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不平を取り除いて幸福を保つものみの塔 1955 | 6月15日
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ん。パウロの時代でも同じく安易なものでなかつたのです。『彼らはキリストの奉仕者であるか。……私は彼ら以上にそうである。働いたことはもつと多く,投獄されたことはもつと多く,むちうれたことは甚だ多く,死に瀕したことはしばしばであつた。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちをうけたことは五度,杖で打たれたことは三度,石打ちされたことは一度,難船したことは三度,そして一昼夜海の上を漂つたことがある。しばしば旅行をなし,河の難,盗賊の難,自国民の難,異邦人の難,都会の難,荒野の難,海上の難,偽兄弟の中にいる難,労し苦しみ,眠らない夜はしばしばであり,飢えとかわき,食物のないことは多く,寒さに凍え裸でいたこともあつた。それら外面上の事がらの外に,毎日私の心にせまつてくる全会衆への心配がある。』(コリント後 11:23-28,新世)パウロはそのすべての重荷や不運をうけても,気落ちすることはなかつたのです。その手紙の結びで,彼は幸福な気分で次のように書いています『最後に兄弟たちよ。よろこび続けなさい。回復しなさい。慰めあいなさい。おたがいに一致の心を持ち,平和に生活しなさい。そうすれば,愛と平和の神はあなた方と共にいるであろう。』― コリント後 13:11,新世。
15,16 (イ)不平を言う者は,幸福を失い,ついには生命自体を失うということは,強く言い過ぎることですか?(ロ)不平を言うイスラエル人の警告の前例は,誰にそして何時適用されますか?
15 不平を言うこの問題について,ヱホバの証者が見逃してはならぬ重大な点がいくらかあります。つまり,こうです。ヱホバの制度内の者が不平を言うとき,その者は神の御意に反対して不満と憤懣を述べているということです。それで,不平を言うことは,実際にヱホバに反対することです。不平を言う者は,必らず幸福を失うということを示す非常に顕著な聖書の例が二,三あります。不平家が生命自体をなくしたこともしばしばであります。それで,ヱホバに反対し,あるいはヱホバの制度とその指示に反対して不平を言うことは全く重大なことであると知ります。不平は悲しみと,最後に死をともなう悲哀をもたらすからです。そんなことはないとあなたは考え,強く言い過ぎていると考えますか? あるいはその警告は誇張であると考えますか? もしそうならば,別の聖句に注意してごらんなさい。それは,イスラエルの昔の国民の経験したことに関係し,しかも現在いまの出来事を予表したものでした。おそらく,あなたは幾度もこの聖句を参照されたことでしよう。その聖句は,不平の精神を取り除くということに深い関係があるということを悟られましたか?『彼らのある者が不平を言つたように,不平を言つてはならない。不平を言つた者は,亡す方によつて亡びをうけた。さてこれらのことは前例として彼らに起つたのであり,この世の組織制度の全き終に臨む私たちへの警告のために書かれたのである。』(コリント前 10:10,11,新世)彼らはいつたい何について不平を言わねばならなかつたのですか? ヱホバは彼らをエジプトの圧迫から救い出され,そして,飢えることもなく寒さで苦しむとか,裸でいることのないように愛のある仕方で彼らを保護して養つたではありませんか? 彼らは何一つ心配する必要はなかつたのです。しかし,このことが全部なされた後であつても,ちようど甘やかされた泣きむしのように彼らは不平を言いました。イスラエル人の前例は,今日いまの不平家に適用することを決して忘れないで下さい。
16 約束の地に入る間際のイスラエル人が直面したそのような生命,そのような安全な見込みが前にくりひろげられているならば,誰でも満足であるとあなたは考えるかもしれません。ところが,彼らはそうではなかつたのです! 彼らはヱホバの贈物をけいべつし,絶えず不平を述べて,自分自ら不幸な気持をいだくようになりました。イスラエル人が自分たちのためになされたヱホバの業を認めなかつたことは,まつたく愚かであると私たちは容易に理解することができます。しかし,当然になすべきことですが,私たちはその教訓を今日の状態に適用し,不平を言うことはどれ程重大なことであるかを理解していますか?
17 幸福を保つため,神の備えものと運営について不平を言うことは,いまなぜ愚かですか?
17 幸福を得ようとするためには,ヱホバの備え物を鼻であしらつたイスラエル人のように,ヱホバからより多くのもの,より良いものを要求すべきではありません。イスラエル人は愚かにも,それは良くもなければ,時機に適わず自分たちの気にいらないと泣き叫びました。それで,もはやヱホバが与えるため導かれていた相続を得ることはできなかつたのです。彼らは荒野で死ぬことになりました。それと同じく,いま神の運営の仕方に不平を言う人々も,間近かに迫つている新しい世の祝福を得ることができず,そして現在の幸福をも失います。ヱホバは新しい世を不平家で充たしません。そのことは丁度その時代の全部の者が不平を言つたために約束の地に入れなかつたという予言的劇の示す通りでした。―民数紀略 13,14章。
18 将来を深く考えるとき,どんな行は愚かですか? これと関連して,誰の経験を想い起しますか?
18 新しい世の祝福を深く考えることは,心を躍ろかすものであり,口や筆で言い表わすことができません。かつて,昔象徴的に言われたように,新しい世は『乳と蜜の流る地』に必らずなるでありましよう。(民数 13:27)そのような輝かしい将来を前に持ちながら,この世に後戻りしようなどと考える人は,いつたいいるでしようか? 約束の地に入るその間際になつて,辛いことと困難に直面したため,イスラエル人の全員は泣き叫びましたが,いま彼らの経験を思い起して下さい。『それで全会衆は声をあげて叫び,人々はその夜中泣き叫んだ。イスラエルの子はみなモーセとアロンに不平を言い始め,全会衆は二人にむかつてこう言つた。「ああ私たちはエジプトの地で死ねば善かつたものを。荒野で死ねば善かつたものを。ヱホバはなぜ私たちをこの地に導いて,私たちを剣で倒させるのか。私たちの妻や子は掠奪されてしまうであろう。エジプトに戻る方が良いではないか?」互にこうまで言いました「一人の長を任命し,エジプトに戻ろうではないか」』― 民数紀略 14:1-4。
19 あらゆる民の中で,なぜヱホバの証者は不平を言わず幸福ですか?
19 不平を言うことは,イスラエル人の場合のように憫めな存在に導きます。ヱホバは御自身の今日の証者を悪い世の圧迫から救い出されたということを忘れないで下さい。ヱホバの証者はこの悪い世の恐れを恐れず,そのわずらいに加らず,その重荷の下で働きません。私たちもまた保護をうけており,すばらしい霊的な仕方で養われており,そして栄光に充ちる新しい世は私たちの目標であることを記憶いたしましよう。なにか不平を言いたいと強く感ずるならば,私たちの動機を調べ,そして泣き叫んだイスラエル人のしたように,ヱホバを度外視することのないようにしましよう。ヱホバは私たちを何処に導き,また御自分の制度をどのように運営されるかをたしかに知つておられ,それにはあり余るほど多くの証拠があります。制度にかたくつき従い,制度の指示を忠実に守る人々は,非常に幸福な満足した民であります。この見方を持ち,神がむかし御自分の民のために成しとげられたすばらしい事がらを常に心に留めましよう。私たちのために神が今日なされていることと,そして私たちのものである将来の明かるい前途を決して忘れません。これら幸福な考えを心に思いつつ,私たちの忠実をかたく守ろうと決心しております。それに,過去の出来事を考えてみるとき,あらゆる民のうちでヱホバの証者は不平を言う理由を持たない民であると結論いたします。まつたく,ヱホバの証者は,キリスト・イエスのしたごとく,『幸福な神』を反映しつつ,不平を言うことなく,幸福であります。
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徳を高めるものを追い求めよものみの塔 1955 | 6月15日
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徳を高めるものを追い求めよ
1 すべての人は幸福を欲していますが,クリスチャンには,なぜ他のすべての人よりも,物事の明るい面を見る理由があるのですか?
ヱホバは御自身の像にしたがつて人間を創造されている故に,すべての人は幸福になることを欲します。クリスチャンは一般の人よりは,より一層幸福な者であります。クリスチャンは,物事の明るい面をいつも見ていますが,それは当然の理由があるのです。クリスチャンだけが,真正なよろこびをもたらす良いたよりの真実の源を持つているのです。(マタイ 5:3; 24:14,新世)神を崇拝し,忠実に神への奉仕をするとき,現在および永遠の幸福をたしかに受けることができます。(ヨハネ 13:17。マタイ 7:24)神に善意な気持ちを持つ多くの人にとつて,その結果は地上における永遠の生命であり,果てしない祝福をうけることです。『なんじ御手をひらきてもろもろの生けるものの願望をあかしめたもう。ヱホバはそのすべての道に正しく,そのすべての御業にめぐみ深し。』― 詩 145:16,17。
2 私たちはヱホバの善に,どのように答え応ずることができますか?
2 私たちはみなヱホバの善にたいして,まつたくうれしく感じます。さらに,感謝の心を持ちつつ次のイエスの言葉を守ることができます。『受けるよりは与える方が幸福である。』(使行 20:25,新世)幸福な人々,つまり親しい態度を持つていて他の人をも,自分たちの幸福に参加させようと強く願う人々を,ヱホバは御自分の崇拝のうちに共に召し集めておられます。それらの人々の会話は徳を
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