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第2部 ― ドイツ1975 エホバの証人の年鑑
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に来なければならなかったのかが今わかりました。フランズさん,私はどうしても話しておきたいのですが,この独房に入る前に私は信仰の厚い人の所に入れていただきたいと神に祈りました。さもなければ,自殺をする考えでいました。……』
「何週間そして何か月かが過ぎてからのことですが,アントンは私にこう言いました。『私がこの世を去る前に,妻と子供たちが真理を見いだせるよう神に助けていただけるなら,私は安らかな気持ちで去って行けます』。……すると,ある日,彼は妻から次のような一通の手紙を受け取りました。
「『……もしあなたが何年か前にあのドイツ人からお求めになった聖書と書籍類をお読みにさえなれるなら,私たちはどんなにか幸せなことでしょう。万事がそれらの書籍の言うとおりになりました。私たちはそのために決して時間をさきませんでしたが,これこそ真理です』」。
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第3部 ― ドイツ1975 エホバの証人の年鑑
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第3部 ― ドイツ
強制収容所における霊的食物
兄弟たち,とりわけ強制収容所内で兄弟たちが「孤立させられ」ていた何年かの間,聖書あるいは他の出版物を入手する機会にはほとんど恵まれませんでした。ただ,中庭に何時間も立たねばならなかったりした時,あるいはバラックの中で晩の少しの静かな一時を過ごしたりする時,「ものみの塔」誌の重要な記事の内容を思い起こすために相当の努力が払われました。何らかの方法で聖書を入手できた時の兄弟たちの喜びは特に大きなものでした。
エホバは時には,興味深い方法を用いてご自分のしもべたちに聖書を入手させてくださいました。レンヒュン(シュワルツワルト)出身のフランズ・ビルクは,ブッヒェンワルトである日,この世の一囚人から聖書を1冊入手したいかどうかを尋ねられた時のことを覚えています。囚人は自分の働いていた紙の工場で聖書を1冊見つけていたのです。もち論,ビルク兄弟は感謝してその提供物を受け取りました。
また,1943年のことですが,単に当時の時代の圧力に動かされて親衛隊の組織に加わった年配のある親衛隊員が休日に聖書を求めて何人かの牧師を訪ねたのをフランケ兄弟も覚えています。牧師たちは皆,残念ながら聖書はもはや手もとにはないと述べましたが,その晩,彼は遂にある牧師を見つけました。特別の理由があってルーテル訳の小型の聖書を取って置いたと述べたその牧師は,親衛隊員が聖書に関心を示すのを見て大いに喜んだものの,その聖書をもらって行くと告げられました。翌朝,この白髪まじりの親衛隊員はその聖書をフランケ兄弟に与えましたが,自分の監視している囚人の一人にその贈物を与えることができたので明らかに喜んでいました。
時が経つにつれて新しい「ものみの塔」誌の記事を強制収容所にひそかに持ち込むことができるようになりました。ビルケンフェルトの強制収容所では次のようにして持ち込まれました。囚人たちの中に,建築に通じていたため,エホバの証人に好意を持つある民間人と一緒に働くようになった兄弟がいました。彼はその親切な人を通して収容所の外部の兄弟たちと連絡を取り,兄弟たちはまもなく最新の雑誌をその人に供給したのです。
ノイエンガム収容所の兄弟たちも同様の機会を捉えました。同収容所のおよそ70人の兄弟たちのほとんどは空襲後のハンブルク市内で焼け跡をかたづける仕事をさせられました。そのハンブルク市内で兄弟たちは聖書を入手し,ある時など,ほんの数分のうちに3冊見つけることもできました。自らそのことを経験したウィリー・カルガーはこう述べています。「デーベルン出身のある姉妹が私たちにもたらした別の霊的食物についてお話ししましょう。その事が決して忘れられませんように。彼女の兄,ハンス・イェガーはハンブルクの近くのベルゲドルフの作業班に所属しており,グルンツ鉄工所で働かされました。私たちは厳重な監視下で重労働をさせられることになりました。それにもかかわらず,イェガー兄弟はひそかに手紙を持ち出させ,昼の時間中の彼の居場所を妹に知らせることに成功しました。彼の妹は汽車でハンブルクに着き,そこからは『慎重に行動して』私たちの働いている場所に注意しながらやって来ました。彼女は求められた雑誌を私たちの手に渡すことに成功し,こうして親衛隊の監視下にもかかわらず,エホバの監督のお蔭で貴重な雑誌が見つけられることなく収容所にもたらされました。
皆がさまざまの違った方法を考え出したので,時が経つにつれて収容所には多数の聖書が持ち込まれました。ある兄弟はダンチヒにいる妻に宛てた手紙の中で『エルベルフェルトのしょうが入りケーキ』を食べたいと書いたところ,次に送られてきた(当時その収容所では兄弟たちが受け取ることのできた)食糧袋からは焼いたしょうが入りケーキの中に注意深く入れられていたエルベルフェルト聖書を入手しました。ある兄弟たちは火葬場で働く囚人と接触を持っていました。それら囚人たちは火葬場でたくさんの本や雑誌が焼かれているということを話したので,兄弟たちは自分たちの貯えていた食物の一部と引き替えに聖書や雑誌を入手する取決めをひそかに設けました。
ザクセンハウゼンでは依然「隔離施設」にいる兄弟たちも聖書を何冊か入手しました。不思議に思えるかもしれませんが,隔離施設はこの場合,ある程度の保護をもたらすものとなりました。ある兄弟は隔離施設に通ずる入口を見張るよう割り当てられただけでなく,戸の鍵をも持っており,入口に鍵をかけたり,その鍵をあけたりしなければならなかったからです。室内には大きなテーブルが七つあり,56人の兄弟たちがその回りに腰かけました。しばらくの間,一人の兄弟が聖句を取り上げて15分間注解を述べ,その間に他の兄弟たちは朝食を取りました。これはそれぞれのテーブル,またその回りに腰かける兄弟たちの間で交替で行なわれました。中庭に何時間も強制的に立たされた時,兄弟たちはその注解を会話の主体にしました。
1939年から40年にかけての厳寒の冬の間,証人たちはこの文書の問題で祈りのうちにエホバに嘆願したところ,ご覧なさい,奇跡です! エホバはある兄弟に保護の手を差し伸べられたので,彼は厳重な検査を受けたにもかかわらず,木製の義足の内側に「ものみの塔」誌を3冊入れて,ひそかに「隔離施設」に持ち込むことができました。兄弟たちはベッドの下にもぐり込んで懐中電燈の光を頼りにそれを読み,他の人たちはその左右に立って見張りをしなければならなかったとはいえ,それはエホバの驚くべき導きがあったことの証拠です。良い牧者であられるエホバはその民を見捨てることはなさいません。
兄弟たちが「隔離施設」から解放された1941年から42年にかけての冬には,ダニエル書 11および12章を扱った「ものみの塔」誌7冊,初めてミカ書を論じた雑誌,「キリスト教に対する十字軍」と題する書籍そして「会報」(現在の「王国奉仕」)のすべてが一度に届きました。それは本当に天からの贈物でした。彼らは今や他の国々の兄弟たちとともに,「北の王」と「南の王」に関する明確な理解を得ることができたからです。
「隔離施設」以外の囚人たちには日曜日の午後には自由時間が与えられたうえ,その午後になると,ブロックの政治上の監督は他のバラックにいる友人に会いに行ったので,幸いにも兄弟たちは数か月の間,毎週日曜日に「ものみの塔」研究を開くことができました。平均220人ないし250人の兄弟たちがその研究に参加する一方,6,70人の兄弟たちが収容所の入口に至るまで見張りを行ない,危険な事態が生じたならすぐ特定の合図を出すことにしていました。ですから,研究中に親衛隊員に不意をつかれたことは一度もありませんでした。1942年に行なわれた研究は,出席した人たちにとって忘れ難い思い出になりました。ダニエル書 11,12章の預言に関するすばらしい説明に非常に深い感銘を受けた兄弟たちは,研究の終わりに,王国の歌を所々に挿入した民謡を喜びにあふれた行進曲風の調子で歌いました。それで,バラックから数メートル離れた監視塔にいる番兵には怪しまれずに済ました。むしろ,番兵は美しい歌声を聞いて楽しみました。ちょっと想像してみてください。投獄されているとはいえ,250人の男子が現実には声を合わせ,魂をこめてエホバを賛美する歌を自由に歌っているのです。何という背景でしょう。天のみ使いたちもともどもに声を和したのではないでしょうか。
強制収容所内の人たちに対する圧力は緩和される
エホバの忠実な証人たちの血は,ナチ政権が完全に崩壊する時までナチの処刑センターで流され続けましたが,それでも,エホバの証人は火葬場の煙突を通る以外絶対に強制収容所を出ることはできないと再三断言していた者たちの武器の威力は衰え始めました。また,戦争が提起した問題もありました。それで特に1942ないし43年以降,エホバの証人は比較的に平穏な状態に置かれる時期がありました。
戦争は今や全面戦争と化し,事態は利用できる諸勢力すべてを総動員するまでに変化しました。そのため,1942年に政府は国の経済に資する生産計画にできるだけ囚人を加わらせ始めました。この点に関連して,親衛隊隊長ポールが「強制収容所の状態」について彼の上司であるヒムラーに伝えた所見は興味深いものです。
「戦争は強制収容所の機構に明白な変化をもたらし,囚人の使用に関して収容所の機能を根本的に変化させるものとなった。
「単に安全や教育もしくは犯罪予防上の理由ゆえに囚人を監禁することはもはや主要な事柄ではなくなった[大量虐殺のことは触れられてさえいない]。事態は一変して物事の経済面が強調されるようになったのである。全囚人をまず第一に戦争に関係した仕事(軍需生産の増強)に,次いで第二に平和に関係のある事柄のために総動員することが,いよいよ支配的な要素となっている。
「目下講じられている必要な措置は,強制収容所の以前の偏ぱな政治的企画を徐々に変更し,収容所を経済上の必要にかなう組織に変えなければならないというこうした認識の結果である」。
もち論,そうした転換を行なうためには,囚人をもっと有効に用いて仕事をさせねばならず,それにはもっと良い食べ物を囚人に与えることが必要でした。そのために兄弟たちの苦しみはいっそう緩和されることになりました。役人たちはまた,ごく少数の例外を除いて実に利口だったので,兄弟たちを軍需関係の工場に入れようとはせず,むしろそれぞれの職業技能に応じて兄弟たちを色々の仕事場で用いました。
その間にエホバはご自分の分を尽くされました。エホバは人間の心を ― 敵の心をさえ ― 水の流れのように動かすことができるからです。その著しい実例はヒムラーです。何年もの間,彼はエホバの忠実なしもべたちの生命に関しては自分だけが決定を下せると考えていましたが,「聖書研究者」に関するその考えを突然変え始めました。彼の主治医であったフィンランド人のケルステンという医師が重要な役割を果たしたのです。
マッサージ師ケルステンは,いつもかなり病気がちだったヒムラーに強力な影響を及ぼし始めました。エホバの証人が残忍な迫害を受けていることを聞いた彼は,ある日,ベルリンの北およそ70キロの所にあるハルツワルデの自分の屋敷で使うため何人かの女性を与えるようヒムラーに要求しました。ヒムラーはためらいはしたもののその求めに応じ,後日ケルステンの再度の要請を認め,強制収容所からある姉妹を釈放したので,彼女はスウェーデンにあるケルステンの別の家で働くことができました。ケルステンが強制収容所の状態や何年もの間とくにエホバの証人が被ってきた筆紙に尽くせない苦しみに関する真相を初めて聞かされたのはそれらの姉妹たちからでした。自分の施したマッサージのためにその極悪な男が殺人の仕事を遂行するに足る十分の健康を再三取り戻す結果になったのを知って仰天した彼は,自分の影響力を行使してそれら囚人すべての苦しみを少なくともある程度軽減させてやりたいと決心しました。そのようなわけで,特に終戦までの時期に何万人もの囚人がせん滅されずに済んだのは彼の影響力のせいだったと言うことができます。とりわけエホバの証人にとって彼の影響力は非常に有益なものとなりました。それはヒムラーがその最も親しい同僚であった親衛隊の最高指導者,ポールとミュラーに書き送った手紙からもわかります。「機密」というスタンプの押されたその手紙には一部次のように記されています。
「同封の報告は,私の主治医の農場で働いている十人の聖書研究者たちに関するものである。私は敬謙な聖書研究者の問題をあらゆる角度から研究する機会を得た。ケルステン夫人は非常に良い提案をしてくれた。彼女はそれら十人の女性ほどに善良で,進んで働く,忠実で,従順な職員をかつて一度も用いたことがないと述べた。これらの人々は愛と親切の気持ちから多くの事を行なっている。……それらの女性の一人はある時,客からチップとして5マルクもらったが,彼女はその家に非難を招きたくはなかったのでお金は受け取ったものの,収容所ではお金を持つことが禁じられていると言ってそれをケルステン夫人に渡したのである。それらの女性は要求された仕事は何でも自発的に行なった。晩には編み物をし,日曜日にはほかの仕事を忙しく行なった。また,夏の間は機を逸さず,いつもより2時間早く起きては幾つかのかごに一杯きのこを取ってきた。しかも,1日に10時間,11時間または12時間働くよう要求されていたのである。こうした事実により聖書研究者に関する私の心像は完全に描き出された。彼らは信じ難いまでに熱狂的で,喜んで働き,進んで自らを犠牲にする人々である。もし彼らの熱狂的行為をドイツのために生かす,あるいはそれほどの熱狂的行為をわが国民に浸透させることができれば,われわれは今日以上に強い国民になれるであろう。もち論,彼らは戦争を否認するゆえにその教えはきわめて有害であるため,それを認めようものなら,わが国は最大の損害を被らずには済まないであろう。……
「彼らを処罰したところで何も達成されない。受けた処罰について後日彼らは熱意を込めて語るだけだからである。……受けた処罰は皆,あの世のための功績として役だつのである。真の聖書研究者はすべてためらうことなく処刑に臨むのはそのためである。……地下牢への監禁,飢えの苦しみ,寒さに凍えることはすべて功績,処罰も殴打もすべてエホバに関しては功績なのである。
「今後収容所で聖書研究者に関係する問題が生じた場合,私は収容所の司令官が処罰を申し渡すことを一切禁ずる。そのような事件は事情に関する簡単な説明を添えて私に報告しなければならない。これから私は正反対の処置を講じ,当事者各自に対して,『お前は一切働いてはならない。お前にはほかの者よりも良い食べ物を与えるが何もしてはならない』と命ずる予定である。
「というのは,そうなれば,これら温厚な精神異常者の信仰によると功績は絶え,それどころか逆に以前の功績はエホバにより減らされることになるのである。
「さて,私の提案は,聖書研究者全員を仕事に ― たとえば,戦争とそのすべての狂気ざたに全く関係のない畑仕事などに従事させることである。仕事を正しく割り当てたなら,監視せずに放置しておいてもよい。彼らは逃げ去りはしない。彼らには自由な仕事を与えてよい。彼らは最良の管理者で,最良の労働者であることを示すであろう。
「ケルステン夫人の提案した,彼らを使用する別の方法として,われわれは聖書研究者を『レーベンスボルンハイメ』(最優秀民族を生み出すために親衛隊員の手で養育される子供たちのための家)で看護婦としてではなく,むしろ料理人や家政婦として,あるいは洗濯その他の仕事に用いることができる。門衛として依然男子を用いている場合は,がっしりした聖書研究者の女子を用いることができよう。たいていの場合,彼らに関してはほとんど問題は生じないと私は確信している。
「私はまた,聖書研究者を大家族に割り当てるという提案にも賛成である。必要な能力を備えた,資格のある聖書研究者たちを探して私に報告してもらいたい。そうすれば,私が直接それらの者を大家族に割り当てることができる。それらの家では囚人服ではなく,民間人の服を着用すべきであり,ハルツワルデで自由な住み込み実習者として働いている聖書研究者たちの場合と同様の仕方で滞在すべきである。
「囚人たちを半ば自由の身としてそうした仕事に割り当てる場合はすべて,記録書類や署名を避けて,ただ握手だけを交してそうした協約を結びたいと考えている。
「この処置を始めるに当たり,貴下の推薦状とそれに関する報告を送ってもらいたい」。
それで推薦状が送られ,短期間のうちにかなり多くの姉妹たちが親衛隊員の家庭や野菜栽培場,屋敷そして「レーベンスボルンハイメ」に送られて働きました。
しかし,親衛隊員がエホバの証人を喜んで自分たちの家に迎え入れた理由はほかにもありました。親衛隊員は一般の人々の間に暗に憎しみが増大しており,自分たちが単にひそかに笑いものにされているのではないことに気づいていたのです。彼らの多くは自分たちの女中をさえ信用せず,女中が食べ物の中に毒を入れはしまいか,あるいは何らかの方法で自分たちが殺されはしまいかと恐れていました。時が経つにつれて親衛隊の幹部将校は,のどを切られはしまいかと恐れて普通の理髪店にさえ行こうとしなくなり,マックス・シュレールとパウル・ワウエルが定期的に彼らの顔をそる仕事を割り当てられました。エホバの証人なら決して復讐したり,敵の人間を殺したりしないことを知っていたからです。
収容所の外で働くことになったそれらの兄弟姉妹たちは親族の訪問を受けたり,自ら親族を訪問したりすることさえ許され,中にはそのための数週間の休暇を与えられた人もいました。その結果,やがて兄弟姉妹たちはさらに多くの食物を入手でき,彼らの健康状態は急速に改善され,飢えや虐待による死亡者数は減少するようになりました。
強制収容所の当局者の態度がエホバの証人にどれほど有利に変化したかは,ラインホルト・ルューリングの経験からもわかります。1944年2月のこと,ある作業班にいた彼は突然呼び出しを受け,収容所の事務所に出頭するよう求められました。その事務所こそ,大勢の人々が虐待され,エホバに対する信仰を放棄するよう説得するためのさまざまの試みがなされた所でした。向かい合って腰かけた将校たちから,ある屋敷を管理し,そこの仕事や労働者たちを正しく指導してもらえまいかと依頼されたとき,ルューリング兄弟はどんなにか驚いたことでしょう。彼らの質問にすべてはいと答えた同兄弟は後日,他の15人の兄弟たちと一緒にチェコスロバキアに送られ,ヘイドリヒ夫人の屋敷を管理することになりました。
全員優れた職工である42人の兄弟たちで成るある作業班は,親衛隊のある幹部将校の家を建てるためにオーストリアのウォルフガング湖畔に送られました。山腹での仕事は容易ではありませんでしたが,その他の点では兄弟たちはずっと楽な生活をしました。たとえば,その一団に属していたエーリヒ・フロストは自分の家からアコーディオンを取り寄せる許可を得ました。それが送られて来た後,彼と他の兄弟たちはしばしば晩になると湖畔に出る許可を得,湖の岸で民謡やコンサート用の小曲を演奏し,兄弟たちだけでなく,兄弟たちの仕事を監督していた親衛隊員を含め,湖畔に住む人たちもその演奏を楽しみました。
また,強制収容所内の兄弟たちに霊的な食物を供給することも引き続きさらに容易になりました。この点ではケルステン博士の演じた役割は決して小さなものではありませんでした。彼はしばしばスウェーデンの自宅とハルツワルデの屋敷の間を往き来していたからです。彼はいつも,その屋敷とスウェーデンの自宅で働くようヒムラーから与えられた姉妹たちにスーツケースに荷物を詰めさせることにしていました。その両者の間には暗黙の了解があって,スウェーデンの姉妹はケルステンのスーツケースに荷物を詰める際,何冊かの「ものみの塔」をその中に入れました。ハルツワルデに着くと彼は,そこで自分のために働いている姉妹を呼んで,いつもその姉妹だけにスーツケースを開かせました。姉妹たちはそうして得た「ものみの塔」誌を注意深く研究した後,それらを近くの強制収容所に回していました。
ハルツワルデにあるケルステン氏の屋敷は,ラベンスブリュックの女子収容所の南約35キロ,ザクセンハウゼンの男子収容所の北約30キロの格好な場所にありました。同地からはその両方の収容所に物品が絶えず輸送されていたので,それら収容所の兄弟姉妹のもとに霊的な食物をひそかに送り込むのは難しいことではありませんでした。
こうして,各地の収容所と,姉妹たちが親衛隊員の家族のために働くよう割り当てられた隊員個人の家との間にはたいへん密接な連絡が保たれました。この興味深い時期のことについてイルゼ・ウンテルデルフェルはこう伝えています。
「私たちの働いた場所ではかなりの自由に恵まれ,検閲を受けずに親族に手紙を送ることに成功しました。私たちはまた,収容所の外で働いていた兄弟たち,あるいは親衛隊員のために働く,責任のある立場につけられ,いっそう自由に恵まれた兄弟たちと連絡を取ることもできました。そうです,自由の身で生活していた兄弟たちと接触して,『ものみの塔』誌を入手することにさえ成功しました。以前学んだ事柄や新たに入って来た人たちから聞いた新たな真理を基にして何年間も生活してきた後だけに,『ものみの塔』を再び直接読めるようになった時には驚くほど気持ちがさわやかにされました。私は親衛隊将校ポールの管轄下にあったラベンスブリュックの近くのある親衛隊員の農場に割り当てられ,囚人管理者として姉妹たちの仕事を監督する責任を与えられました。私たちのうち何人かはその農場で眠り,もはや収容所に行く必要さえ全然ありませんでした。こうして私は,ある姉妹から渡された手紙に記された取決めに従って,ベルリンから来たフランズ・フリッチェと連絡を取り,ある晩農場の森の中で彼に会うことができました。彼はいつも私に何冊かの『ものみの塔』誌を供給してくれました。そのうえ,私たちはまた別の方法で霊的な食物を受け取りました。ある工場で働いていたふたりの姉妹がやはり『ものみの塔』誌を何冊か収容所に持ち込んだのです。こうしてエホバはたいへん危急な時に愛をもって私たちを世話してくださいました」。
霊的な食物をより容易に入手できたので,それを他の人々にも得させようと努力した兄弟たちはエホバから祝福されましたが,そのことはフランク・ビルクの寄せた記録からもわかります。彼はハルツワルデの屋敷に連れて行かれた人たちの一人でした。彼らはまもなく,ある兵隊の監督下で働く,投獄された他の兄弟たちが10キロほど離れた森の中で建物の建築に従事しているということを聞きました。ハルツワルデの屋敷の兄弟たちは既にある程度の自由を享受していたので,その森にいる兄弟たちに会う機会を求めました。
ビルク兄弟はこう伝えています。「ある日曜日の朝,クレマー兄弟と私は自転車に乗ってそれらの兄弟たちを捜しに出かけました。森に入ると間もなく,切り開かれた土地に建築中の新しい建物が立っているのを見つけました。その空き地をひとりの囚人が横切るのが見えたので,私たちが手を振ると,彼は森を通って私たちの方にやって来ました。やがて上衣に薄紫色の三角形のバッジが見えたので,彼が兄弟であることを私たちは知りました。私たちはハルツワルデの作業班の者であることを述べると,彼は私たちをその新しい建物に案内しました。私たちは新しい『ものみの塔』誌を持っていたので,腰をおろして研究を始めました。その後,私たちは毎週日曜日にその兄弟たちを訪ねました。彼らはフライブルク出身のある特務曹長の監視下にありましたが,同曹長は兄弟たちに対して親切でした。クリスマスの少し前,私は彼に,『あなたや私の兄弟たちが今度の祝日にハルツワルデの屋敷を訪ねてはいかがでしょうか』と尋ねてみました。彼は考え深げに,自分の作業班の者たちをどこかへ連れていって散髪をさせてやりたいと思っていると答えました。ハルツワルデの私たちのところに理髪師が一人いると聞くと,彼はすぐ勧めに応じました。それでクリスマスの日の早朝,兄弟たちはその将校に伴われて農場にやって来ました。台所で働いていたベルリン出身のシュルゼ姉妹は特にその将校を丁重にもてなし,私たちの互いの交わりが妨害されないようにしました。兄弟たちはその晩,一緒に楽しんだ祝福された集いの喜びに満たされて家に帰りました。ちょっと考えてみてください,私たちの敵のただ中でそうした事が起きたのです!」
やがて全強制収容所に霊的な食物を持ち込める可能性が増大しました。アウシュヴィッツに拘禁されたゲルトルド・オッツと他の18人の姉妹たちは,親衛隊員の家族の住んでいるホテルに送られて働きました。他の人々もそのホテルに来て食べたり飲んだりしていたので,ほどなくして,なお自由の身であった姉妹たちは,投獄中の仲間の姉妹たちが窓ふきをしているのを見つけました。そして,そばを通り,上を見上げずに小声で,「私たちも姉妹なのよ」とつぶやきました。3週間後,姉妹たちはトイレで会うよう取り決めました。それ以後,その姉妹たちは定期的に外からやって来ては,ホテルで働く姉妹たちに「ものみの塔」誌や他の出版物を渡し,ついでそれら文書はラベンスブリュックに送られました。
1942年の12月初めのこと,ウェヴェルスブルクに残っていた約40人の兄弟たちは,そこで特別の仕事に携わるすばらしい機会を得ました。依然収容所として扱われてはいましたが,彼らはある程度の自由に恵まれました。というのは,もはや彼らを収容所内に留まらせておく電流の通った有刺鉄線もなければ,見張りもいなかったからです。
当時,なお自由の身だったエンゲルハルト兄弟は,同収容所の近くに住んでいる兄弟たちに「ものみの塔」誌を収容所内に送り込む方法を見つけるよう指示しました。幾つかの問題を克服した後,ヘルフォルト出身のサンドル・バイエルとレムゴ出身のマルタ・チュンケルは,若い夫婦のような格好でその地区をただ散歩しながら通って様子を探りました。二人はまもなく兄弟たちと接触し,その後定期的に「ものみの塔」誌を兄弟たちに供給しました。まず最初,ふたりは墓地の特定の墓石のそばで兄弟たちと会い,次は麦わらの山の中に雑誌を隠しておいたり,あるいは前もって決めておいた場所で真夜中に雑誌を直接兄弟たちに手渡したりしました。またそのたびに,次に会う新たな場所を決めました。雑誌を生産し,配っていたエンゲルハルト兄弟や姉妹たちが逮捕されてからは,なお自由の身であった人たちにどうすれば霊的な食物を供給できるかが問題になりました。
今度はウェヴェルスブルクにいる兄弟たちが自ら解決策を見いだすよう努力しました。兄弟たちはタイプライターを1台入手することができ,ひとりの兄弟はそれを使って原紙を切りました。別の兄弟は板材を利用して簡単な謄写版印刷機を組み立てました。兄弟たちとなお接触していた外部の姉妹たちは謄写版印刷に必要な資材を兄弟たちに届けました。そして遂には,北部ドイツのかなり広い地域に供給するに足るほどの非常に多くの量の「ものみの塔」誌がそこで生産されるようになりました。エリザベス・エルンスティングは自分の受け持っていた区域に供給するため,いつも「ものみの塔」誌を50冊受け取っていたことを覚えています。こうして,ナチ政権が1945年に崩壊するまでのほとんど2年間,ウェストファーレンその他の地域に住む兄弟たちに「ものみの塔」誌を供することができたのです。
強制収容所内の兄弟姉妹のための霊的な食物の供給量は大いに改善されたため,ザクセンハウゼンにおける1942年までのそれは小川の流れに例え得るほどでした。ナチ政権崩壊直前に死刑を宣告されながら処刑を免れたベルリン出身のフリッチェ兄弟は,1年半余の期間にわたって新しい雑誌すべてを供給できただけでなく,その間に発表された書籍や小冊子すべてはもとより数多くの古い号の雑誌をも供給できました。兄弟たちはあたかも豊かな牧場に導かれたかのようでした。兄弟たちは皆,協会の出版物を1冊持っていて毎晩研究できたからです。何という変化でしょう。しかも,それがすべてではありませんでした。組織が非常によく運営されたので,フリッチェ兄弟は仲間の兄弟たちの親族に宛てて,あるいは他の収容所内の兄弟たちや外国の支部に手紙を出すことができました。こうして,1年半の間に150通ほどの手紙をひそかに送り出したり,ほとんどそれと同数の手紙を収容所にこっそり持ち込んだりすることができました。送り出された数々の手紙は,兄弟たちが霊的に優れた状態を保っていたことを証するものでした。そうした手紙のコピーが数多く作られたのももっともなことでした。中には謄写版で刷られた手紙さえありましたが,それは外部の兄弟たちに,とりわけ投獄されている人たちの親族に励みを与えるものとなりました。
収容所内で大胆に宣言された神権的一致
フリッチェ兄弟が逮捕された1943年の秋までの約1年半の間,万事順調に進みました。ところが,各地での家宅捜索にさいしてザクセンハウゼンに関する報告が見つかり,同兄弟に注意が向けられるようになりました。警察は彼が所有していた「ものみの塔」誌その他の出版物だけでなく,彼が届けようとしていた兄弟たちからの何通かの手紙をも発見しました。手紙による通信連絡がほとんど国際的な規模で行なわれていることを知った警察は,収容所の指導者たちの責任遂行能力もしくは意欲のほどを疑うようになりました。そこでヒムラーは,疑わしい収容所すべてを直ちに調査するよう命じました。
その運動は4月の終わりに開始されました。ある朝,秘密警察の何人かの役人がザクセンハウゼンにやって来ました。兄弟たちに対するその突然の攻撃は十分に計画された処置でした。収容所内で働いていた人たちはそれぞれの作業場から呼び出され,中庭に立つよう命じられ,そこで日々の聖句について尋問され,また衣服の上からさわって調べられました。そして,何冊かの出版物が見つけられ,所持者はみないつものむち打ちの罰を受けました。しかし,ゲシュタポは兄弟たちをおじけさせることはできませんでした。それはエホバが敵のただ中で兄弟たちを豊かに養っておられたからです。兄弟たちは自分たちの使命をはっきりと理解しており,恐れることなく一致団結して神権的支配を支持する立場を取りました。
エルンスト・ゼリンガーはフリッチェ兄弟と連絡を取っていることが知られたため,特に「注目」されました。同兄弟は身体面の傷だけでなく,霊的な面の傷をも包んで癒すことに努め,その謙遜な,慈父のような態度はこの収容所の兄弟たちの享受した一致した関係に大きく貢献しました。しかし彼は,最初に受けた尋問の結果を非常に憂慮し,彼はそれを「敗北」とみなし,それを勝利に変えていただきたいとエホバに祈り求めました。しかし,それはただ一人の人の試練として終わるものではありませんでした。ヒルデン出身のウィルヘルム・レガーはその事情を,「今やそれは,『一人が身代わりになるか,それとも全員が滅びるか』のどちらかでした」と説明しています。互いに励まし合うため日々の聖句を自分が回していたと自供したゼリンガー兄弟の声明書がそのとおりであることを兄弟たちは全員認めました。また,ゼリンガー兄弟が収容所に持ち込んだ文書を読んでいたこと,そして今後も互いに励まし合い,将来に対する自分たちの希望について語り続けるつもりであることをも認めました。
四日間が過ぎました。そして日曜日の朝,ゼリンガー兄弟は収容所の管理部に出頭しました。それは当局者が調書を取るためでした。彼はその経験をこう述べています。「最初,私は三つの病室[彼が助手として働いていた場所]で証言しました。……次いで私は喜びにあふれながらライオンの穴に入りました。私たちが非合法な仕方で収容所から送り出した手紙類を一人の医師と一人の薬剤師が調べていました。それから2時間にわたる激しい論争が続きました。そして,調書を取り終わる時になって,尋問を行なった将校がこう言いました。『ゼリンガー,お前はこれから何をするつもりだ。これからも日々の聖句を書いて,お前の兄弟たちを励ますつもりか。この収容所の囚人たちの間で伝道を続けるつもりなのか』。『はい,全くそのとおりです。私だけではなく,私の兄弟たちも全員そうするつもりでいます!』……尋問は2時に終わり,兄弟たち全員の名において記された宣言書が当局者側に提出されました。それで兄弟たちは皆」― 収容所のバラック内での「宣べ伝えるわざに喜んで出かけて行きました」。
1934年10月7日,エホバの証人はヒトラーに手紙を送って,自分たちはたとえ脅しを受けても集まり合うことや宣べ伝えることをやめる訳にはゆかないと知らせて以来,およそ10年経ったことを兄弟たちは思い起こしました。ほとんど10年を経た今,収容所の内外を問わず,神の民の闘志はなおも打ち砕かれてはいないことをゲシュタポは思い知らされました。種々の手紙はそのことを裏づけるものでした。
今やゲシュタポは他の収容所を調べて,盛んにふれ告げられていた『神権的一致』なるものが広まっているかどうかを確かめることにしました。次の収容所は,ザクセンハウゼンから分かれた収容所であるリヒテルフェルデでした。これら二つの収容所の間の連絡係を勤めたパウル・グロスマン兄弟は後日その調査の模様を次のように述べました。
「1944年4月26日,ゲシュタポは新たな打撃を加えました。その日の午前10時,二人のゲシュタポ将校がリヒテルフェルデにやって来て,ザクセンハウゼンとリヒテルフェルデの間の連絡係をしていた私を徹底的に調べました。彼らは私がベルリンの兄弟たちに書き送った2通の手紙を見せました。それらの手紙は私たちの活動方法を明らかに示していました。[そのような情報を手紙に記すのはいかに無分別かがわかる。なぜなら,当局者が逮捕や捜査を行なえば,当然それは遅かれ早かれ見つけられるから。] こうして当局者は組織の詳細をことごとく知り,そのうえ,私たちが私たちの『母』から定期的に食物を受け取っていたことをも知りました。
「彼らはあらゆるものをひっくり返して調べましたが,『ものみの塔』誌を1冊見つけただけでした。私は他の兄弟たちが仕事から戻って来た時,門のそばで立たされていました。兄弟たちもやはり調べられ,門のわきに立たされました。警察によるそのような大々的な手入れは久しくなかったので,それには本当に驚かされました。尋問中にはかなり打たれたり,ののしられたりしたうえ,数冊の『ものみの塔』誌と幾つかの聖句が見つかりました。また,ザクセンハウゼンの経験に関する詳しい報告,聖書1冊その他の書類が没収されました。兄弟たちは神権政治の関心事のために活発に働いていたこと,また『ものみの塔』誌を読んでいたことを隠したりはしませんでした。その夜,私たちは11時まで門のそばに立たされました。その間に首謀者12人をザクセンハウゼンに移すため警察のトラックが到着しました。それは彼らが絞首刑に処されることを意味しました。彼らは自分たちのスプーンや皿その他を返さねばなりませんでした。ところが,その移動は実現しませんでした。親族に対する死亡告知書は既に作成されていましたが,翌日も何事も起きませんでした。三日目には驚いたことに,それら12人の兄弟たちは処刑されるどころか,仕事に戻されました」。
次いで,リヒテルフェルデの兄弟たちは次のような宣言書に署名するよう要求されました。「_____以来,当収容所にいるエホバの証人の一人である私,_____は,ザクセンハウゼン強制収容所に存在する『神権的一致』集団の者であることを認めます。私は日々の聖句や文書類を受け取って読み,それらを他の者に回してきました」。兄弟たちはみな,大喜びして署名しました。
警察による同様の手入れは他の収容所でも行なわれ,同じような結果が見られました。一例としてラベンスブリュックでは1944年5月4日に調べられました。同収容所とザクセンハウゼンとの間でも連絡が取られていることが種々の手紙から明らかにされたからです。その収容所の『首謀者たち』に対しては厳しい処置が取られましたが,ここでもまた,種々の部門の責任者たちの要請で,それらの姉妹たちは前の仕事に戻されました。これは当時までに圧制者の力がかなり衰えていたことをさらに裏づける証拠となりました。
ドイツ軍は1944年に東部戦線の各地で敗北をこうむり,非常に多くの人命を失ったため,老齢者やヒトラー青年隊の青少年が戦闘に投入されただけでなく,囚人たちにさえ東部戦線に出陣する機会が与えられました。そのために委員たちが収容所にやって来て,格下げされたディルレワンゲル
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