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神は実際に関心を有するか?ものみの塔 1955 | 2月1日
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真理の言葉を正しく扱いなさい。』『キリストを主として心に崇めなさい。誰かがあなた方の持つ希望の理由を願うならば,いつも弁明して説明しなさい。しかし,そうするときにはおだやかな気分と深い尊敬の念をもつていたしなさい。良い良心を持ちなさい。』あなたはキリストを愛しているということを証明しなさい。『人が私を愛するならば,私の言葉を守るであろう。』あなたは神を愛しているということを証明しなさい。『この神を愛する意味とは,すなわち,私たちが神のいましめを守るということである。』― ロマ 12:2。テモテ後 2:15。ペテロ前 3:15,16。ヨハネ 14:23。ヨハネ第一書 5:3,新世。
そのようにして,あなたは神に対して関心を有しているということを証明し,そして神は実際にあなたに対して関心を持ちます。神は新しい世に住む者たちがする生活を期待していますが,現在そのような生活をすることにより,あなたは地についての神の目的と一致しているということを証明しなさい。地の美を守ることにより,地の美を愛しているということを表しなさい。動物をやさしく使うことによつて,動物を愛していることを示しなさい。いま,平和,道徳,正義そして敬虔を求めることにより,それらのものを愛しているということを表しなさい。この新しい世の良いたよりを隣人に伝道し,隣人に対する愛は,あなた自身に対する愛と同じく大きいということを証明しなさい。この狂気じみた古い世は気の狂つた神サタンの支配をうけていますが,この古い世の嘲笑や迫害にもかかわらず忠実を堅く守ることにより,あなたはヱホバの言葉とその立証に関心を有していると表し示しなさい。このすべてのことを示しなさい。そうすればヱホバはいまでもあなたに関心を払い,そしてまた約束された正義の新しい世で永久に関心を払われるでしよう。
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御霊の結ぶ実ものみの塔 1955 | 2月1日
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御霊の結ぶ実
『御霊の結ぶ実は愛,喜び,平和,寛容,親切,善,信仰,温和,節制である。』― ガラテヤ 5:22,23,新世。
1 自己発展についての人間の努力は,なぜ迷つて間違つた方に行きますか? このことについて,どんな聖句は光を投げかけますか?
ずつと昔の太古の時から,人間は自分をつくりあげるあらゆる面,つまり身体の面でも,精神の面でも,また道徳の面でも,自己発達に強い関心を払つて来ました。人間は不完全であるために,このような面での人間の努力は,多くの場合に釣合が取れず,極端なところにまで行く傾向があります。たとえば,筋肉の発達をひどく誇りにしている人もあれば,身体の離れ業を行い,人から尊敬と讃称を得て,得意に感ずる人もおります。しかし,自分では気がつかないのですが,後になつて,多くの場合良い健康を失うのです。また,目では見えないものですが,精神と心についてのより良いものについて注意を払つてはおりません。使徒はこう述べています「体の訓練はすこしは益がある。しかし,敬虔は現在と将来の生命の約束を与えるために,万事に益となる。』― テモテ前 4:8,新世。
2 (イ)宗教は一般に,自己発展の考え方をどのように支えましたか?(ロ)ユダヤ教に関係づけてもパウロはこのことにつきどのように言いましたか?
2 精神面や道徳面で,人間自身が自ら発展進歩しようと努めそして,実際のものにしろ,または想像したものにせよ,それが達成されることに大きな誇りを感ずる時,この釣合が欠けているということと,極端にまで行くという傾向は,よく表わされます。このことは,現在の世の組織制度の一部を形成している多くの宗教の影響と指示をうけて,多くの場合なされています。それらの宗教の主張は,人がその規定された道にかたく従うならば,現在と将来の両方の生命に影響を及ぼすある功績と利益を自分自身で得ることができるというのです。唯一つで真の神を認めると主張するいろいろな宗教で,この罠を逃れているものは一つもありません。パウロは,ガラテヤ人に宛てた手紙の中で,『肉の業』と対照して,『御霊の結ぶ実』について,どうして書くようになりましたか? ユダヤ教の制度になお固く従い,義は『律法の業』によつて肉に得られ,しかも『ユダヤ人の実践に従つて』得られると主張したある人々の起したこの大問題について言及したのではなかつたですか? パウロは彼自身の先の振舞のことを言つていることから,それには反対であるということを自分自身よく知つていました。『私は,同国人の中で私と同年輩の多くの者にまさつてユダヤ教に深く進んでいた。』パウロは,憤激してこう書いています『あなた方は,そんなにも無分別なのか? 御霊で始めた後なのに,あなた方はいま肉で全うされるというのか?』―ガラテヤ 5:19,22; 2:14,16; 1:14; 3:3,新世。
3 この問題につき,キリスト教国とユダヤ教とのあいだには,どんな面で類似がありますか?
3 ユダヤ教を支持した人々の提唱した考えや,また主張と非常に似ている考えと主張は,キリスト教国の多くの派の中にも見出すことができます。基礎的な信仰であると一般に考えられているものは,このようです。クリスチャンは,安息日の律法を含めて,十のいましめの律法下にいるものであり,義を得て立つことは,そこに詳しく述べられているいろいろな要求を外面上きびしく守ることによつて得られるというのです。ユダヤ教の制度の場合と同じく,自分自身で課す難行苦行,断食,自己否定,僧尼生活や厳しい生活のような多くの人間製の言い伝えがつけ加えられています。これらのものはみな個人の聖さに貢献するものであり,キリストと共に天的な栄光をうける将来の生命のために,必要ないましめの訓練と資格を備えるものと考えられています。驚くことには,ある人は,まだ人間の肉でありながら,極端にも完全な聖さと罪の無い状態に達したとまで主張している程です。なんと愚かなことでしよう! 全く,使徒がこの点について次のように述べているその警告を考える時,本当に愚かなことです。「これらの事は,実際に見せかけの崇拝の形式や偽りの謙遜,また体を厳しく取扱うことにおいて智恵らしく見えるが,しかしそれらは肉慾を充たそうとする時に,何の価値もない。』― コロサイ 2:23,新世。
4 キリスト教国の宗教指導者は,何を理解することができず,又認識することができませんか?
