔和な精神をもって神の群れを取りあつかいます。しかし,このことは会衆の清さと平和をそこなう者たちに対してきぜんとした取扱いをする際の妨げになりません。監督は親切な仕方で非行者をとり扱います。しかし,なんらの改善もないなら,監督は強い言葉を用いねばならないでしょう。非行者が不正を行いつづけるなら,監督は強い叱責の仕方で語らねばならないでしょう。イエスとパウロが他の者たちを叱ったとき,彼らはかんしゃくを起こすようなことをせず,また神のしもべに似合わない仕方で語るようなことをしませんでした。それで今日の監督も,きぜんとした態度を取ると共に,親切であります。使徒パウロは,テモテに手紙を書いて次のように述べました,「監督たる者は,神に仕える者として,責められる点がなく,わがままでなく,軽々しく怒らず……旅人をもてなし,善を愛し,慎み深く,正しく,愛ある親切を持つ者……」。クリスチャン会衆の幸福と霊的な健康は,監督の持つ愛ある親切に大きく依存しています。―テトス 1:7,8,新世。

      16 (イ)パウロは神の群れをどのように取り扱いましたか。親切の示し方について,パウロはどんな助言を監督に与えましたか。(ロ)監督は,年老いた者や病気の者を,どのように正しく取り扱いますか。

      16 使徒パウロは,会衆内で愛ある親切を示す仕方について多くのことを述べました。パウロ自身も,すべての監督たちに対してすばらしい模範を残しました。彼はテサロニケ人に宛てて次のような言葉を書き送っています,「あなたがたの間で,ちょうど母がその子供を育てるように,やさしくふるまった。あなたがたもあかしし,神もあかしして下さるように,わたしたちはあなたがた信者の前で愛ある親切な振舞をし,正しく,責められるところがないように,生活をしたのである」。会衆内の各人に親切を示す仕方について指示を与えたパウロは,監督であるテモテにこう書き送りました,「老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように,話してあげなさい。若い男には兄弟に対するように,年とった女には母親に対するように,若い女には,真に純潔な思いをもって,姉妹に対するように,勧告しなさい。やもめについては,真にたよりのないやもめたちを,よくしてあげなさい」。真実の愛が存在する家族内では,各人は思いやりと親切をもってめいめいを取りあつかいます。クリスチャン会衆もそうでなければなりません。監督はある者は自分の父であるように,ある者は自分の母であるように,ある者は自分の実の兄弟,実の姉妹のように,尊敬と親切を示さねばなりません。このことを行なう監督は,また病気の者や虚弱の者を親切に取りあつかう仕方を知ります。そのような者たちは,クリスチャン奉仕において自分の望むとおりをすることができないでしょう。それらの人々は,自分の力の許せる範囲だけ奉仕することができます。監督は,そのような者が神の真理に不忠実であるかのように取りあつかうべきでありません。それらの人々を励ますべきであって失望させるべきではありません。それで,親切な監督は,「あわれみ深い」者で,他の人々の限界を理解しようとつとめます。監督は自分自身の愛ある親切により,すべての人を励まして神の御国の良いたよりを宣べ伝えさせます。「あなたがたの父なる神が慈悲深いように,あなたがたも慈悲深い者となれ」と主イエスは言われました。監督は年をとった者たちや病弱な者たちが持つ問題を理解しようとつとめ,またでき得るかぎりの援助を与えることによって,慈悲と愛ある親切を示します。―テサロニケ前 2:7,10。テモテ前 5:1-3。エペソ 4:32。ルカ 6:36,新口。

      親切の引きつける力

      17 エホバの愛ある御親切に対する正しい応答は何ですか。

      17 親切はひきつけますが,不親切ははねつけます。人がエホバにひきよせられるのは,まったくエホバの愛ある御親切によるのです!「そのあはれみはとこしへに絶ゆることなければなり」という保証の言葉は,詩篇 136篇の各節に出ています。それで,霊感をうけた御言葉を読んで,エホバの御親切な性質と罪をゆるし給う御親切な取極めを学ぶとき,人は御子を通してエホバにひかれます。そのような親切は,パウロがロマ書 2章4節(新口)で示しているように,人を悔い改めさせ,この世的な道からはなれさせます,「神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで,その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか」。親切はそのような引きつける力を持っています。それで,クリスチャンは天におられる御父のようになろうと熱心に,熱烈に,そしてぜひとも願い求めねばなりません。それは,そのクリスチャンの親切によって他の者たちをエホバ神の崇拝にひきつけるためです。

      18 親切の力と不親切の力を比較対照しなさい。それでは,クリスチャンの妻は,どのように不信者の配偶者を神の真理に救い入れることができますか。

      18 不信者の夫を持つクリスチャンの妻は,その思いやりと親切によって結婚配偶者を神の真理にひきよせることができるでしょう。彼女は自分の夫に真理を強制しようとつとめません。彼女はペテロの述べた神の御心を知っているからです,「同じように,妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば,たとい御言に従わない夫であっても,あなたがたのうやうやしく清い行いを見て,その妻の無言の行いによって,救に入れられるようになるであろう」。妻はかつて夫のかしらの地位に尊敬を払わなかったかも知れません。彼女はかつてはせんさくがましく,自分のことだけを要求し,あらゆる場合に,小言をいい,夫の欠点を見出していたかも知れません。彼女は霊感をうけた箴言の次の言葉を知らなかったかも知れません,「妻の争うのは,雨漏りの絶えないのとひとしい」。「争い怒る女と共におるよりは,荒野に住むほうがましだ」。彼女は,オーストラリアの医者フィリップ・ライ博士がこれらの聖句について述べた注解を読まなかったかも知れません。ライ博士は,極地探険に12年の経験を持っている人です。1959年11月24日のニューヨーク・タイムス紙は,彼の演説について次のように報告しました,「がみがみ小言を言う妻,とうていやって行けない結婚,『隣近所の人と張り合うこと』からの疲れは,なぜ男共が南極の凍結地に行って生活するようになった原因であると,今日報告された」。不親切は人々をはねつけます。まったくのところ,ある人々を南極の「荒地」にまで行かせてしまうように見えます! 親切の働きは,ちがいます! 親切は非常に大きなひきつける力を持っています。「神の御意にしたがい,まことの義と愛にみちた親切のうちにつくられる新しい人格をつける」妻は,「無言の行い」によって夫を神の真理に入れることができるでしょう。それこそ親切の力です!―ペテロ前 3:1,2。箴言 19:13; 21:19。エペソ 4:24,新口。

      19 クリスチャンの婦人が,真の魅力をどのように得るかを説明しなさい。

      19 クリスチャンの婦人にあてて告げた使徒の助言は,人をひきつける魅力の基礎が何であるかを示しています。ある国々では,娘はいわゆる魅力的<チャーミング>になるための学校に送られて,魅力的になる仕方を学びます。その結果? しばしばこの世的に魅惑的なものができます。この世的な意味で洗練され魅惑的になることは,この古い世の標準に従う人々をあざむくかも知れません。しかし,霊的な分別を持つ人々は,あざむかれないでしょう。心の性質 ― 無私,認識,親切,あわれみ,温和 ― は真の魅力の基礎である,と彼らは知っています。「あなたがたは,髪を編み,金の飾りつけ,服装をととのえるような外面の飾りではなく,かくれた内なる人,柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾りを身につけるべきである。これこそ,神のみまえに,きわめて尊いものである」。それは,人間のまえでも尊いものです。クリスチャンの婦人は,御霊の実をつちかうことにより,この世的に魅惑的になることやエチケットからは得られない魅力を持つことができます。つまり,神の御心を第一にして,つねに天の御父のごとくなろうとつとめることです。―ペテロ前 3:3,4,新口。

      20 親切の力のむくいは何ですか。

      20 親切は報いを与える力です。それは神の御霊の実であり,「新しい人格」の一部です。それは神の要求であって,問題の解決を助けます。それは,巧みさ,良い行儀,そして真実の魅力の中心にある力です。それは誤解をなくします。それは,他の者を容易に許します。それは毅然として正しいことを支持します。それはクリチャンを援助して平和を求めさせ,他の人々をエホバとその真理にひきつけます。それは,私たちが「神にならう者になりなさい」という命令に従うことを助けます。この理由のゆえに私たちが善とあわれみと親切を追い求めるなら,イエスの言われた通りになるでしょう,「受ける報いは大きく,あなたがたはいと高き者の子となるであろう」。―エペソ 5:1 ルカ 6:35,新口。

