ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 「福音にふさわしく」生活する
    ものみの塔 1963 | 5月15日
    • 「福音にふさわしく」生活する

      1 聖書にはどんなすぐれた価値がありますか。

      人間に対する神のみ心は聖書に明らかにされています。経験に乏しく,理解力に欠ける人でも聖書を学んで賢くなり,聖書を導きとして清い生活を送るとき,心に平和と喜びを得ます。そのわけで聖書に書きしるされたエホバの律法,戒め,原則は,金銀などの富にもまさって求めるべきものです。「主〔エホバ〕のおきては完全であって,魂を生きかえらせ,主〔エホバ〕のあかしは確かであって,無学な者を賢くする。主〔エホバ〕のさとしは正しくして,心を喜ばせ,主〔エホバ〕の戒めはまじりなくて,眼を明らかにする。主〔エホバ〕を恐れる道は清らかで,とこしえに絶えることがなく,主〔エホバ〕のさばきは真実であって,ことごとく正しい。これらは金よりも,多くの純金よりも慕わしく,また蜜よりも,蜂の巣のしたたりよりも甘い。あなたのしもべは,これらによって戒めをうける。これらを守れば,大いなる報いがある」― 詩 19:7-11,新口。

      2 「福音にふさわしく」生活するため,聖書の正確な知識はどのように役立ちますか。

      2 これからわかる通り,「福音にふさわしく」生活するには,神のことば聖書の正確な知識がまずもって必要であり,なお聖書の教えの価値を認めると共にエホバを恐れる心を持たなければなりません。これらのものが根抵にあるとき,善悪を正しく見分けられます。また人によく見られようとして何時も自分を正しい者とする間違いをしないですみます。パウロはロマ書 10章3節にこのような人のことを書いています,「彼らは神の義を知らないで,自分の義を立てようと努め,神の義に従わなかった」(新口)。神を崇拝したいと誠実に願う人は,イエスの時代のパリサイ人にならいません。イエスはパリサイ人に言われました,「あなたがたも,外側は人に正しく見えるが,内側は偽善と不法とでいっぱいである」。(マタイ 23:28,新口)神の僕は神のことばを誠実な気持で熱心に学び,「悪は憎み退け,善には親しみ結び」ます。―ロマ 12:9,新口。

      3,4 (イ)正しい行いは,どんな二つの大きな戒めに基づいていますか。(ロ)神の教えと戒めは,人の持つどんな関係に影響を及ぼしますか。どんな関係がいちばん大切ですか。

      3 「福音にふさわし」い行いの根抵にあるのは,神とイスラエルとの結びつきの根抵にあったのと同じ二つの大きな戒め,すなわち心,魂,力と思いをつくして神を愛し,自分と同じく隣人を愛することです。そこでこの二つの戒めをまず頭に入れておき,聖書には義を行なわせるためのどんな要求があるか,その根本的なものをしらべてみましょう。それらは創造主すなわち天にいます父の戒めです。神の戒めと教えは生活のいろいろな面にわたっています。またいろいろな関係つまり神との関係,家族の者との関係,他の人との関係を律するものです。神のこれらの戒めを学ぶとき,必要なのは盲目の服従ではなく,なぜ神がこの事あるいはあの事を命じ,またある事を禁じているのかを十分に理解することです。心をつくしてこのような理解を求めなければなりません。そうすれば,理解の上に立って神に仕えることができます。―ピリピ 1:9。マタイ 22:37。

      4 すでに見たように,神との関係はきわめて大切です。神にささげる崇拝は汚れのない清いもの,ふた心のないものでなければなりません。神のことばに固い信仰を持ち,ひとえに神を恐れ,専心の献身を全うすることが必要です。

      5 (イ)神の真の崇拝者となるため,生活から何を捨て去ることが必要ですか。(ロ)クリスチャンと自称する人が,迷信的な行いをしているとすれば,それは何の表われですか。

      5 エホバをこのように崇拝し,エホバと正しく結ばれるには,間違った教え,異教,迷信などに由来する間違った崇拝の行いを,生活の中から一掃しなければなりません。迷信にとらわれているため,恐れに支配されている人がいます。多くの国で今なお見られるのは,死人の「霊」や超自然の力を持つと言われる人(魔術者とも呼ばれる)に対する恐れです。このようなものから身を守るため,迷信深い人々は首,腕その他の部分に魔よけを着けます。魔よけにはいろいろなものがありますが,たとえば死んだ子供の骨を身に着けるのは,その子供の霊が守護になると考えられているためです。また葬式の時には「死んだ人の霊」を慰めるために,いろいろな行事が行なわれます。通夜がもよおされ,泣き男,泣き女がやとわれて来て騒ぎ立てます。それは浮かばれない死者の「霊」がたたりをしないためです。このような考えは,人間に不滅の魂があり,死後も生きているという間違った教えから出ています。聖書をみると,このような考えの間違いが明らかになります。(伝道之書 9:5,10。詩 146:3,4をごらん下さい)クリスチャンと自称する人がこのようなことをしているとすれば,信仰と理解を欠いている証拠であり,エホバとの関係を正しく認識していない証拠です。真の崇拝をするには,聖書を知るだけでなく,聖書に信仰を持ち,神のことばの教えるままに生活して信仰を行いに表わさなければなりません。身内の者を亡くして歎くのは自然の情ですが,クリスチャンはそれがならわしであるというだけの理由で,異教に由来する葬式の行事を行なうことはしません。―ヤコブ 1:22-25。

      6 「悪霊」とは何ですか。クリスチャンはどのように悪霊から身を守りますか。

      6 悪霊の存在することは確かですが,それは死んだ人間の霊ではありません。その正体はサタンと共に神にそむいた天使であって,このような天使は悪鬼とも悪霊とも呼ばれています。(ヤコブ 2:19。黙示 16:14。エペソ 6:12)しかし真のクリスチャンには,悪霊のしわざから身を守るための武器があります。神のことばの教える真理に固く立ち,「平和の福音」を活発に宣べ伝える人,固い信仰を盾とし,エホバに希望と信頼をおく人々は,悪しき者の攻撃から必ず保護されます。(エペソ 6:14-18)従ってクリスチャンはどんなことがあっても,悪鬼崇拝や魔術に加護や病気のいやしを求めません。献身したクリスチャンは神に信仰をおくことを神から命ぜられています。

      血に関する神の律法を尊重

      7 (イ)クリスチャンは病気になった時どうしますか。しかし何をしませんか。(ロ)血を禁ずる神の律法はなぜ今日でもあてはまりますか。

      7 そうは言っても,クリスチャンは病気のとき,かたくなに医療を拒むというわけではありません。神が奇跡を行なっていやして下さるというような利己的なことは期待できません。むしろクリスチャンは分別に富み,からだに気をつけます。そして万一,病気になれば喜んで医療を受けます。しかし「信仰療法」には頼りません。使徒時代,初期会衆のときに見られた奇跡的ないやしその他の賜物は,遠い昔に過ぎ去ったからです。(コリント前 13:8)また祈とう師にも頼りません。同時に,血に関する神の律法を破る医療を受けないように注意します。血に関する神の律法は,昔のイスラエル民族の場合と同じく,今日のクリスチャンにも適用されます。イスラエルとの律法契約は廃止されましたが,人間のからだに血を入れることを禁じた神の律法は,今日でも有効です。これは大洪水後,箱船から出て人類共通の先祖となったノアにはじめ与えられた律法でした。そのとき神はノアに言われました,「肉を,その命である血のままで,食べてはならない」― 創世 9:3-6。

      8 エルサレムにおける使徒と古い兄弟たちの会合において,血に対する禁令はどのように明らかにされましたか。

      8 イエス・キリストの死と昇天の何年かのち,エルサレムに集まった使徒と古い兄弟は,血の禁じられていることを確認しました。霊感の下に次のことが決定されました。「聖霊とわたしたちとは,次の必要事項のほかは,どんな負担をも,あなたがたに負わせないことに決めた。それは,偶像に供えたものと,血と,絞め殺したものと,不品行とを,避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば,それでよろしい。以上」。(使行 15:28,29,新口)ここで血を避けることは,不品行を避けることと同様に必要視されています。

      9 肉を食べるに際して,クリスチャンは血の神聖さを尊重することをどのように示しますか。

      9 真のクリスチャンが血の神聖さを尊重しなければならない事は明らかです。血は生命に等しいからです。(レビ 17:11)エホバの証者はこの律法を破らないようにして,血の神聖さを尊重します。この律法は動物のものであれ人間のものであれ,血の種類を問いません。クリスチャンは,「絞め殺したもの」を食べてはならぬと,いましめられています。絞め殺したものからは,血が抜かれていないからです。レビ記 17章13節はこの点で原則となる事を述べています。「だれでも,食べてもよい獣あるいは鳥を狩り獲た者は,その血を注ぎ出し,土でこれをおおわなければならない」。(新口)わなにかかって死んだ動物や,他の動物に殺されたものは,死んだ時に血を抜いていないため,同じ理由でクリスチャンの食用とはなりません。同じく店で買うにしても猟師から買うにしても肉を買う時,クリスチャンは神のこの律法を間違っても破ることのないように,その動物から血が抜かれたことを確認しなければなりません。たいての国において,正規の屠殺者や食肉業者ならば血を抜くのが普通ですからまず安全ですが,そうでない場合も時にはあります。猟師から買う時はとくにそうです。またクリスチャンは,血を混ぜたソース類を避けます。もちろんたとえ血を抜いても,多少の血が肉の中に残ることは避けられません。血管を流れる血を注ぎ出せば,神の律法の要求にかないます。

      10 エホバの証者はなぜ輸血を拒否しますか。

      10 事故あるいは手術で出血したとき,また体力をつけるために血の必要なとき,輸血することは世界中で広く行なわれています。先に引用した聖句に従い,エホバの証者は,このようにして血を体内に入れることが神の律法を破るものと考えます。「血を,避ける」と述べた使徒の言葉は明白です。エホバの証者が輸血によって血を体内に入れることを拒絶するのは,がんこさや意地のためではなく,神の律法を尊重するためです。血は生命に等しく,生命は神の賜物である以上,血の使い方については神の定めを尊重するのが当然です。しかしエホバの証者は,リンゲル液その他血液に代る薬用物また神の律法に違反しない医療ならば,どんなものでも受け入れます。

      11 マタイ伝 10章39節でイエスの述べたどんな原則が,この場合にあてはまりますか。

      11 生きることは人間の願いであり,自分や愛する者の生命を救おうとするのは自然の情です。しかし献身したクリスチャンは,神の律法を破ってまでも生命を救おうとはしません。それは永遠の生命を危うくすることを知っているからです。「自分の命を得ている者はそれを失い,わたしのために自分の命を失っている者は,それを得るであろう」と述べたイエスの言葉が思い起されます。(マタイ 10:39,新口)このようなとき,神の律法を固く守るには信仰が必要です。しかしそれは心と魂と力と思いをつくしてエホバを愛し,第一の戒めを全うする道です。クリスチャンは献身して神と結んだ関係を他の何よりも大切にします。