4 クリスチャンは『律法の下ではなく,恵みの下にいる』のであつて,仲保キリスト・イエスを通してつくられた新しい契約によつて義とされる,または正しとされると聖書は教えていますが,キリスト教国の宗教指導者たちは,一般に言つて,その聖書の教えを理解することができません。それで,新しい契約の下にいて義を得るための力は,廃止された十のいましめではなく,神の御霊であるということについて,それら指導者たちは認識することができないのです。その神の御霊は,パウロの言うように,クリスチャンを神の状に変えるものであります。『もしあなた方が御霊によつて導かれているならば,あなた方は律法の下にはいない。』― ロマ 6:15。ガラテヤ 5:18,新世。また,エペソ 2:15。コリント後 3:5-18,新世。
5 (イ)真理の啓示と,間違いを清め除くことは,なぜに漸次の仕事でしたか?(ロ)このことは,御霊の実にどのように関連しているように見えますか?
5 このために,1914年以前とそれ以後のしばらくの時のあいだ,つまり現在の運動の初期に,真理の音信に答え応じ,黙示録 18章4節で命ぜられている通り現代のバビロンの宗教を棄てた者たちでも,以前に真理として受けいれた教でもつて,ある程度まで影響され続けたということは不思議でありません。真理の啓示,及びそれに続いて,教理や実践の両面で,あらゆるバビロン的な汚れを清め除くということは,漸次にされた仕事であるといつも記憶しておくべきです。(シンゲン 4:18。イザヤ 52:11)昔しには,一般に言われていた『御霊の実と恵み』の発展という問題について,多くの注意が払われました。ガラテヤ書 5章22,23節に基いて,その問題は多くの講演に好んで用いられたもので,しばしば談話の形式でなされました。しかし,その用いた主脈は,一律に『人格発展』の線に沿つて,各人は使徒の述べたいろいろな性質を,自分自身でどのように培わなければならないということを示すものでした。実際に,その当時で真理にいたある人は,これらの事を発展させるということは一番重要なことであるとその点に多くの強調を置きすぎ,全く極端なところまでに行き過ぎたため,その結果,自分自身に多くの注意を払いすぎることになりました。どんな小さな経験でも,又は環境でも,人格を試験することとその発展に,ある役目を果すものというように見なされました。多くの場合,別段高ぶらない行ではありましたが,これらの人は自己中心になり,自己本位になりました。別の言葉で言うならば,これらの人は熟し過ぎて,木から落ちてしまつたと言えるでしよう。
6 私たちが悟らねばならない大切なことは何ですか? 特別な,どんな危険を避けるべきですか?
6 このことから,私たちはその問題について嘲笑していることなのでしようか? そのようなことは正しくありません。その問題は,神の御言葉の中に極めてはつきりした地位を占めているものです。自分自身のことを重大視し過ぎる者たちの馬鹿らしさを示すと共に,私たちの強調したいと欲する大切な事は,実を結ぶというこの問題に関連して,正しい見解を持つ必要であります。自己本位になるという危険に関するかぎり,ガラテヤ書 5章のすぐ前後の文脈は,そのことは私たちの内面にある最大の敵であると示しています。パウロは次のように述べています。『御霊によつて生活するならば,また御霊によつて正しく歩もう。たがいに自己本位になつたり,争いをしたり,ねたみ合つてはならない。』― ガラテヤ 5:25,26,新世。
7 (イ)私たちはどのように自分自身を見るべきですか?(ロ)イザヤは私たちの現在の繁栄をどのように描写していますか?
7 それでは,正しい見解を得て,この危険を避けるためには私たちはどのように援助をうけることができますか? ヱホバの私たちを見る仕方に従つて,私たち自身を見る必要があります。それは,どのようなことですか? ヱホバは今日おもにその神権制度シオンに集めた,集合の民として私たちを見,また御処置をとられています。多くの予言は,この集められた民について語つており,イザヤはあるところで,それを神の御霊とそれに続いて結ぶ実に結びつけています。イザヤは実を産出することなく,また実を結ばない状態の時を語つて後に,その状態は神権制度が回復する時まで存在するであろうと,次のように言いました。『されど,遂には霊うえより我らにそそぎて,荒野はよき田となり,良き田は林のごとく見ゆるとき来らん。そのとき公平はあれのにすみ,正義はよき田におらん。かくて,正義のいさおは平和,正義のむすぶ果はとこしえの平穏とやすきなり。わが民は平和の家におり,思いわづらいなき住所におり,安らかなる休息所におらん。』(イザヤ 32:15-18)祝福と増加について,なんと心を惹きつける絵なのでしよう! なんという美味の実なのでしよう!
異つた種類の実
8 文字通りにしても象徴的にしても,すべての実は同じものですか?
8 しかし,ある人はここの点で,前述の予言の中に言われている実とは,パウロがガラテヤ書 5章22,23節で述べているものと同じではないだろうかと尋ねるかもしれません。また,『あなた方が多くの実を結ぶことによつて,私の父は栄光をうける』とイエスの言われた有名なヨハネ伝 15章の譬話の中の葡萄の木の実についてはどうでしようか?(ヨハネ 15:8,新世)イエスの意味されたものは,多くの愛,多くのよろこび,そしてその他のものを結び続けよということでしたか? すべての実は,同じ実ですか? その答えは,もちろん否定であります。実という言葉は,聖書の中でしばしば用いられていますが,多くの場合に,善にしても,悪にしても違つたことを指しています。しかし,すべての場合を通して,次のことは共通なものです。すなわち,実を結ぶということは,自然のものでも論理的なものであつても,ある原因,あるいは行の結果によつて,あるものが産み出される,またはその発生物,あるいは生産物という考えをいつも含むということです。
9,10 御国の実は,違つた角度からどのように見ることができますか? それには,どんな聖書的の支持がありますか?
