ものみの塔 オンライン・ライブラリー
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  • 第2部 ― ドイツ
    1975 エホバの証人の年鑑
    • に来なければならなかったのかが今わかりました。フランズさん,私はどうしても話しておきたいのですが,この独房に入る前に私は信仰の厚い人の所に入れていただきたいと神に祈りました。さもなければ,自殺をする考えでいました。……』

      「何週間そして何か月かが過ぎてからのことですが,アントンは私にこう言いました。『私がこの世を去る前に,妻と子供たちが真理を見いだせるよう神に助けていただけるなら,私は安らかな気持ちで去って行けます』。……すると,ある日,彼は妻から次のような一通の手紙を受け取りました。

      「『……もしあなたが何年か前にあのドイツ人からお求めになった聖書と書籍類をお読みにさえなれるなら,私たちはどんなにか幸せなことでしょう。万事がそれらの書籍の言うとおりになりました。私たちはそのために決して時間をさきませんでしたが,これこそ真理です』」。

  • 第3部 ― ドイツ
    1975 エホバの証人の年鑑
    • 第3部 ― ドイツ

      強制収容所における霊的食物

      兄弟たち,とりわけ強制収容所内で兄弟たちが「孤立させられ」ていた何年かの間,聖書あるいは他の出版物を入手する機会にはほとんど恵まれませんでした。ただ,中庭に何時間も立たねばならなかったりした時,あるいはバラックの中で晩の少しの静かな一時を過ごしたりする時,「ものみの塔」誌の重要な記事の内容を思い起こすために相当の努力が払われました。何らかの方法で聖書を入手できた時の兄弟たちの喜びは特に大きなものでした。

      エホバは時には,興味深い方法を用いてご自分のしもべたちに聖書を入手させてくださいました。レンヒュン(シュワルツワルト)出身のフランズ・ビルクは,ブッヒェンワルトである日,この世の一囚人から聖書を1冊入手したいかどうかを尋ねられた時のことを覚えています。囚人は自分の働いていた紙の工場で聖書を1冊見つけていたのです。もち論,ビルク兄弟は感謝してその提供物を受け取りました。

      また,1943年のことですが,単に当時の時代の圧力に動かされて親衛隊の組織に加わった年配のある親衛隊員が休日に聖書を求めて何人かの牧師を訪ねたのをフランケ兄弟も覚えています。牧師たちは皆,残念ながら聖書はもはや手もとにはないと述べましたが,その晩,彼は遂にある牧師を見つけました。特別の理由があってルーテル訳の小型の聖書を取って置いたと述べたその牧師は,親衛隊員が聖書に関心を示すのを見て大いに喜んだものの,その聖書をもらって行くと告げられました。翌朝,この白髪まじりの親衛隊員はその聖書をフランケ兄弟に与えましたが,自分の監視している囚人の一人にその贈物を与えることができたので明らかに喜んでいました。

      時が経つにつれて新しい「ものみの塔」誌の記事を強制収容所にひそかに持ち込むことができるようになりました。ビルケンフェルトの強制収容所では次のようにして持ち込まれました。囚人たちの中に,建築に通じていたため,エホバの証人に好意を持つある民間人と一緒に働くようになった兄弟がいました。彼はその親切な人を通して収容所の外部の兄弟たちと連絡を取り,兄弟たちはまもなく最新の雑誌をその人に供給したのです。

      ノイエンガム収容所の兄弟たちも同様の機会を捉えました。同収容所のおよそ70人の兄弟たちのほとんどは空襲後のハンブルク市内で焼け跡をかたづける仕事をさせられました。そのハンブルク市内で兄弟たちは聖書を入手し,ある時など,ほんの数分のうちに3冊見つけることもできました。自らそのことを経験したウィリー・カルガーはこう述べています。「デーベルン出身のある姉妹が私たちにもたらした別の霊的食物についてお話ししましょう。その事が決して忘れられませんように。彼女の兄,ハンス・イェガーはハンブルクの近くのベルゲドルフの作業班に所属しており,グルンツ鉄工所で働かされました。私たちは厳重な監視下で重労働をさせられることになりました。それにもかかわらず,イェガー兄弟はひそかに手紙を持ち出させ,昼の時間中の彼の居場所を妹に知らせることに成功しました。彼の妹は汽車でハンブルクに着き,そこからは『慎重に行動して』私たちの働いている場所に注意しながらやって来ました。彼女は求められた雑誌を私たちの手に渡すことに成功し,こうして親衛隊の監視下にもかかわらず,エホバの監督のお蔭で貴重な雑誌が見つけられることなく収容所にもたらされました。

      皆がさまざまの違った方法を考え出したので,時が経つにつれて収容所には多数の聖書が持ち込まれました。ある兄弟はダンチヒにいる妻に宛てた手紙の中で『エルベルフェルトのしょうが入りケーキ』を食べたいと書いたところ,次に送られてきた(当時その収容所では兄弟たちが受け取ることのできた)食糧袋からは焼いたしょうが入りケーキの中に注意深く入れられていたエルベルフェルト聖書を入手しました。ある兄弟たちは火葬場で働く囚人と接触を持っていました。それら囚人たちは火葬場でたくさんの本や雑誌が焼かれているということを話したので,兄弟たちは自分たちの貯えていた食物の一部と引き替えに聖書や雑誌を入手する取決めをひそかに設けました。

      ザクセンハウゼンでは依然「隔離施設」にいる兄弟たちも聖書を何冊か入手しました。不思議に思えるかもしれませんが,隔離施設はこの場合,ある程度の保護をもたらすものとなりました。ある兄弟は隔離施設に通ずる入口を見張るよう割り当てられただけでなく,戸の鍵をも持っており,入口に鍵をかけたり,その鍵をあけたりしなければならなかったからです。室内には大きなテーブルが七つあり,56人の兄弟たちがその回りに腰かけました。しばらくの間,一人の兄弟が聖句を取り上げて15分間注解を述べ,その間に他の兄弟たちは朝食を取りました。これはそれぞれのテーブル,またその回りに腰かける兄弟たちの間で交替で行なわれました。中庭に何時間も強制的に立たされた時,兄弟たちはその注解を会話の主体にしました。

      1939年から40年にかけての厳寒の冬の間,証人たちはこの文書の問題で祈りのうちにエホバに嘆願したところ,ご覧なさい,奇跡です! エホバはある兄弟に保護の手を差し伸べられたので,彼は厳重な検査を受けたにもかかわらず,木製の義足の内側に「ものみの塔」誌を3冊入れて,ひそかに「隔離施設」に持ち込むことができました。兄弟たちはベッドの下にもぐり込んで懐中電燈の光を頼りにそれを読み,他の人たちはその左右に立って見張りをしなければならなかったとはいえ,それはエホバの驚くべき導きがあったことの証拠です。良い牧者であられるエホバはその民を見捨てることはなさいません。

      兄弟たちが「隔離施設」から解放された1941年から42年にかけての冬には,ダニエル書 11および12章を扱った「ものみの塔」誌7冊,初めてミカ書を論じた雑誌,「キリスト教に対する十字軍」と題する書籍そして「会報」(現在の「王国奉仕」)のすべてが一度に届きました。それは本当に天からの贈物でした。彼らは今や他の国々の兄弟たちとともに,「北の王」と「南の王」に関する明確な理解を得ることができたからです。

      「隔離施設」以外の囚人たちには日曜日の午後には自由時間が与えられたうえ,その午後になると,ブロックの政治上の監督は他のバラックにいる友人に会いに行ったので,幸いにも兄弟たちは数か月の間,毎週日曜日に「ものみの塔」研究を開くことができました。平均220人ないし250人の兄弟たちがその研究に参加する一方,6,70人の兄弟たちが収容所の入口に至るまで見張りを行ない,危険な事態が生じたならすぐ特定の合図を出すことにしていました。ですから,研究中に親衛隊員に不意をつかれたことは一度もありませんでした。1942年に行なわれた研究は,出席した人たちにとって忘れ難い思い出になりました。ダニエル書 11,12章の預言に関するすばらしい説明に非常に深い感銘を受けた兄弟たちは,研究の終わりに,王国の歌を所々に挿入した民謡を喜びにあふれた行進曲風の調子で歌いました。それで,バラックから数メートル離れた監視塔にいる番兵には怪しまれずに済ました。むしろ,番兵は美しい歌声を聞いて楽しみました。ちょっと想像してみてください。投獄されているとはいえ,250人の男子が現実には声を合わせ,魂をこめてエホバを賛美する歌を自由に歌っているのです。何という背景でしょう。天のみ使いたちもともどもに声を和したのではないでしょうか。

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