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    ものみの塔 1967 | 11月1日
    • 不平の気持ちをいだかずに過ごす

      「すべてのことを,つぶやかず疑わないでしなさい」― ピリピ 2:14。

      1,2 今日,世界中にどんな状態が見られますか。多くの人はそれに対してどんな反応を示しますか。

      今は「苦難の時代」です。国際的,国家的な規模の問題,そして個人的な問題が毎日起こり,克服し難いように見える問題も少なくありません,流血の戦争,ききん,疫病,おとなと青少年の犯罪が起きており,貧困が見られます。聖書にあるパウロの預言的なことばどおり,「人々は自分を愛する者,金を愛する者,大言壮語する者,高慢な者,神をそしる者,親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者,融和しない者,そしる者,無節制な者,粗暴な者,善を好まない者,裏切り者,乱暴者,高言をする者,神よりも快楽を愛する者」となりました。―テモテ第二 3:1-4。

      2 このような事態に対する反応は人によって異なります。世の中の悪を見て神を責める人が大ぜいいます。神が早く事態を正したらよいものをと考えて不平をこぼし,つまりは次のようなことを言います。「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから,すべてのものは天地創造の初めからそのままであって,変ってはいない」。(ペテロ第二 3:4)イエスの異父兄弟ユダのことばで言えば,「彼らは不平をならべ,不満を鳴らす者」です。―ユダ 16。

      3 心の正しい人は世の状態をどのように考えますか。そのことはどんな良い結果になりますか。

      3 しかし心の正しい誠実な人は,哀歌 3章38,39節に預言者エレミヤが表明しているような考え方をします。「災もさいわいも,いと高き者の口から出るではないか。生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか。人は自分の罪の罰せられるのを,つぶやくことができようか」。それで神を責めるかわりに,エレミヤと同じく次のように言います。「我等みづからの行をしらべかつ省みてエホバに帰るべしわれらは罪ををかし我らは叛きたり」。(エゼキエル 9:4。哀歌 3:40,42,文語)彼らは救いをエホバに呼び求め,恵みに富むエホバは,助けを求める彼らの叫びを聞き,現在の悪の事物の制度から彼らを救って,クリスチャンのエホバの証人と交わらせ,霊的な「いこいのみぎわ」に導かれます。―詩 23:2。

      4 今日,エホバの証人が満足を感ずる理由をいくつかあげなさい。

      4 これら真のクリスチャンが満足しており,幸福なのもいわれのないことではありません。全世界199の土地に住み,言語を異にし,背景を異にしているにもかかわらず,彼らは平和と一致を保っています。しかもその人数は何十万に上るのです。彼らは神との貴重な親しい関係を享受し,神のみこころを明白に理解しています。この理解のゆえに彼らは,現存する事物の制度になおつながれている人々の心痛やみじめさを免れており,まじかに迫った正義の新しい秩序を待ち望んで楽観しています。それで他の人を励まし,戸別訪問し,気落ちした人を力づけ,「神の和解を受け」ることを促すために多くの時間をささげているのです。―コリント第二 5:20。

      5 (イ)神の民の霊的な繁栄に照らしてどんな疑問生じますか。その答えとしてどんな三つの理由があげられますか。(ロ)不平の気持ちを持たないようにするには,何が必要ですか。

      5 エホバの民が霊的に言って幸福な状態におかれているのに,使徒パウロがピリピの初期クリスチャンに対し,「すべてのことを,つぶやかず疑わないでしなさい」と書き送る必要を認めたのはなぜですか。「ものみの塔」誌上にこの問題がとりあげられ,助言が与えられるのはなぜですか。それはこれらのクリスチャンが霊的に自由であるとは言っても,なお不完全であり,アダムから受け継いだ肉の弱さを持っているからです。また悪の事物の制度の下に生活している以上,注意しないと,「この世の霊」に感化されるおそれがあります。不平不満も「この世の霊」の一部です。そのうえ悪の世にありがちな不健全な性向を捨ててまもない人々が,毎年何万人もエホバの証人と交わるようになります。これらの人々が不平の精神を全く捨て去るには,エホバの助けと導きはもちろん,時間と努力が必要です。ひとたびそれを捨てたのちも,ふたたびとりつかれることのないように,クリスチャン各人は進歩を目ざし,努力をつづけなければなりません。「すべてのことを,つぶやかず」に行なうことを「つづけなさい」と述べたことばにも,それは示されています。―ピリピ 2:14,一部新世訳。コリント第一 2:12。

      その原因と結果

      6 不平の気持ちを持たないようにする助けとして,何を知ることが必要ですか。

      6 不平の気持ちを持たないようにし,クリスチャン会衆内からそれをなくすには,日常生活や兄弟たちとの交わりにおいて,それがどんないろいろな形で現われてくるかを知らなければなりません。また不平の気持ちをかもす原因になるものについて,さらに不平の精神のもたらす大きな害について知る必要があります。このことは大切です。なぜなら多くの場合,不平を言う人は自分でそのことに気づかず,それが及ぼす害をじゅうぶんに理解していないからです。

      7 不平はどのように定義されますか。それはどのように表わされますか。

      7 辞書の定義によれば,a 不平を言うとは「悲しみ,苦痛,不満,叱責,後悔を口に出して訴える,嘆く,つぶやくこと」です。それで不平は不満,いらだち,苦しみなどの感情の表現です。この不平という感情は,不快を示す身ぶりや表情によっても表現されますが,ふつうはことばによって表現されます。またたとえ口に出さなくても,行ないに表わすならば,不満の気持ちはすぐ人に知れます。

      8 (イ)舌を制することの難しさについて,ヤコブはなんと書いていますか。(ロ)不平を言う人は,ヤコブのこのことばをどのように用いてはなりませんか。しかし故意にではなく罪を犯す人はどんな慰めを得ますか。