  • 凡ての人に親切を示す
    ものみの塔 1961 | 1月15日
    • 凡ての人に親切を示す

      1 愛ある親切が欠けていることは,この世と人々にどんな影響を及ぼしますか。

      大ぜいの人々は愛ある親切を持っていないため,この世は冷い,もてなしをしない世です。この世では,見なれぬ人々は冷やかな疑惑の目で見られます。心配は親切に冷い影響を与えました。また,大ぜいの人々は,金を愛するために愛ある親切を抑圧しました。親切は経済的な利益を妨害するものと見なされているため,しばしば親切の代りに不法が行なわれます。それで,頭がずば抜けて良くても親切があるということにはなりません。レーダーの主要な発明家であるロバート・ワットソン・ワット卿は,この事実を観察して,次のように語りました,「頭がたいへん良く,その技術にかけては天才である人々から,私の仕事は多くの害をうけた。彼らは人間になることの教育をうけなかった」。頭が良くても,愛ある親切がないなら人は「愛ある御親切に富まれる」エホバ神に似ず,むしろ「ほえたける」ししのように食いつくすべきものを求めて歩き回っている」サタン悪魔に似ます。たしかに,「終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者……無情な者……となるであろう」。―ヨナ 4:2,ア標。ペテロ前 5:8。テモテ後 3:1,2,新口。

      2 (イ)「神の子」と「悪魔の子」とを対照し,それぞれの結ぶ実を示しなさい。(ロ)「神の子」は,自分の関心事やクリスチャンの関心事を進歩させるために,不親切を用いても良いですか。

      2 クリスチャンは最高者の子であることを証明し,「悪魔の子」なることを証明してはなりません。それでは「無情な」この世で,どのように生活しなければなりませんか。この悪い世が転びまわっている不親切の泥の中に,クリスチャンは落ちこんでも良いですか。仕事で出世したり,個人的な関心事やクリスチャンの関心事を有利なものにするため,不親切にしてもよいですか。してはなりません。使徒ヨハネが示すように,最高者の子なることを証明したいなら,不親切であってはなりません。「神の子と悪魔の子との区別は,これによって明らかである。すなわち,すべて義を行わない者は神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も,同様である」。「神の子」は,「悪魔の子」の不親切な行いを採用することができません。神の子は,「不従順の子」のように,くさった実を結ぶことができません。しかし,彼らは「光の子らしく歩きなさい ― 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである」。「光の子」は,個人的な関心事やエホバの関心事を進歩させるために,不親切を用いることはできません。彼らは「あらゆる善」を用います,それで,親切であるか,あるいは親切でないかによって,私たちは誰の子であるかを示します。―使行 13:10。ヨハネ第一書 3:10。エペソ 5:6,8,9,新口。

      3,4 クリスチャンは,自分が神の奉仕者であることをどのようにすいせんしますか。

      3 親切は私たちが神にならっている者であるか否かを他の者に告げます。それは,人をすいせんする力を持っています。このことは,この世からも認められています。ひとりの有名な人は,鉄道の駅のところで年老いた婦人のために親切にも旅行かばんを運んであげました。それを見ていたひとりの人は,次のように言いました,「私は,はじめて説教が実行されているのを見た。」あらゆる人々のうちで,クリスチャンは説教を実行する者でなければなりません。彼らの毎日の言行は,彼らが神の奉仕者であることをすいせんすべきです。「この務がそしりを招かないために,わたしたちはどんな事にも,人につまずきを与えないようにし,かえって,あらゆる場合に,神の僕として,自分を人々にあらわしている,すなわち,極度の忍苦にも,……真実と知識と寛容と,慈愛……とにより」と使徒パウロは書きました。―コリント後 6:3-6,新口。

      4 それで親切は,神の真の奉仕者たちがつねに自分自身を表わし,「光の子であることを他の人々に証明する「あらゆる仕方」の一部であります。すると,こういうことになります,彼らは「責められるところのない純真な者となり,曲った邪悪な時代のただ中にあって,傷のない神の子となる……彼らの間で星のようにこの世に輝」かねばなりません。クリスチャンは,聖書の真理の光において,また道徳的な行動においても輝かねばなりません。彼らは,「無情な」この悪い世において,二つの面で星のように明るく輝きます。―ピリピ 2:15,新口。

      5 イエスは,すべての人に親切を示す重要性を,どのように強調しましたか。

      5 もしクリスチャンが神の奉仕者であることを表わしたいなら,すべての人に親切をよろこんで示さねばなりません。すべての人の中には,クリスチャン兄弟たち,見知らぬ者,「恩を知らぬ者,悪人」そして敵さえも入っているのです。主イエスは次のように言われました,「敵を愛し,迫害する者のために祈れ。こうして,天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は,悪い者の上にも良い者の上にも,太陽をのぼらせ,正しい者にも正しくない者にも,雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて,なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつしたからとて,なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」。―ルカ。6:35。マタイ 5:44-48,新口。

      見知らぬ者に親切を示すことは責任

      6 パウロは,すべての人に親切を示すことを,どのように強調しましたか。

      6 神の御子が力づよく説明したように,すべての人に親切を示すことは,クリスチャンの責任です。イエス・キリストの使徒は,この責任につねに留意するよう私たちにさとしています。パウロは次のように書きました,「兄弟愛を保ち続けなさい。見知らぬ者をもてなすことを忘れてはならない。このようにして,ある人々は気づかないで御使たちをもてなした」。アブラハム,ロトそしてマノアは,すべての人に親切であったため,なんとすばらしい報いをうけたのでしょう! 彼らは御使たちをもてなして,最高者から祝福をいただきました。なぜなら彼らは「見知らぬ者に親切を示す」ことを忘れなかったからです。―ヘブル 13:1-2。創世 18:1-10; 19:1-29,新世。士師 13:8-20。

      7 今日クリスチャンは,見知らぬ者に親切をどのように示しますか。なぜ,このことをする彼らは幸福ですか。

      7 今日クリスチャンは,見知らぬ者に親切をどう示すことができますか。イエス・キリストの模範に従うことによります。彼はすべての人に親切を示しました。そして,彼がこのことをした最重要な仕方は,他の者を霊的な食物,「天の御国についての真理を食するように招待したことです。神の御国の関心事を拡大するため,イエスはあらゆる面で親切を示しました。彼はその宣教の最初から,見知らぬ者にもてなしを示し,彼らを霊的に助けようとしました。洗礼者ヨハネがイエスを自分の二人の弟子に紹介したとき,彼らはイエスに従って,こう尋ねました,「どこにおとまりなのですか」。イエスは,「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」と答えました。「そこで彼らはついて行って,イエスの泊っておられる所を見た。そして,その日はイエスのところに泊まった。」それで,イエスの泊まっていた所でもてなしはなされました。イエスはその所を用いて,他の人々が神の御国のことを学ぶ助けにしました。しかし,イエスは主として他の人々の家に行きました。人々の施しを願い求めることでなく,与えるためでした。イエスは見知らぬ人々の家に行き,天の御国について教えることにより親切を示したのです。それで今日のクリスチャンも自分の家を快いところ,もてなしのところにするだけでなく,見知らぬ人々の家々にもよろこんで出かけます。それは,主イエスがあらかじめに告げた大きな伝道のわざに参加するためです。「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。今日この大きな伝道と教えるわざは,エホバの証者により全世界にわたって行なわれています。それに参加する人々は,なんと幸福なのでしょう! それで,いま見知らぬ者に親切を示すことは,幸福をもたらします。使徒パウロは,次のように書きました,「あなたがたもこのように働いて,弱い者を助けなければならないこと,また『受けるよりは与える方が,さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべき……である。」― ヨハネ 1:35-39。マタイ 24:14。使行 20:35,新口。

      8 なぜ,ある人々は見知らぬ者に親切を示すことに気乗りしませんか。しかし,正しい態度は何ですか。

      8 今日の多数の家の人は,愛ある親切を持っていません。それで,あるクリスチャンはイエスと使徒たちが行なったように御国の音信をたずさえて人々の家に行くことに気乗りしません。一般の人々の感謝のない態度および不親切さのため,霊的なものをもたらすのはむずかし過ぎるとその人々は感ずるかも知れません。しかし,クリスチャンが心から真実に親切であるなら,たとえ見知らぬ人の大多数は感謝の気持を示さなくても,その霊的な善を分け合うことをためらわないでしょう。エホバ神は感謝の念を持たない者や悪人に対しても親切ではありませんか。エホバ神は御子をこの世に遣わすことにより,すべての人に愛ある御親切を示しました。「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである」。それは神の過分の御親切です。クリスチャンは神の御国や他の良いわざを伝道しますが,完全ではありません。彼は働いて救を得ることはできません。それでエホバは私たちを親切に扱います。私たちは神の親切に励まされて,神のようになるべきです! 「わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき,わたしたちの行った義のわざによってではなく,ただ神のあわれみによって……わたしたちは救われたのである」。エホバは,このように愛にみちた模範を示されています。それで,最高者の子になりたいと願うクリスチャンは,見知らぬ人々に親切を示すことをさしひかえないでしょう。ヨハネ 3:16。テトス 3:4-6,新口。

      9 見知らぬ者と御国の良いたよりを分け合うことは,なぜ重要ですか。家の人が無愛想なことは,神の奉仕者を気落ちさせますか。

      9 人は神の恵みをいただいて,しかも見知らぬ人々に親切を示そうとしない,つまり御国の良いたよりをもたらそうとしないなら,その人は天の御父のようではないと示しています。かえって悪魔ののぞむとおりの者,そしてエホバののぞまれない者になり,見知らぬ者に不親切な態度をとります。見知らぬ者に親切であることは,クリスチャンに対する神のみこころです。それで,神の奉仕者はよろこんで見知らぬ人々を訪問して,時には戸ののぞき穴を通して語らねばならなくても,神の御国について告げます。家の人が無愛想であっても,神の奉仕者は気落ちしません。彼は善を行なうことにうみつかれません。「わたしたちは,善を行うことに,うみ疲れてはならない」。―ガラテヤ 6:9,新口。

      10 クリスチャンは,その敵や迫害者に対して,どのように親切を示しますか。この行いからどんな益を受けますか。

      10 不親切に対しどのように答え応ずるかによって,見知らぬ人に対するクリスチャンの親切と愛はためされます。クリスチャンは不親切な仕打をうけるとき,「争ってはならない。だれに対しても親切であって,よく教え,よく忍び,反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は,彼らに悔改めの心を与えて,真理を知らせ……るであろう」。(テモテ後 2:24-26,新口)クリスチャン奉仕者は,親切によって敵意を解消します。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して,のろってはならない。むしろ,『もしあなたの敵が飢えるなら,彼に食わせかわくなら彼に飲ませなさい。そうすることによって,あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって,善をもって悪に勝ちなさい」。(ロマ 12:14,20,21,新口)またつぎのように書かれています,「はずかしめられては祝福し,迫害されては耐え忍び,ののしられては優しい言葉をかけている。」(コリント前 4:12,13,新口)クリスチャンはののしられてもののしり返しません。彼は祝福します。迫害をうけたとき彼は不親切な仕打の下に耐え忍びます。そして気落ちすることはありません。刑務所につとめている人や,牢獄の警備員たちは,クリスチャンたちが「迫害する者を祝福する」ため,真理を知るにいたりました。―使行 16:25-34。

      兄弟たちに親切を示す

      11 ガイオは,親切を示すことについてどんな模範を残しましたか。

      11 クリスチャンには,見知らぬ人や迫害をする者だけでなく,個人的に知っていないクリスチャン兄弟たちにも親切を示す特権があります。使徒ヨハネは,愛する友ガイオに次のような手紙を書き送りました,「愛する者よ。あなたが,兄弟たち,しかも見知らぬ者につくしていることは,みな真実なわざである。彼らは諸会衆であなたの愛についてあかしをした。それらの人々を,神のみこころにかなうように送り出してくれたら,それは願わしいことである,彼らは御名のために旅立った者であって,異邦人からは何も受けていない。それだから,わたしたちは,真理のための同労者となるように,こういう人々をねんごろに迎えねばならない。愛する者よ。悪にならわないで,善にならいなさい。善を行う者は神から出た者である」。それで,神の真理を他の人に伝道したり,教えたりすることも親切ですが,ガイオのしたごとく,もてなしと親切を示すことも親切です。彼は「真実なわざ」をしていました。そしてヨハネは彼のことをたいへん良くほめたのです。彼の親切をうけた人々は,「見知らぬ者たち」でした。そのような親切を示すことは,時折り経済的な負担となります。しかし,ガイオは自分のもてなしの行いにけちけちしなかったのです。ガイオの親切は,たくさんの祝福をもたらしました。彼は使徒ヨハネから心あたたまるその手紙をもらっただけでなく,彼の家はコリント会衆の集会所として用いられ,また使徒パウロをもてなしたという特権にめぐまれました。「ガイオは私の泊った家の主人であり全会衆の集まるところの主人……」。親切と愛に富んでいたガイオは言葉で表わせぬ祝福をいただきました。彼の親切をあかしするものは,永遠につづく神の御言葉の内にしるされています。―ヨハネ第三書 5-8,11。ロマ 16:23,新世。

