ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 混乱した世界における中立
    ものみの塔 1980 | 2月1日
    • 流血行為に関してわたしの手を打つ。……そしてわたしは……あなたの中からその汚れを滅ぼし絶やす。またあなたは……わたしがエホバであることを知らねばならなくなるであろう』」― エゼキエル 22:3,4,13-16,新。

      「エホバの大いなる日は近い」のです。(ゼパニヤ 1:14,新)ほんのしばらくすれば,流血の罪を負う世は滅びます。しかし,恐れることなく『世のものとはならない』人々に対して,エホバは次の招待を差し伸べられます。「行け,わたしの民よ,あなたの奥の部屋に入り,あなたの後ろで戸を閉じよ。告発が過ぎ越すまで,ほんのしばらくの間自分を隠せ。見よ,エホバはご自分の場所から出て来られ,ご自分に対する土地の住民の誤りの責任を問おうとしておられる。土地は必ずその流血をさらし出し,もはやその殺された者たちを覆うことはないからである」。(イザヤ 26:20,21,新)流血の罪を負う世界との清算をエホバが終えられた後,その清い民は奇跡的に備えられた隠れ場から姿を現わし,永遠の平和の宿る地上で生活を楽しみます。その地は二度と再び戦争や暴力による血で汚されることがありません。(詩 46:8,9)世は滅び去りますが,『世のものではない』人々は,神の新秩序にとどまって,神のご意志を永久に行なってゆきます。(ヨハネ第一 2:17)このように,エホバのクリスチャン証人は,混乱した世にあって,流血とは無縁のクリスチャンの中立の歴史を書き上げてゆくのです。

  • 私たちはあきらめませんでした!
    ものみの塔 1980 | 2月1日
    • 私たちはあきらめませんでした!

      イルゼ・ウンテルデルフェルの語った経験

      信仰の大きな試みにもめげず神への奉仕を100年以上も続ける

      友人のエルフリーデ・レールと私は,ドイツのラベンスブリュック強制収容所にいました。それは1939年9月のことで,第二次世界大戦の火ぶたが切られて間もないころでした。

      ラベンスブリュックの新しく建てられた収容所へ連れて来られる直前,リヒテンブルク強制収容所にいた私たちのところへ,ナチのSS(Schutz-Staffel,親衛隊)の隊長,ハインリッヒ・ヒムラーがやって来ました。その目的は,エホバの証人に神への信仰を捨てさせ,ナチの戦争遂行のための活動を支持させることにありました。しかし,私たちは面と向かって,それを拒否しました。それを聞いてヒムラーは激怒し,こう叫びました。「お前たちが望むなら,お前たちのエホバとやらは天で治めるがいい。だが,この地上で支配するのは我々だ。お前たちか,我々か,どちらが長く持ちこたえられるか目にもの見せてやる!」

      ほぼ六年にわたる長い年月の間,エルフリーデと私は,大勢のクリスチャン姉妹と共に,想像を絶するすさまじい状態に耐えることになりました。それでも,わたしたちエホバの証人は生き延びましたが,ヒムラーやヒトラーそしてそれに従がう仲間は消え去りました。

      それより幾年も前,まだ十代の少女だったころ,エルフリーデも私も神への奉仕に自分の命を用いること,またどんな事があってもあきらめないことを心に決めました。強制収容所に送られる前,厳しさを増してゆくナチの迫害に直面しながら王国の良いたよりを宣べ伝えた際に,わたしたちは神の保護を経験し,慰められました。そして,二人の献身した奉仕の年月が合計100年を数え,その100年目を終えたばかりの今日でも,その業に依然として携わっています。ともあれ,どのようないきさつでラベンスブリュックへ行くことになったかお話ししましょう。

      神への奉仕における初期の年月

      1926年,まだ16歳だったエルフリーデは水のバプテスマを受けることにより,神への献身を表わしました。エルフリーデは全時間の伝道活動を行なうことを心から願っていましたが,1930年の冬にその願いはかなえられました。エルフリーデは,重い病気にかかったために一時期活動が制限されましたが,1937年3月に,私が初めて会ったときには,地下活動に活発に携わっていました。エホバの証人の業はナチ政権配下のドイツでは禁令下に置かれていたのです。それで私たちの多くは,自分たちの自由を,いや命をさえ危険にさらしながら,国中に霊的食物を分配する業に携わりました。

      私の幼いころの目標は仲間の人間を助けることにありました。私は高校の教師になりたかったのです。しかし,1931年に,私は母と連れ立って,フランスのパリで開かれたエホバの証人の大会に出席しました。そこで学び,また経験した事柄は私の人生を変えました。翌年,私は,19歳でバプテスマを受けました。

      ヒトラーとその配下のナチ党は,1933年に政権を執ると,ほとんど時を移さずにエホバの証人を迫害するようになりました。ザクセンでの地下活動の伝達者として奉仕する特権を与えられたのは,私にとって大きな喜びでした。1936年8月,ドイツのゲシュタポ(秘密警察)は,私たちの地下組織に対する集中攻撃を開始しました。私たちの業を監督していたフリッツ・ウィンクラー,および地区指導者のほとんどが逮捕され,投獄されました。

      1936年の9月,私はドイツから300人ほどの人々と共に,大会に出席するためにスイスのルツェルンへ行くことができました。その地で,当時ものみの塔協会の会長だったJ・F・ラザフォードは,私たちのひどく混乱した地下活動を再組織する責任をエーリヒ・フロストにゆだねました。数日後,私はフロスト兄弟と一緒に働くよう任命されました。

      フロスト兄弟から与えられた割り当てによって,私はエルフリーデ・レールを探し当てるためにミュンヘンへ遣わされました。エルフリーデについて知らされていたことと言えば,その人の父親が歯科医だという点だけでした。私は電話帳で一家の住所を調べ当て,用心のためにまず電話を入れました。二人で会ったとき,私はエルフリーデに,彼女が私たちと共に全時間働くよう招待されていることを知らせました。43年にわたる親密な交友関係はこのようにして始まったのです。私たちは,その間40年以上にわたって,強制収容所での仲間,また全時間の伝道活動のパートナーとして過ごしました。

      地下活動

      私たちはだれもがゲシュタポに追われる身でした。それで普通は夜行列車で旅をして,その中で睡眠を取るようできるだけ努力しました。日中,私たちは様々な指定場所で兄弟姉妹たちと落ち合い,謄写版刷りの「ものみの塔」誌やその他の重要な通知を手渡しました。時には,関心のある人の家に泊ったり,ゲシュタポにまだ余り知られていない兄弟の夏の別荘に滞在することもありました。

      紙に書いた住所や他のいかなるメモも持ち歩かないようにしていました。すべてを暗記したのです。ですから,たとえ私たちが捕まったとしても,警察は他の人を連座させる証拠を手に入れることはできません。私たちは幾度も,身をもってエホバの保護を感じました。ルツェルン大会で採択された決議文を配布するための業を組織していた時には特にそう言えました。この決議文は,ローマ・カトリック教会の僧職者団とドイツ国内のその同盟者による,エホバの証人に対する残虐な仕打ちに強く抗議するものでした。1936年12月12日の午後5時から7時の間に,ドイツ中で3,459人ほどの兄弟姉妹たちが,この強力な音信の写しを幾十万部も配布する業に携わりました。

      そして,1937年3月21日,つまり私がエルフリーデに初めて出会ってから二週間もしないうちにフロスト兄弟と私は逮捕されてしまったのです。それとほぼ時を同じくして,ある地区の奉仕指導者たちもゲシュタポに捕らわれました。フロスト兄弟のいない間,まだ自由の身にあった,地区の奉仕指導者ハインリッヒ・ディーチー兄弟が業を監督しました。

      3月の終わりに予定されていた集まりにフロスト兄弟も私も姿を現わさなかったので,エルフリーデは何事か起きたに違いないと察しました。家に戻るわけにもゆきませんでした。ゲシュタポはエルフリーデをも捜していたからです。エルフリーデは,「だれがフロスト兄弟の後を継ぐのだろうか。どうしたらその人物に会えるだろうか」と考え,途方に暮れていました。エホバに祈った後,エルフリーデは,ミュンヘンから150㌔ほど離れた所にあるロイトキルヒという町にいる知り合いに当たってみることを思い付きました。まさにその日,エルフリーデはロイトキルヒで,自分を見つけるためにディーチー兄弟の遣わした兄弟に会ったのです。確かにこれは,み使いの導きのように思えました。

      12月12日に配布された決議文の内容は真実でないとナチスが主張したので,エホバの証人に対する迫害の具体的な証拠を記した「公開状」をドイツ中に配布するための取り決めが進められていました。フロスト兄弟と私は,この大きな運動の準備をしている最中に逮捕されたのです。今度はエルフリーデが,その準備を完了させるためにディーチー兄弟と密接に働き,その運動は1937年6月20日に行なわれ,上首尾に終わりました。「エホバの証人の1975年の年鑑」に載った,エルフリーデの報告は,次のような説明を加えています。

      「ディーチー兄弟はその運動を組織しました。私たちはみな勇気を抱いていましたし,万事見事に取り決められており,おのおのの地区には十分の分量の公開状がありました。私はブレスラウ周辺の区域のための公開状の入った大きなスーツケースを駅で受け取り,リーグニツの兄弟たちのもとに運びました。私もまた自分自身の分を持っており,所定の時刻に他の兄弟たちすべてと同様,それを配布しました」。

      この運動に先立つ数か月間,ゲシュタポは私たちの組織を壊滅させたと豪語していました。ですから,極めて組織的な仕方で,この公開状がドイツ中に幾十万部も配布されたとき,ゲシュタポは飛び上がらんばかりに驚き,面目を失いました。それは本当に大きな衝撃を与えたのです。

      再会

      このように,エルフリーデが自由の身にあった間,私はゲシュタポに捕らわれていました。当初私に言い渡された刑は1年9か月に過ぎませんでした。しかし,刑期を終えるとすぐに,再び逮捕され,1939年の初頭にリヒテンブルク強制収容所へ送られました。驚いたことに,私が到着してみると,エルフリーデがそこにいたのです。

      リヒテンブルクにいた私たちクリスチャンの姉妹すべてが新しいラベンスブリュック収容所に連れて来られたのは1939年の夏のことでした。私たちは幾度となく,「ラベンスブリュックへ連れて行ってやるから覚悟しておけ。お前たちをへたばらせてやるからな」という,脅し文句を聞かされました。新しい収容所は砂漠を思わせるような所に建っていました。上部に鉄条網を張り巡らした高い壁や収容者のためのバラック,親衛隊員の家屋などがすでに完成していました。しかし,ほかはどこを見回しても荒れ地で,労働者,すなわち収容者を待っていました。

      信仰の試み

      1939年の秋には,ラベンスブリュックにいるエホバの証人の婦人は約500人を数えていました。数人の姉妹たちが,軍服に弾薬用のポケットを縫いつける仕事を断ったのは,12月19日のことでした。その姉妹たちの良心は,そのような仕方で戦争の遂行を支持することを許さなかったのです。その後すぐに,私たち全員が収容所の広場に呼び出され,その仕事を行なうかどうか尋ねられました。私たちは異口同音にそれを拒みました。その結果,クリスチャンの中立を無理やり捨てさせ,戦争の遂行を支持させようとする運動が始まりました。―イザヤ 2:4。

      まず手始めに,私たちは薄手の夏服を身にまとっただけで,朝から晩まで寒さの厳しい屋外に立たされました。しかも,その年はドイツの冬の中でも特に寒さが厳しく,気温は零下15度ないし20度にまで下がりました。夜は夜で,独房棟に監禁され,何もない床の上に毛布なしで眠らねばなりませんでした。しかも,厳寒の冷気が入り込むように,わざわざ窓が開けられていました。それだけではなく,最初の日には,食べ物が何一つ与えられませんでした。続く四日間もこうした仕打ちが加えられ,食糧の配給量は通常の半分に減らされました。それからさらに三週間,暗い監房の中に閉じ込められ,その間,温かい食べ物は四日に一度しか食べさせてもらえませんでした。そのほかの日には,毎朝,一枚のパンと一杯のブラック・コーヒーが与えられました。クリスマスの祝い(12月25日から27日まで)の間には,全く何も与えられませんでした。

      その後,自分たちのバラックへ帰されましたが,そこは三か月間にわたって処罰中のバラックとされました。これは食事の量が減り,質も落ちることを意味し,その上,週七日間,朝から晩までつらい土木作業をさせられることを意味しました。また,医療も与えられません。親衛隊の指揮官たちは,度々,『戦争の遂行を支持しようとしないなら,煙突を通って煙になって出る以外,ここから出られないと思え』と言ったものです。

      1940年の春には,私たちは骨と皮だけになっていました。私たちはきっと,ばたばたと死んでいったことでしょう。しかし,ヒムラーから直接挑戦を受けたエホバ神は,最悪の状況の下でもご自分の民を保護する力を持っておられることを示されました。500人の姉妹たちのうち一人として重病で倒れた者はおらず,一人の死者も出ませんでした。親衛隊員の中にさえ,「それはお前たちのエホバが助けてくれたからだ」と言う者がわずかながらいました。そして,さらに重要なこととして,あきらめて妥協した姉妹は一人もいませんでした。全員が忠節を保ったのです。まさに,エホバへの忠誠が勝利を収めました!

      エルフリーデも私も死を覚悟していたと言ってよいでしょう。私たちはどんなことが起きても,エホバに忠実を保つ決意でいました。私たちは使徒パウロと共に,次のように言うことができました。「わたしたちは,生きるならエホバに対して生き,また,死ぬならエホバに対して死ぬからです。それゆえ,生きるにしても死ぬにしても,わたしたちはエホバのものなのです」― ローマ 14:8。

      ラベンスブリュックでの毎日

      しかし,間もなく,事態は好転しました。多くの農業労働者たちが兵隊に取られたため,農村の労働力が不足するようになりました。そのため,収容所の受刑者たちはラベンスブリュックの近く

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする