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近づく,痛みのない世界ものみの塔 1980 | 7月15日
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者をたすけ 弱きものと乏しき者とをあわれみ乏しきものの霊魂を救い かれらのたましいを暴虐と強暴とよりあがないたまう その血はみまえに貴かるべし』。(詩 72:12-14)その時,抑圧の苦痛が過去のものとなることに疑問の余地があるでしょうか。
病気も,精神的感情的苦痛のもう一つの原因でした。これも,王国の支配を受ける敬虔な家族の静けさと幸福を台無しにするものとは決してなりません。エホバ神は病気を取り除く力を持っておられます。(出エジプト 15:26; 23:25。申命 7:15)神の預言者イザヤは「居留者はだれも,『わたしは病気だ』と言う者はいない」という時が来ることを書き記しました。(イザヤ 33:24,新)身体的・精神的・感情的なあらゆる苦痛を取り除くことは,偉大な医師であられる神にとって克服しがたい問題ではありません。
死は大きな苦痛をもたらす,人類の敵ですが,神の意志が天と地に全き仕方で成される時にはそれとても『もはやありません』。(コリント第一 15:26。啓示 21:4。マタイ 6:9,10)喜ばしい復活が悲しい埋葬に取って代わり,『死とハデスがその中の死者を出す』とき,嘆きと叫びと苦痛は確かに場違いなものとなるでしょう。―ヨハネ 5:28,29。啓示 20:13。
望むなら,あなたも味わえる
確かに,苦痛のない世界の到来は間近です。あなたもその世界に住むことができます。その希望を自分のものとすることができるなら,逆境・抑圧・病気・死に伴う苦痛がなくなるということは,従順で神を恐れる人類がその時に実感する数々の祝福の一つです。
現在生きている人々はその希望を全く確信できるでしょうか。それは可能です。なぜなら,苦痛のない世界は,「全地を治める至高者」であり,それをもたらす能力を持つ唯一の方であられるエホバの約束だからです。―詩 83:18,新。
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神への信仰は私の支えだったものみの塔 1980 | 7月15日
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神への信仰は私の支えだった
ハラルド・アプトが語った経験
1940年の9月に,私はドイツのザクセンハウゼン強制収容所に送られました。SS(ヒトラーの黒シャツ隊/親衛隊)の将校たちは私を“手厚く”迎えてくれました。私は幾度も打たれ,脅迫されたのです。ある将校は,近くの火葬場の煙突を指さして,「もし信仰を捨てないと,2週間以内にあそこからお前たちのエホバのところへ上っていくことになるぜ」と脅かしました。
それから私は,エホバの証人であるクリスチャンの兄弟たちが収容されている所へ連れて行かれ,手を前に伸ばしたまましゃがみ込むように命令されました。4時間もそのぶざまな格好のままでいなければなりませんでした。午後6時になって一日の重労働を終えて帰ってきた証人たちと会えたのは,大きな喜びでした。
しばらく前にはここに400人ほどのエホバの証人がいたのですが,証人たちの話によると,昨年の冬に残酷な仕打ちがもとで約130人の兄弟たちが死亡したそうです。生き残った兄弟たちはこのことでおびえてしまったでしょうか。そうではありません。私を含め,兄弟たちは神に忠節を保つ決意を固めていました。
さて,ザクセンハウゼンとブーヘンワルトの強制収容所で過ごした5年ほどのことを続けてお話しする前に,ここに送られるまでの経緯を簡単に話させていただきたいと思います。
不穏な時代のクリスチャン
私が生まれたのはポーランド南部で,そこは以前オーストリアの領土でしたから,私はポーランド語とドイツ語を話しながら成長しました。19歳になった1931年には,当時,ドイツ語が公用語となっていたバルト海沿岸の“自由市”,ダンチヒ(ポーランド名でグダニスク)にあった工科大学に入りました。そこで1934年に,私の人生に大きな影響を及ぼすようになった若い女性,エルザに出会いました。
1936年のこと,私が最終試験の準備をしていたころ,エルザはエホバの証人の集会へ行くようになっていました。証人たちの中にはすでに逮捕された人がいたため,集会は秘密裏に開かれていました。そんな人々の巻き添えを食うのはばかげたことだ,と私はエルザに伝えましたが,最後には説得され,一緒に集会に行くことになりました。私は間違いを見いだすことができなかったばかりか,証人たちが身に付けている聖書の知識に感銘を受けました。
大学は卒業しましたが,ポーランドには良い条件の仕事がなく,働くためにドイツに行くことを考えました。ところがエルザは,「あなたが行くとしても,私はついて行きません」と言うのです。エホバの証人はドイツで厳しい迫害を受けており,エルザは不必要にそういうものにさらされることを望まなかったのです。私は考えさせられてしまいました。そしてもっと定期的に聖書の勉強をするようになりました。1938年6月に二人は結婚し,1939年初めには私もエルザもエホバ神への献身の象徴としてバプテスマを受けました。
一方,私はダンチヒ港の行政機関で技師の良い仕事を見つけることができました。立派な家具の備わった私たちのアパートは聖書の集会のために用いられました。このころ,ルージにあるものみの塔協会ポーランド支部から送られていた聖書文書は,ダンチヒでとめられていました。私はどうにかしなければいけないと思い,文書をダンチヒ以外の住所に送ってもらえないか,と頼みました。私とエルザはそこで文書を入手し,市内にそれをこっそり運び込みました。
当時エルザは妊娠しており,「ものみの塔」誌を100部,衣服の下に巻きつけることが時々ありました。税関の事務官が,冗談まじりに,「きっと今度生まれてくるのは三つ子だよ」と言ったこともあります。しかし妻が検閲されることは決してありませんでした。ポーランドがドイツの襲撃を受け,ダンチヒへの自由な出入りに制限が加えられた1939年9月1日まで,私たちは文書をずっと極秘のうちに運び続けました。娘のユッタがうぶ声を上げたのは9月24日でした。
ヒトラーへの敬礼?
ポーランドの守備隊がドイツに降伏した後,私は仕事に復帰することができました。「おはようございます」とあいさつしたので,仕事仲間の注視を浴びました。どんな人も「ハイル ヒトラー!(ヒトラー万歳!)」と言うように命令されていたのです。
私は港の助役に面会を申し込み,自分はクリスチャンであって,その種のあいさつはできない旨を説明しました。「私もクリスチャンだ」,と助役は言いましたが,自分は厳密な意味においてクリスチャンなのであり,人間にそのような栄光を帰すことは正しくないと思う,と述べました。私は,その場で首になり,もしヒトラーに“万歳”を唱えないなら投獄だ,と告げられました。
その9月も遅くなってから,ドイツ軍がポーランドを征服した後にヒトラーがダンチヒにやって来ました。ヒトラーは私たちの住んでいた建物に近い大広場で,熱烈な勝利演説を行ないました。窓から旗をさげるように全員が命令されていましたが,私の家では旗を出しませんでした。
兄弟たちは私たちの身の安全を考えて,東ポーランドへ移動することを提案してくれました。でもそれはすべての所有物を残していくことを意味します。一つのスーツケースと一台の乳母車だけを携え,またユッタを枕にするものにくるんで,私たちは12月に長旅を行ないました。列車は混雑しており,運行予定も乱れていました。
やっとのことで,ルージの支部事務所に到着しました。ドアを開けてくれた姉妹はエルザの腕の中の子供が動かないのを見,ドアのところから大声をあげて走ってゆきました。少しして戻って来てから赤ちゃんが動いているのを見るとその姉妹は,「生きてる! 生きてるわ!」と声を上げました。その時初めて,姉妹は私たちを中に招じ入れてくれました。子供たちが交通機関の中で凍え死んでしまうことも珍しくなかったので,姉妹はてっきりユッタも死んだものと思い込んでいたのでした。
逮捕と投獄
その姉妹のご主人はすでに獄中にありました。その冬は私たちにとって厳しい時でした。家を暖めたり,手元にあったわずかばかりの食物を調理したりするための石炭もありませんでした。やっとの思いで職にありつきましたが,私たちは1940年7月のある日,家にいる時に他のだれかを捜していたゲシュタポ(ナチの秘密警察)に見つけられてしまいました。私とエルザはゲシュタポの本部へ出頭するよう命じられました。
翌朝仕事に出かけ,身のまわりのものを整理してから,自分はゲシュタポに会わねばならず,もう戻ってこられないと思うと上司に話しました。「そんなばかな! 君は12時には戻ってくるさ。心配ご無用」と上司は言ってくれました。数分後,私はゲシュタポの本部前でエルザと落ち合い,一緒に二階へ行きました。