      12,13 ピレモンとオネシポロの示した愛について,何と言われていますか。

      12 クリスチャン兄弟たちに親切を示すことに良い模範を残した別の人はピレモンでした。パウロはピレモンに手紙を送って,次のように語りました,「わたしは,祈の時にあなたをおぼえて,いつもわたしの神に感謝している。それは,主イエスに対し,また,すべての聖徒に対するあなたの愛と信仰とについて,聞いているからである。兄弟よ。わたしは,あなたの愛によって多くの喜びと慰めとを与えられた。聖徒たちの心が,あなたによって力づけられたからである」。聖徒たちを力づけるためにピレモンが何をしたかは分かりません。しかし,なんらかの形で親切があらわされたのです。ピレモンの愛にたいして,パウロは祈りの中にエホバに感謝しました。―ピレモン 4,5,7,新口。

      13 オネシポロも,思慮深い親切によって使徒の心を広く開きました。ローマでオネシポロはたいへんな努力を払ってパウロを探し求めて尋ね出し,使徒に食物を持ってきました。パウロは,オネシポロの親切に対して,しばしばエホバに感謝したのです。「どうか,主がかの日に,エホバからのあわれみを彼に賜わるように。彼がエペソで,どれほどわたしに仕えてくれたかは,だれよりもあなたがよく知っている」。―テモテ後 1:16-18,新世。

      14,15 なぜオネシポロ,ピレモン,そしてガイオは,クリスチャンの良い模範でしたか。ピリピ人も,クリスチャンの精神をどのように示しましたか。

      14 オネシポロ,ピレモン,そしてガイオは,親切を示すことに抜け目なく,たいへん思慮深いクリスチャンたちでした。彼らは機会をみすみすのがすようなことをしませんでした。また自分の個人的な利害だけを考えて,他の人々の必要物については考えをめぐらさない,というようなことをしませんでした。このことからピリピ人のことが思い起こされます。ピリピ人に宛てた愛のこもった手紙によって,私たちはパウロとピリピ人の会衆の間に存在した親しい思いやりのあるきずなを学びます。ほんとうにパウロが手紙を書いた理由のひとつは,ピリピ人の親切に対するパウロの感謝を示すことでした。ピリピ人たちはしばしば物質的な援助や,慰めと励ます言葉によって,パウロに実際的な思いやりと親切を示したのです。パウロがテサロニケにいたとき,彼らはパウロに二度も贈り物をしました。そして,使徒がローマに捕われていたとき,彼らはエパフロデトを彼のともに送って愛を伝えました。パウロは次のような手紙を持たせてエパフロデトを送り返しました。その手紙からピリピ人のことはパウロの祈りの中にしばしば言われていたことが分かります。

      15 「わたしはあなたがたを思うたびごとに,わたしの神に感謝し,あなたがた一同のために祈るとき,いつも喜びをもって祈り,……わたしが,あなたがた一同のために,そう考えるのは当然である。……あなたがたをみな……わたしの心に深く留めているからである。」「ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり,わたしが福音を伝道し始めたころ,マケドニヤから出かけて行った時,物のやりとりをしてわたしの働きに参加した会衆は,あなたがたのほかには全くなかった。またテサロニケでも,一再ならず,物を送ってわたしの欠乏を補ってくれた。……わたしは,すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから,あなたがたの贈り物をいただいて,飽き足りている。それは,かんばしいかおりであり,神の喜んで受けて下さる供え物である。わたしの神は,ご自身の栄光の富の中から,あなたがたのいっさいの必要を,キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」。―ピリピ 1:3,4,7; 4:15,16,18,19,新世。

      16 すべての人に示す親切に対して,誰が私たちに支払う責任を取りますか。

      16 ピリピ人は,この親切の報いをうけるであろうとパウロは示しています。神は「いっさいの必要」を満たすでしょう。私たちが見知らぬ者やクリスチャン兄弟に対して親切を行なうなら,エホバ神はその親切に対して報いを与える責任を取られます。エホバ神の御言葉は,私たちにこのことを保証しています,「身分の低い者にめぐみを示す者は,エホバに貸す者である。エホバはその行いに対して支払われるであろう」。「あなたのパンを水の上に投げよ。多くの日の後,あなたはそれを得るからである」。「あなたがたが知っているとおり,だれでも良いことを行なえば……それに相当する報いをそれぞれエホバから受けるであろう」。―箴言 19:17。伝道の書 11:1。エペソ 6:8,新世。

      親切を示すことに対する報い

      17,18 ドルカスの示した親切の故に,どんな予期しない祝福が来ましたか。

      17 私たちのまくものがどんなものでも,それは私たちに返ってきます。私たちが親切をまくなら,それは私たちに返ってきます。「多くの日の後,あなたはそれを得る」。すべての人に親切を示すクリスチャンたちには予期していない祝福が来ます。たとえば,ドルカスのことを考えてごらんなさい。彼女は「数々のよい働きや施しをしていた婦人であった。ところが,そのころ病気になって死んだ」。ドルカスの死んだ町ヨッパにいた弟子たちは,使徒ペテロが近くの町ルダにいると聞きました。彼らはふたりの人をペテロのところにつかわして,次のように頼みました,「どうぞ,早くこちらにおいで下さい」。ペテロがヨッパにつくと「屋上の間に案内された。すると,やもめたちがみんな彼のそばに寄ってきて,ドルカスが生前つくった下着や上着の数々を,泣きながら見せるのであった」。その光景を思いうかべることができます。一群れのやもめたちが,親しい友であるこの姉妹を失なったことに涙を流しながら悲しみ,ドルカスの愛と親切をあかしするものを示し,そのめいめいは自分たちに示された親切について使徒に告げました。私たちはその結果を知っています。ペテロはみなを外に出してからエホバに祈りました,「彼女は目をあけペテロを見て起きなおった。ペテロは彼女に手をかして立たせた。それから,聖徒たちややもめたちを呼び入れて,彼女が生きかえっているのを見せた」。―使行 9:36-41,新口。

      18 予期していなかったなんとすばらしい祝福だったのでしょう! 死人のなかからよみがえらされたのです。これは使徒の一人が始めて行なった復活の奇跡であると記録されています。その結果をもたらした状態は,親切に根づいていたのです。ドルカスが愛ある親切に富んでいなくてもこのような奇跡はおこる,などと言える人はひとりもいないでしょう! ドルカスとやもめたちが祝福をうけただけでなく,この出来事は真理についてあかしをすることになり,「多くの人々が主を信じた」。―使行 9:42,新口。

      19 人情のない,残酷な人についての神の規則は何ですか。このことはどのように例示されていますか。

      19 すべての人に親切を示そうとしない人々は,たくさんの祝福を夫ないます。たしかに「いつくしみある者はおのれ自身に益を得,残忍な者はおのれの身をそこなう」。(箴言 11:17,新口)それは神の規則です。そのことを良く表わし示す例は,アビガイルとナバルです。アビガイルは「賢くて美しかったが,その夫は剛情で,粗暴であった」。ダビデはかつてナバルに親切を示したことがあり,ある日人々をナバルのもとにつかわして,すこしの食物を求めさせました,「どうぞ,あなたの手もとにあるものを,贈り物として,しもべどもとあなたの子ダビデにください」。残酷でけちなナバルは「その使者たちをののしった」のです。ダビデはこのことに怒りを感じ,つるぎを帯びて,彼と家来たちは不親切な行いを示したナバルに返報しようと決心しました。ナバルの妻アビガイルはダビデに取りなしを願い,「パン二百,ぶどう酒の皮袋二つ,調理した羊五頭,いり麦五セア,ほしぶどう百ふさ,ほしいちじくのかたまり二百」をダビデにささげました。アビガイルは,親切心とかしこさを表わした熱烈な願いの言葉を述べて流血の惨事を引きおこすことをダビデに思い止まらせました。一方ナバルは「ヱホバ,ナバルを撃ち給ひければ死ねり」。ダビデは,ナバルが分相応の仕打をエホバからうけた,と知りました。「ダビデ,ナバルの死にたるを聞きていひけるはヱホバはほむべきかなヱホバ我かうむりたる恥の訟をただしてナバルにむくい……そはヱホバ ナバルの悪をその首に帰したまへばなり」。親切で利口なアビガイルは,予期しない祝福をうけました,「ダビデはアビガイルを妻にめとろうと,人をつかわして彼女に申し込んだ」。―サムエル前 25:3,8,14,18,38,39。

      20 なぜ,意地のわるい,残酷な人は,当然の報いを必ずうけますか。

      20 私たちはエホバから,分相応のものをいただきます。不親切は,親切と同じく必ずもどってきます。意地のわるい残酷な人は,親切を示すことの祝福を失ないます。そして,数多くの方法で「おのれの身をそこな」うだけです。残酷な人が人間からの返報をうけず,またからだを害する感情にくるしまないように見えなくても,勘定を正確につけるエホバからの返報を避けることはできません。「不正を行う者は,自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない」とパウロは述べました。一方,「正義といつくしみとを追い求める者は,命と誉とを得る」。―コロサイ 3:25。箴言 21:21,新口。

      21 神は何に反対していますか。しかし,クリスチャンの精神は何ですか。

      21 神が不親切 ― けちくさいこと,残酷なこと,吝嗇,狭量そして利己主義に反対しているという証言はたくさんあります! クリスチャンの精神は,温和,あわれみ,寛容,もてなし,そして寛大です。クリスチャンのはかるものは,けちけちしたすくないものでなく,あふれ出るものでなければなりません。イエスは次のように言われました,「与えよ。そうすれば,自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ,ゆすり入れあふれ出るまでに量をよくして,あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで,自分にも量りかえされであろうから。」― ルカ 6:38,新口。

      22 クリスチャンは,その親切をどのように量るべきですか。その結果は何ですか。

      22 それで私たちの親切を寛大にはかりましょう。クリスチャンたちは,御国の真理を見知らぬ人々に教えて親切を示します。かくして自分たちの時を惜しみなく与えることによって寛大なことを示します。寛大をたくさん量れることができるときであっても,神の貴重な御国奉仕に時間をけちけち量るなら,私たちは祝福を失なうでしょう。「少ししかまかない者は,少ししか刈り取らず,豊かにまく者は,豊かに刈り取ることになる」。すべての人に私たちの自由を寛大に示すなら,豊かな報いと予期しない祝福をうけるでしょう。まったく,あなたは「天にいますあなたがたの父の子」であることを証明するでしょう。―コリント後 9:6。マタイ 5:45,新口。

  • 災害 ― 時代のしるし
    ものみの塔 1961 | 1月15日
    • 災害 ― 時代のしるし

      1950年代は,アメリカにおいては災害の10年間であったと言われています。ハリケーン,洪水,旋風,火事その他の災害の結果として,2万9000戸の家が破壊され,60万戸が損害を受け,160万人が家を失いました。アメリカ赤十字社が,1950年代をアメリカ史上最も災害の多い10年と呼んだのも当然です。

  • 一生の目的を追い求める
    ものみの塔 1961 | 1月15日
    • 一生の目的を追い求める

      ロイド・バリーの経験談

      こどものときに聖書のすばらしい真理を学ぶ者たちは,ほんとうに大きな祝福をいただいています。私が小さかったとき,大いなる神エホバ,その御国の目的,魂や生命の希望などを熱心に教えてくれた父親に,私はいつも感謝しています。この聖書の教えは,学校に来て騒がしい子供たちをこわがらせるために「地獄の火」の苦しみについて話した牧師たちの教えとは,なんとちがうのでしょう! 私はごく小さい時から聖書を愛するようにそだてられました。また私は聖書と共に「ものみの塔」誌をも愛しました。この雑誌は,私の幼い心に大きな印象を残しました。10歳の時でも私は「ものみの塔」から多くのものを学ぶことができました。そして今でも1920年代に研究したたくさんの記事をはっきりおぼえています。私は33年のあいだずっと「ものみの塔」を読んできました。

      私は少年時代を,ニュージーランドのクライストチャーチで過ごしました。学校の生徒のとき,私はいっしょうけんめい勉強して,大学に入るための奨学金の試験では第1位を取ることができました。ニュージーランドの専門学校や高等学校は,この賞金を得ようとたいへんな競争をします。私は原子科学者になるはずでした。しかし,物質主義的な考えや進化論的な考えが私を取りかこみ,私はほどなくしてそのような考えは牧師たちの「地獄の火」の教えと同じぐらい理性に欠けたもの,価値のないものと知りました。聖書は,私の生活に大きな力を行使し始めました。私は科学の部門で学位を取りましたが,この大学時代の大部分は,ほとんど開拓者なみの時間を奉仕にささげていたのです。そして,しばしば休暇開拓奉仕をしました。

      第二次世界大戦中の奉仕

      1939年1月,私はオーストラリアのベテルで全時間奉仕を永久につづける決意で始めました。このときには戦争の雲行は険悪になり,暴徒の襲撃や迫害も起きてきました。第二次世界大戦が始まった月には,私は一連の大会に奉仕しており,3週間の週末はたてつづけに暴徒に襲われました。ニューサウス・ウェルス州のマイトランドでは,予定されていた市会館での集会は禁じられ,一人の兄弟と私はその会館の前に宣伝車をとめて,この不正手段に対して抗議しました。私が話し終えたとき,牧師にそそのかされた暴徒が私たちのところに来て,自動

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