      ほまれある結婚

      12 (イ)両性間の正しい行いをエホバが定めたのは,なぜ当然のことですか。(ロ)ゆえに結婚をどう見るべきですか。

      12 人間はひとりで住むものではありません。地を人でみたすことはエホバのお目的でした。男女が婚姻関係を結んで家族を持つことにより,この事が成るように神は定めました。そこで神は人を「男と女」に造り,はじめの二人の人に「生めよ,ふえよ,地に満ちよ」と命じました。人を男と女に造り,生殖器官を与えたエホバ神は,男女間の正しい振舞いを当然に定めました。たしかに婚姻はほまれのあるもの,尊重すべきものです。―創世 1:27,28。

      13 (イ)性関係はだれに限られていますか。(ロ)一夫多妻はクリスチャンに許されますか。クリスチャンに対する定めは何ですか。

      13 はじめから神はこの関係を律する一定の原則を明らかに定めました。男女間の性関係は,二人が結婚したときにはじめて許される特権です。それで神は最初の女を創造してのち,男のもとに連れて行き,妻として与えました。(創世 2:21-24)後にエホバはイスラエル民族に一夫多妻を許しましたが,それは神がエデンで始めた型に則るものではなく,クリスチャンにとって一夫多妻は許されていません。神は結婚の根本的な原則すなわち人は一人の妻を持つというはじめからの原則を,キリスト・イエスによって再び確立しました。初期会衆はこの原則を明確に理解しており,テモテ前書 3章2節に会衆の監督は「ひとりの妻の夫であり」と述べられています。

      14 二人以上の妻を持つ人は,献身した者となって新世社会と交わる前に何を決定しなければなりませんか。

      14 一夫多妻が風習になっている国において,聖書のこの原則を行おうとするとき,問題が起きるかも知れません。二人以上の妻を持つ人が「福音」を聞き,それを受け入れて,エホバの証者の新世社会と交わりたいと望んでも,その婚姻状態は聖書の定めるクリスチャンの原則と両立しません。そこでどうしなければなりませんか。この点で「福音」はその人に挑みます。聖書から見て持つことを許される一人の妻のほかは,全部の妻を出さなければならず,生活を大きく変革しなければなりません。これはその人自身が決める問題ですが,献身したエホバの僕となって神の民と共に交わるには,そうすることが必要です。

      15 (イ)結婚の絆をどう見るべきですか。(ロ)淫行と「試験結婚」についてはどうですか。(ハ)ほまれのある結婚をするため,まず何をすべきですか。

      15 人は結婚するとき,性関係を結ぶ権利を得ます。そして結婚の絆は永続するもので,みだりに解消すべきものではありません。エデンの園における最初の結婚のことを語ってから,イエスは言われました,「だから,神が合わせられたものを,人は離してはならない」。(マタイ 19:6,新口)イエスのこの言葉からもわかる通り,クリスチャンの結婚は重大なもので軽々しく扱うべきものではありません。そこで結婚に関する神の定めを破る行いは,不義であり不従順であり,人間の創造主エホバの不興を招きます。性関係は結婚関係を結んだ二人の間,すなわち夫はその妻,妻はその夫との間だけで許されるものである以上,姦淫は固くいましめられています。ゆえに未婚の男子が,未婚,既婚を問わず婦人と性関係を持つのは,神の戒めを破る悪行です。同じく未婚の婦人が男子と性関係を持つことも悪です。ある国で行なわれている「試験的な結婚」すなわち若い二人が正式に結婚しないうちに,はたしてうまく行くかどうかを見るために同棲することは許されません。結婚のもたらす特権である性関係を結ぶ前に,二人は正式に結婚して契りを結び,また婚姻を届けておくべきです。婚姻を正式に届けることは二人の誠実な意図を証拠だてます。たとえ手続に二,三ヵ月を要したとしても,婚姻が正式に登記されるまでは性行為を慎しんで清さを保たねばなりません。それは婚姻を尊ぶことであり,結婚に関する神の定めを尊重することです。

      16,17 夫婦は結婚の定めを尊重することをどのように示しますか。どんな性質はこの事をするのに役立ちますか。

      16 結婚生活にはいってからも,夫婦はそれを尊ばねばなりません。「すべての人は,結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は,不品行な者や姦淫をする者をさばかれる」。(ヘブル 13:4,新口)聖書はクリスチャンの結婚について,こう述べています。エホバから裁かれること,すべての行いはエホバの目の前に明らかなことを思えば,結婚した男女は互の配偶者に対して不忠実とならぬように心するでしょう。また互に対する愛が貞節を固くし,不貞から身を守る力となります。「それと同じく,夫も自分の妻を,自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は,自分自身を愛するのである。自分自身を憎んだ者は,いまだかつて,ひとりもいない。かえって,キリストが教会になさったようにして,おのれを育て養うのが常である。『それゆえに,人は父母を離れてその妻と結ばれ,ふたりの者は一体となるべきである』」。姦淫を犯す夫は妻を愛しておらず,他の女をも愛していません。女に罪を犯させ,神の裁きをもたらす羽目に陥れたからです。―エペソ 5:28-31,新口。