9 神の御国が天に設立され,また御国の制度がこの地に建てられて,神の民がその制度に集められている日に,私たちは生存しているという事実を考えてみる時,神の僕として神の御霊の助けをうけつつ,私たちの産り出すすべての実は,御国の実と呼ばれるのは正しいことです。しかし,この良い実でさえも,異つた角度から見ることのできるものです。イエスがその一つの譬話の中で示したように,大いなる種子播き人がひろく播く種子は,真理の御言葉である御国の音信です。イエスはこのように言われました『良い地に播かれたものについて言うならば,これらは正しい良い心で御言葉を聞いて後に,御言葉をしつかりと守り,耐え忍んで実を結ぶ人たちのことである。』(ルカ 8:15,新世)それぞれ異つた種類の種子は,おのおのの類に従う実を結ぶものであり,また私たちが真理の知識を得たのは,別の人が御国の音信を伝道したことによつたのである故に,私たちの産み出さねばならない実は,当然別の他の人にむかい同じ音信の証を行い,そして御国の福祉の増加を援助する実でなければなりません。それは一つの角度からの見方であり,イザヤ書 32章とヨハネ伝 15章の引用に述べられている実を結ぶ譬話について一番よくあてはまる見方であります。
10 しかし,それだけが,ただ一つの角度ではありません。使徒は,真理の御言葉で啓発をうけた人々に手紙を書き,次のように言つております『光の子として歩き続けなさい。光の実は,あらゆる種類の善と義と真理でなり立つているものである。』(エペソ 5:8,9,新世)一つの種類は,私たちの日常生活の中に示されるもので,『あらゆる種類の善』であります。他の種類は『あらゆる種類』の野外奉仕で真理の宣明に関連して,示されるものです。実際には両方の種類はこれから先の研究で分るように,互いに相提携して,切り離すことのできないものです。しかしこのいまの研究では,私たちの日常生活と個性,気質に関係する種類に,特別な注意を払つております。また,私たちは『御言葉を聞くだけの者にならず,行う者』になり,これらのことを実際的な仕方で採用することを忘れないようにしましよう。―ヤコブ 1:22,新世。
愛 ― 御霊の主要な実
11 御霊の主要な実は何ですか? これについて,どんな質問が起きますか?
11 ガラテヤ書 5章22,23節で述べられているように,御霊の結ぶ実をつくりあげる9つのものの表の中で,一番最初のものは愛ですが,それはまた当然なことであります。さて個人的で実際的な仕方で質問を自問してみましよう。私に関する限り,『御霊の結ぶ実は愛である』ということは,どういう意味なのですか? その意味は自分自身で精神的な修養をして,毎朝最初にすることは「私はもつと愛のある者にならねばならない。もつと愛のある者にぜひならう」と自分自身に言つてきかせねばならないことですか? しかし,自己発展の道に従い続け,そのような具合にして行くならば,その面で発展できるものは,どんなものでも実際にはみな,私たち自身の霊の実ではないでしようか? でも,使徒の指しているものは神の御霊であつて,私たち自身の霊ではありません。それでは神の御霊は,どのように働きますか?
12 神の愛が私たちに影響を及ぼし,私たちの中に働きかけるということについて,聖書はどのように示しておりますか?
12 最初に,私たちが真理を学び始める時,私たちの心を強くゆすぶるのは,神の大きな愛である御親切と善であります。真理をより一層に学べば学ぶ程に,神の無私の愛により深く感謝し,ついには『わが子よ,汝の心を我に与えよ』との招きの御言葉に答え応ずる程になります。(シンゲン 23:26)つまり,献身の心から私たちは自分自らをヱホバに献身して,ヱホバの御意を行い,真のクリスチャンになります。それは,私たち自身の発意で発展させた愛によるのではないことは明らかです。むしろ,パウロの言うように,それは『神の愛が,聖霊により私たちの心に注がれたから』であります。―ロマ 5:5,新世。
13 この愛は,兄弟たちと結ぶ私たちの関係に,どのように影響しますか?
13 これと同じ時に,私たちは全く同じ道を通り,同じ順序を経て来た他の人たちと交るように導かれているということを認識いたします。これらの人々は,それ故に,私たちの仲間のクリスチャンであり,今日すべての者はみな新しい世の社会の成員であります。丁度果実が自然の産物であつて,無理矢理のものでもなければ人工でつくられたものでないように,私たちの兄弟,姉妹と関係が結ばれることは,自然なことであり,また当然なことであります。ヨハネはこのことを支持して,次のように書いております『愛はここにある。すなわち,私たちが(最初に)神を愛したのではなく,神が私たちを愛し,御子を遣して私たちの罪のために贖の犠牲とされたのである。……(そして)神はこのようにして私たちを愛されたのであるから,私たちは互いに愛し合わねばならない。』それで,神と同じく温い,親切な,無私の仕方で愛し合わねばなりません。(ヨハネ第一書 4:10,11,新世)私たちは,全くたがいに愛し合わなければなりません。神の愛が私たちの心に充ち,真理の智識と御国の希望が私たちの心を一杯にして,私たちが真のクリスチャンになる時,私たちの全生涯と気質は必らずや変り,変化するでありましよう。
14 御霊の実について,聖書は個人の責任を強調しますか?
14 この記事を読んでいる人で,御霊の実を結ぶことは非常に簡単でたやすいことであるという印象をうけていますか? いいえ,それは全くたやすいことではありません。この実は,自己修養のものではありませんが,しかし私たちのなすすべてのことは,ぼんやりと坐り,神の御手にすべてを任して,動かずに得心していることでは決してありません。前にも述べましたように,自分自身と,そして私たちが行う役割について正しい見解を得ましよう。イエスは葡萄の樹の譬話の中で『私の父は農夫である』と言われました。(ヨハネ 15:1,新世)そうです。ヱホバは,御国のすべての実について,大いなる栽培者であられ,あらゆる誉は,ヱホバのところに行きます。しかし,私たちは神の指示をうけて,ある栽培の仕事をいたします。それは,パウロの示すように,植えたり,水を注いだり,雑草を取り除くというような面でありますが,しかし『成長させて下さるのは神』であることを決して忘れてはなりません。それで私たち各個人は,自分自身では無のものではあつても,しかし使徒が続けて述べているように,各人その責任をどのように果して行くかを『それぞれ気をつけるがよい。』なぜならば,『それぞれの仕事は,はつきりと分つてくる。すなわちその日(いまの裁きの日)は,それを明らかにする。』― コリント前 3:6,7,10,13,新世。
15 私たち個人の責任は何ですか? その責任は,どのようにして一番よく果すことができますか?
