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  • 従順という神のご要求にこたえる
    ものみの塔 1970 | 10月15日
    • れねばなりません。そうした動機の有無は,神の意志を行ないたいという欲求があるかないかによって,すぐわかります。わたしたちが従順の道を歩きはじめるには,愛の気持ちから引っぱってもらったり,押してもらったりすることが多少必要かもしれません。しかし,クリスチャン奉仕者が,聖書研究の集会に出席したり,クリスチャン宣教のいずれかの分野に従事したりする際,いつもだれかに引っぱってもらうか,押してもらうかしなければならないというのは,不合理なことです。わたしたちは内的な欲求に動かされねばなりません。わたしたちの願いは,エホバに仕えることであり,それがわたしたちの命となるのです。従順が要求される場合,いらだつかわりに,与えられる導きに感謝すれば,わたしたちは天の父にいっそう近づくことになるでしょう。

      23 詩篇 112篇1節の次のことばを思い起こしてください。「エホバを畏れてそのもろもろの誡命をいたく喜ぶものはさいはひなり」。そのような人は,不活発もしくは無関心な人とはならず,むしろ,どんな状況の下でも永遠にエホバに仕えることを決意する人となるでしょう。こうした動機づけは,人間がいくら外部から圧力を加えたり,いろいろ誘ってみたりしたところで,その人間からもたらされるものではなく,それは,神のことばを通して,また,神の霊が働くとき,エホバから与えられるものなのです。

      24,25 クリスチャンが神に従順を示し,人間の支配から解放されているなら,どんな益が得られますか。

      24 そうした道の益は数え切れません。その道を歩む人は,周囲の人々の近視眼的な好ききらいの感情に左右されて,聖書で訓練された,自分の真の個性をゆがめることをせず,ありのままの自分でいることができます。その結果,諸会衆は,おおらかで自然な自分でいることをためらわない,気持ちの良い性格を持った,いろいろな人々によって,人間的に色彩豊かなものとなっています。幼い子どもたちが楽しくしている一つの理由は,子どもたちは人がどう思うかを気にしないことです。イエスは子どもたちを愛しただけでなく,子どもたちの態度をも愛しておられました。マタイ伝 19章13,14節はこう報じています。「こゝに人々イエスの手をおきて祈り給はんことを望みて,幼児らを連れ来りしに,弟子たち禁めたれば,イエス言ひたまふ『幼児らを許せ,我に来るをとゞむな,天国はかくのごとき者の国なり』」。

      25 今日,地上のさまざまな場所に住む人々に見られる多様性を考えてみてください。人はそれぞれ異なります。習慣や風習も違います。物事のやり方,また,物事をする速度も異なります。にもかかわらず,エホバは,そうした人々が真理を学んで,ご自分に仕えるのを許しておられます。あなたの兄弟たちに見られる多様性を,なぜ人間製の規則で葬り去ってしまうのですか。人間に対するそうした屈従の別の証拠は,世の人々の人気の的となっている,ある種の流行を一般大衆が追うことです。そうした流行は,別のものが登場すると,すたれてしまいます。現在の体制内の商業的な要素は,人々の行動を集団化し,個性を喪失させる能力をたよりに,ばく大な収益を上げているのです。

      26,27 (イ)クリスチャンは,崇拝の仕方において一貫性を保っていますか。従順は,神の会衆に豊かな多様性をもたらしますか。(ロ)この主題に関して,さらにどんな事柄を考慮すべきですか。

      26 神への従順は,そうした危険を避けるものとなります。それら奉仕者が自分たちの仕事を遂行する仕方に類似性が見られることは確かです。しかし,個人個人の表現の仕方,専心の深さ,円熟への進歩の度合い,個人の能力,変化に富む個人的な背景,また,個人個人の仕事の背後にある目的などは,豊かな多様性をもたらし,交わりを喜ばしいものにするのに貢献しています。

      27 ヘブル書 11章に述べられている忠実な人々のことを詳しく調べてみると,彼らのうちに一つの共通点を見いだせます。それは,エホバに対する信仰です。しかし,彼ら個人とその生活には多くの相違点が見られます。たとえば,聖書を書くために起用された人々のことを考えてごらんなさい。彼らは忠実で従順でした。しかし,他のさまざまな点では,それぞれ異なっていました。エホバは,そうした人々がご自分に仕えるのを単に許すどころか,そうするよう招かれるのであれば,今日,神に仕えることを願う人々をロボットにしたてねばならないという理由は,どこにあるのですか。ペテロは言いました。「なんぢら自由なる者のごとくすとも,その自由をもて悪の覇となさず,神の僕のごとくせよ」。(ペテロ前 2:16)さて,こうした真理は,神への従順を学ぶ奉仕者としてのわたしたちの生活に,どのようにあてはまりますか。それは,子どもたちを教える親に,どのように影響しますか。この点で,会衆はどんな立場を占めていますか。それは,夫に対する妻の関係に,なんらかの影響を及ぼしますか。現在の事物の体制下の種々の政府の下でのわざに相違をもたらしますか。こうした問題を念頭において,「従順,望ましい道」と題する次の記事を研究しましょう。

  • 従順,望ましい道
    ものみの塔 1970 | 10月15日
    • 従順,望ましい道

      「あなたがたはわたしのくびきを負って,わたしの弟子になりなさい。わたしは気質が柔和で,心臓からへりくだっているからである。そうすれば,あなたがたは自分の魂を元気づけるものを見いだすであろう。わたしのくびきは快く,わたしの荷は軽いからである」― マタイ 11:29,30,新。

      1 人が従順に関して,怒とうにも似た態度を取ってしまうことがあります。どのようにですか。

      怒とうが容しゃなく海岸に打ち寄せるさまを見たことがありますか。そうした荒波に,あわれみの様子がわずかでも見られますか。岩や砂に砕ける怒とうに,柔らかさや暖かさを少しでも感じましたか。それどころか,荒波は砂をすり減らし,巨大な手でこするかのように岩石を洗い,やがて岩肌を丸く,なめらかにしてしまいます。さらに,がんじょうな石を襲い,どうくつや穴をえぐります。それでも,海は神の定められた法則の多くに服しているのです。その一つは,ヨブ記 38章8-11節にしるされています。「海の水ながれ出で 胎内より涌いでし時 誰が戸をもてこれを閉こめたりしや かのとき我雲をもてこれが衣服をなし黒暗をもてこれがむつきとなし これに我法度を定め関および門を設けて曰くこゝまでは来るべし こゝを越べからず汝の高浪こゝに止まるべしと」。しかし,従順である際に,あるいは,他の人に従順を求める際に,わたしたちは,海のようであるべきですか。すなわち,冷酷で容しゃなく,過酷で,はてしなく人を駆り立て,互いに精力をすり減らし,ついに,自分の思うとおりにする,というようなことをすべきですか。

      2 他人の誤りに助言を与える際の平衡の取れた見方を述べなさい。

      2 だれかが誤りや,まちがいを指摘すると,未熟な人々はそのような人を不平家あるいは,あら捜しと呼ぶのを耳にすることがあります。そして,未熟な人々は,イスラエルの人たちがした,あら捜しを引き合いに出します。しかし,思いきって発言し,なされている悪事を知らさねばならない場合があるのです。それが,たとえ,あなたの兄弟たちによる悪事であってもそうです。箴言 21章13節は率直に述べています。「耳をおほひて貧者の呼ぶ声をきかざる者は おのれ自ら呼ぶときもまた聴れざるべし」。悪事を適切な機会に知らせて,当人の不興を買わないようにする知恵や能力を,わたしたちすべてが同等に持っている

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