「かけ給え。ここに来てもらったのは,ほかでもない」。将校はそう言ってから,ポーランドが現在第三帝国(ナチス・ドイツ)の支配下にあること,ドイツのエホバの証人に何が生じているかということを私たちに思い出させました。「君が信仰について語り続けるなら,強制収容所に送られることになる」とその男は言いました。
それからタイプライターのところへ行き,タイプを打ち始めました。そして戻って来て私にタイプした紙を手渡しました。そこには,一部,「私ハラルド・アプトは,神の王国について語るのをやめることを約束いたします」と書かれています。私は言いました。「申し訳ありませんが,これには署名できません」。
署名を拒むことの愚かさについて聞かされてから,私はそこから連れ出されました。エルザに対する質問は続けられました。尋問の間に妻は家に10か月の赤ん坊がいることについて話し,「あの子供を育てることは他の人には無理です。母乳を与えていますから」と言いました。将校は赤ちゃんについて関心を示し,「では,すぐに帰してやろう」と言いました。
その男が大急ぎでつづった文章は,私が署名を拒否したものとは異なっていました。それは,もし自分の宗教に従いつづけるなら,強制収容所に送られるようになることを認めます,という文面に過ぎなかったのです。エルザはそのことを認めていたので,それには署名できると思いました。ところが署名したあと妻は恐ろしくなってしまいました。もし自分が解放されたら,夫は自分が信仰を捨ててしまったと思うのではないか,というわけです。そのため,妻は本部を出る時,廊下の端の方から,「妥協はしていません。妥協はしていません」と私に向かって大声で叫びました。
数週間拘留された後,私はベルリンの刑務所へ送られ,そこからザクセンハウゼンへと回されました。
ザクセンハウゼンでの生活
SSの将校は“手厚く”歓迎してくれた後,囚人服を着せるために私たちを連れていきました。髪の毛はそられ,番号が付けられました。私は32,771番です。エホバの証人の身分証明となるすみれ色の三角形を服にぬい付けるようにと与えられました。他の人々も色違いの三角形で身分が分かりました。例えば,政治犯は赤,ユダヤ人は黄,犯罪者は緑,同性愛者はピンク,といった具合いです。このグループの中でエホバの証人は私一人でした。
エホバの証人たちには,自分たちだけの宿舎が割り当てられました。ザクセンハウゼンの宿舎は,点呼の行なわれる広い中庭の周りに,半円形を描いてたっていました。その中庭に面する切妻壁のところには,『自由への道ここにあり。忠実・勤勉・祖国への奉仕と愛』という類のことが書かれていました。各宿舎には,このスローガンのうちの一語か二語が記されており,エホバの証人の宿舎には「愛」の文字がありました。寒気の中で私が4時間もしゃがんでいたのはここだったのです。
60軒を超えるこの大きな宿舎の各々は,二つの寝部屋に分けられ,中央には食堂,手洗い,洗濯施設がありました。寝部屋は両方とも暖房が入らず,ベッドは3段になっていました。冬期には気温が摂氏零下18度まで下がりましたが,与えられたのは薄い2枚の毛布だけでした。人の呼気が天井で液化し,それが水滴となってしたたり落ちると,一番上のベッドで寝ている人の毛布の上で凍りつきました。
食事は大体カブのスープで,時たまその中で煮込んだアジのような魚が入っていました。魚が大変な悪臭を放ったので,収容所全体が臭くなったことも時々ありました。夜にはパンが幾らか出されましたが,朝食はコーヒーまがいの飲み物だけだったため,私はいつもパンを少しとっておき,朝に食べるようにしていました。空腹の苦痛は耐えがたかったからです。
朝は6時に起床し,ベッドをきちんとしてから洗面と着がえをすませ,点呼の中庭に行き,仕事場へと行進してゆかねばなりませんでした。仕事の多くは収容所の外部で行なわれます。私の最初の割り当ては道路の建設工事でしたが,技師の訓練を受けていたので,後に,新しい作業場建設の技術監督の仕事を与えられました。
SSの多くの隊員は残虐で,私たちに苦しみを与える方法を見つけだそうとよく狙っていました。時々,私たちが仕事に行っている時に隊員が入ってきて宿舎のごみを探します。大抵,たる木の上にごみが見つかりますが,一つの部屋に約80もの麦わら製のベッドがあったのですから,それも驚くにはあたりません。仕事から戻ってくると,「今朝お前たちの宿舎でごみを見つけた。したがって今日の昼食は抜きだ」とよく言い渡されました。それから隊員たちは食べ物のにおいがみんなに行き渡るようふたを取ってからそのなべを運び去りました。不平を言う者はだれでも死の刑罰を受けました。
ザクセンハウゼンでは命の保証は得られません。親衛隊の注意を少しでも引こうものなら,罰を受けることになりかねません。冬の凍てつく寒気の中,一日中宿舎の前に無理やり立たせられることもあります。肺炎にかかった人は少なくありませんが,高熱が出て仕事に行けなくなると,SSの隊員は言うでしょう。「高熱か。よし,あいつを寒さの中に立たせ,たんまり冷やしてやれ」。このような扱いを受けて,多くの人々が死んでいきました。
次のような方法で殺された人もいます。冬のさなかに冷水の入った大きなたらいの中にすわるよう命令され,心臓の部分めがけて冷水を激しい勢いで浴びせられるのです。こうした非道な処置が取られたので,次の春まで生きられるかどうかは全くおぼつきませんでした。
「怖くなかったですか」と多くの人々から尋ねられました。怖いことはありませんでした。そうした状況にいるときには,信仰によって力を増し加えることができるものです。エホバは救い出してくださいます。他の人たちがそばにいない場合には食事のテーブルで一緒に祈り,小さな声で歌うこともしました。例えば,兄弟の一人が残虐な仕打ちのため,あるいは生きるに必要なものを奪われて死亡した時には,心を奮い立たせる歌を歌いました。強くあれ! 勇気を持て! これが私たちの精神態度でした。自分たちもやがて死ぬかもしれないことは分かっていましたが,忠実を保つ固い決意を表わしたいと願っていました。
霊的な食物と宣べ伝える業
1942年になって事態が多少好転しました。収容所の司令官が新しくなり,私たちはやや自由になりました。日曜日に働かせられることはなくなりました。また,このころにはダニエルの預言を扱った7号分の「ものみの塔」誌を秘密裏に入手できました。数冊の聖書も手に入れました。日曜の午後には聖書研究のため,200人ほどがいつも宿舎の一角で集まり合いました。数人の人が外に配置され,SSの隊員が近づいて来ると合図を送りました。これは私にとって,記憶に焼きついて離れない,信仰を強める集会でした。
『「ものみの塔」誌を秘密裏に入手したのですか』と不思議に思う向きもあるでしょう。そのことも信仰と勇気の物語になります。囚人だったエホバの証人の何人かは,収容所の外で働き,まだ逮捕されていない兄弟たちと接触するようになりました。こうしてある程度の出版物を収容所内にこっそり持ち込むことができたのです。収容所内で私たちの監督のような立場にいたゼリガー兄弟は囚人用の病院で働いており,この兄弟が病院にある浴室のタイルの下に,秘密裏に持ち込まれた聖書文書を隠していました。
しかし,ほどなくして,私たちの良い組織の実情も知られるようになり,宿舎の中にあった何冊かの聖書は見つけられてしまいました。そのため約80人の兄弟たちは労務隊に組み入れられ,ザクセンハウゼンを追われました。残された証人たちは収容所内の多くの異なった宿舎に分散されました。このため大きな集会は開けなくなりましたが,仲間の囚人に宣べ伝えるさらに多くの機会が開けました。
若いロシア人,ウクライナ人,ポーランド人など非常に多くの人々がこたえ応じ,エホバの証人になりました。ほかならぬ収容所の中で,つまり収容所病院内の浴漕でひそかにバプテスマを受けた人もいます。私の記憶にあざやかに残っているのは二人の若いウクライナ人の男子です。ある日のこと,二人は一人の兄弟が王国の歌を口笛で吹いているのを聞きつけ,それについて尋ねました。「これは宗教的な曲なんです」と兄弟が答えると,二人は宗教上の信念ゆえに収容所に入れられている人々のことを知って深い感銘を受けました。そのうち一方の男の人は,解放後,ポーランド東部地区の証言の業において主導的な役割を果たしました。そして,クリスチャンの集会を司会しに行く途中で,エホバの証人に敵意を抱く者たちの手にかかって殺害されました。
1944年のある日のこと,昼食を取るため労務隊と一緒に行進している時に,兄弟たちが中庭に立っているのが見えました。私がエホバの証人であることが分かると私も一緒に加わるように言われました。SSはどういうわけか,収容所外部(および別の収容所)との私たちの秘密の郵便活動のことや,私たちが点呼広場で2,3人のグループを作っては日々の聖句を討議していることに感づいていました。そのような不法な活動はやめるように,と命じられましたが,私たちは一致した立場を取り,互いを霊的にこれからも強め合う決意でいました。この秘密の郵便活動の重要なかなめとなっていたゼリガー兄弟は,収容所内での伝道を続けるつもりかと尋ねられてこう答えました。「もちろんです。私はそうしたいと思っています。私だけでなく私の兄弟たちすべても同じです」。エホバの証人たちが明確に抱いていた信仰と勇気の霊は打ち砕かれることがありませんでした。ナチスはまたしても,神に対する私たちの忠誠を打破するものは何もないことを見せつけられたのです。