15 それでは,愛に関する限りに,御霊の実を栽培することについての私たちの役目とはいつたい何でしようか? その質問に答えることは難しくありません。愛の一番の源であるヱホバに見られるように,真の愛が何であるかをより一層に深く認識するにつれ,そしてヱホバとより一展の親密さに結ばれてくるにつれ,私たちはその同じ性質を表現したいという深い,燃える願いを持つようになります。愛とはそのようなものであります。愛は自らを表現したく欲し,活動することを欲します。愛は無私のものである故に,私たちにとつて非常に貴重なものを,私たちと同じく,他の人もたのしみ,分け与えるのを見たいと願います。それでいま次のように質問いたします。ヱホバが新世社会に集められた献身の民の群とできるだけ十分密接に共にすること以外に,愛がより良く十分に実を結ぶ方法はあるのでしようか? また,地方的な会衆のすべての集会に出席し,そしていろいろな面における野外奉仕に積極的に参加すること以外に,より良く『愛された子として,神を真似る者となり,愛の中に歩き続けよ』という命令を守る方法はあるでしようか? この道に従つて行くならば,無私の神の如き愛,および親切と善を行使する終りのないなんとすばらしい機会を私たちは持つているのでしよう! 実際に,際限はありません。パウロの言いましたように,「これ以上行つてはならない」と言うような律法は『このようなものに対しては,一つもない。』― エペソ 5:1,2。ガラテヤ 5:23,新世。
16 新しい世の社会の成員として,私たちの責務は何ですか?
16 注意いたしますが,このことは,祝福を得るためにただ集会に行つても,いつも一言も話さずに,すべての良いことを取り入れるだけということとか,あるいはまた奉仕の仕事をする時に,義務の気持から定まりきつた事としてするのとは全然違うものです。これと一致しているものに果実の木があります。果実の木は,太陽から,空気から,そして地からすべての良いものを吸収いたします。しかしなぜ? それは,他のものの益と元気のために,実を結べるためです。そのことは,私たちの毎日の生活と気質の実を結ぶことと,また御国の伝道の実を結ぶことにもあてはまるものです。私たちの個性はそのような良い特質を持つ故に仲間のクリスチャンや,またこの世の上品な心を持つ人々によろこばれ,深く認められるべきです。それで,あなたの個性はよろこばれていますか?
17 『御霊によつて生活し』『御霊によつて正しく歩む』とは,どういう意味ですか?
17 御霊の実を産出する一番良い方法とは,神の集められた民とできるだけ十分に共になるという考えを助けるものとして,前にすでに引用されている言葉『御霊によつて生活するならば,また御霊によつて正しく歩もう』を再び見てみましよう。(ガテラヤ 5:25,新世)そこに,この望ましい実を栽培し,結ぶ際に私たちに対する奥義があるのです。使徒は,精神修養の課程による自己訓練の道については,一言も言つてはおりません。まつたく,それは『御霊によつて生活し』また『御霊によつて正しく歩む』ことであります。そのことは,私たち自身をシオンに集められた集合の民と見ることです。ヱホバはシオンでその僕級の上に御霊を注ぎ,またシオンでヱホバは私たちの口にその御言葉を置いて,私たちの先生となり,個々別々ではなく,一つの民として,その御霊によつて生活の仕方を私たちに教えられています。それで,私たちは正しい道に出発したのですから,もはや神権的な指示の下に着実で正しい進歩をすることであります。そして恐れることはありません。御霊の実は,ヱホバの讃美および,他の者の祝福と,そして新しい世の生命を受けるという私たち自身の救にいたるように結ばれるでしよう。―イザヤ 54:13; 59:21。
18 制度はこのことにつき,実際的などんな仕方で,私たちを助けますか?
18 実際の面から言つて,ヱホバの制度は正しく歩み,良い進歩をする際の多くの助けを備えております。『ものみの塔』や『通知』を通し,また真理,および真理の中に含まれる助言の討議される集会を通し,私たちは励ましと矯正の両方により絶えず助けられ,そして正しい行為と奉仕をはつきりと見て,守り続けることができます。この悪い苦難の時代には,いつたいどんな態度を取り,どんな道を取るべきか疑問に思わせるような問題にしばしば会います。この面についても,私たちは制度にかたく従うことにより,また実際の益を受けます。なぜならば,制度の中には,使徒の時代と同じく,今日でも円熟し,信頼するに足る僕たちが備えられているからです。それら僕たちの行と性質は,良い模範を示し,そして,その僕たちのいるということは,たとえその助言が必らずしも期待していたものでもなく,また希望したものでなくても,全く私たちを助けるという目的のためなのです。パウロは,そのことについてピリピ人に次のように書きました。『達し得たところに従つて,正しく歩み続けよう。兄弟たちよ,どうか私にならう者になりなさい。私たちの模範に一致して,歩く人たちに,注意をとめなさい。』― ピリピ 3:16,17,新世。
19 クリスチャンになる時に,個性の変化は可能であり,また必要なものですか?
19 私たちの研究のこの部分を結ぶにあたつて,すでに述べられている性質と個性の変化についていま一言述べたいと思います。私たちは一人のこらず,みなこのことについて全くはつきりしているべきです。次のように言うことは,とうてい許されないものです。『まつたく,真理に来る以前の私の行や個性については,なにも特別悪いところはなかつたと思う。特に変化をしなければならないという必要は,別段に見当らない。結局のところ,私たちは自然でなければならない。』それで,イエスの愛された良い育ちの,富んだ若い支配者の場合のように,あなたの日常生活は正しくして良く,あなたの個性は人によろこばれるものであると認めましよう。その支配者は,若い時からすべてのいましめを真面目に守り,不足のものは何であるかを知ろうと欲しました。何が不足していたか,あなたは憶えていますか? 実際のところ,その若者には,御霊の実の一番の中心,無私の愛が不足だつたのです。(マルコ 10:17-22)さあ! 私たちは自分自身について正直になり,ヱホバの御前に身を低くしましよう。私たちは,みなエペソにいた兄弟たちと同列にならぶべきです。パウロは,そのエペソの兄弟たちにむかつて次のように書きました。『以前の生活に属し,その惑しの慾にしたがつて腐敗して行く,古い人(古い自己中心の我)を脱ぎ棄てなさい,しかし,……あなたの心に働きかける力によつて新しくされ,……神の御意にしたがい,まことの義と愛のうちに創造された(自己発展ではない)新しい人を着なさい。』― エペソ 4:22-24,新世。
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品行良く歩むものみの塔 1955 | 2月1日
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品行良く歩む
『品行良く歩こうではないか』― ロマ 13:13,新世。
1 御霊の実の源と径路は,どこにありますか? このことをよく認識いたしますと,それは私たちにどのような影響を及ぼすべきですか?
一般にいつて御霊の実について,特に愛について,いままで討議されたものは,述べられている他の事柄にも適用されるものです。これら他の性質は,それぞれヱホバの中に一番優れて具えられていることが,先づ分ります。それらは又,ヱホバの愛された子キリスト・イエスの中にも全く完全にあることが分ります。それで,私たちは真理の正確な知識により,ヱホバはその御処置のすべての中で,これらの性質をなんと素晴らしく示されるのでしようと知ります。それで,私たちはそれらの性質を尊敬し,どんな場合でも『愛された子らとして,神にならう者になり』それらの性質のうちに『歩み続け』たく思います。そして,私たちと接するすべての人と結ぶ交渉においてもそれらの性質を表わすことを欲します。パウロは,ガラテヤ人への手紙の終りで,こう言いました『時がかなう限り,だれに対しても,特に信仰の仲間に対して,善の業を行う。』― エペソ 5:1,2。ガラテヤ 6:10,新世。
2 ガラテヤ書 5章22,23節で,愛はなぜ最初に述べられていますか?
2 それで,全部で御霊の実をつくりあげるこれら他の特質を簡単に見てみましよう。しかし,『これらのうちで最大のものは愛である』ことについては疑問がありません。愛は一番大切な主因であつて,愛なしでは他のものは全く存在できず,あるいは働くことができません。使徒の述べた順に従い,それらの性質を考えてみましよう。しかし,それらはなにか特別の順序に従つているようには見えません。それらはキリスト教徒ギリシャ語聖書の中では,異つた順序で幾度も繰り返し述べられているからです。―コリント前 13:1-3,13。
よろこび
3 よろこびと神の制度のあいだの密接な結びつきに対して,どんな権威あるいは理由がありますか?
3 よろこびは,愛の後に,一番最初に述べられております。今日私たちは何処によろこびを見出し,またこの実を結ぶ一番良い機会をどのように見出しますか? それの答えは,ただ一つだけですが,そのよろこびはヱホバの制度シオンにあるのです。そして,ヱホバ御自身の愛のある御心は,そのシオンによろこびの満足を見出しております。ゼパニヤの予言は,シオンにいる者たちに『心のかぎり喜び楽しめ』と呼びかけ,そしてさらにヱホバ御自身もどのように『なんじのために喜びたのしみ,愛の余りに黙し,汝のために喜びて呼ばはりたもう』と告げてはいませんか?(ゼパニヤ 3:14,17)このことを支持する特別の証拠がありますが,それは1953年ヤンキー野球場の大国際大会の8日間のあいだに経験した素晴らしい,持続されたよろこびと幸福であると,幾十万という多くの読者はすでに思い出すことでしよう。文字通りに,その8日のあいだ,その所は真のよろこびを経験するのに地上で一番良いところでした。そして,原則から言うときに,同じことはヱホバの民のあらゆる特別な集会に,真であります。
4,5 イエスの前に置かれたよろこびは,何でしたか? 実際的などんな仕方で,私たちはそのよろこびにあづかり加わることができますか?
4 キリスト・イエスは主に選ばれた器になられて,天の父の栄光ある目的を全く結実させ,父の御名を十分に立証することにより,『その前に置かれたよろこび』に入つたということをも,私たちは知つています。主の真の追随者たちは,みなこの幸福な業に参加するよう招待されています。本当に,その理由からして『すべてのものをキリストの中に再び集め』そして彼の支配する制度の中に集めるのは,神の『良いよろこび』であるわけです。それは『私たちが神の栄光の讃美のために奉仕する』ことができるためなのです。それで,御国の福祉が私たちに任されるものならば,どんな奉仕であろうとも,忠実に行いましよう。そうするならば,『あなたの主のよろこびに入れ』との招待の言葉を聞き,その言葉に答え応ずる感動を経験することができます。それに,主の『他の羊』を探して見出し,そして食物を与えて養うこと以上に,より大きなどんなよろこびがあるでしようか?―ヘブル 12:2。エペソ 1:9,12。マタイ 25:21,新世。
5 個人的に言いますと,時にあなたはつらい,難しい状態にうちのめされて,生活は全然冷酷なものであると感じ,それから集会に行つて兄弟たちと御国の真理と御国奉仕の交りを共にするとか,あるいはいま来たばかりの『ものみの塔』を見るというときに,どういうことになるか,御存知ありませんか? あなたはその効果を知つております。それは,まるで重荷があなたの心から取り除かれたようです。それにより,あなたはホッといたします(それはすばらいし事です)。そして問題に対処する新しい見方を,あなたは得るかもしれません。別の言葉で言うと,前の研究で説明されているように,あなたは制度を通してつくられた御準備を利用されたのであり,その結果ヱホバの御霊はあなたの心と精神に新しく働き,よろこびの実を結ぶことになつたのです。
平和
6 平和の重要性は,聖書の中でどのように強調されていますか? それには何が含まれますか?
6 その表では平和が次に来ます。平和については,何が言えますか? もちろん多くのことが言えます。しかし,最初に獲物を探し,それからその獲物を猛烈に追跡する猟夫の説明を用いるとすれば,それは平和の絵のようには全く見えないことでしよう。でも,詩篇 34篇14節(英文欽定訳)で『平和を求めて,それを追跡せよ』とダビデの書いたものに耳を傾けなさい。それは,今日の諸国民の『平和の鳩』のように,平和は捕えにくい鳥ということなのですか? そうではありません。強調されている事は,平和の重要性であります。私たちは,先づ最初に,献身した神の民と共に,イエス・キリストを通して神のあいだの平和な関係を得なければなりません。それから,私たちはその平和を追い求めて維持する必要を認め,その平和を祈り,そしてその目的にむかつていつも働かねばなりません。ダビデは,そのことにつき次の詩篇の中で,こう述べています。『エルサレムのために平安をいのれ。エルサレムを愛するものは栄ゆべし。わが兄弟のため,わが侶のためにわれ今なんぢのなかに平安あれと言わん。われらの神ヱホバのいえ(清い崇拝の中心)のために我なんぢの福祉をもとめん。』(詩 122:6,8,9)このことから,あなたの場合に,あるものを犠牲にするようになるかもしれません。多分,あなた自身の目から見ては全く正しいものであつても,真理にいない人々のあいだに噂話しの種子を播くのは勿論,兄弟たちのあいだにも不安や話をひき起すとあなたの良く知つているような関係を犠牲にするようになるかもしれません。個人の利害よりも,神の共同社会の福祉を上に置くことは,つねに安全な導きであります。
7 イエスは,ヨハネ伝 14章27節の御約束をどのように成就されておりますか?
7 普通の場合に,人々は平和を求めるのに,文字通りに平和な状態をつくり,そしてその状態の下に生活しようとしています。その平和が実現されるかどうかは,主としてその外形の環境に依存するのであり,大抵の場合に感情の経験であります。それだけが,いまの世で,この価値ある宝をあたえる唯一つの方法です。しかし,イエスは2階の部屋で弟子たちと共にいた時に,『私はあなた方に平和を与える。この世が与えるような仕方では与えない。』と言いました(ヨハネ 14:27,新世)イエスはいま再臨されて,弟子たちと共に居ますが,この不和の権威から私たちを救い出し,その神権的な領域である御自身の地に私たちを移されることにより,その約束を成就されています。イエスは,そのところで,天的な首都,新しいエルサレムにおられ,王として正義をもつて統治して居ります。彼は,神の全能の御霊により,そのところから正義の大いなる業に従事している地上の民を指示しておられ,その結果は,その業に従事する者たちに『やすらぎと確信』を与えます。私たちは,心と精神力を統一して,保護するその平和の御霊の下に『平和の家におり,思いわづらいなき住所におり,安らかなる休息所におらん。』なんと栄光にみち,やすらぎを与える御霊の実なのでしよう!―イザヤ 32:1,17,18。ピリピ 4:7。コロサイ 1:13; 3:15。また1953年12月1日号の『ものみの塔』429頁と430頁,3-6節を見なさい。
寛容
8,9 寛容について,どんな例がありますか? それにより,私たちはどのような影響をうけるべきですか?
8 さて,次の特質である寛容を考えてみましよう。ここでも又,神御自身の御処置の中に光り輝く素晴らしい特質を見ます。神は『亡びにふさわしい怒りの器に対し,寛容をもつて耐えられておられる。それは,恵みの器,……すなわち私たちに,その栄光の富を知らせるためである。』パウロは,彼自身の場合も,以前の悪い行を考える時に,キリストが彼のために示された寛容のいちじるしい例であると引用しています。しかも,それは主に『その信仰を置こう』とする他の者たちを励ますためです。(ロマ 9:22-24。テモテ前 1:16,新世)私たちには,そのような勇気づける例があるのですから,必要ならばどんな時にも,いつもこの同じ特質を示すべきです。といつても,これは個人の悪行や,また会衆内の悪行を果てしなく我慢しなければならないということではありません。しかし,誠実な気持から恵みを求める時とか,あるいは真理にいない人々の場合のように,無知ということを考慮にいれるとき,私たちはこの神の特質をさし控えるべきではありません。
9 寛容の反対は,短気です。あなたは兄弟たちに本当に直ぐ向つ腹を立て,癇癪を起して我慢できない気持から,いまにも兄弟の頭を叩こうとするようになりますか? それは,神の御霊の実ではありません。同時に,それは,鋭い言葉が決して必要ではないということではありません。しかし,ならぬ勘忍するが勘忍,短気は損気です。
親切
10 親切とは何ですか? なにでもつてそれは特別私たちの心にひびきますか?
10 いま,私たちの心に特別訴える性質,すなわち親切に注意を払います。それをどのように定義し,またそれは,聖書の中でどのように用いられていますか? 親切とは,善をする気持を持ち,幸福を与え,情け深く,同情心を有し,慈悲の心があり,恩を施すことです。それは,愛から自然に出た表現であつて,聖書の中ではしばしば『愛ある御親切』という場合のように,愛と密接に結びついております。注意するにふさわしい別の点は,ヱホバの御親切は,私たちに関するかぎりいつも分外であるということです。―創世 20:13。コリント前 13:4。ヘブル 4:16,新世。
11,12 (イ)神の愛の表われは,私たちに何を教えますか?(ロ)このことにつき,ヨハネはイエスについて何と言つておりますか?
11 前に用いたのと同じ仕方に従うとき,親切は最高者ヱホバにその源を発していることを知ります。イエスは,このことについて教を与えた時に,あなたの親切を深く感謝してそれに報いる人々だけに親切であつてはならないという点を強調しました。彼はこう言われました。『これとは反対に,あなた方の敵を愛し,善を行い,そして利息をつけづに金を貸し続けなさい。そして,なにかを返済してもらおうと願つてはならない。そうすれば,あなた方の報いは大きく,最高の子らになるであろう。最高者は,感謝の心を持たない悪い者たちに対しても御親切なためである。あなた方の父が憐み深いように,あなた方も憐み深くなりなさい。』(ルカ 6:35,36,新世。マタイ 5:43-48)この教えを深く心に留めましよう。特に御国の音信を人々にもたらす時には,そうしましよう。なぜならば,その時は他の人の益と元気のために,この実を表示する絶好の機会だからです。無関心とか,反対を,ずつとうけ続け,人々が私たちにつらく当る時は,つい同じく強い,鋭い言葉を言い返したくなるものです。しかし,良く熟した実に,そのような香りはありません。
12 次に,イエス・キリストは,特別に選ばれた方であつて,天の父の恵み深い御親切を十分に説明し,表示した方であると知ります。ヨハネは,そのことを美しく次のように表現いたしました。『言葉は肉体となつて,私たちのあいだに住まわれた。そして,私たちは父から来た独り子の持つ栄光を彼に見た。彼は恵みある御親切と真理に充ちていた。』そうです。『御父のふところにいる方は,御父を説明される方である。』― ヨハネ 1:14,18,新世。
13 御霊のこの実を結ぶために,私たちはどのように教えられていますか?
13 この説明の記述を完成するものとしてキリスト・イエスは『御父を全く知つておられる』唯一人の御方であり,御子をうけいれて,御子の名に信仰を働かす者たちに『よろこんで御父を示され』ます。これらの者たちは,イエスの弟子となつて主の奉仕に入る時,大きな救済を見出します。イエス御自身も,『私のくびきは親切で,私の荷は軽い。』と言われました。それで,次の使徒のすすめの言葉にすぐ,心から答え応じなければなりません。『おたがいにやさしく,あわれみを持ち,親切でありなさい。』そして,神がキリストにあつてあなた方を許したように,あなた方も互いにゆるし合いなさい。』― マタイ 11:27-30。エペソ 4:32,新世。ヨハネ 1:12。
善
14,15 善の創始者は誰ですか? このことにつき,モーセにどんな啓示が与えられましたか?
14 善が何であり,この実を結ぶ私たちの役割りを学ぶためには,私たちは前と同じように,その創始者のところに行かねばなりません。イエスは,創始者ではありません。そのことは,イエスに『善い先生』という称号を与えた人に,イエスの語られた言葉から,彼自身はつきりと示しました。しかし,このことから,イエスは,善を忠実にまた完全に表示しなかつたということではありません。もしそうならば,その人を招いて,弟子の一人になるようにすすめなかつたはずです。―マルコ 10:17,18,21,新世。
15 ヱホバが御自身をモーセに示された素晴らしい,また親しい御啓示を考える時,ヱホバの中に見られる善とは何であるかについて先づ明白に悟り知ることができます。モーセは,ヱホバとのあいだの特別無比の関係を持つたということをあなたは思い出されるでしよう。多分,イエスを除いては,地上のどんな人のものよりも,モーセのその関係は密接なものだつたことでしよう。記録には『ヱホバは,人間がその仲間の者に話すように,モーセと顔を合わせて話をされた。』ある時に,モーセはヱホバにお願いして,『どうぞあなたの栄光を見させて下さい。』と言い,ヱホバは,それに答えて『私は,すべての美(欄外,善)をあなたの前に通らせ,ヱホバの名をあなたの前に宣べ伝える。』ヱホバのあらゆる善は,そのすぐ後に,御名について堂々と宣べられた次の言葉で概括されます。『ヱホバ,ヱホバ,憐憫あり,恵み深く,怒ることに遅く,いつくしみと真実の豊かなる神,いつくしみを幾千万に施し,不正と悪と罪とを赦す方。』― 出エジプト 33:11,18,19; 34:6,7,新世。
16 善についてヤコブは何を教えていますか? そして,私たち自身についてどんな責務がともないますか?
16 ヤコブは,その手紙の中で次のように述べた時,あらゆる善の同じ源を指摘しております。『あらゆる善い賜物とあらゆる完全な贈り物は,上からのものである。というのはそれは,天の光の父から降るからである。父はそれを御意とされて,真理の御言葉によつて,私たちを生み出された。それは,私たちが,彼の造られたものの初めの実となるためである。』これからも又,私たちはヱホバとの密接な関係にどのようにみちびかれているかが示されています。それでその結果に,その『初めの実』は,すべての善意者の仲間と共に,彼らを生み出された御方にたいして,同じような実を結び,そして『善をする者は,神より出る』という原則が真であることを証明しなければなりません。―ヤコブ 1:17,18。ヨハネ第三ノ書 11,新世。またペテロ前 3:8-11,をも見なさい。
信仰
17 信仰は,どんな面で一番大切な基礎ですか?
17 信仰が,ガラテヤ書 5章22,23節の表の中で,第7番目に来ている事実からも使徒は特別の順序を選ばなかつたということが分ります。信仰はクリスチャンの一番大切な基礎であるからです。(ヘブル 11:6。ペテロ後 1:5)そうです。私たちは神に豊かな信仰を持たなければなりません。また神御自身も絶対の確信を持つておられると私たちの知るもの,すなわち御子,御言葉,神の目的,そして神の御国 ― 制度シオンに豊かな信仰を置くべきです。
18,19 御霊の実の一部として,信仰は,特別などんな種類の業を要しますか?
18 信仰について一般的に討論するということではなく,特別に強調したいと願う点は,自分自身が信仰を持つだけではなく,御霊の実の一部として,信仰の持ち方や,他の人に信仰を伝える仕方を学ぶ必要さについてなのです。このことは,ヤコブが『業のない信仰は,死んだものである』と言いましたように,生ける,活動的な信仰を持つことを意味します。(ヤコブ 2:17,新世)他の者が,私たちの信仰により益を得るのに必要な業の種類は,パウロによつて示されています。パウロは,質問の形式を用い,真理の音信を伝道することが,一番重要な業であると論じています。それは,他の者がまずヱホバについて聞き,それからヱホバに信仰を働かせて,彼の御名を呼び,その結果に彼らとまた私たち自身が救われるからです。―ロマ 10:9-15。
19 それですから,私たちはいつでも語る用意をしていて,そして私たちの信仰と一致して行わねばなりません。ヱホバの御国とその音信に強い信仰を持つていますか? パウロは『御言葉を宣べ伝えよ。良い時にも,苦しみの時にも,熱心につとめよ』と申しています。(テモテ後 4:2,新世)ヱホバの制度に強い信仰を持つていますか? そうであるならば,忠節の心を持ちまた熱心にヱホバの制度を支持しなさい。会衆の集会に,定期的に出席すること自体,あなたの信仰の証明であり,他のものを励まして同じく集会に出席させるものです。真理にも古く,その年令も年老いた方々,かなりに弱つていて他の人への伝道も殆どできず,また耳が遠いために集会でも,殆ど聞くことができないような人々を知つてはいませんか? しかし,それらの人はそれでも,できるだけ定期的に来ます。彼らは,神の集まつた民と共にいることを愛します。それは深く根ざしている彼らの信仰と献身の表明であり,その出席することだけで,新しく興味を感じた人々をはげまし,新しく興味を感じた人々は,成員のあいだにかくまでの終世の確信を与える制度について良く考えるようになります。強い信仰と真の献身を持つこれら固く忠実を保つ人の地上の生涯のあいだ,ヱホバが彼らを豊かに祝福し,支えて下さいますように。
温和
20 温和とそれに結びつく特質は,ヱホバにどのようにあると見えますか?
20 次には,温和という良い特質です。温和は,謙譲と謙遜ということに密接に結びついています。この点のところで,この特質はヱホバにあるかどうか,とある人は疑問に思うかもしれません。それは,ヱホバの最高の権威,主権の御意,また高い高貴の地位を考えるからです。しかし,このことについて,ヱホバ御自身が何と言われているかに耳を傾けてごらんなさい。『至高く至上なる永遠にすめるもの聖者となづくるものかく言いたもう。我はたかき所きよき所にすみ,亦こころ砕けてへりくだる者と共にすむ。』全能者が,謂わば,私たちのところまで下りて来られるとは,予期することもできないなんと恵みある御親切なのでしよう。―イザヤ 57:15。
21 御霊の実のこの面は,なぜそんなにも生気づけるものであり,また望ましいものですか?
21 人と交るときに,この種の御霊の実は,一番爽快な気持を起させるものであり,それに結局のところ,実の食物としての価値よりもそれは,強く心を惹きつけるものではありませんか? それは本当に爽快な気持を持たせるものです。あなたの兄弟や姉妹は,あなたが一緒にいるのを気持良いと感じているでしようか? そして,あなたが一段と高いところにいる者のように,あなたがきびしくてこわいとか,不人情であるなどと決して感じないでしようか? 他の人に証言をする時にも,多くの人々の気持は,全く倦みつかれているため,温和と謙遜は特別に望ましいものです。このことについて,イエスの言われたことを覚えていますか?『荷を負つて,疲れている人々は,私のところに来なさい。私は生気づけよう。私のくびきを取つて,私の弟子となりなさい。なぜならば,私は温和であつて,心のへりくだつた者であるから,あなた方は魂の生気を得るであろう。』― マタイ 11:28,29,新世。
22 責任の地位にいる人々に,なぜ温和は必要ですか?
22 責任の立場にいる人々も,また温和が必要です。パウロは,ガラテヤ人に次のように書きました。『兄弟たちよ,ある者が気がつかずに間違いをするならば,霊的な資格を持つあなた方は,温和な気持のうちにその人を正すようつとめなさい。そして,あなた方も誘惑されないように,自分自身注意をはらいなさい。』― ガラテヤ 6:1,新世。また,テモテ後 2:25も見なさい。
節制
23 節制は何と密接に関係していますか? どんな面で,私たちは鋭く気を附けるべきですか?
23 最後に,節制について注意を向けます。これは,今日の世界の精神とは反対のものです。この世では,暴力や,怒りの発作,そして肉慾や情熱にほしいままに耽けることが定例になつています。(テモテ後 3:3)節制は,他の特質ほどに聖書の中で多く述べられていませんが,しかし,懲しめと密接に結びついていることを記憶する時,それには強い聖書的な支持があるということを知ります。私たちは不完全であるために,我儘になつたり,あるいはのんびりして気を弛めてしまうという極端なところまで行く傾向があります。手入れをうけない果物の木は,すぐに良い実を結ぶのを止めて,悪くなり,腐敗を起させる影響と病気にすぐかかつてしまうということを憶えていなさい。それですから,私たちはいつでも気を附けているべきですが,それはなにも,特別無比の御国の特権や私たちの見込みだけではなく,また内部と外部からの両方からくる危険についても気をつけるべきです。私たちは,パウロの言葉のように,競技をしている者です。『誰でも競技をする者は,あらゆることに節制をする。』彼はさらに続けて,『私の体をうちたたいて,服従させる。他の人に伝道した後で,私自身失格者にならないためである。』と言つています。―コリント前 9:25,27,新世。
24 懲しめの他のどんな面は,良い実を結ぶのに貢献しますか?
24 パウロは同じ手紙の後の所で,節制の不足による悲しい結果について,そして自己吟味の必要さについて注意を払つた後,懲しめの他の面を述べておりますが,それはヱホバによつてなされるものです。『自分自身が何であるかを見分けるならば,私たちは裁かれないであろう。しかし,私たちが裁かれるとき,ヱホバによつて懲しめをうけるのである。』ヘブル人に宛てた手紙の中でパウロが指摘しているように真の息子はみな懲しめを必要とし又懲しめをうけるものです。『懲しめはたしかにその当座には楽しくなく,悲しみに見えるが,しかし後にそれで訓練される者に,懲しめは平和の実,すなわち正義を結ぶであろう。』― コリント前 11:31,32。ヘブル 12:11,新世。
25 パウロは,コロサイ書 3章12-14節で,どのようにまたどんな表象を用いて,私たちを諭していますか?
25 この研究を終えるにあたつて,使徒がコロサイ人にむかつて何と書いたかに注意しなさい。それには,実の説明は用いられていませんが,どのような者であるかを示すために,衣服をつける説明が用いられています。しかし,同じ考え方が,そこにもあります。私たち自身で型をつくりあげて,違つた衣服をこしらえそれから,その衣服をバラバラに切り裂いてしまう必要はありません。その代りに神は御自身の型に従つて衣服を備えられ,その衣服を身につけて着るかどうかは,私たち次第なのです。それは非常に良い,愛の表現です。『それで,神の選民,聖い愛された者として,やさしいあわれみの心,親切,謙遜,柔和,寛容を身につけなさい。たがいに忍びあい,もし互いに責むべきことがあるならば,許しあいなさい。ヱホバもあなた方をおゆるしになつたのであるから,あなた方もゆるしあいなさい。これらのものの他に,愛を身につけなさい。愛は一致をもたらす完全な絆である。』そして,愛はヱホバの集めた民として,私たちを固く結びつけます。―コロサイ 3:12-14,新世。
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何処に安全を求めるかものみの塔 1955 | 2月1日
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何処に安全を求めるか
今日は儲け主義です。『どうして儲けようか?』という態度は,ほとんどすべての行為にしみ渡つています。金や富は,あたかも安全をもたらすもののごとく見なされて拝まれており,『安全』を望む願いで,他のあらゆるものを無視する場合は多くあります。神や家族への愛はおろか,自分の持つ礼儀・正直という本性をもふみつけている始末です。しかし,この『安全』は落ちつきのない不安定のもので,インフレ,犯罪,戦争というような多くの要素は,この『安全』をなくしてしまいます。それよりも,さらに勝れたもの,さらに堅固なものはないでしようか? アブラハム・ヨブ・そしてモーセの如き古代忠信者は,あると考えました。イエスや彼の使徒たちも同じくあると考えました。それらの人にとつて,金があるとか,または金が不足しているかということは,最大の関心事ではなく,彼らは神の奉仕と祝福を第一に置きました。それは,天に貯えられる宝であつて,『虫も錆もつかず,盗人も押入つて盗むということはない。』(マタイ 6:20,新世)全能の神から与えられる祝福 ― これこそ真の安全です。その祝福はかたく,動かず,そして確かです。それこそ真実の価値を持つています。あなたからそれを奪い取れる人は一人もいません。それは,あなたにいま満足を与えるだけでなく,永遠の生命にみちびくものです。この真の富を取りなさい。金ではなく,ヱホバをあなたの神にしなさい。
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