      17 男女はひとつに結ばれます。二人は幸福な結婚を願って何時までも結ばれていなければなりません。これはどのようにして可能ですか。これを可能にする唯一のものは愛です。愛のない結婚はめずらしいことではなく,国によっては夫婦が伴侶となって暮さず,心を通じ合うことも伴侶をわかつこともなく,食事さえ共にしないでいるのが見られます。婦人は伴侶あるいは結婚の契りを結んだ相手としてよりは,召使と考えられているようです。

      18 (イ)クリスチャンの夫に対して,イエスはどんな手本を残しましたか。(ロ)妻に対する夫の愛は具体的にどう表わされますか。

      18 クリスチャンの夫は妻をどのように遇するべきですか。エペソ書 5章25,28節はこれによく答えています。「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように,妻を愛しなさい……それと同じく,夫も自分の妻を,自分のからだのように愛さねばならない」。(新口)イエスは会衆のクリスチャン兄弟に対して忍耐強く,思いやり深く,親切でした。イエスは喜んで一緒に時を過し,神の国のすばらしい事を語り合いました。パレスチナの一般の人々に「福音」を宣べただけでなく,イエスは忠実な弟子たちと多くの時を過し,真理を教えました。また最後には,会衆が救われて永遠の生命を得るため,ご自分の人間の生命を捨てたことに,イエスの大きな愛が表わされています。夫は妻にこのような愛を示すべきです。夫は妻と共に楽しむことを知らなければなりません。夫は妻が永遠の生命を得ることを望むゆえに,「福音」によって自分の学び知った新しい世の生命のすばらしい希望を,機会をとらえては妻と話し合うことでしょう。夫と妻の両方が福音を受け入れたとしても,二人はこれらの事柄を何時も話し合って互の信仰を強めます。

      19 クリスチャンの夫は家族に対してどんな二通りの責任がありますか。

      19 妻と子供の生活を立てるのは,夫の務であり責任です。「もしある人が,その親族を,ことに自分の家族をかえりみない場合には,その信仰を捨てたことになるのであって,不信者以上にわるい」と聖書は述べています。(テモテ前 5:8,新口)しかしキリストの会衆に対すると同じく,夫は生活を立てるのに加えて家族のために心の糧を備えなければなりません。

      20 クリスチャンの親は子供の将来のために何をしますか。それはどんな結果になりますか。

      20 お子さんをお持ちですか。その将来に備えて何をしてやりたいとお考えですか。安定した経済的,社会的地位を得るために,よい学校にやることですか。それはいちばん肝要なことではありません。結婚はエホバの始められたものであり,胎の実すなわち子供たちはエホバの賜物です。この事実を認識し,エホバを愛する親は,子供が成長してエホバに仕えるようになることを望むでしょう。(詩 127:3)ゆえにクリスチャンの親は,幼い時から子供に正しい振舞を教え,聖書を学ばせ,「福音」を伝道することを教えます。そのすべては神の栄光のためです。「父たる者よ。子供をおこらせないで,主〔エホバ,新世〕の薫陶と訓戒とによって,彼らを育てなさい」。この言葉通りにすれば,子供は長じて霊的に強くなり,世の誘惑に耐え,信仰とよいわざに富んでエホバにほまれとなり,両親のほまれともなります。―エペソ 6:4,新口。

      21 クリスチャンの妻は夫に対する愛をどのように示しますか。

      21 このすべてにおいて,妻はかしらである夫を愛の気持ちで盛り立てています。「女のかしらは男」という神の定めに従って夫と協力することが,夫に対して愛を表わす道です。(コリント前 11:3,新口)家族そろって聖書を学び,一緒に集会に出席して神の民と交わり,「福音」の伝道にも力を合わせるならば,主人も妻も子供も一家が愛と喜びに成長します。「〔神の〕御国の福音」を十分に理解するとき,誠実な人は聖書の原則通りに家庭生活を送ろうと努力するでしょう。

      22 (イ)聖書によれば,結婚を解消させ,離婚を許す唯一の理由は何ですか。(ロ)結婚の重大さを考える時配偶者の選択にあたってどんな助言に従うべきですか。

      22 しかし宗教あるいは他の事で二人の考えが違うために,家庭生活が余りうまくゆかない場合,どうしますか。離婚して結婚関係を解消し,自分の好きな別の相手と結婚できますか。聖書によれば,自由に離婚することはできません。国の法律はおり合いの悪い夫婦あるいは現在の婚姻関係を解消して別の人と結婚したいと望む夫婦の離婚を認めるかも知れませんが,聖書によれば離婚の許される理由はただひとつ,すなわち結婚関係を本当の意味で解消させる姦淫だけです。イエスは次のように述べ,この事を明らかにしました。「そこでわたしはあなたがたに言う。不品行〔すなわち姦淫〕のゆえでなくて,自分の妻を出して他の女をめとる者は,姦淫を行うのである」。(マタイ 19:9,新口)姦淫を犯す不貞な配偶者は,自分の正式な配偶者以外の者と,一体になります。貞節なほうの配偶者が姦淫を犯した自分の配偶者を許して以前と同じく結婚生活をつづけることはさしつかえありませんが,姦淫の理由によって離婚を選ぶならば,それは自由であり,ほかの人と再婚できます。その場合結婚の絆は聖書的にも法律的にも解消されるからです。結婚の絆を永続させるには愛と理解が必要です。そのことを考えて,献身したクリスチャンは,「主にある者」とのみ結婚せよと述べた聖書の賢明な助言に従います。―コリント前 7:39,新口。

      23 分裂した家庭において,クリスチャンの配偶者は何をしようと努めますか。

      23 宗教などの問題で家庭が二つに割れているとき,結婚の重大さを知るクリスチャンの配偶者は,なんとかして不和の状態をなくそうと努めるでしょう。不信者の配偶者と別居することを求めず,忍耐と親切を示して,配偶者を救おうとできるだけのことをします。―コリント前 7:10-16。

      24 「福音」は家族に何を挑むことがありますか。この挑戦に正しく応ずることは何に導きますか。

      24 「福音にふさわしい」行いとは,福音を他の人に語り,神に仕えると公言することだけではありません。それは「新しい人」になることから何時でもおのずと外に表われるもので,当然,家庭においても,夫が妻に,妻が夫に,親が子供に,子供が親に対して示すべきものです。社会一般のしきたりのため,あるいは他の理由で聖書のこれらの要求にかなっていない家庭の場合,聖書の教えを聞くと,聖書はある意味で挑むものとなります。必要な変革をなし遂げますか。そうすればエホバから豊かに祝福されることは間違いありません。エホバは結婚の創始者であり,従順な人に対しては新しい世において永遠の生命を与えます。

  • 本当の隣人愛を示す行い
    ものみの塔 1963 | 5月15日
    • 本当の隣人愛を示す行い

      1 クリスチャンが人々の間で正しい行いをすることは,なぜ大切ですか。

      「福音にふさわしく」生きるのは,家の中また家庭内のことだけではありません。何をするにしても,何時でも,だれと接する時にも,それは言えることです。ペテロ前書 2章12節にも「異邦人の中にあって,りっぱな行いをしなさい。そうすれば,彼らは,あなたがたを悪人呼ばわりしていても,あなたがたのりっぱなわざを見て,かえって,おとずれの日に神をあがめるようになろう」(新口)と教えられています。行いに注意しなければならない理由がこれで分かります。それは人々が私たちのりっぱな行いを見て,神をあがめるようになるためです。人は献身したクリスチャンの行いが世の人々の行いとは違うのに気づきます。それでなぜ違うのだろうといぶかって少し調べる人は,これらの人々が献身したエホバの証者であり,新しい世の生命の希望を確信しているところに相違点を認めます。エホバの僕の行いは人を喜ばせよう,人にほめられようといった偽善の欲求に根ざしているのではありません。エホバの僕は何事も「主〔エホバ,新世〕に対してするように」行ないます。(コロサイ 3:23,24,新口)このようなりっぱな行いはエホバに対する愛,隣人愛の表われです。

      2 おもにどんな二つの面でクリスチャンは隣人愛を示しますか。

      2 自分と同じように隣人を愛せよと,イエスは教えました。食物と住居を確保し,新しい世における永遠の生命の希望を固くすることに努めて私たちは自分の益をはかっています。それで隣人のためにも同じことを願わなければなりません。クリスチャンにとっていちばん近い「隣人」は新世社会の仲間の証者であり,また当然に家族の者です。しかしできる限りすべての人の益を図ることも命ぜられています。良いたよりを宣べ伝えることはたしかに隣人愛の表われですが,生活においてりっぱな行いをして伝道したことを実行するならば,それも隣人愛を表わすことです。伝道しても,ふさわしい行いが伴わなければ偽善であり,人はそれにつまずいて御国の音信を聞こうとしないかも知れません。それは愛の表われとは言えません。したがって「福音にふさわしい」行いが大切です。「だれも悪をもって悪に報いないように心がけ,お互に,またみんなに対して,いつも善を追い求めなさい。すべてのものを識別して,良いものを守り,あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい」― テサロニケ前 5:15,21,22,新口。

      3 どんな事情の下で,またなぜエホバの僕は「あらゆる種類の悪から遠ざかり」ますか。

      3 自分が何であり,どんな環境におかれていても,エホバの献身した僕は隣人とのつき合いにおいて,家で,クリスチャン会衆内で,また職場で,「あらゆる種類の悪から遠ざかり」,聖書と一致した行いをしなければなりません。それはエホバの祝福を得,神の民の一員として新しい世の永遠の生命を得る道です。

      正直と誠実

      4 うそを平気でつく人は自分の正体が何であることを表わしますか。どんな裁きを身に招きますか。

      4 他の人との交渉において正直かつ誠実に振舞うことは大切です。この古い世で正直と誠実は余り見られません。このため人々は互に信頼せず,商取引においても欺かれることを恐れて警戒します。多くの人はうそもまことも見さかいなく口に出して,なんとも思いません。この世すなわち組織制度は「この世の神」サタン悪魔に支配され,その霊は「不従順の子らの中に今も働いて」います。サタンは「偽り者であり,偽りの父」であって,うそや他のあらゆる不正はサタンから出たものです。うそをつく者は「不従順の子」です。そのわけで悔改めることをしない「偽りを言う者」は,聖書の中で「人殺し,姦淫を行う者,まじないをする者」と同列におかれています。このような者は等しく永遠の滅びを受けるでしょう。―コリント後 4:4。エペソ 2:2。ヨハネ 8:44。黙示 21:8,新口。

      5 うそをつく理由はたいてい何ですか。しかしエペソ書 4章25節は何を教えていますか。

      5 うそをつくこと,また不正の行いは,他の人に害を与えます。うそは真実の正反対です。何かうしろ暗いことがあって真実をかくそうとする人は,うそをつきます。よくあるのは悪行をかくして罰や叱責を避けるためのうそです。人を欺いて利を得ようと,うそを言う者もあります。理由は何であれ,本当のことは何時かわかって,欺かれた人は失望し,欺いた人を信用しなくなります。「こういうわけだから,あなたがたは偽りを捨てて,おのおの隣り人に対して,真実を語りなさい」。これは聖書の健全なさとしです。―エペソ 4:25,新口。

      6 新しい世に住むのはどんな人々ですか。それで新しい世の生命を望む人は,いま何をしますか。

      6 正直はことばだけでなく,行いについても言えることです。資産あるいは金銭を委託された人が所有主の意図を無視してそれを運用したり,あるいは横領すれば,それは不正行為であり,人のものを同意なくして私することであって盗みと同じです。世の中には不正が行なわれているため,人々は戸締りを厳重にし,金銭などの貴重品,ときには食物の保管にさえ鍵を用いますが,近く実現する新しい世においてそのような事はありません。新しい世に住む人は正直で誠実,信頼のおける人々だからです。それで新しい世に住みたいと思う人は,「以前の生活に属する」古い世の人格すなわち盗みや不正直な行いを捨てて,正直と誠実をいま示さなければなりません。(エペソ 4:22,新口)聖書は次のことを命じています,「盗んだ者は,今後,盗んではならない。むしろ,貧しい人々に分け与えるようになるために,自分の手で正当な働きをしなさい」。―エペソ 4:28,新口。

      7 (イ)時間を盗むとはどういう事ですか。(ロ)クリスチャンはどのように働くべきですか。

      7 使徒パウロのこの言葉から考えられるように,時間も使い方によっては一種の盗み,不正直となります。時間を盗むというのは,たとえば一日何時間労働でいくらの給料という契約でやとわれた人が,就業時間中に仕事をせず自分の事をしているならば,やとい主の時間を盗んでいることになります。クリスチャンは「正当な働き」をすべきであると,使徒は述べています。すなわち良心的で信頼のおける人となり,エホバに対するように正直な仕事をしなければなりません。使徒パウロはコロサイ書 3章22節に「何事についても,肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして,目先だけの勤めをするのではなく,真心をこめて主〔エホバ,新世〕を恐れつつ,従いなさい」(新口)と述べました。同じくやとい主は従業員に対して公正な待遇を与えねばなりません。「主人たる者よ,僕を正しく公平に扱いなさい。あなたがたにも主が天にいますことが,わかっているのだから」。―コロサイ 4:1,新口。

      8 信頼できる,正直な仕事をすることは,どのように隣人愛の表われですか。

      8 これは実際に愛を示す行いです。エホバのクリスチャン証者と自任する者が不正直で信頼できない仕事をすれば,やとい主は他のエホバの証者から「福音」を伝道されたとき,耳を傾けようとしないのではないでしょうか。そのことにまず間違いはありません。それで隣人を本当に愛する人は,隣人が真理を受け入れるのに妨げとなるつまづきの石をおかないように心して,「あらゆる種類の悪から遠ざかり」ます。「愛は隣り人に害を加えることはない」と,使徒パウロは書きました。―ロマ 13:9,10,新口。

      9 借金についてどんな助言が与えられていますか。

      9 はじめから返済するつもりがないのに,借金するのは不正直であり,盗みとあまり変りません。人の親切とお人好しにつけ込んで,返すつもりのない金を借りるのは悪です。「悪しき者は物を借りて返すことをしない」。(詩 37:21,新口)この借りたまま返さないという事は,いざこざのもとです。できれば借金をしないのに越したことはありませんが,事情があってクリスチャン兄弟あるいは友人から借金しなければならない時は,勤勉に働いて正当な期間内に返済すべきです。

      徳を高めることば

      10,11 (イ)話し方と自制という点で,古い世と新しい世の標準はどのように違いますか。(ロ)イエスはこの点でどのような手本を残しましたか。

      10 本当の隣人愛は話し方にも表われます。世の中で苛酷や苦々しさはめずらしい事ではありません。威圧するような話し方をして,優越性と強さを示そうとする人がいます。怒りを爆発させてどなる人もあります。このような事は隣人愛の表われではありません。聖書を読むと,キリスト・イエスはそのような人ではありません。(エペソ 4:20)イエスは勇気のある人で神の国を積極的に支持し,真理に反対する者を強い言で叱責することもしましたが,平静さを失いませんでした。何時も平静で,弟子たちに対してはたとえ矯正するときでも,親切,忍耐と思いやりを示しました。それでイエスの追随者は次のように命ぜられています,「悪い言葉をいっさい,あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば,人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って,聞いている者の益になるようにしなさい。すべての無慈悲,憤り,怒り,騒ぎ,そしり,また,いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く,あわれみ深い者となり,神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように,あなたがたも互にゆるし合いなさい」。―エペソ 4:29,31,32,新口。

      11 新しい世に生命を得ようとする人々の言動は神の定めた標準にかなっているので,古い世のものとは異なり,また本当の愛を示すものです。親切に話しかけてもらえるのは心強く,あやまちを許してもらうことは心を温めます。親切や許し合う気持ちがあれば,おのずと平和が得られ,従ってエホバの証者の新世社会には調和と一致があります。

      12 舌を悪用することについて,聖書筆者のヤコブは何と述べていますか。

      12 これは大きな変革であって,相当の努力がいります。舌を制することを学ぶにおいては,とくにそうです。エホバを賛める同じ舌で兄弟や隣人をそしるのは,神のみ心にかないません。それでは「同じ口から,さんびとのろいとが出て来る」ことになります。そのような事はあるべきですか。「わたしの兄弟たちよ。このような事は,あるべきでない」と,ヤコブは霊感によって書きました。「泉が,甘い水と苦い水とを,同じ穴からふき出すことがあろうか。わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリーブの実を結び,ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も,甘い水を出すことはできない」。―ヤコブ 3:10-12,新口。

      13 人は真実の知恵と理解をどのように示しますか。

      13 神のことば聖書は,どう行なうべきかを教えるだけでなく,正しく話すことをも教えています。神のことばを学び,理解するときに,本当の意味で賢くなるのです。このような知恵と理解を得たとすれば,それは行い,言動に表われてきます。イエスの異父兄弟ヤコブは聖書にこう言葉をつづけています,「あなたがたのうちで,知恵があり物わかりのよい人は,だれであるか。その人は,知恵にかなう柔和な行いをしていることを,よい生活によって示すがよい。しかし,もしあなたがたの心の中に,苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら,誇り高ぶってはならない。また真理にそむいて偽ってはならない。そのような知恵は,上から下ってきたものではなくて,地につくもの,肉に属するもの,悪魔的なものである……しかし上からの知恵は,第一に清く,次に平和,寛容,温順であり,あわれみと良い実とに満ち,かたより見ず,偽りがない。義の実は,平和を造り出す人たちによって,平和のうちにまかれるものである」。―ヤコブ 3:13-18,新口。

      真理のことばを理解してそれに従う

      14 学ぶとは何をすることですか。それには何が必要ですか。

      14 この言葉は,神のことばを常に学んで心を養うことの必要を示しています。上からの知恵は神のことばにおさめられているからです。学ぶというのは単に読んで,読むそばから忘れてしまうことではなく,あるいは子供がときどき学校でやるように理解せずに丸暗記することでもありません。学ぶためには目的をもって読む,つまり学び知ると共に理解する目的で読むことが必要です。書いてある言葉の意味を理解しようと努め,なぜこのさとしが与えられているのか,聖書の中でひとつの教えは他の教えとどんな関係にあり,また互に調和しているかを理解しなければなりません。これには頭を使うこと,つまり多くの人がいとう努力をしなければならないでしょう。しかしこれも良いたよりが挑むことのひとつです。

      15 (イ)エホバの命ずることを理解し行なうことは必要ですが,そのためにはどんな認識を持つべきですか。(ロ)イエスはマタイ伝 7章24-27節においてこの事を何にたとえましたか。

      15 「御国の福音」の価値を認識し,新しい世における永遠の生命の希望を抱く人は,聖書を熱心に学んで「神を知ること」にますます努めるでしょう。(ペテロ後 1:2,5)「救いに至る知恵を,あなたに与えうる書物」すなわち聖書の正確な知識を得ることの必要を悟りなさい。(テモテ後 3:15,新口)将来の生命に備えて確かな基を築くには,聞くだけでなく,エホバがキリスト・イエスを通して命ぜられることを理解して行なわなければなりません。イエスはこのことの重要さをたとえで語りました,「それで,わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを,岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り,洪水が押し寄せ,風が吹いてその家に打ちつけても,倒れることはない。岩を土台としているからである。また,わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を,砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り,洪水が押し寄せ,風が吹いてその家に打ちつけると,倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。―マタイ 7:24-27,新口。

      16,17 支配者であるエホバにいま従うことは,なぜいちばん大切であり,また理にかなっていますか。

      16 イエスの教えた通りにエホバのみ心を行なうことが唯一の実際的かつ賢明な道であることを,イエスはこのたとえによって教えました。聖書の正確な知識を学ぶとき,隣人の益となる行いをし,「人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って,聞いている者の益になるように」できます。しかしそれにもまして大切なのは,このような知恵を持つとき,エホバを愛することの意味を悟れることです。またヤコブも書いている通り,宇宙の至上支配者に「温順」を示す知恵です。従って将来の生命の希望を保つには,いま「神に服」し,「神に従う」ことが大切です。―コロサイ 4:5,6。ヤコブ 3:17; 4:7。使行 5:29,新口。

      17 これは本当の知恵の道です。エホバ神は全能者であり,生命をとることも与えることもできるではありませんか。キリスト・イエスの治める神の国は最高の国であり,この世の国々を滅ぼしてのち永遠に立つのではありませんか。(ダニエル 2:44)それで神の律法を無視し,聖書から神のみ心を学ぶ機会を逃してしまうのは,道理に合わないことです。使徒の次のさとしは全く賢明なものです。「そこで,あなたがたの歩きかたによく注意して,賢くない者のようにではなく,賢い者のように歩き,今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから,愚かな者にならないで,主〔エホバ,新世〕の御旨がなんであるかを悟りなさい」。―エペソ 5:15-17,新口。

      18 (イ)どのように「福音」を受け入れ,また悟るべきですか。(ロ)それから何をしなければなりませんか。

      18 エホバのみ心は何ですか。それはまず,この終りの時に神の僕が伝道している「福音」に耳を傾けることです。地にまかれた種が根をおろすように,真理の種をけんそんな心で受け入れなさい。聖書を自ら学んで神のことばをますます理解し,さとり,エホバの御心が何であるかをわきまえ知りなさい。神のみこころを悟るとき,それにかなった生活を送るため,熱心に努めなければなりません。この世の道を離れ,神の新しい世の原則に従って行動しなさい。この雑誌をお読みになったいま,使徒の次の戒めを実行されるように衷心より希望しています。「あなたがたは,この世と妥協してはならない。むしろ,心を新たにすることによって,造りかえられ,何が神の御旨であるか,何が善であって,神に喜ばれ,かつ全きことであるかを,わきまえ知るべきである」。―マタイ 13:23。ロマ 12:2,新口。

      19 エホバに献身するとはどういう事ですか。どんな基礎の上に立ってこの事をすべきですか。

      19 生活の道を神の要求に一致させたならば,神を愛する誠実な人としていま大切な行いをすることができます。それは神のみ心を行なうため神に受け入れられる献身をして,またその献身を象徴するために証人の前で水のバプテスマを受けることです。献身はエホバのみ心を行なうことを祈りの中で固く決意することです。この決定を他の人に下してもらうことはできません。これは自分が祈って決めることです。献身は誠実な心から出たものでなければならず,清く,受け入れられる者としてエホバへの奉仕に身をささげ得るという確信に立つものでなければなりません。感情に支配されてこの事をすべきではありません。それは理性の力を用いて熱心に学んだ結果,エホバに奉仕することの祝福された特権を心に悟り,理解したうえでとることのできる行いです。―ロマ 12:1。

      20 献身する人々に対する神のみ心は何ですか。

      20 このような献身をした人々に対する神のみ心は,「福音にふさわしく」生活すると共に,神の奉仕者となって家から家に「御国の福音」を宣べ伝えることです。これは神と隣人に対して偽りのない愛を示す行いです。

      21 (イ)どんな質問をいま考慮することは有益ですか。(ロ)生命の道がけわしいように見えても,なぜ落胆すべきではありませんか。何をすることによって,神の国の福音は本当に福音となりますか。

      21 これは福音の挑む事柄です。それに応じますか。へり下って神のみこころを従順に行い,福音を聞く者に与えられる責任を受け入れる人となりますか。これは自分にとって踏み行なうことのできない困難な道であると感じるかも知れません。イエスが語ったように「命にいたる門は狭く,その道は細い。そして,それを見いだす者が少ない」のは事実です。しかしそうは言っても落胆する必要はありません。生命の道を見出してその道を歩みつづけている人々は,自分の力でそうしているのではありません。エホバに仕え,新しい世に生きて永遠にエホバを賛めたいと誠実に願う人は,神のみ心を従順に行なってこの道に歩みつづけるに必要な導きと力をエホバから与えられます。同じ山上の垂訓の中でイエスは言われました,「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう」。(マタイ 7:14,7,新口)ゆえに真の神エホバと御子キリスト・イエスに信仰をおきなさい。キリスト・イエスは罪と死を除くためにご自分の生命を与えました。また神に任名された王となっていま天の御国において支配しています。約束された新しい世に信仰をおきなさい。天の御国の従順な民となっていま生活し,御国が人間の唯一の希望であることを宣明するわざに加わりなさい。何事をするにも,心と魂と力と思いをつくしてエホバ神を愛し,自分のように隣人を愛していることを行いに表わしなさい。そのとき神の国の福音は本当に「福音」となり,平和と正義の最も祝福された国で享ける永遠の生命を保証するものとなります。

  • 忍耐には報いがある
    ものみの塔 1963 | 5月15日
    • 忍耐には報いがある

      ◇ アメリカ,西バージニア州のポイントプリサントで昨年開かれた大会において,オハイオ州から出席した一人のエホバの証者は,次のような経験を話しました。「10年から12年ほど前,私はある村で働いていましたが,小さな村でもあり,そこに住んでいる人ほとんど全部と知り合いになっていましたし,村中の人も私の事を良く知っていました。私がある一軒の家で戸口を叩いたところ,中から婦人が出て来て言いました。『どうぞおはいり下さい。私はセブンスデイアドベンチストです。エホバの証者が私の家の中にはいった事はまだ一度もありません。実際,もしあなたが見知らぬ人だったら,今日も中にはいっていたゞかなかったでしょう。私は聖書を学んで,真理は一つしかない事,神が認められる宗教はたゞ一つである事を知りました。私たちの双方が共に正しいという事はないと思います。私が知りたいのは真理です。それがだれからもたらされようと問題ではありません。しらべてみて私の宗教が確かでないなら,価値はありません』。私もそれに同意して答えました。『そうです,私たちが共に正しいという事はあり得ません。あなたと同じように,私もいかなる試練にも耐え得る宗教を知りたいと思っています』」。

      「このような話し合いのもとに『神を真とすべし』の本を使って研究が始まりました。そして,安息日に関する章に来るまでは私たちの研究は良く続きました。しかし,その後,6年から8年の間研究は中断し,また何度か再開されました。そして安息日を扱う章は色々な証者と全部で10回以上も勉強した事になるでしょう。こゝ5,6年の間,その婦人は御国会館に時々顔を見せました。だれをつれてくるかはきまっていませんでしたが,来るときにはいつでも,御主人か妹さんか,親戚か近所の人などを連れてきました。1960年に,婦人は私と一緒に御国の良いたよりを宜べ伝えるようになりました。そして,今では定期的な伝道者になっています。62年に,婦人は自分の妹と共に浸礼を受けました。今,私にとって大きな喜びとなるのは,この婦人が善意者にあって,安息日について聖書から説明するのを聞く事です」。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする