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    ものみの塔 1978 | 12月15日
    • エホバはあなたに何を求めておられますか

      「地の人よ,何が良い事かを主はあなたがたに告げた。そして,エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神エホバと共に歩むことではないか」― ミカ 6:8,新。

      1 ミカ 6章8節の問いはだれに対してなされたものですか。なぜですか。

      誠実な人たちは,『神を喜ばせるには,わたしたちは何をしなければならないでしょうか』と言うかもしれません。しかし,エホバ神の預言者が,ミカ 6章8節の問いを投げかけた相手は,エホバ神を捜し求めたいという正しい願いを持つ人々ではありませんでした。むしろその問いは,全能の神が訴え事を有しておられる民に向けられたものです。(ミカ 6:1,2)この民イスラエルは,至高者との契約上の義務を軽視していました。その結果,道徳が嘆かわしいまでに低下しました。詐欺,圧制,不正,偶像崇拝,流血行為などがはびこりました。その状態は,ごく親しい友人や親せきでさえも信頼できないほどのひどいものでした。―ミカ 1:5; 2:1,2; 3:1-3; 6:12; 7:2-6。

      2 エホバがイスラエル人に対して訴え事をされたことは,イスラエル人に何をする機会を与えましたか。

      2 そのためにエホバは,ご自分の不忠実な民に訴え事を述べて,悔い改めを呼びかけておられたのです。神のみ前に是認される立場を取るよう確実な手段を講ずるなら,不利な裁きを免れることができる,という通告をイスラエル人は受けていたのです。そのためには何をすることが要求されたでしょうか。最上等の犠牲をささげることをも含めて,目に見える形の奉仕だけでは不十分でした。(ミカ 6:6,7)ミカの預言は次のようでした。「地の人よ,何が良い事かを主はあなたがたに告げた。そして,エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神エホバと共に歩むことではないか」― ミカ 6:8,新。

      『何が良い事かを告げた』

      3 何が良い事かについて,イスラエル人はモーセを通してどんな事を教えられていましたか。

      3 エホバ神は,何が良い事かについて,ご自分の民を無知のまま放置しておいたわけではありません。何世紀か昔に,モーセはイスラエル人に言いました。「あなたの神エホバがあなたに求めておられるのは,あなたの神エホバを恐れ,こうしてそのすべての道を歩み,彼を愛し,心を尽くし魂を尽くしてあなたの神エホバに仕えること,わたしが今日命じているエホバのおきてまたその法令を,あなたの益のために守る,ただその事ではありませんか」― 申命 10:12,13,新。

      4 エホバを愛し,その命令に従うことから,イスラエルはどのように益を受けましたか。

      4 エホバ神に深い愛を示し,その命令に忠実であることは,どの点から見ても,イスラエルの最善の益となることでした。神の律法に従順であれば,彼らが行なう事柄すべてに,必ずエホバの保護があり,祝福は絶えることがありませんでした。(申命 28:1-13)反面,神の律法を無視するなら,不安定と荒廃を招く結果になりました。―申命 28:15-68。

      5 エホバへの従順はなぜわたしたちの最大の幸福を増し加えますか。

      5 同様に今日でも,神に対して純粋の愛を抱き,神の指針に従うことに努める人は,自らの最大の幸福を増し加えているのです。なぜそう言えるでしょうか。なぜなら,エホバは全能者であり愛情深い神であって,人間の福祉を増進させるような命令しかお与えになっていないからです。(ローマ 16:27。ヨハネ第一 4:8; 5:3)人間関係を支配する神の律法はすべて,愛が基礎となっています。使徒パウロはこの点を強調して次のように書いています。「あなたがたは,互いに愛し合うことのほかは,だれにも何も負ってはなりません。仲間の人間を愛する者は律法を全うしているのです。『あなたは姦淫を犯してはならない。殺人をしてはならない,盗んではならない,貪ってはならない』,そしてほかにどんなおきてがあるにしても,その法典は,このことば,すなわち,『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』に要約されるからです。愛は自分の隣人に対して悪を行ないません。ですから,愛は律法を全うするものなのです」。(ローマ 13:8-10)明らかに,もしあらゆる場所の人間が真の隣人愛を示すなら,それがもたらす結果は,幸福と平和と安全でしょう。

      6 エホバを愛し,その命令に従うことはなぜごく当然のことですか。

      6 さらに,神の命令に従順であることによって神への愛を表わすことは,ごく当然のことです。(ヨハネ第二 6)「わたしたちは神によって命を持ち,動き,存在しているから」です。(使徒 17:28)ですから,わたしたちの態度は,使徒ヨハネが幻の中で見た24人の長老の態度のようでなければなりません。彼らは大声でこう言いました。「エホバ,わたしたちの神よ,あなたは栄光と誉れと力を受けるにふさわしいかたです。あなたはすべてのものを創造し,あなたのご意志によってすべてのものは存在し,創造されたからです」― 啓示 4:11。

      「公正を行ない」

      7 (イ)公正に関し,神の律法はイスラエル人に何を要求しましたか。(ロ)公正を行なうことは,ミカの時代の人々をどのように益しましたか。

      7 「義と公正を愛される方」であるゆえにエホバ神は,イスラエル人がこの点でご自分に倣うことを要求されました。(詩 33:5,新)エホバの律法はわいろを排除し,富んでいる者にも貧しい者にも,裁きを公平に行なうことを要求しました。それについては次のように書かれています。「あなたは裁きを曲げてはなりません。不公平であってはならず,またわいろを受け取ってはなりません。わいろは賢い者の目を盲にし,義なる者の言葉をゆがめさせるからです。公正 ― 公正こそあなたの追い求めるべきものであり,それはあなたが生き続けるため……です」。(申命 16:19,20,新)「判決は不公平であってはならない。貧しい者に不当の好意を示してもならないし,有力者に敬意を示してもならない。あなたの隣人を公平をもって裁きなさい」。(レビ 19:15,新バークレー訳)確かに,イスラエルが,『公正を行なえ』とのこの命令に答え応じていたなら,ミカの時代の状態は改善されていたことでしょう。圧制はくい止められ,法と秩序は回復されて,平和と安全と安定が得られていたでしょう。

      8 (イ)クリスチャンの長老は,どんなときに公正を行なうことを要求されますか。長老たちはどのようにそれを行なえますか。(ロ)テサロニケ第二 3章11-15節の諭しに従うことには,公正がどのように関係していますか。

      8 クリスチャンも,「公正を行ない」なさいという命令の下にあります。長老たちは,あるクリスチャンの兄弟が,奉仕のしもべあるいは長老として奉仕する資格があるかどうかを決定する必要があるかもしれません。その場合に長老たちは,神の言葉に忠実に従い,神の霊の導きに頼ることによってのみ,この問題を公平に扱うことができます。また,重大な罪を犯した仲間の信者について決定を下すことが要求されるやもしれません。(コリント第一 6:1-6。テモテ第一 5:20-22,24,25)同じように,個々のクリスチャンは,会衆と交わっている人々の中に,気ままに振る舞う人がいれば,その人々が望ましい友だちであるかどうかを決めなければならないこともあるでしょう。この場合も,公正であるためには,個人の偏見や非聖書的な見解ではなく,神の言葉に基づいて決定することが求められます。ある仲間の信者との社交的な交わりを中止するとすれば,その動機は,その人たちが自分の歩み方を変える必要のあることを知るように助けたいという願いでなければなりません。それは,そういう人々に不親切にし,『敵として扱う』という意味ではありません。「兄弟として訓戒しつづける」べきです。(テサロニケ第二 3:11-15)もちろんこれは,この問題で聖書の助言に従う人々を,不健全な影響から守ることにもなります。―テモテ第二 2:20-22。

      9 ヤコブ 4章11,12節によると,クリスチャンはどのように仲間のクリスチャンに対して公正を行なわないことがありますか。

      9 しかし,もしクリスチャンが,自分の標準によって仲間の信者の行動,動機または生き方を裁き,その人の価値を独断的に評価するとすれば,公正を行なうという点で重大な失敗をすることになるでしょう。弟子のヤコブが書いていることに注意してください。「兄弟たち,互いのことを悪く言うのはやめなさい。兄弟のことを悪く言ったり,自分の兄弟を裁いたりする者は,律法を悪く言い,律法を裁いているのです。そして,律法を裁くのであれば,あなたは律法を行なう者ではなく,裁き人です。立法者また裁き主であるかたはひとり,それは救うことも滅ぼすこともできるかたです。しかし,自分の隣人を裁くとは,いったいあなたはだれだというのですか」。(ヤコブ 4:11,12)そのように裁く人は,神のお与えになる愛のおきてを自分には当てはまらないと考えて,自らをその愛のおきてよりも上に置くのです。(マタイ 22:36-39。ヨハネ第一 3:16と比較してください)そのようにして彼らは,愛に基づくエホバの公正の規準を侵すのです。

      10 ある特定のグループの人々を,別のグループよりも「良いたより」に値する人々とみなすのは,なぜ不公正ですか。

      10 さらに,クリスチャンが,ある特定のグループの人々を,別のグループよりも「良いたより」に値する人々とみなすのも,公正を欠いています。イエス・キリストは全人類のために死なれました。そして神のご意志は救いの音信を公平に知らせることです。(テモテ第一 2:3-6)したがって,聖書の音信を携えて人々をその自宅に訪ねることが可能な国々では,すべての家を訪問することこそ,公平の精神というものです。あるグループの人々は他の人々よりもよく耳を傾ける傾向があるかもしれませんが,わたしたちはそのためにえこひいきする気持ちにならないよう,用心することが必要です。―ヤコブ 2:1-9と比較してください。

      「親切を愛し」

      11 『親切を愛する』という表現にはどんな意味がありますか。

      11 イスラエル人は,公正を行なうことを求められていたほかに,「親切を愛し」なさいとも命ぜられていました。「親切を愛する」という表現は,「愛ある親切を愛する」とも,あるいは「忠節な愛を愛する」とも訳せるでしょう。その「愛ある親切」は,他の人たちに対する積極的で同情心のある関心もしくは気づかいで,行動に表われる親切です。(ルツ 2:8-20; 3:10と比較してください)『親切を愛する』とは,親切にすることを楽しみもしくは喜びとし,他の人々に快く助けを差し伸べる,という意味でした。

      12 イエス・キリストが確かに「親切を愛し」ておられたことは,何から分かりますか。

      12 この点でイエスは,優れた模範を示されました。疲れていたときでも,プライバシーが侵害されたときでも,イエスは喜んで同国人の必要にこたえられました。あるときのことについて,聖書は次のように伝えています。「イエスは彼ら[使徒たち]を連れ,自分たちだけでベツサイダという都市に退かれた。しかし,群衆はそれを知って彼のあとについて行った。それでイエスは彼らを親切に迎え,神の王国について話しはじめ,また治療を必要とする者たちをおいやしになった」。(ルカ 9:10,11)そのようにして親切にすることは,イエスに大きな喜びをもたらしたのです。

      13 わたしたちは,「親切を愛し」ていることを,今日どのように示しますか。

      13 もしあなたがイエス・キリストの弟子でしたら,「親切を愛し」ておられるでしょうか。困っている人々を物質的にも霊的にも心を尽くして助けることができるよう,自分個人の安楽や欲望を二の次にしますか。正確な知識を持たない人々が,霊的に哀れな状態にあるのをみて,イエスの場合のように,同情心をかき立てられますか。(マルコ 6:34)知人や親せきの人々をも含め,他の人々に霊的な慰めを,熱心に,明るい態度で伝えますか。また,公の証言にあずかるための時間を,毎月無理のない程度にもうけますか。(啓示 22:1,2,17と比較してください)仲間の信者または外の人が身体的に本当に困っているのを見るなら,助けに行く気になりますか。(箴 3:27,28。コリント第二 8:1-4; 9:6-12)もしわたしたちが本当に「親切を愛し」ているなら,確かにそのようにするはずです。

      「慎みをもってあなたの神エホバと共に歩む」

      14 「慎み」と訳されているヘブライ語にはどんな意味がありますか。

      14 ミカの預言はまた,「慎みをもってあなたの神エホバと共に歩む」よう,イスラエル人を励ましています。ミカ 6章8節で「慎み」と訳されているヘブライ語は,ここと箴言 11章2節にしか出ていないので,この語の詳細な意味を理解することは,すぐにはできません。後代のユダヤ人の著書は,このヘブライ語に,純粋とか品位などの意味があることを示しています。セプトゥアギンタ訳とシリア語訳は,神と共に歩むための「準備」もしくは「用意」ができている,という考えを表わしています。したがって,慎みをもってエホバと共に歩むということは,単にへりくだるというだけの問題ではなく,神のみ前にいるにふさわしい,謙そんな,そして自分を頼らない状態も関係していることは明らかです。

      15 ノアとエノクの場合が示しているように,「神と共に歩む」ということにはどんな意味がありますか。

      15 『神と共に歩む』という表現は,ずっと昔の聖書の記録にあります。例えば,預言者エノクと族長ノアは,神と共に歩んだと言われています。ノアについては,「ノアは義にかなった人であった。彼は同時代の人びとの中にあってとがのない者であることを示した」と記されています。(創世 5:24; 6:9,新)エノクも「神をじゅうぶんに喜ばせ」ました。(ヘブライ 11:5)したがって,神と共に歩むには,神のご意志に一致して,ほんとうに神のみ前にあるかのように振る舞うことが必要です。エノクもノアも,その信仰と正しく立派な行ないのゆえに,エホバ神との特に親密な交わりを楽しみました。

      16 (イ)慎みをもって神と共に歩むのであれば,わたしたちの振る舞いは実際にどのようなものであるはずですか。(ロ)クリスチャンの,賞賛に値する生活の実例は,結果としてどんな益をもたらしますか。

      16 エホバ神との親密な交わりを引き続き享受するにふさわしい状態を維持するためには,クリスチャンは神の目に常に清く,謙そんで,品位ある者としてとどまり,神と共に歩むまでに慎み深くなければなりません。聖書は次のように助言しています。「諸国民の中にあっていつもりっぱに行動しなさい。それは,彼らが,あなたがたを悪行者として悪く言っているその事がらについて,あなたがたのりっぱな業を実際に見,その業のゆえに検分の日に神をたたえるようになるためです」。(ペテロ第一 2:12)確かに,クリスチャンの生き方の優れた実例は,「良いたより」を公に宣べ伝える業を,説得力あるものにします。それは,真の崇拝が人の生活によい影響を与えることを証明し,イエス・キリストの真の弟子たちのことを偽り伝える人々を,沈黙させるでしょう。(ペテロ第一 2:13-16)それどころか,クリスチャンのことを偽り伝えるその人々も,自分の行ないが間違っていたことを悟り,やがてエホバ神の賛美者となるかもしれません。

      17,18 (イ)ミカの預言およびヤコブ 1章22-25節から見て明らかな通り,エホバは,エホバの目に喜ばれる者であることを願う人々すべてに,何を求められますか。(ロ)エノクとノアが神と共に歩んだことは,同じ点をどのように示していますか。

      17 エホバ神の意にかなうことを願う人々はみな行動を求められている,という事実について,霊感を受けたミカの預言は何の疑問も残していません。弟子ヤコブも,同じ点を強調しました。「みことばを行なう者となり,ただ聞くだけで,虚偽の推論によって自分を欺く者となってはなりません。みことばを聞いても行なわない者がいるなら,それは,鏡で自分の生まれつきの顔を見る人のようなものだからです。その人は自分を見はしますが,いったんそこを離れると,自分がどのような者であるかをすぐに忘れてしまうのです。しかし,自由に属する完全な律法の中を熟視し,それを守り通す人,その人は聞いてすぐに忘れる者ではなく,業を行なうことによって幸福になります」― ヤコブ 1:22-25。

      18 祈りをささげ,聖書を読み,クリスチャンの集会に出席し,そこで話されることに礼儀正しく耳を傾けるだけでは,不十分です。わたしたちの生活は,わたしたちが公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってエホバと共に歩んでいることを実証するものでなければなりません。エノクもノアも,至高者と共にとがなく歩みましたが,それには熱心な活動が含まれていました。エノクは,エホバが無数のみ使いによって裁きを執行されるということを,当時の不敬虔な人々に臆せずに預言しました。(ユダ 14,15)ノアは,自分の家族と基本的種類の動物を保護する箱船の建造にあずかっただけでなく,同時代の人々の滅びを警告する「義の宣明者」でもありました。―ペテロ第二 2:5。

      19 自分がミカ 6章8節と一致した生き方をしているかどうかを見定めるために,わたしたちはどんなことを自問してみることができますか。

      19 確かにイエス・キリストの弟子は,思い違いをして,人に好かれる性格を持ち,公の崇拝に携わっていれば,エホバ神の是認を受けるのに十分である,と考えるべきではありません。仲間の人間に対する積極的で同情心のある関心が,はっきり見られなければなりません。あなたの場合そうでしょうか。他の人々の身体的,霊的必要に進んで,また熱意をもって,公平にこたえますか。宣べ伝え,弟子を作りなさい,という命令を熱心に実行しますか。(マタイ 28:19,20)神のしもべとしてのあなたの行状は,見倣うに値しますか。もしそうであれば,あなたはミカ 6章8節に記されている,霊感による言葉に一致した生き方をしているのです。

  • 活動する愛
    ものみの塔 1978 | 12月15日
    • 活動する愛

      「愛は決して絶えません」― コリント第一 13:8。

      1 世の中に真実の愛が欠けていても,なぜ不思議ではないでしょうか。

      この世の中で,わたしたちは「愛」という言葉をよく見聞きします。歌に,本に,映画に,ポスターに,プラカードに,ボタンに,愛という言葉は出て来ます。にもかかわらず,わたしたちは自己犠牲的な愛の極めてまれな世界に住んでいます。それも不思議ではありません。多くの人は情熱や感傷を,間違えて愛とみなしているからです。そういう人々は,イエス・キリストの真の弟子を特徴づけている愛を知りません。その愛は,己のごとくに隣人を愛することよりもさらに深いもので,必要ならば,クリスチャンの兄弟たちのために死をも辞さないほどの愛です。そのようにして人は,人類のために自ら命を捨てられたイエス・キリストに倣うのです。―ヨハネ第一 3:16-18。

      2 コリント第一 13章で論じられている主題は何ですか。

      2 確かにクリスチャンの愛は活動的で,他の人々のためにする実際的な善行に現われます。この愛は,情緒または感情であるために,容易には定義できません。しかし,どのように現われるかは,説明できます。そしてコリント第一 13章には,クリスチャンが持つべき愛が実に見事に描写されています。この章で強調されているのは,人類に対する神の愛の現われでも,エホバ神に対するわたしたちの愛でもありません。その要旨は,仲間の人間に対して愛をどのように示すべきか,ということにあります。

      3 コリントの会衆に存在していた問題を幾つか挙げなさい。

      3 コリントのクリスチャンが必要としていたのはこれでした。というのは,彼らは互いに最も良い関係を楽しむところまで行っていなかったからです。コリント人への第一の手紙全体を調べると明らかなとおり,そこの会衆は,ねたみ,闘争,分裂,自慢,不道徳,不正直,度をはずれた勝手な行動,などの問題を抱えていました。クリスチャン会衆内のある人々は,名声を望んでいました。能力や賜物すなわち天分で,互いに他に抜きんでることを望んでいました。―コリント第一 1:10,11; 3:2,3; 4:6,7; 5:1,2; 6:7,8; 8:1,2,7-13; 11:18,19; 12:14-18。

      「勝った道」

      4 西暦一世紀のクリスチャンたちはみな同じ賜物を持っていましたか。

      4 もちろん,霊のより大きな賜物を望ましいものとみることや,使徒,預言者,または教える者として会衆に奉仕したいと考えるのは間違いではありません。しかし使徒パウロは次のように指摘しています。「すべてが使徒ではないでしょう。すべてが預言者ではないでしょう。すべてが教える者ではないでしょう。すべてが強力な業をするわけではないでしょう。すべてがいやしの賜物を持つわけではないでしょう。すべてが異言を話すわけではないでしょう。すべてが翻訳者ではないでしょう」。(コリント第一 12:29,30)しかし,会衆内のすべての人にできることがありました。事実,それは「より大きな賜物」の追求よりも重要なことでした。使徒が,「より大きな賜物を熱心に求めてゆきなさい。ですが,わたしはさらに勝った道をあなたがたに示します」と励ましているところをみても,そのことは明白です。―コリント第一 12:31。

      5,6 (イ)使徒パウロは,どういう意味で「勝った道」という表現を使いましたか。(ロ)真のクリスチャンにとって最も重要なのは,能力や賜物を持っているということではないことを,どのように示しましたか。

      5 このさらに勝った道とは何でしょうか。それは愛の道です。コリントのクリスチャンたちは,「賜物」に対する評価の仕方を変えて,愛を働かせる必要がありました。愛が才能や天分よりも大きな価値を有することを指摘して,パウロは次のように書きました。「たとえわたしが人間やみ使いのいろいろなことばを話しても,愛がないなら,音を立てる一片のしんちゅうか,ただ鳴り響くシンバルとなっています。そして,たとえ預言の賜物を持ち,すべての神聖な奥義とすべての知識に通じていても,また,たとえ山を移すほどの全き信仰を持っていても,愛がないなら,なんの価値もありません。そして,ほかの者たちに食物を与えるために自分のすべての持ち物を施しても,また,自分の体を渡して自分を誇れるようにしたとしても,愛がないなら,わたしにはなんの益にもなりません」― コリント第一 13:1-3。

      6 クリスチャンが自国語以外の言語も話すことができれば,それは確かに貴重な賜物です。さらに大きな賜物は,人間よりも高い創造物であるみ使いの言葉を話す能力でしょう。しかしもしその人が,自分の名声を高めるためにその能力を用いたり,別の面で間違った動機を抱いていたりするなら,その人は,クリスチャンの兄弟たちを含め,仲間の人間にとって建設的な存在ではないでしょう。その人の言うことは,どらやシンバルの大きなうるさい音と変わらないでしょう。それに,愛がなければ,預言をする賜物や,奇跡による知識,奇跡による信仰などは,他の人々を励ますものとはなりません。そうした賜物や天分は正しく用いられないでしょう。同様に,自慢できることだけを考えて,気前よく人に物を与える人も,益を受けられません。そういう人には報いがありません。また,もし人々から英雄視される者になりたいという考えで苦しみを忍び,死をさえ遂げるとしたら,どうでしょうか。さらに,もし神にもまた仲間の人間に対しても真の愛を抱いていないなら,最大の犠牲を払おうとする気持ちも,当人になんら永続的益をもたらさないでしょう。死すべき人間の賞賛を受ける以外には,得るべきものは全く何もないでしょう。(マタイ 6:1-4と比較してください)愛がそれほどに重要なものである以上,自分がこの優れた特質を示すことをどれほど実行しているか,考えてみるのはよいことです。わたしたちは「勝った道」を,本当に追い求めているでしょうか。

      愛はどのように行ないに表われねばならないか

      7 苦境にある時に,わたしたちはどのように愛を示すことができますか。

      7 コリント第一 13章4節には,「愛は辛抱強く,また親切です」とあります。これはわたしたちに何を要求しているでしょうか。腹の立つようなことをされたり,圧迫されたり,いらいらさせられたり,間違ったことを言われたりしたとき,わたしたちはどう反応すべきでしょうか。辛抱強い人は,短気な振る舞いや,感情を爆発させるようなことを避けます。つらい状況の下でもじっと耐えます。そうしていれば,不快な状況をつくり出した人も,自分のやり方を改めるように助けられると考えて,耐え忍びます。同じ理由で,わたしたちは親切でなければなりません。荒々しく厳しい,あるいは憎々しい態度を取るのではなく,やさしく,柔和で,親しみのある,そして力になってあげようとする態度を示さねばなりません。(ローマ 12:20,21。ペテロ第一 2:18-23と比較してください)わたしたちは仲間の信者に純粋の関心を抱いているのですから,彼らが持っているかもしれない特異性や良心の弱さをすべて,喜んでがまんすべきです。自分の権利を固執して,クリスチャンとしての自分の自由を用い尽くすことのないようにすべきです。そうすれば,真の崇拝を捨てる口実を与えて,彼らをつまずかせるということはないでしょう。―ローマ 14:1-4,19-21。

      8 自慢すること,誇ること,ねたみなどは,どうして愛のない行ないと言えますか。

      8 わたしたちはさらに,「愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず」と教えられています。(コリント第一 13:4)もし本当にクリスチャンの兄弟たちを愛しているなら,どうして兄弟たちの業績や彼らが得ている祝福,または能力をねたんだり,うらやましく思ったりすることができるでしょうか。むしろわたしたちは兄弟たちと共に喜び,兄弟たちが会衆を築き上げることに寄与できるのをうれしく思うでしょう。(ローマ 12:15,16)また,わたしたちはいつもいつも出しゃばって,自分の業績や経験を目立たせるようなことをどうしてできるでしょうか。そういうことは,聞く人を落胆させるかもしれません。それに比べて,自分のしたことは本当にわずかだ,と感じるようになるかもしれません。自慢したり,誇ったりすることは,他の人たちをけなし,エホバ神に帰すべき栄光を分散させるだけです。それは本当に愛の欠けた行ないです。それよりも自分の役割を最小限度に評価するほうが,はるかに良いでしょう。わたしたちは神の奴隷にすぎません。ですから,クリスチャン会衆の発展の誉れと賞賛はすべて神に帰せられるべきです。(コリント第一 3:5-9)謙そんであれば,思い上がった考えを持つことも,また自分が重要人物であるかのような印象を人々に与えようとすることもないでしょう。

      9 愛は「みだらなふるまい」をしないので,わたしたちはどのように振る舞うべきですか。

      9 さらに,「愛はみだらなふるまいを」しません。(コリント第一 13:5)純粋の愛を抱いているなら,わたしたちはあらゆる種類の悪を憎みます。しかし,これにはもっと多くのことが関係しています。『みだらなふるまいをしない』という表現には,『不作法でない』という意味もあります。(新英訳聖書をご覧ください)あらゆる関係において,愛は人に正しい振る舞いをさせます。愛の深い人は,貧しい人や困っている人を見下げてつき合いを避けたり,交わりを選り抜いた少数の人に限るようなことをしません。(ヤコブ 2:1-9と比較してください)みだらでない振る舞いには,正当な権威に対して敬意を示すことも含まれます。真実の愛があるなら,わたしたちは人,また人の財産を尊重します。他の人の財産には確かにわたしたちの集会所も含まれます。子供たちがいすに落書きをしたり,走り回ったり,時には人々にぶつかって倒したりするようなことは確かにふさわしくない行為です。そのようなみだらな振る舞いは,クリスチャン会衆内にあるべきではありません。それは,親の監督が不行き届きであるということです。

      10 どのようにすれば,自分の利を求めていないことを示せますか。

      10 愛についての説明を続ける使徒パウロは,さらに,「[愛は]自分の利を求めず」と書いています。(コリント第一 13:5)そうです,愛は,老齢の人,若い人,病気の人,体の弱い人,教え宣べ伝え弟子を作ることに一生懸命働いている人々など,会衆の成員すべてに,積極的な関心を持ちます。愛は仲間の信者の必要に敏感で素早く反応し,よく人の世話をします。また自分のやり方を強く主張しません。(コリント第一 10:23,24)この優れた特質は,「自分第一」主義の考えと共通する点は何もなく,全く愛他的なものです。

      11 愛は「刺激されてもいらだちません」。それでわたしたちはどんなことを避けるべきですか。

      11 愛は,「刺激されてもいらだちません」から,かっとなる言い訳を見つけるのは,確かに間違いです。(コリント第一 13:5)わたしたちは,怒りを爆発させないようにして,「憤ることに遅くある」べきです。(ヤコブ 1:19)家庭内でそうするには,みんなが,お互いの弱点をがまんする必要があります。また会衆内では,兄弟姉妹がものを忘れやすいとか,クリスチャンの責任を真剣に考えないといった場合に,忍耐強くある点で,長老たちは特に模範的でなければなりません。

      12 「傷つけられてもそれを根に」持っていないことは,何で分かりますか。

      12 またわたしたちは,愛に関する聖書の説明と調和して,「傷つけられてもそれを根に持た」ないようにしなければなりません。(コリント第一 13:5)心に恨みを抱き,採点表をつけてでもいるかのように,だれだれさんはわたしにこういう悪いことをした,と機会あるごとに口にするのは,愛のある行ないではありません。過去のことは水に流してしまうべきで,自分を侮辱した人に対して親切を差し控えるようなことがあってはなりません。―箴 20:22; 24:29; 25:21,22。

      13 愛が喜ばない不義にはどんなものがありますか。

      13 愛はほかにどんなことをしないでしょうか。『愛は不義を喜びません』。(コリント第一 13:6)ですから,他の人々が悪行に陥り,恥をかき,身の破滅を招くのを喜びません。真のクリスチャンは,あの人に問題が降りかかるのは当然だ,と言って喜ぶようなことはしません。(箴 17:5; 24:17,18)さらに,ある人が罰に値する事態から巧みに抜け出すときにも喜びません。(詩 50:18)映画やテレビ番組が描く不正な事柄を見るのを楽しみとするようであってもなりません。また,会衆内の従順でない成員の肩を持って,その人に与えられた戒めをとやかく言うのも間違いです。そういうことをすれば,非行を招いた霊的弱さから完全に立ち直るべく積極的な手段を講ずるよう悪行者を助けることになりません。

      14 愛は何を喜びますか。

      14 では何を喜ぶべきでしょうか。愛は「真実なこととともに喜びます」。(コリント第一 13:6)この節では真実なことが不義と対照的に扱われているので,このことばが次のことを意味するのは明らかです。すなわち,わたしたちは,真実なことが人々の生活に強い影響を及ぼして正しい方向に向かわせるのを見て喜ぶべきである,ということです。祝福につながる事柄,他の人々に健全で建設的な影響を与える事柄,そして真実な事柄と義の目的を推進する事柄すべてに,喜びを見いだすべきです。

      「愛は決して絶えません」

      15 真実の愛には欠けたところが決してないことを,聖書はどのように保証していますか。

      15 愛の道は勝った道であるばかりでなく,終わることもなければ,欠けたところもありません。次の言葉は,この点にわたしたちの注意を巧みに引いています。「[愛は]すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべてのことを希望し,すべての事を忍耐します。愛は決して絶えません」― コリント第一 13:7,8。

      16 愛はどのように「すべてのことに耐え」ますか。

      16 「すべての事に耐え」るという意味で,真実の愛は,すぐに押しのけられたり,弱ったり,捨てられたりはしません。また愛は神経過敏でもなく,他の人々のことを,進歩する希望は全くないと,性急に結論を下すこともありません。愛があるなら,わたしたちは感謝されなくても,仲間の人間に対して善を行ないつづけます。―マタイ 5:44-48。

      17 どういう意味で愛は「すべての事を信じ」ますか。

      17 『愛はすべての事を信じる』という言葉は,どう解釈すべきでしょうか。これは,例えば,何が本当に悪い事かを判別できないために,だまされやすい,という意味でないことは確かです。むしろ,愛は疑い深くない,という意味です。ですから,たとえわたしたちの霊的兄弟がわたしたちを傷つけるようなことをしたり,言ったりしても,兄弟は本気で自分を傷つけたのだ,とすぐに結論するようなことをしません。他の人々の行動を見て,すぐに最悪の事を考えるのではなく,できる限り一番良い見方をするように努めます。悪い企てまたは動機があると見たりせず,クリスチャンの兄弟たちを善意に解釈します。―伝道 7:21,22。

      18 希望とか忍耐ということになると,愛はわたしたちが何をすることを可能にしますか。

      18 同様に,愛は物事がうまくいくことを希望します。これは,愛は単純である,ということではありません。むしろ,最善の結果を求める,そうです,祈り求めるのです。愛は楽観的です。ですから,例えば反応のない区域の人々を訪問する時には,そのうちにだれかが真理に心を向けるだろうという希望を抱いて,訪問することができます。(ローマ 9:1-3と比較してください)また,信者である配偶者は,当然のことながら,未信者の配偶者がやがては「良いたより」を受け入れることを希望します。(ペテロ第一 3:1,2)愛は,わたしたちが最善を望むよう助ける一方,わたしたちがあらゆる種類の迫害,試練,暴言,偽り伝えられることなどに耐えるのを,可能にしてくれます。

      19 愛のある行ないをして後悔することが決してないのはなぜですか。

      19 どんな状況の中に置かれても,愛情深くあることは,いつの場合でも益があります。愛のある行ないをして後悔することは決してありません。愛が,すなわち真実の自己犠牲的な愛が,悪い事態を一層悪くしたためしがありません。では,愛を支配的な特質とする天の父に見倣う十分の理由があるのではないでしょうか。―ヨハネ第一 4:7,8。

      20 (イ)コリント第一 13章8-13節に示されているように,愛の道はどれほど長く「勝った道」として続きますか。(ロ)霊の奇跡的な賜物はやみましたが,キリストの真の弟子はどのように見分けられますか。

      20 愛が勝った道であることは,現体制においてのみならず,永遠にわたって変わらないでしょう。愛は決して「絶え」るとか終わることがありません。使徒パウロはこの点を指摘して次のように言いました。「預言の賜物があっても,それはやみ,知識があっても,それは廃されます。……それに対し,信仰,希望,愛,これら三つは残ります。しかし,このうち最大のものは愛です」。(コリント第一 13:8-13)クリスチャン会衆の歴史は,奇跡的な賜物が,明らかに西暦二世紀までに,確かになくなったことを確証しています。それでも,イエス・キリストの真の弟子たちは,彼らの間にある愛によって見分けられます。

      21 愛の重要さを考えて,わたしたちはどんなことを自問してみなければなりませんか。

      21 わたしたちひとりびとりはどうでしょうか。クリスチャンの兄弟たちに対して愛を広げているでしょうか。使徒パウロが説明しているような方法で愛を示すことに進歩しているでしょうか。確かに,それはわたしたちがしなければならないことです。愛が神の霊の実である以上,わたしたちは,自分の生活の中で愛をより十分に表現できるように,その霊をさらに豊かに与えられるよう祈っているでしょうか。(ガラテア 5:22)願わくは,愛がわたしたちの生活の中で活動を継続し,わたしたちが愛の神エホバの忠節なしもべとして生き続け,永遠にわたって愛し続けていくことができますように。―ヨハネ第一 4:20–5:3。

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