      8 アダムの子孫のうち,舌で罪を犯したことのない人はいません。それでイエスの弟子ヤコブは,ヤコブの手紙 3章2節,8節から10節に次のように書きました。「わたしたちは皆,多くのあやまちを犯すものである。もし,言葉の上であやまちのない人があれば,そういう人は,全身をも制御することのできる完全な人である……舌を制しうる人は,ひとりもいない。それは,制しにくい悪であって,死の毒に満ちている。わたしたちは,この舌で父なる主[エホバ,新世訳]をさんびし,また,その同じ舌で,神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から,さんびとのろいとが出て来る」。しかしこのことばを,不平の気持ちを持つことの言いわけにしてはなりません。ヤコブは次のようにつづけているからです。「わたしの兄弟たちよ。このような事は,〔いつも,新世訳〕あるべきでない」。わたしたちはだれでも時に罪を犯しますが,舌で罪を犯すことをならわしにして,不平ばかり言う人になることは,真のキリスト教と相いれません。他方,この点において肉の傾向に打ち勝つように努力しながら,心ならずも罪を犯すならば,ヤコブのことばから慰めを得られます。

      9 マタイの福音書 12章34節にあるイエスのことばからわかるように,舌を制するよりも大切なのはどんなことですか。なぜそうですか。

      9 「おおよそ,心からあふれることを,口が語るものである」。イエスのこのことばは議論の余地のない事実です。(マタイ 12:34)それで,不平を言わないように舌を制することも大切ですが,もっと大切なのは不平を言いたくなるような気持ちを制することです。舌は心の思いを語り,それを表現するにすぎません。どんな思いは不平を言う原因になりますか。

      10,11 (イ)不平を言う原因となる事柄をいくつかあげなさい。(ロ)不平を言う態度の根本的な原因はどこにありますか。

      10 誇りが不平の原因になることもあります。うぬぼれの強い人は自分を主張し,兄弟たちの前に自分を高めるために,他人の欠点を批評するかもしれません。そのようにして自分にはそれと同程度の欠点がないことを誇示します。あるいは自分ほど物事の理解が早くない兄弟に対して気を短かくしたり,他の人に弱点を見いだしていらだったりする人もあるでしょう。またなみたいていでない苦労をしている人が,会衆内の兄弟たちと自分をくらべて情なく感じ,不平を言うかもしれません。能率の向上を目ざす人が,任命されて仕事をしている人々のやり方にあきたらず,不平を言うこともあります。

      11 兄弟たちが不平を言う原因と考えられるいろいろな事柄の幾つかを分析しただけでも,一つの事実が明白になります。すなわちどんな場合にも,自分を主張しすぎること,自分の感情や立場を過度に重んずることが不平を言う原因です。つまりそれは愛の正反対である利己主義の表われにほかなりません。

      12 サタンになった者は,どのように不平の精神を培いましたか。どんな結果になりましたか。

      12 特権である監督の地位にあきたらずサタン悪魔となった者の道を考えてみることは,この点で有益です。悪魔の精神を表わしたツロの王に告げられたことばの中で,聖書はこの問題を明らかにしています。「あなたは自分の美しさのために心高ぶり,その輝きのために自分の知恵を汚した」。(エゼキエル 28:17)宇宙の支配者になろうとの高慢な欲望のために,彼は主権者のエホバに反逆しました。うぬぼれの気持ちをいだくようになった彼は不平の気持ちをつのらせたのです。そのことは間もなく行ないに表われ,人類を悲惨と不幸に陥れる結果になりました。

      13 不平が次のそれぞれに及ぼす影響を述べなさい。(イ)不平を言われた人(ロ)それを聞いた人(ハ)新しい,あるいは弱い兄弟(ニ)不平が組織に対して向けられた時。

      13 どんな不平でもこのように重大な結果になるわけではありませんが,その反面,ちょっと不平をもらすことでも有害な結果をもたらします。兄弟あるいは姉妹に対する不平を述べるなら,それを聞く人はその兄弟あるいは姉妹を低く評価するようになるでしょう。それは弱さに注目させることであり,したがって消極的な,弱める働きをします。弱い,あるいは新しい兄弟であれば,不平を聞かされたために幻滅を感じ,信仰を甚しく弱められ,兄弟たちに対して不信をいだくようになるかもしれません。神の組織あるいはその代表者に対する不平が述べられるならば,組織のとりきめに対する信頼を弱めさせ,エホバに対する信仰を弱めさせるので,非常に大きな害を与えます。

      14 不平を言う舌は会衆全体にどんな影響を及ぼしますか。箴言 21章19節の例を用いて答えなさい。

      14 円熟しており,したがって不平が何であるかを知ってそれに心を動かされなければ,つまずいたり,霊的に大きな影響をこうむったりすることはありませんが,それでも不平を聞かされるのは愉快なことではありません。不平を言うのは,油をさした機械に砂をかけるようなものです。それは会衆の喜びを奪ってしまいます。それは水平線上に突然現われた黒雲のようです。箴言 21章19節は争う妻が夫に与える影響を述べていますが,不平も会衆に対して同様な影響を与えます。「争い怒る女と共におるよりは,荒野に住むほうがましだ」。

      15 不平を言う人自身,どんな影響を受けますか。

      15 不平はそれを聞かされる人の気持ちを建ておこさないだけでなく,不平を言う人自身にも害となります。その人は不満を感じており,不幸であり,多くの場合,不平を言ったあとで良心のとがめを感じます。霊感によって書かれた賢人の次のことばは真実ではありませんか。「口と舌とを守る者はその魂を守って,悩みにあわせない」― 箴言 21:23。

      「心と思いとを守」りなさい

      16 パウロが示しているように,わたしたちは心と精神を守るためにだれの助けを求めるべきですか。どんな事に心を向けるべきですか。

      16 不平は心と思いに原因がありますから,思いを正しく制御して,徳を高める健全な事柄を考えるようにしなければなりません。使徒パウロは,そのことをするためにエホバの助けを求める必要があることを示しています。「何事も思い煩ってはならない。ただ,事ごとに,感謝をもって祈りと願いとをささげ,あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば,人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が,あなたがたの心と思いとを,キリスト・イエスにあって守るであろう」。この点が弱い人は,それを克服するためにエホバの助けを求めることをちゅうちょしてはなりません。このような真摯な願いはエホバに聞かれ,不平不満の気持ちにかわる心の平和と満足が授けられるでしょう。しかしパウロが示しているとおり,人はその祈りに一致して努力すべきです。「最後に,兄弟たちよ。すべて真実なこと,すべて尊ぶべきこと,すべて正しいこと,すべて純真なこと,すべて愛すべきこと,すべてほまれあること,また徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい」― ピリピ 4:6-8。