ブーヘンワルトと解放
1944年の10月も終わろうとするころ,私は建築の専門家の一団と共に,ブーヘンワルトの強制収容所に送られました。米国の飛行機が爆撃した幾棟かの作業場を建て直すためです。ブーヘンワルトの兄弟たちはすぐに私に連絡をよこし,霊的な交友を共にできることを喜んでくれました。そこでの私の番号は76,667でした。
1945年の初めには,ナチ体制が崩壊の瀬戸際に立たされていることが明らかになりました。英国の戦闘機は収容所の上空を飛ぶ際,私たちを励まそうとして機体の翼を左右に振ってあいさつしてくれました。解放される前の最後の2週間程は,囚人たちはもう働くために外へ出ようとはしませんでした。
1945年4月11日の水曜日には皆で集まり,ヒトラーが権力を握った1933年から1945年までの年の聖句全体を扱った兄弟の話を聞きました。集会が続いている間に,次第に近づいてくる戦闘の音が耳に入ってきました。そしてその話のちょうど中ごろに一人の囚人がドアを大きく開けて叫んだのです。「自由になったぞ! 自由になったぞ!」 収容所内は混乱していましたが,私たちはエホバに感謝の祈りをささげ,集会を続けました。
ブーヘンワルトにはまだ2万人以上の囚人が収容されていました。親衛隊員は自らの制服を脱いで,逃げ出そうとしており,多くの囚人たちは親衛隊員に対して復讐していました。後になって,ある囚人から,どのように一人の親衛隊員の腹部にナイフを突き刺したかを聞かされました。でも,もちろん,エホバの証人はそのような暴行には加わりませんでした。
私がようやくエルザを捜し当てたのはそれから約1か月たった後のことです。エルザはアウシュビッツや他の強制収容所を転々としながら生き延びていたのです。1945年の8月に家に帰り,娘と,その面倒を見てくれていた何人かの兄弟たちに対面しました。その時,娘は6歳になろうとしていました。そして私たちがだれだか分かりませんでした。
決して妥協しない
ポーランドはドイツ軍の占領を解かれた後,共和国になりました。私とエルザは直ちに,ルージの,ものみの塔協会の支部事務所で奉仕することを願い出ました。そこで5年間働き,1945年には約2,000人だったエホバの証人の数が1950年には約1万8,000人に増加するのを見て喜びました。1950年以降の年月も,エホバの組織から様々な割り当てをいただき,常に信仰に強くありたいと念じながらエホバに仕え続けてきました。
合計すると,私は自分の人生の14年を,神への信仰のため,強制収容所や刑務所で過ごしてきました。「奥さまは,そのすべてを忍耐する上でご自分の助けになりましたか」と尋ねる人がいます。妻は本当に大きな助けでした。妻が信仰において決して妥協しないことは初めから分かっていましたが,このことは私の助けになり,私を支えてくれました。妥協したために自由にされた私のことを聞くよりも,死んで担架の上に横たわる私を見るほうが妻の喜びになることが私には分かっていました。このような勇敢な伴侶を持つことは本当に助けになります。エルザはドイツの強制収容所での生活で,あまたの患難を忍びました。エルザの経験を少しお読みいただければ,きっと励みになることと思います。
[9ページの図版]
ザクセンハウゼン強制収容所
親衛隊員の宿舎
点呼の行なわれる中庭
ガス室
独房の建物
隔離施設
シラミの駆除施設
処刑場
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夫と共に忠実を保つものみの塔 1980 | 7月15日
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夫と共に忠実を保つ
エルザ・アプトの経験
ハラルドは,ザクセンハウゼンに収容されていた間,時々手紙を書くことが許されました。もっとも,それはわずか5行の手紙でした。手紙には,『この者は依然としてがんこな聖書研究者であるため,通常の文通を行なう特典は認められていない』というスタンプが押されていました。そのスタンプを見るたびに私は励まされました。そのスタンプは夫が信仰のうちに堅くとどまっていることを物語るものだったからです。
1942年5月のある日のこと,職場から帰宅すると,ゲシュタポが私を待ち受けていました。ゲシュタポは家宅捜索を行なった後,私に,コートを持って一緒に来るよう命じました。すると,幼い娘のユッタがゲシュタポの一人に近寄り,並外れて背の高いそのゲシュタポのズボンの脚の片方を引っ張って,「お願いだからお母さんをおいていって」と言いました。ゲシュタポは娘を相手にしませんでした。そこで娘は反対側の脚に回り,「お願いだからお母さんをおいていって」と必死に頼みました。これを不快に思ったそのゲシュタポは,語気を荒立てて,「子供を連れて行け。ベッドと,衣類も一緒にだ」と言いました。娘は同じ建物に住む別の家族のもとに預けられ,我が家の扉は閉じられました。こうして私はゲシュタポの本部に連行されました。
その本部で,その日に大勢のエホバの証人が逮捕されたことを知りました。エホバの証人を装い,私たちから信頼を得ていたある人物が裏切ったのです。ゲシュタポから,謄写版の機械のありかと,非合法の伝道活動を指揮している人物について尋問されましたが,私は何も知らないふりをしました。その後,私たちは監房に入れられました。
私たちの揺らぐことのない信仰はゲシュタポをいら立たせました。ある時,尋問の最中に,一人の係官がこぶしを握り締めて私に近づき,こう叫びました。「お前たちをどうすればいいんだ。逮捕されてもあわてない。刑務所に送り込んでもいっこうに気にしない。強制収容所に回しても平気でいる。死刑の宣告を受けても平然とその場に立っているだけだ。お前たちをいったいどうすればいいんだ」。
獄中で6か月を過ごした後,私は他の11人のクリスチャン姉妹と共に,大量虐殺で悪名をはせたアウシュビッツの収容所に送られました。
違いを認められ,敬意を得る
私たちは最初,アウシュビッツの付属収容所の一つビルケナウに連れて行かれました。聖書研究者であるという理由で私たちがそこに連れて来られたことを知ったSSの将校は,「わしがお前たちだったら,書類にサインして家に帰るだろうな」と言いました。
「サインする気があるなら,とうにしています」と私は答えました。
「だが,ここで死ぬことになるぞ」と将校は警告しました。私は言いました。「その覚悟はできています」。
その後,写真撮影を行ない,所定の用紙と質問表に必要事項を記入しなければなりませんでした。私たちは一列に並んで順番を待ちましたが,その列は医療センターの中を通り抜けていました。医療センターでは,二人の医師が新たに到着した囚人たちを観察していました。これらの医師も囚人で,そのうちの一人は他方の医師よりもずっと長く収容所の生活を送っていました。その二人の医師の会話がふと耳に入ってきました。古くからいる医師が新しいほうの医師にこう言っています。「聖書研究者はいつでも見分けがつくよ」。
新しいほうの医師が幾分疑わしげに答えます。「ほう,そうですか。では,このグループの中のだれが聖書研究者か教えてください」。私はその時二人のそばを通り過ぎたばかりでしたから,医師たちには私のすみれ色の三角形は見えませんでした。しかし,古いほうの医師は私を指差して,「聖書研究生だよ」と言いました。新しいほうの医師がやって来て私の三角形を見ました。そして,「ほんとうだ。どうして分かったんですか」と声を上げました。
古いほうの医師はこう答えました。「この人たちは一見して違うんだ。すぐに見分けることができる」。
確かにそのとおりです。私たちは一見して違っていました。打ちしおれてうなだれることなく,まっすぐに背筋を伸ばして歩いていました。いつもまっすぐ前を見,何のこだわりもなく自由に他の人を見ました。私たちはエホバのみ名のための証人としてそこにいたのです。私たちの態度が違っていたのはそのためです。それは他の人々の認めるところとなりました。
私たち12人の姉妹は,ビルケナウに数日とどまっただけでアウシュビッツに連れて行かれ,SSの将校の家で働くことになりました。SSの将校たちは,エホバの証人だけがこの仕事に就くことを望んでいました。それ以外の人を自分の家で働かせることには恐れを持っていました。私たちなら毒を盛ることもなく,正直であり,盗みを働くことも逃亡を図ることもないのを知っていたのです。
アウシュビッツにおける生と死
収容所内の大きなれんが造りの建物の地下室で,私たち全員が他の囚人たちと一緒に生活した時期がありました。仕事の割り当てが与えられる時間になり,女性の監督から,「だれがどこで働きたいの」と言われましたが,私は何も答えませんでした。すると,その監督は,「まあ,偉そうなこと」と言いました。
それに対して友人の一人が答えました。「偉そうにしているのではありません。どこでも,決められた所で働くつもりでいるだけです」。実際,私たちはいつもそのようにしていました。私たちは働く場所を自分で選びたいとは思いませんでした。エホバの導きを祈り求めていたからです。私たちの置かれた立場が困難になったその時は,エホバに頼り,「エホバ,どうか今,私たちを助けてください」と祈ることができました。
私は収容所の外に住むあるSSの将校のところで働くよう割り当てられました。家の掃除,将校の妻の料理の手伝い,子供の世話,町での買い物が私の仕事でした。見張りなしに収容所の外に出られるほどの信頼を得ていたのはエホバの証人だけでした。もちろん,私たちはいつも縞模様の囚人服を着ていました。しばらくすると,夜になっても収容所に戻らずに仕事先で泊まってもよいことになりました。私はSSの将校の家の地下室で眠りました。
しかし私たちは,現実には人間とみなされませんでした。例えば,SSの将校から呼ばれて執務室に行くと,戸口に立って,「囚人24,402番,入らせていただいてもよろしいでしょうか」と言わなければなりませんでした。そして,指示を受けた後,「囚人24,402番,戻ってよろしいでしょうか」と言うことになっていました。個人の名前はいっさい用いられませんでした。
他の収容所におけると同じように,「ものみの塔」誌や他の出版物の形で霊的な食物がアウシュビッツに定期的に運び込まれました。私はハラルドからの手紙まで受け取りました。これは外部のエホバの証人との間にどれほど定期的な連絡が保たれていたかを示すものです。
私たちのグループの何人かが,SSの関係者の家族が住むホテルで働くよう割り当てられました。その中に,私の友人ゲルトルート・オットがいました。ある日,ゲルトルートが窓を洗っていたところ,そばを通った二人の女性の片方が,目を上げもせずに,「私たちもエホバの証人です」と言いました。後ほど二人が戻って来ると,今度はゲルトルートが,「浴室に行ってください」と言いました。三人はそこで会って話をし,それ以後も,貴重な聖書文書をひそかに持ち込んだり,連絡を取ったりするために集まり合うようにしました。
アウシュビッツにおけるこれらの年月の間,導きと保護のあったことを私たちはエホバに感謝しました。人間の想像しうるかぎり最も恐ろしいことが行なわれていたのを知っていましたから,その気持ちもひとしおでした。ユダヤ人が荷物のように次々に運び込まれ,到着すると全員が直ちにガス室に送り込まれていったのです。ある時,私は,ガス室で働いたことのある収容所の女性の監督の看護をしました。その監督はそこでどんなことが起きているかについてこう語りました。
「沢山の人が一つの部屋に集められるの。隣の部屋に通じるドアには『浴室』という表示があるわ。服を脱ぐように言われ,着物を全部脱いで『浴室』に入ると,ドアに鍵が掛けられてしまうの。でも,シャワーからは,水ではなくガスが出てくるのよ」。その女性の監督は,自分が目にした事柄に影響されて感情に変調をきたし,それがこうじて体まで病気になってしまったのです。
他の収容所への移動と解放
1945年1月から,ドイツは東部戦線で敗北に敗北を重ねるようになりました。強制収容所を後方に移動させようとする試みの中で,私たちの多くは収容所を転々としました。グロスローゼン収容所に向かった時は二昼夜行進が続きました。何人かの姉妹は力が尽きてそれ以上進むことができなくなりました。三日目の夜になってひしめき合う納屋で身を横たえることがやっと許可された時にはほんとうに助かりました。その行程の途中,私たちが携えていた食物といえば,なんとか持って来ることのできたわずかばかりのパンだけでした。翌日の行進を生きて終えられると思った人は一人もいませんでした。ところがそれから,決して忘れられない,驚くべきことが起きたのです。
翌日の行進が始まると,SSの医師の一人が私たちの姿を見つけました。私はかつてその医師のところで働いていました。その医師は,「聖書研究者は列の外へ。聖書研究者は列の外へ」と叫び始めました。それから私に向かって,「全員いるかどうか確かめなさい」と言いました。私たち40人の姉妹は駅に連れて行かれ,列車で運ばれることになったのです。私たちにとって,それはまさに奇跡のように思えました。
列車の中はひどく混雑しており,私を含めた三人はどうしたことか駅を見誤り,ブレスラウ(ポーランドのブロシワフ)まで行ってしまいました。私たちはそこで降りて,収容所への道を教えてもらいました。収容所の門に着くと,衛兵たちは大笑いをして,最後に,「自発的にここに戻って来るのはエホバの証人ぐらいだ」と言いました。しかし,戻らなければ,姉妹たちが苦しい目に遭うことを私たちは知っていたのです。
グロスローゼンにいたのはわずか二週間だけで,次に,オーストリアのリンツの近くにあるマウトハウゼン収容所に移されました。この収容所の状況は恐ろしいほど悪く,大勢がただ押し込められているといった感じでした。食べる物も欠乏しており,寝る時に敷くわらもなく,あるものと言えば,木の板でした。その後間もなく,再び移動が始まり,ドイツのハノーバーの近くにあるベルゲンベルゼン収容所に向かいました。その途中で,一人の姉妹が亡くなりました。この収容所の条件が極めて劣悪であったため,これまでの移送に耐えてここまで生き延びてきた姉妹たちの多くもこの収容所で死亡しました。
私たちのグループの中から25人ほどがドーラノルトハウゼンと呼ばれる別の秘密の収容所に連れて行かれました。元来,ここは男子だけの収容所でしたが,少し前から娼婦が連れて来られるようになっていました。しかし,収容所の所長は私たちがそうした類の者たちではないことを女性の監督に明らかにしました。ドーラノルトハウゼンでは幾分ましな扱いを受けました。一人の兄弟が囚人用の台所で働いており,私たちがある程度良い食べ物を得られるよう取り計らってくれたのです。
このころには,戦争も終わりに近くなっていました。私たちをハンブルクの近くのある場所に移す手はずが整えられました。旅に備えて,私には肉のかん詰一個とパンが幾らか支給されました。しかし,男子には何も与えられませんでした。ポーランド人のある兄弟が重い病気にかかっていたので,私は自分の食糧をその兄弟にあげました。後にその兄弟が話してくれたところによると,その食糧のおかげで兄弟は死なずにすんだのだそうです。その途中,私たちはアメリカ兵に会い,解放されました。SSの隊員は携行していた平服に着替えると,武器を隠して逃げました。戦争は終わりつつあったのです!
一か月ほど後に,ハラルドと私はお互いを捜し当てました。私たち二人の再会は全く信じ難いものでした。私たちはほんとうに長い時間ただじっと抱き合いました。お互いに引き離されてから,5年という歳月が流れていたのです。
多くの試練とそれに伴う祝福
家に帰ると,扉には,「ユッタ・アプトはここにいます。両親は強制収容所にいます」という張り紙がしてありました。私たちは家に帰れたのです。しかも無事で。なんとうれしいことでしょう。お互いにエホバに忠実であったことを知って,私たちは深い満足を覚えました。
ドイツの強制収容所で過ごした歳月は私に一つの優れた教訓を与えてくれました。極度の試練のもとにあっても,エホバの霊によって大いに力づけられるという教訓です。逮捕される前,私はある姉妹の手紙を読みました。そこには,厳しい試練の下にある人はエホバの霊によって全く冷静でいられると書かれていました。私はその姉妹が幾分誇張して書いているに違いないと考えていました。しかし,自分で試練を経験して,その姉妹の言葉が真実であることを知りました。まさにそのとおりなのです。経験した人でなければなかなか分からないことです。でも,それが私の身に実際に起きたのです。エホバは助けを与えてくださいます。
娘から引き離された私にとって助けとなったのは,アブラハムにその息子を犠牲にするよう求めたエホバの指示でした。(創世 22:1-19)エホバが実際に望んでおられたのは,アブラハムにイサクを殺させることではなく,アブラハムの従順を見ることでした。私はこう考えました。私の場合,エホバが求めておられるのは,子供を犠牲にすることではなく,娘をあとに残すことなんだわ,と。アブラハムに求められたことと比べるなら,それは取るに足りないことです。何年もの間,ユッタはエホバに対する忠実をずっと保ちました。私たちはそれをとてもうれしく思いました。
夫の忠実さはいつでも私に喜びと力を与えてくれました。エホバに対するこのような忠実さを目にする時,夫に愛と敬意を抱かずにはいられません。私たちはその結果,豊かな報いを得てきました。
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