      17 (イ)ピリピ人への手紙 4章8節にあるパウロのことばを実行するには,なぜ絶えず戦うことが必要ですか。(ロ)兄弟の落ち度にいらいらさせられる時,どうすべきですか。

      17 このようにパウロは,舌のみならず,兄弟たちの持つ善,徳,愛すべき事柄を常に考えて,心そのものを制すべきことを強調しています。人は人間の弱さのゆえに他人の欠点にまず目をつけがちです。そうなると人の持つ多くの良い性質,愛すべき,ほめるべき点を見ることができなくなります。そしてわたしたちを含め,どんな人にも弱点がありますから,それを不平の種にするならば,不平の絶え間がないでしょう。そのわけで心を制するために,いつも戦わねばなりません。ねたみを感じさせたり,いらだたせたりすることにぶつかるならば,それをすぐ忘れて,良い事を考えるように努めるべきです。これは初めのうち容易でないかもしれませんが,エホバの助けを得てそれに努めるならば,兄弟たちとの親しい関係も深まり,エホバに対する彼らの献身もいっそう認識され,そして自分自身が人々の中にあってずっと幸福を感じます。

      18 (イ)コリント人およびローマ人に告げられたパウロのことばによれば,不平を言う人はどんなまちがいをしていますか。(ロ)それでどんな人は,不平を言う態度を容易に克服できますか。

      18 不平を言う人は人間と人間の弱さを重く見ており,したがって,その点から言えば霊的な幼子のようにふるまっています。兄弟たちの心からの献身や愛を見るかわりに,弱さを持つ,罪深い人間を見ているのです。このあやまちをしていたコリントの会衆に対して,パウロは次のように書き送りました。「わたしはあなたがたには,霊の人に対するように話すことができず,むしろ,肉に属する者,すなわち,キリストにある幼な子に話すように話した……あなたがたの間に,ねたみや争いがあるのは,あなたがたが肉の人であって,普通の人間のように歩いているためではないか」。(コリント第一 3:1,3)なぜそうなのかは,ローマ人への手紙 8章5節のパウロのことばに示されています。「なぜなら,肉に従う者は肉のことを思い,霊に従う者は霊のことを思うからである」。ゆえに定期的な聖書の研究,集会に出席すること,祈り,エホバへの活発な奉仕によって神の聖霊にいつも満たされている人は,これらの霊的な活動にそれほど携わらない人にくらべると,不平を言う傾向を容易におさえることができます。

      個人的な不平

      19 不平はどんな二つの部類に分けられますか。

      19 不平の問題を分析すると,次の二つの分類ができます。(1)個人に対する不平。(2)エホバの組織あるいはエホバの目的とかかわりのある,したがって由々しい性質の不平。まず個人に対する不平の問題をとりあげ,あとの記事の中で後者をとりあげましょう。

      20 個人的な不平の大部分は何が原因ですか。たいていの場合,それは根深いものですか。

      20 個人に対する不平は,たいてい,ちょっとした誤解や個性の衝突が原因です。物静かで控え目な姉妹は,万事に積極的な姉妹とうまく折り合わず,その不平を他の人にもらすかもしれません。人のくせ,習慣,行ないは,場合によって,あるいは相手によっては不快さを与え,不平の原因となります。このような不平の多くは根深いものではなく,ちょっとした事のために誘発されるものです。多くの場合,人はその時のはずみで不平を言い,すぐに後悔します。このような不平を言わないようにするには,どうすればよいのですか。

      21 とくにマタイの福音書 6章14,15節にあるイエスのことばに照らして,わたしたちは兄弟たちの小さなまちがいをどのように見るべきですか。

      21 まず,これらの不平の本質を知らなければなりません。つまりそれはささいな,つまらない,多くの場合にはおとなげないものです。よく考えてみれば不平を言うほどのことではなく,他のある兄弟または姉妹のする事が自分の気に入らないというにすぎません。兄弟たちのこのような“弱点”を大目に見て許されるエホバの見地を真剣に考慮することも有益です。エホバはあなたのあやまちを許されたではありませんか。人は自分の欠点を大目に見,また同じあやまちを繰り返してはエホバの許しを求めます。マタイの福音書 6章14,15節にあるイエスのことばどおり,エホバの許しを得るにはまず人を許さなければなりません。「もしも,あなたがたが,人々のあやまちをゆるすならば,あなたがたの天の父も,あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば,あなたがたの父も,あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」。

      22 小さな欠点のことで不平を言うのは,どのように愛のない証拠ですか。

      22 小さなことを根に持って不平を並べ,他の人の前で兄弟たちのあやまちを大きく見せるのは,許す気持ちと愛に欠けているからです。それは天の父にならうことではありません。神のことばは愛を描写して次のように述べています。「愛は寛容であり,愛は情深い……愛は……いらだたない,恨みをいだかない」。「愛は多くの罪をおおうものである。不平を言わずに,互にもてなし合いなさい」。(コリント第一 13:4,5。ペテロ第一 4:8,9)これからみても,「愛をもって互に忍びあいなさい」という助言が与えられているのは,いわれのないことではありません。―エペソ 4:2。

      23 それで小さな苦情の種はどうすべきですか。

      23 「恨みをいだかない」のがクリスチャンの道であってみれば,小さなことで不平を言いたくても,それを全く忘れてしまうべきです。小さな不満の種が根をおろして大きくならないうちに取り除いて,不平を嵩じさせないようにしなければなりません。不平の気持ちを捨てるならば,自分も他の人も不幸にならずにすみます。

      24 もっと重大な個人的不満の処理方法について,イエスはなんと言われましたか。

      24 しかし他の兄弟あるいは姉妹に対して不平を言うべき理由が確かにある場合も考えられます。知ってか知らずか兄弟のしたことから害を受け,事柄の性質上,ただ忘れてしまうわけにいかない場合です。そのためにひどく心を乱され,エホバへの奉仕にも影響が及んでいるかもしれません。マタイの福音書 18章15節にあるイエスの健全な助言は,このような場合にあてはまるのです。「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら,行って,彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら,あなたの兄弟を得たことになる」。

      25 (イ)兄弟に対して大きな苦情がある時,何をしてはなりませんか。なぜですか。(ロ)マタイの福音書 18章15節にある助言に従うのは,なぜ賢明なことですか。

      25 たとえ不平を言うじゅうぶんな理由があっても,その兄弟に対する不満を会衆内の他の人にふれまわってはなりません。それは平和にするかわりに会衆全体を乱し,兄弟たちの間に分裂をひき起こす可能性さえあります。他の人々にもらした不満はまわりまわって当人の耳にもはいり,おもしろくない結果になります。不平をならべることは不和をいやすかわりに,箴言のことばどおり事態を悪化させます。「人のことを言いふらす者は友を離れさせる」。(箴言 17:9)不平を言うことはだれの益にもなりません。その兄弟のところにひとりで行って,冷静に,おだやかに話し合うのが正しい道です。彼は自分が害を与えたことに気づいてさえいないかもしれません。そうとすれば,会衆の人々の前で不平を並べられるよりも直接に話してもらったことを,どんなに嬉しく思うことでしょう。

      26,27 (イ)兄弟から許しを求められたなら,被害者の立場にある者の務めは何をすることですか。それはどの程度にまで及びますか。(ロ)コロサイ人への手紙 3章12節から14節にあるパウロの助言は,あらゆる個人的な不平の場合に,どのように役だちますか。

      26 兄弟からけんそんに許しを求められたならば,天の父があなたを許してくださったようにその兄弟の謝罪をいれて許すのはあなたの務めです。愛は払いきることができない負債です。(ローマ 13:8)それでペテロがイエスにむかって「兄弟がわたしに対して罪を犯した場合,幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」と尋ねたとき,イエスは答えて言われました。「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。(マタイ 18:21,22)。兄弟たちとの関係において愛,あわれみ,許す気持ちを惜しみなく表わすならば,大きな喜びや幸福という報いを刈り取り,分裂のもとである不平の精神が忍び込むのを防ぐことができます。エホバに対する深い認識と愛および兄弟愛を持つならば,現在の不完全な事物の制度につきものである多くの些細な事のかわりに,わたしたちの将来の生命に関係する「重要である」事柄に心を向けることができます。―ピリピ 1:10。

      27 結論として,コロサイ人にあてられた昔のパウロのことばによく耳を傾け,また熱心にそれを実行することにしましょう。そうするならば,どんな種類のものであれ個人的な不平を言わないですむようになるでしょう。パウロは次のようにすすめました。「だから,あなたがたは,神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身に着けなさい。互に忍びあい,もし互に責むべきことがあれば,ゆるし合いなさい。〔エホバ〕もあなたがたをゆるして下さったのだから,そのように,あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に,愛を加えなさい。愛は,すべてを完全に結ぶ帯である」― コロサイ 3:12-14,〔新世訳〕。

  • エホバの組織に満足を覚える
    ものみの塔 1967 | 11月1日
    • エホバの組織に満足を覚える

      「主よ,わたしたちは,だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」― ヨハネ 6:68。

      1 被造物がエホバに全く信頼できるのはなぜですか。

      エホバは宇宙の万物を完全に支配しまた支配してこられました。星,太陽,月や遊星はエホバの全能の力によってそれぞれの軌道に保たれ地球が人間の住みかとして維持されているのも,エホバのおかげです。エホバの行なわれる事はすべて完全であり,それゆえに被造物は主権者であられるエホバの支配と,あわれみあるその治めに全く信頼できます。

      2 (イ)エホバはご自身の属性をどのように行使されますか。(ロ)不平を言う者がいるのはなぜです。彼らは実際にはたれに対して不平を言っていますか。

      2 全能であり,またすべてをご存じであられるエホバは,被造物と交渉を持たれるにあたって無限の愛,知恵,正義,力という属性を,完全に平衡のとれた方法で行使されます。愛とあわれみの加味されることなしにその正義が極端にまで主張されることはありません。その無限の力が誤用されることは決してなく,その力の働きには常に愛と知恵が伴っています。神には自己矛盾がなく,その属性を行使することにおいて自己と矛盾をきたすことはありません。そうであるのに,時として神のとりきめや,物事の運び方に対して不平を言う者がいるのはなぜですか。多くの場合,それはエホバが目的を遂げられる方法について理解を欠いているためであり,被造物に対してエホバが持たれる交渉に対して近視眼的な見方をしているためです。エホバがある事柄を行なわれても,そのわけをよく理解できないことが多いのは事実ですが,しかし不平を言うのはエホバに対し,またご自身の時と方法に従って物事を成就させるエホバの力に対して,不信を表わすことになります。それは大きな間違いです。およそ3500年前,南パレスチナの荒野を旅していた神の民イスラエルは,食物が足りないことで指導者のモーセとアロンに不平を言い出しました。その時のモーセのことばは,彼らのいだいた不平の気持ちが由々しいものであることを示しています。「汝等の怨言は我等にむかひてするに非ずエホバにむかひてするなり」― 出エジプト 16:8,文語。

      自分の割当てに喜びを見いだす

      3 ある人々が伝道に関して不平を言う原因はどこにありますか。

      3 今日でも真理に長い兄弟の中に,モーセの時代のイスラエル人と同様,不平の精神を持ちはじめた人がいるかもしれません。何年もの間,彼らはハルマゲドンの戦いが迫っていることを友人や隣人に告げてきました。神の国の音信を携えて同じ家々を何度もおとずれたに違いありません。しかし今ではハルマゲドンが早く来なければならないと感じ,すべての悪が神によって滅ぼされていないことに焦躁を感じ,不平を言い出します。

      4,5 (イ)ヨナがニネベの人々に伝道した時のことについて,聖書の記録する事柄を述べなさい。(ロ)ヨナはどんな大きな間違いをしましたか。彼はあわれみの教訓をエホバからどのように教えられましたか。

      4 このような人は,ニネベの人々に伝道する任務を与えられた紀元前9世紀の預言者ヨナのことを思い起こすとよいでしょう。ヨナの音信は「四十日を経たらニネベは滅びる」という,人を驚かすものでした。(ヨナ 3:4)ニネベの人々はそれを聞くや直ちに自分たちの悪を悔い改め,エホバを求めました。王でさえもみずから喪服をまとい,断食によって神のあわれみを求めることを人々に命じたのです。「あるいは神はみ心をかえ,その激しい怒りをやめて,われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」と,王は語りました。(ヨナ 3:9)このように人々がいっせいに悔い改めと謙遜を表明したので,エホバは40日後に臨むはずであった滅びをさしひかえられました。ヨナはそのことをどう思いましたか。

      5 霊感の記録は次のことを伝えています。「ところがヨナはこれを非常に不快として,激しく怒り……」。(ヨナ 4:1)利己的に考えたヨナは,事態を見あやまっていました。何万人という人々の生命が危ういというのに,ヨナは自分の預言がすぐに成就しなければ面目を失うと考えて自分の感情にこだわっていたのです。忍耐できなかったヨナは,ニネベが40日後に滅びることを望み,あわれみを忘れてしまいました。暑い日の下でヨナが苦しい思いにふけっていると,エホバは大きな植物を生えさせ,それが日陰を作るようにされました。しかし翌朝になると,エホバは虫のためにその植物が枯れるようにされたので,ヨナはまたもや不平を言いました。その機をとらえてエホバはこの出来事の意味を明白にされました。「あなたは労せず,育てず,一夜に生じて,一夜に滅びたこのとうごま[ひさご,文語]をさえ,惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの,右左をわきまえない人々と,あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを,惜しまないでいられようか」― ヨナ 4:10,11。

      6 ペテロは神のあわれみをどのように見ましたか。どうすれば宣教において気短かな,不平がましい態度を避けられますか。

      6 エホバはあわれみのある,恵みに富む神です。ハルマゲドンにおいて悪人が滅ぼされるまでの猶予の時は,エホバの愛と忍耐の表われにほかなりません。「〔エホバ〕は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ,ひとりも滅びることがなく,すべての者が悔改めに至ることを望み,あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」。(ペテロ第二 3:9)これは崇高な考えではありませんか。この事に関するエホバのお考えを理解し,エホバの無比の属性を見ならうならば,はやることなくエホバに依り頼み,エホバの時を待つことができます。わたしたちは,悔い改めを得させるためにエホバが猶予された時を生かし,愛の動機で宣べ伝えつづけます。そうすれば宣教に大きな喜びを見いだし,不幸な不平家にならずにすむでしょう。

      7 宣教者は不平の気持ちをどのように培うことがありますか。

      7 宣教者として外国の任命地に派遣された兄弟が,不平のとりこになるかもしれません。どうしてそうなるのですか。自分のやって来た国においても万事が故国におけると同様でなければならぬといった考えを持つためです。その人はニューヨーク市のものみの塔ギレアデ聖書学校で生活した時の快適な生活環境や生活水準を望んでいるかもしれず,その期待がはずれると不満を感じ,自分は不幸であると考えます。この不満の気持ちは,その国の人々の風習,言語,習慣など他の事柄にもすぐ波及し,これらの事や,その他自分の気に入らないいろいろな小さい事を口に出して批判するようになります。御国の福音の伝道と無関係な事まで不平の種となり,自分の国にいれば不平を言わない事柄についても文句が出ます。それは今や不平の精神にとりつかれているからです。その態度を改めない限り,任命地で幸福になることはできません。

      8 自分の生活程度に満足できなくなった,昔のどんな人々の例がありますか。彼らの不平はもっともなものでしたか。

      8 これで思い出すのは,イエスが地を歩かれた時よりさらに1500年前,エジプトを離れ,流浪の民となってイスラエル人とともに荒野を旅した入りまじった群衆のことです。エホバに導かれて1年あまりも旅したのち,彼らは不平をならべはじめました。彼らはそれまで飢えたこともなく,靴がすりへったことも衣服がすり切れたこともないのです。彼らが日々の糧に事欠いたためしはありません。それなのに彼らは満足しませんでした。それで遊牧民のような生活をエジプトでの以前の生活とくらべるようになり,イスラエル人までが一緒になって不平を言い出しました。「われわれは思い起すが,エジプトでは,ただで,魚を食べた。きゅうりも,すいかも,にらも,たまねぎも,そして,にんにくも。しかし,いま,われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には,このマナのほか何もない」。(民数 11:5,6)エホバは天からの奇跡的なパンを備えられたのに,彼らはなんと感謝の念に欠けていたのでしょう!

      9 現代の宣教者,特別開拓者にとって,使徒パウロはどのようにすぐれた手本ですか。パウロにならうならば,何を避けることができますか。

      9 感謝することをしなかったこれらの寄り集まり人やイスラエル人にならうのではなく,わたしたちは,多くの国々でさまざまの環境の中で生活した使徒パウロにならわねばなりません。ピリピのクリスチャンに対し,パウロは宣教者としてのさまざまの経験を次のように書いています。「わたしは,どんな境遇にあっても,足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており,富におる道も知っている。わたしは,飽くことにも飢えることにも,富むことにも乏しいことにも,ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって,何事でもすることができる」。(ピリピ 4:11-13)パウロはどこに行っても環境に適応することを学び,エホバから与えられたどんな任命地にあっても幸福と満足を見いだすことを学びました。今日の宣教者,特別開拓者はパウロの良い手本から学び,自分の任命地について不平を言うことから生ずるいらだちや心痛を避けることができます。

      神権的な権威を尊敬する

      10 ある人はなぜ神権的な権威をなかなか認めることができませんか。それはどんな結果になることがありますか。

      10 エホバの地上の組織内においては不完全な人間がエホバを代表するために用いられています。それで神権的な権威を認めて尊敬することがなかなか出来ない人もいます。そのような人はエホバが任命されたという事実を見失っており,人間の弱さ,不完全さだけを見ているのです。それである兄弟の占めている地位を尊重せず,生まれつきの弱点のためにする小さなあやまちを見てすぐに不平を言います。これは大きなまちがいであって,エホバの民の会衆内で不快と不満足を覚える原因となります。

      11 (イ)250人以上のイスラエル人は荒野において,モーセとアロンにどんな不平を述べましたか。それはどんな問題を提起しましたか。(ロ)任命された代表者に敬意を示さなかったことに対して,エホバの怒りはどのように表わされましたか。

      11 何百年も前のこと,250人以上から成るグループが,エホバの代表者モーセとアロンを認めないという間違いをしました。彼らは,イスラエル民族を導くことにかけては自分たちにも同じくらい資格があると考えたのです。「彼らは集まって,モーセとアロンとに逆らって言った,『あなたがたは,分を越えています。全会衆は,ことごとく聖なるものであって,〔エホバ〕がそのうちにおられるのに,どうしてあなたがたは,〔エホバ〕の会衆の上に立つのですか」。こうして彼らはモーセとアロンが会衆の上に君臨していると言って不当な非難をしました。なかでもダタンとアビラムはのちにモーセにむかい,あなたはわたしたちに「君臨」しようとしていると言いました。それは真実でしたか。モーセとアロンは利己的な野心をいだいて指導者の地位にみずからつきましたか。あるいはそれはエホバからの任命ですか。翌日,全会衆はエホバ神の答えを知らされました。地が割れ,火が下って反逆者は家族もろとも滅び,エホバはモーセの次のことばを確証されました。「あなたがたは〔エホバ〕がこれらのすべての事をさせるために,わたしをつかわされたこと,またわたしが,これを自分の心にしたがって行うものでないことを,次のことによって知るであろう」。エホバから任命された代表者にたてついて,このように致命的なあやまちを犯してはなりません。―民数 16:3,13,28,〔文語〕。

      12 任命されているしもべを人間的な見地から見ることにはどんな危険がありますか。サムエル記上 16章7節において,エホバはこのことをどのようにサムエルに告げられましたか。

      12 昔の不遜な反逆者の場合と同じく,任命されたしもべを肉の,すなわち人間的な見地から見るかぎり,エホバの組織に真の満足を見いだすことはできません。しもべの欠点ばかりが目につき,物事の運び方にしても,自分のほうが上手にできると感じて,しもべのやり方を口に出して批判するようになるでしょう。それで預言者サムエルに告げられたエホバのことばを心に留めるのは良いことです。イスラエルの次の王を油そそぐ務めに任ぜられたサムエルは,エッサイの子のひとりエリアブに目を留め,その風采を見て,これこそエホバに選ばれた者であると考えました。しかしエホバはこう言われたのです。「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見,〔エホバ〕は心を見る」。(サムエル上 16:7,〔文語〕)このことを知って,すべての献身したクリスチャンはその人が外見上,あるいはこの世的な観点から最上の資格をそなえているように見えなくても,エホバの任命を尊重します。

      13 任命されているしもべの味わう喜びを増し加えるものはなんですか。このような喜びをうちこわすものはなんですか。

      13 会衆内の伝道者や開拓者がこのような敬意を示し,心から従い,また協力するならば,任命されたしもべの務めは喜びと報いのあるものとなります。そのわけでパウロはヘブル人のクリスチャンに次のように書き送りました。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて,従いなさい。彼らは,神に言いひらきをすべき者として,あなたがたのたましいのために,目をさましている。彼らが嘆かないで,喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと,あなたがたの益にならない」。(ヘブル 13:17)指導する立場の兄弟たちに対して不平を言うならば,会衆は喜びを失います。それは会衆の「益にならない」ことであり,エホバのとりきめに対して不満の気持ちをいだいていることの表われです。

      14 監督がその務めを怠るようなことがあっても,何をしてはなりませんか。聖書の例を用いて答えなさい。

      14 しかし会衆の監督が集会の準備を怠ったり,野外奉仕に率先しなくなったりした場合はどうですか。巡回のしもべは二,三か月後でなければ会衆を訪問しないかもしれません。この場合,公然と不平を言い,あるいは監督の解任を求める請願書に伝道者の署名を集めて協会に送るような極端なことをするのは正しいですか。それは全く筋違いのことです。ダビデのことを思い起こしてください。ダビデは自分が次に王となることを知っていましたが,それでもイスラエルの悪しき王サウロの位を横領しようとはしませんでした。サウロは悪人で神の恵みを失っていましたが,ダビデはサウロの命を狙うことを正しいとは考えなかったのです。彼は「エホバの膏そそぎし者」としてのサウロの立場を尊重し,エホバがサウロを除くことをよしとされるまで,そのとりきめに従いました。―サムエル後 24:6,文語。

      15 (イ)任命されたしもべに対する不平を述べる人は,実際にはエホバへの信仰が足りないということを証明しなさい。(ロ)監督が務めを怠っている時,円熟した兄弟はどうしますか。

      15 ダビデはどんな場合にもエホバに深い信仰を持っていました。それでエホバが事態を手中に収めていられることを知り,エホバがその定めの時に行動されるのを待ち,それで満足していました。ダビデと異なって民主的に事を運び,解任を請求したり,公然と不平を並べたりするのは,ご自身の組織を監督するエホバの力に対して信仰と信頼が嘆かわしいほど欠けている証拠です。神がすみやかに処置をされないので,自分が代わりにしなければならないと言っているようなものです。なんと近視眼的で未熟な見方ではありませんか。エホバの方法は,わたしたちが良いと考える方法と必ずしも同じではありません。しかし適切な時に正しく事が行なわれるのは確かです。ゆえにエホバを待ち,奉仕に励み,兄弟たちを親切に助け,神権的な物事のとりきめをみずから尊重し,他の人々にもそれをすすめるのがよいことです。それ以外の先走った行動は,神権的な権威に対する尊敬を打ちこわし,霊的な面で会衆に大きな害を与えます。

      16 わたしたちは何を確信できますか。それで何をすることに励むべきですか。

      16 エホバはご自身の民の会衆内で何が行なわれているかをご存じであり,わたしたちはそのことを確信できます。「神のみまえには,あらわでない被造物はひとつもなく,すべてのものは,神の目には裸であり,あらわにされているのである。この神に対して,わたしたちは言い開きをしなくてはならない」。(ヘブル 4:13)神は眠ることなく,神の目をのがれ得るものは一つもありません。何か矯正を必要とする事があるからと言って,不平を述べてそれを神に知らせる必要はないのです。「エホバの目は何処にもありて悪人と善人とをかんがみる」と,聖書に述べられています。(箴言 15:3,文語)このような慰めを得て,わたしたちは自分の務めをはたすことに満足し,全能の主権者ご自身がその見える組織を治めていられることに幸いを感じます。

      17 (イ)任命されたしもべは,どのように不平の気持ちをいだくことがありますか。(ロ)このような人は何を見失っていますか。それで何をすることが必要ですか。

      17 任命されているしもべでも時に不平の精神に影響され,自分の荷が重すぎるように感じます。神の群れを世話することが重荷に感じられたり,兄弟たちが協力しない,あるいは兄弟たちの理解がおそいといった不平が出たりします。彼は自分がエホバの組織と働いており,エホバの「羊」を監督していることを一時的にもせよ忘れたのです。そして「羊」を世話する全責任を負わされたように感じますが,しかしそれはまちがっています。エホバはご自身の「羊」を世話する責任を引き受けておられ,御子イエス・キリストは「羊」のために命を捨てられました。監督はエホバの「羊」を世話する責任をひとりで引き受けようなどとしてはなりません。エホバに依り頼み,全き信仰を持つことが必要です。33年間,一国民の監督をつとめたダビデは,次のようにすすめています。「なんぢの荷をエホバにゆだねよさらば汝をさゝへたまはんたゞしき人のうごかさるゝことを常にゆるしたまふまじ」― 詩 55:22,文語。

      18,19 (イ)モーセはある時どのように不平がましい態度を示しましたか。しかしモーセは不平家であったと言えますか。(ロ)今日の監督はなぜ楽観できますか。

      18 監督に任命されたモーセは,反抗的なイスラエル人を荒野で導いていた時,一度,不平の気持ちにとりつかれたことがありました。そして神に祈ったことばの中でこう訴えています。「あなたはなぜ,しもべに悪い仕打ちをされるのですか。どうしてわたしはあなたの前に恵みを得ないで,このすべての民の重荷を負わされるのですか。わたしがこのすべての民を,はらんだのですか。わたしがこれを生んだのですか。そうではないのに,あなたはなぜわたしに『養い親が乳児を抱くように,彼らをふところに抱いて,あなたが彼らの先祖たちに誓われた地に行け』と言われるのですか……わたしひとりでは,このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます……わたしにこのような仕打ちをされるよりは,むしろ,ひと思いに殺してください」― 民数 11:11,12,14,15。

      19 いったいにモーセはエホバのしもべとして幸福と満足を覚え,不平を言うような人ではありませんでした。しかしこの場合イスラエル人のつぶやきに我慢しきれなくて不平を口に出したのです。しかし今日の監督の中でこれほど大きな会衆を委ねられている人はいず,モーセが直面したほどの難しい問題をかかえている人も非常に少ないでしょう。そのうえ今日の監督はエホバと即位した王の支持を得ており,組織の親切な導きという,うしろだてもあります。それで荷が重すぎると感じたり,不平を言ったりするいわれは少しもありません。自分の持つ,まれな特権を認識し,それに喜びを感じているならば,「信仰の導き手であり,またその完成者であるイエス」にならうことができます。そうすれば,そしてまた兄弟たちからあまりに多くを期待せず,愛をもって接するならば,監督は不平をもらすことなく,幸福で楽観的な考え方をし,会衆全体に喜びのふんい気をかもすことでしょう。―ヘブル 12:2。

      啓示された真理に満足する

      20 協会のする,聖書の説明について,ある人々はどんな不平を言いますか。これはその人々自身また他の人にとって,どのように危険なことですか。

      20 「ものみの塔」誌にのせられた聖書の説明や真理について不平がましいことを語る兄弟が,時にいます。ある事柄が述べられている理由,また特定の問題が解明された理由をよく理解できずに,他の人にむかって疑念を表明するのです。もちろんそれは兄弟たち,とくに新しい兄弟たちを混乱させ,また不平を言う人自身の益になりません。それはエホバの伝達の経路に不満足なことを表明していることにほかなりません。そして多くの場合,関連した事実のすべてを知らずに早まってそうしているのです。

      21 (イ)イエスの弟子の一部は,イエスに従うことをなぜやめましたか。(ロ)それとは対照的に12使徒はどんな態度をとりましたか。それはどんな結果を生みましたか。

      21 イエスの初期の弟子たちの中にもこれと同じ精神を持つ人がいました。強力な新しい真理をイエスから教えられた時のこと,彼らは「これは,ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」と語り,霊感の記録はその結果を次のように述べています。「それ以来,多くの弟子たちは去っていって,もはやイエスと行動を共にしなかった」。そこでイエスは12使徒にむかって,「あなたがたも去ろうとするのか」と問われ,ペテロは直ちにこう答えました。「主よ,わたしたちは,だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」。(ヨハネ 6:60,66-68)つまずいたのは,すぐに不満をいだいた人々です。彼らは説明された真理が神の言と一致しているかどうか,時間をかけて調べるだけの努力をしませんでした。しかるに使徒たちはイエスとともにいることに満足し,イエスから少しずつ教えられました。彼らはイエスの言われたことのすべてをすぐに理解したのではありません。理解できない事柄もたくさんあったのです。しかし彼らには真の信仰がありました。それでエホバはパンを求める者に対して石を与えることはされないのを知っており,聞いて学ぶことに満足し,わからないことは質問したのです。(マタイ 7:9-11)それゆえに彼らは豊かに報われ,西暦33年五旬節に聖霊をそそがれるとともに当時におけるエホバのみこころをじゅうぶんに理解できました。

      22 真理のある点を理解できない時,どうすべきかを説明しなさい。それが分別のある唯一の道である理由を述べなさい。

      22 これら忠実な人々の例から多くを学ぶことができます。一見して理解しにくい事柄も確かにあります。しかし不平を言ったり,議論をしたりして,つまりは自分のわずかな知識をエホバの全能の知恵に対抗させ,また霊に導かれた,経験のあるエホバの組織に対抗させるよりも,問題をさらに調べるほうが賢明ではありませんか。自分でよく研究してみてから,円熟した兄弟に,それも不平がましく聞くのではなく,彼らの考えを知るために尋ねてごらんなさい。それでもなお釈然としなければ,使徒たちがしたようにいっそうの解明を待ち,その問題を一時保留しておくほうが良いでしょう。真理を理解するための知恵をエホバに祈り求めることができます。信仰をもってエホバの組織につき従っているならば,エホバはその組織をとおしてやがて十分な理解を与えてくださるでしょう。

      23 テモテへの第一の手紙 6章3節から5節に述べられているような背教者にならないため,どうしますか。

      23 テモテへの第一の手紙 6章3節から5節にパウロが述べているような者になりたくはありません。「もし違ったことを教えて,わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉,ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば,彼は高慢であって,何も知らず,ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから,ねたみ,争い,そしり,さいぎの心が生じ,また知性が腐って,真理にそむ(く)……者どもの間に,はてしのないいがみ合いが起るのである」。不平の気持ちをつのらせ,エホバの組織に対して心を苦くしたために,多くの人は背教しました。そのような人になることを避けるため,たとえ小さな事に対してであっても不平を言うのを避けなければなりません。むしろエホバから啓示された真理に満足することが必要です。

      24 エホバの組織に対して不平を言う人は,何に欠けていることを示していますか。それに対してどんな処置をすることができますか。

      24 ここにとりあげた例からわかるように,組織に対して不満をいだくのは,たいていの場合,物事を運ぶエホバの方法を理解していないため,またエホバとそのとりきめに全き信仰を持っていないためです。ゆえに不平を言いたくなる傾向を克服するには,自分でする勉強,祈り,神の民との親しい交わりによって洞察力と円熟した理解を深め,エホバと組織に対する信頼を深めることが必要です。

      25 どうすれば,今も「来たるべき事物の制度」の下においても,多くの喜びを確かに得ることができますか。

      25 ゆえに神の民の唯一の創始者また組織者であられるエホバを認め,エホバから任命された王としていま天で即位されたイエス・キリストを認めて,組織内における割り当ての務めを満足してはたしましょう。不平を言わずに自分の務めをはたすならば,会衆内の兄弟たちとともにいま多くの喜びを得,「来たるべき事物の制度」の下では,エホバがその栄光のお目的を何世紀にもわたって明らかにされるにつれ,人間の心がはかり知り得ないほどの祝福を享受することでしょう。先を見ない,不幸な不平家になってこの喜ばしい前途の祝福を失ってはなりません。真実にエホバの民である忠実な人々とともに真の満足と心の平和を享受してください。―エペソ 2:7,新世訳。

  • 学校での証言
    ものみの塔 1967 | 11月1日
    • 学校での証言

      ● フランスでのこと学生の伝道者はクラスで出された問題をみて,はっとしました。それは「聖書の中のヘブル人」という題でした。エホバの霊感された本を使うことについて先生がどう思うかを知りたいと思った彼は,この機会をとらえて自分の聖書を持って行きました。まず第一に先生が興味を持ったのは伝道者がどこで彼の聖書を手に入れたか,そして彼が新教かあるいはエホバの証人かという事でした。若い伝道者は自分がエホバの証人であると言う事をためらいませんでした。そこで次のような質問が彼に向けられました。「だれがあなたをエホバの証人にさせたのですか ― あなたの両親ですか?」 彼は答えました。「いいえ,私自身が証人になりたいと望んだからです」。すると先生はこの伝道者に教室でエホバの証人について話をするようにすすめ,彼を驚かせました。短い紹介の言葉ののち先生はこの若い伝道者に向かい,エホバの証人について話すために教壇の先生の立っている所に来るよう招きました。クラスの全員が質問をするようにさえすすめられたのです。先生の質問によって討論が開始されました。「あなたは自分の組織についてどんな事を知っていますか。その聖書はどのようにして作られましたか」。そのあと多くの質問が生徒から提出されました。例えば,集会はいつ行なわれますか。入場は無料ですか。資金はどこから来ますか。集会で何が教えられるのですか。なぜ神はアブラハムにイサクをささげるよう命ぜられたのですか。人々が神は永遠の神だと言うのはなぜですか。信仰とは何ですか。なぜあなたは自分のことをエホバの証人と呼ぶのですか。こんな調子で1時間にわたって生徒は質問し,この若い証人からの答えを聞く機会を得ました。生徒は歴史についての練習帳に次のように書くことになりました。「エホバの証人について生徒X君の説明」。宿題として彼等は次の質問に答えることが必要でした。「エホバの証人という名前の起源を説明しなさい。エホバは永遠の神ですか。その理由は?」。このようにして,神の言葉の良い原則に従う事により若い伝道者は学校ですぐれた証言をすることができ,それによって他の人々にエホバとその教えを知る機会を与えることができました。

      ● 今日の学校で与えられる教育が,聖書の中で教えられている事といつも一致するわけでない事は明白です。これは子供たちが真理に対するしっかりした立場を取らなければならないこと,そして彼らがこの世の教えよりもエホバの教訓に対して認識をもつべき事を意味します。フランスのある学校で,11月1日の数日前,校長先生は生徒に戦勝記念碑の前で唱えるためのことばを暗唱するようにと言いました。ある朝クラスで生徒たちはひとりずつ暗唱をするように命ぜられました。そのクラスにいたひとりの若い女の奉仕者は,他の生徒たちと同じようにすることはできないと気づきました。彼女は先生から与えられる,良い点よりもエホバの是認の方がもっと大切なことを知っていました。彼女は自分の番になった時,座ったままでしたので点をもらえませんでした。この奉仕者がいつもよく予習している事を知っていた先生は,なぜ暗唱を準備していなかったのかという点を休み時間にわざわざ質問しました。彼女は自分の良心に反することは出来ないと先生に説明しました。エホバの証人として,聞くことの出来ない死人に語ることを望まず,そのうえ「神が星や花々を造ったのは徒労であった」というような聖書に反する言葉が暗唱の中にあったからです。その先生は悪い点を取り消して良い点にすることを決めました。翌日クラスの全員は同じことばをくり返し「暗唱」しましたが,この若い姉妹は先生から非難されることなしにすわったままでいました。

      ― エホバの証人の1967年度年鑑より

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