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あなたは今日,キリストのかしらの権に服していますかものみの塔 1973 | 3月15日
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あなたは今日,キリストのかしらの権に服していますか
西暦一世紀にイエス・キリストは使徒ヨハネに神からの啓示をお与えになりました。その中でキリストは当時のクリスチャン会衆に対して行使していた,ご自身のかしらの権を明らかにされました。その啓示は,キリスト自らが会衆内の状態を検閲しておられることを示していました。イエス・キリストはクリスチャン会衆の霊的健康,さらに会衆のクリスチャンのわざや活動に関心を払っていました。しかし,キリストは単に検閲しておられただけではありません。ご自分の助言に対する反応に関して,そうした検閲が明らかにする結果に応じて適切な処置をとる備えをしておられたのです。―黙示録 1–3章。1972年3月15日号「ものみの塔」誌,176ページをもご覧ください。
今日,キリスト・イエスは全地にある真のクリスチャン会衆に対するかしらの権を引き続き全面的に行使しておられます。そして西暦一世紀当時と同様,キリストはそのかしらの権を表明するために地上の代理機関を用いています。西暦一世紀のクリスチャン会衆にはエルサレムの使徒および長老たちから成る統治体がありました。今日,油そそがれたクリスチャンの同様な統治体がその機能を果たしています。この統治体は,「[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう」とイエスの約束した「忠実で思慮深い奴隷」もしくは「家令」の管理部となっています。(マタイ 24:45-47; ルカ 12:42-44,新)ですから,神のみ子のかしらの権に服するためには,その統治体とそれが神の神権的な取り決めの中で占めている立場を認めることが必要です。
協調する各地の長老たちの一団
しかしながら,一世紀当時もそうであったように,クリスチャン会衆にはおのおのその土地の長老たちの一団があります。それらの人びとに関して使徒パウロは当時のクリスチャンたちに次のように書きました。『汝らを導く者に従いこれに服せよ,彼らはおのが事を神に述ぶべき者なれば,汝らの魂のために目をさましおるなり』。(ヘブル 13:17)あるいは,使徒の用いたギリシア語をさらに字義的に訳すと,クリスチャンは自分たちを「治めている」人びとに従っていなければなりませんでした。(王国行間逐語訳〔英文〕を見てください。)このことはそれぞれの土地の長老たちの一団が,『忠実で思慮深い家令』級の統治体から独立して働く別個の統治体を成していたという意味でしょうか。
いいえ,そのようなことはありえませんでした。なぜですか。なぜなら,それはキリスト・イエスのかしらの権のもとにある関係を断つことを意味するからです。クリスチャン会衆を構成している人びと全員と,彼らのかしらであるキリスト・イエスとが結ばれている関係は,人体の器官が頭部と連結されている仕組みにたとえられます。使徒はイエスについて次のように書いています。『彼をもととし全身はすべての節々の助けにて整い,かつ連なり,肢体おのおの量りに応じて働くにより,その体成長し,自ら愛によりて建てらるるなり』。(エペソ 4:16)ですから,かしらであるキリスト・イエスは,会衆の各成員がご自分に『連なる』ようにするためのさまざまの取り決めを持っておられるので,そうした配列を無視することはできません。
もしある人が霊的な気持よりも肉的な気持に動かされて「誇り」,そうした備えを無視しようとするならどうなるでしょうか。そのような人は,使徒が次のように述べて描写したとおりの者となるでしょう。『かかる者は…頭につくことをせざるなり,全体はこの頭によりて節々筋々に助けられ,相連なり,神の育てにて生長するなり』。(コロサイ 2:18,19)ですから,クリスチャンの長老であろうとなかろうと,わたしたちはだれでも,わたしたちのかしらとしてのキリスト・イエスと結び合わされるには,わたしたちはキリストの全会衆を一致した統一体として結び合わせ,結束させる「節と筋」,つまり霊的栄養物や交信や共同作用を備える手段や取り決めを通して,会衆のすべての部分と協力しなければなりません。そうしてこそ,『そのからだは[霊的に]成長し,自ら愛によりて建てられ』ることになるのです。そうです,愛は謙そんや一致の霊を生み出しますが,独立や自負の精神を生みだすことはありません。あなたは,このように一致のうちに結び合わされ,愛のうちに協力することによって,自分のかしらとしてのキリスト・イエスを認めていることを示していますか。
聖書,聖霊そしてキリストの模範に従うことを重要な事がらにする
各地の長老たちの一団は神のことば聖書に深い敬意を払うことによって,『かしらとしてのキリストに[堅く]ついている』ことを示します。イエスはそのみことばを教えて,長老たちの考えをそれによって制御させ,導かれるようにしたのです。そうするなら,長老たちの一団は,表面上「実際的なこと」と思える事がら,あるいは現在のように組織されている世の中にあって最も効果的と思えるような方法で欺かれることはありません。そのうえ,長老たちは聖書の原則を適用するさい神の霊と,その導きを求めます。そして,その霊の働きと調和して,その実を生み出さなければならず,かたくなな態度で聖霊を『憂えさせ』てはなりません。―エペソ 4:30。
さらに,長老たちは,かしらとしてのキリストに結び付いていることを別の方法でも示さなければなません。イエスの個性や物事の取り扱い方を反映させて,イエスの模範に見ならうべきです。キリストの使徒たちの模範は,どのようにしてそうすることができるかを知る助けとなります。(ピリピ書 4章9節と比較してください。)そのようにして,長老は仲間の長老たちやすべての兄弟姉妹との間に最大の調和を生み出すことができます。
このように,かしらとしてのキリスト・イエスに頼るなら,長老たちはキリストの指導を確信できます。それら長老たちの心からの献身と服従は,エホバ神がご自身のみ子にお与えになった高められた「名」によって,彼らが確かに『膝を屈め』ていることを示しています。わずか2,3人の長老がイエスの名によって集まっている場合でも,彼らには,『二三人わが名によりて集まる所には,我もその中にあるなり』とのイエスの約束があるのです。(ピリピ 2:9-11。マタイ 18:20)ですから,長老たちが集まる場合,討議や審議においてキリストのかしらの権を十分に意識することでしょう。
一団としていっしょに働くには,謙そんさや,主人の関心事の繁栄を図る深い配慮が要求されます。ですから,長老たちはだれひとりとして自分の方法や見解もしくは好みを押し広めなければならないと感じたり,『さもなければ,何も成し遂げられない,あるいは何ら良い結果はもたらされない』などと感じたりはしません。その長老はクリスチャンとしての年数において他の長老たちよりずっと『年上』かも知れず,あるいは牧羊のわざに関してはより多くの経験を持っているかもしれません。それはその人にとって誉れとなります。また,それは仲間の長老たちが判断を下すさいに,その長老の発言をいっそう重視させるものとなります。しかしそうだからといって,その長老を不可謬の人間にするものではありません。その人の知識や判断また経験は,かしらであるキリスト・イエスのそれに決して匹敵するものでもなければ,神のことば聖書の中に見いだされる知恵をしのぐものでもありません。一団としての他の長老たちと喜んで働き,また自分だけでなく他の長老たちをも会衆のかしらは,お用いになりうるということを喜んで認めるとき,その長老がかしらに服しているかどうかが明らかになります。―コリント前 3:5-9,21-23。ロマ書 12:3-8と比較してください。
慎しみ深さ,他の人を正しく尊敬すること,また各人の人間としての正当な尊厳さを認めるなどの特質があればどの土地の長老たちの一団の討議も実り多い産出的なものになるでしょう。「上からの知恵」は平和を好み,また柔和で道理にかなっており,むなしい言い争い,あるいは人の業績や能力を誇ったりすること,つまり神の霊の欠如と肉的な見方を示すような言行を招く余地は全くありません。―ヤコブ 3:13-18,新。コリント前 3:3。
長老たちの間で行なわれている討議があやしいものになったり,討議のすう勢が真の知恵から逸脱しているとだれかが感じたりする場合,その長老はどうすればよいでしょうか。そのような場合にはいつでも,神の霊がそのみ子を通して表わされ,行き渡るように無言の祈りをささげることができます。それからその討議に貢献する自分の発言にキリストのかしらの権に対する確信を反映させるべきです。もしその長老が,ある事がらを『押し通す』,あるいは何らかの方法を講じて自分の見解を他の長老たちに受け入れさせるよう強制しなければならないと考えるなら,それはキリストのかしらの権に対する信仰が欠けていることを意味します。そのような場合霊に満たされた使徒の,『兄弟の愛をもて互にいつくしみ,礼儀をもて相譲れ』という助言に従うのは賢明です。―ロマ 12:10。
「キリストの律法」に従う
クリスチャンは,自分たちを治める,もしくは『導く者に従いこれに服せよ』と勧められています。(ヘブル 13:17)しかし,もちろんこのことは,各地の長老たちの一団が独自の法を設け,あるいは自分たちの個人的な見解に基づいて規則を定め,次いで土地の会衆内のすべての人にそれに従うよう要求したりするという意味ではありません。むしろそれら長老たちは,神のことば聖書の中で「キリストの律法」,また「信仰の律法」と使徒が呼んだものに忠実につき従う模範を示して指導の任に当たります。長老たちが仲間の兄弟たちに勧めるのは,そのような律法に従うことなのです。(ガラテヤ 6:2。ロマ 3:27)長老たちはまた,統治体や統治体の用いる代理機関を通して,そのような信仰の律法を適用するさいの導きを受けます。
たとえば,長老たちは,クリスチャンの集会で演壇に出て何かの資料を述べてもらうよう会衆の成員たちにお願いする場合,良い判断を働かせるべきです。それには,話をする人個人の服装が会衆全体に悪影響を与えるものではないよう注意を払うことも含まれるでしょう。しかし,確かに長老たちは,会衆の成員の身ずくろいがその地域社会で一般の人びとの非難を招くほど極端なものでないかぎり,会衆の成員が家庭や日常の活動の場で何を着るべきかを統制しようとするようなことはすべきではありません。
そうです,長老たちは,何をすべきかを個人の良心が命じる問題に関んしては,使徒パウロがしたように,キリストの模範に思慮深く従うべきであることを認めます。『我がキリストに效う者なるごとく,なんじら我に效う者となれ』と語ったパウロは,良心の問題を論じていたのです。パウロは,ある場合に他の人が弱い良心のゆえに間違った見方を持っていたことを知っていました。しかしそれでも,パウロは自分の良心をそのような人に押し付けようとはせず,またそうしないよう他の人を戒めて,むしろ『力なき者の弱きを負うべ(き)』であると述べました。―コリント前 10:25-33; 11:1。ロマ 14:1-23; 15:1。
わたしたちすべてについても,単に自分たちが問題に関して正しい立場を取っているかどうかだけでなく,正しい仕方で問題を取り扱って,キリスト・イエスの模範に従っているかどうかをも確めてみる必要があります。わたしたちが互いに相手を取り扱うさいに示す霊が,霊的成長と増加をもたらす,愛に満ちた一致を図るのに大きく貢献するのです。
今日,キリスト・イエスは王国を宣べ伝え,弟子を作る強力なわざにおいて,全地のご自分の弟子たちすべてを導いておられます。単に人間の命が危うくされているだけでなく,神のみ名の誉れとそのみ子の誉れとが問題になっているのです。あらゆる時代の中でも今こそわたしたちが,『思いを同じうし,愛を同じうし,〔魂〕を合わせ,思うことを一つにし,何事にまれ徒党また虚栄のためにせず,おのおの謙そんをもて互いに人をおのれに勝れり』とすべき時です。そうすることによって,わたしたちが『キリスト・イエスの〔精神的態度〕』を持っていることを示し,またわたしたちが今日,キリストのかしらの権に確かに服しているということを示しましょう。―ピリピ 2:1-8,〔新〕。
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天的なかしらの権のもとで地的な会衆はどのように導かれるかものみの塔 1973 | 3月15日
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天的なかしらの権のもとで地的な会衆はどのように導かれるか
キリスト・イエスが死んで,復活し,そして昇天したのち,地上の弟子たちの一団を指導する任をだれが引き継ぎましたか。
そのような務めを引き継いだ人はいませんでした。イエスは以前ご自分の弟子たちに向かって,彼らは「指導者」と呼ばれてはならないと語りました。というのは,『汝らの〔指導者〕はひとり,すなわちキリストなり』と語られたからです。(マタイ 23:10〔新〕)そうです,キリスト・イエスは『天のところにて神の右に座せしめ』られましたが,『よろずの物の上にかしらとして〔会衆〕に』与えられたのです。『彼はそのからだなる〔会衆〕のかしら』です。―エペソ 1:20,22。コロサイ 1:18〔新〕。
しかし,キリスト・イエスはどのようにしてかしらの権を天から行使できたのでしょうか。み使たちを通して定期的に音信を送りましたか。もしそうでないとすれば,ペテロのようなある人間を地上におけるご自分の代理者,つまり代理人(代理支配人)として仕えさせる必要があったのではないでしようか。
聖書の記録を調べると,時おりまさしくみ使いたちが使者として,設立後日の浅いクリスチャン会衆に対する指示を伝えましたが,それはイエスがかしらの権を行使するにさいして取った主要な方法ではなかったことがわかります。また,イエスの使徒や弟子たちの中の特定の人たちが,パウロやペテロその他の人びとの場合のように,特定の分野で仲間の兄弟たちに仕えるよう割り当てられはしましたが,それでも,世界的な規模で会衆を監督するよう割り当てられた人はいませんでした。
しかし,会衆の事柄の点でペテロは西暦33年のペンテコステの前でも,またその時にも,そしてその後も非常な異彩を放つ存在ではありませんでしたか。そうです,不忠実になったユダの空席を埋める問題を持ち出し,一堂に会した弟子たちを前にして,そうすることを支持する聖書的根拠を提出したのはペテロでした。彼はペンテコステのさいには特に異彩を放ちましたし,その後は一再ならず(時にはヨハネとともに)弟子たちのスポークスマンを勤め,またある集会では明らかに司会者として主宰の任に当たりました。(使行 1:15-22; 2:14,37; 4:8-20; 5:1-9,27-32)しかし,そうだからといって,ペテロは会衆の見えるかしらになりましたか。他の使徒たちや全地の弟子たちはすべて,ペテロの受けた割り当てやその監督に服していましたか。
いいえ,実際にはそうではありませんでした。たとえば,使徒たちの一団のためにユダの空席を埋める人物を選出したのはペテロではありませんでした。使徒たちの会議によって二人の候補者が選ばれ,次いでエホバ神がご自分の好むところを明らかにされたのです。(使行 1:23-26)寄付されたお金はペテロのもとにではなく,『使徒たちの足もとに』置かれました。(使行 4:34-37; 5:1,2)会衆内に分裂を招きかねない重大な問題が生じたとき,使徒たちの一団は,何人かの男子を任命して問題の解決に当たらせました。(使行 6:1-6)また,ピリポがサマリヤで福音宣明者のわざを行なって多くの弟子を生み出したのちのことについて,使徒行伝 8章14,15節の記述はこう述べています。『エルサレムにおる使徒たちは,サマリヤ人,神のみことばを受けたりと聞きて[彼ら]ペテロとヨハネとを遣わしたれば,彼ら下りて人々の聖霊を受けんことを祈れり』。このように,ペテロは「使徒たちの君」として一方的に行動したのではなく,使徒たちの一団から受けた割り当てや指導にみずから従ったのです。彼はそうした割り当てにおいては使徒たちの代表として仕えました。
聖霊と神のみことばを通して行使されたかしらの権
キリスト・イエスはご自分の弟子たちに「助け手」を送ることを約束しておられました。それはだれか人間のことでしたか。いいえ,それは神の聖霊もしくは活動力でした。それはキリストが述べたり行なったりした事がらを弟子たちに思い起こさせることができ,また彼らをすべての真理に導くのです。(ヨハネ 14:16,17,26,新; 15:26; 16:13)それは,割り当てられた奉仕の務めを成し遂げる力を弟子たちに付与するものとなりました。(使行 1:4,5,8)その約束は特に西暦33年のペンテコステ以降成就しました。クリスチャン会衆の監督としてイエスは,物事を管理する点で神の霊を用いて,特別の任務を担当したり,地方の諸会衆を監督したりする人物の選定を導きました。(使行 13:2-4; 20:28)また,福音宣明のわざにおいて奉仕の努力をどこに集中すべきかを聖霊によって弟子たちに指示して,彼らを動かしたり,その活動を禁じたりもしました。(使行 16:6-10; 20:22)それはすべて弟子たちが何らの努力もせずに自動的になされましたか。いいえ,そうではありません。聖霊は神からの「無償の賜物」として各人が受けることができましたが,それらの人たちはペンテコステのさいに,バプテスマを受け,その後自分たちの上に使徒たちの手を置いてもらわねばなりませんでした。聖霊によるバプテスマを受けた後,それら油そそがれたクリスチャンは聖霊の実を生み出したいと願っていました。ですから,彼らは天の父に聖霊を願い求めることができ,真剣にそれを求めたのです。―使行 2:38。ルカ 11:9-13。
しかし,聖霊を通してキリストの導きを得るにはそれ以上のことが要求されました。エホバ神の主権をたえず認め,それに服さなければなりませんでした。使徒ペテロがユダヤの最高法廷つまりサンヘドリンで語ったように,神は「おのれに従う者に」のみ聖霊をお与えになります。(使行 5:32)また同様に,『主イエスの名によりてバプテスマを受ける』までは聖霊を受けなかった,あるエペソ人の弟子たちの場合からもわかるように,神の油そそがれた者である主イエスのかしらの権をも認めなければなりません。(使行 19:1-6)それはまた,イエスがその弟子たちに明らかにし,絶対の信頼を置くよう彼らに教えた神のみことばに心をこめてつき従うことをも意味していました。自分たちの生活の面で,また決定をするさい,そのみことばによって物事を律するのでなければ,聖霊に逆らうことになったでしょう。(使行 7:51-53。テサロニケ前 4:8)しかし,こうした神からの備え,つまり神の霊と神のことばを謙虚に,また誠実に利用するなら,弟子たちは,かしらであるキリスト・イエスと結ばれた状態にとどまり,キリストの愛のうちにとどまれるのです。―ヨハネ 17:6,20,21; 15:7,10。
会衆の取り決めを通して表明されるかしらの権
イエスはご自分の弟子たちの個人個人を,「真の萄葡の樹」としてのご自身に連なる枝にたとえました。(ヨハネ 15:1-5)ということは,クリスチャンについても,「すべての男の頭はキリストなり」といえる以上,クリスチャンはイエスの真の弟子の残りの人たちとは別に,かしらとしてのキリスト・イエスと別個の,また独自の関係を保つことができるという意味でしょうか。(コリント前 11:3)決してそうではありません。使徒パウロが書きしるしたとおりです。『キリストの平和をして汝らの心をつかさどらしめよ,汝らの召されて一体となりたるは,これがためなり』。(コロサイ 3:15)『平和のつなぎのうちに努めて御霊の賜う一致を守れ。体は一つ,御霊は一つなり。汝らが召しにかかわる一つの望みをもて召されたるがごとし。主は一つ,信仰は一つ,バプテスマは一つ,すべての者の父なる神は一つなり。神はすべてのものの上にいまし,すべてのものを貫き,すべてのものの内にいましたもう』という勧めに従うことによって,わたしたちは自分がキリスト・イエスと結ばれていることを示します。(エペソ 4:3-6)ゆえにキリスト・イエスは,からだに似た会衆の取り決めを通してご自分のかしらの権を個々の人に対して表明されるのです。その取り決めから離れることは,キリストのかしらの権を退けることを意味しています。そうする人は,からだを支配するかしらとしてのキリストの能力を疑っているか,あるいはキリストのそうした支配の仕方に不満をいだいているかのどちらかであることを示していると言えるでしょう。
忠実であったときの肉のイスラエルを神が「わたしのしもべ」と呼ぶことができたのと全く同様,霊的なイスラエル,つまりクリスチャン会衆もまた複合の「しもべ」級となりました。(イザヤ 41:8,9; 43:10,新)キリスト・イエスはその会衆のことをご自分の「忠実で思慮深い奴隷」または「家令」と述べました。一方,ご自分の再臨在のさいに,その個々の成員が「わずかなものに忠実」であることを示すなら,油そそがれたクリスチャンのこのしもべ級は,キリストの「すべての持ち物」をつかさどるよう任命されるであろうとキリストは約束しました。(マタイ 24:45-47; ルカ 12:42; マタイ 25:21,23,新)霊的なイスラエルはキリストの地的な関心事すべてをつかさどるこの家令の務めをどのようにして遂行するのでしょうか。
キリストのかしらの権が1世紀のクリスチャン会衆内で行使された仕方を思い起こせば,それがどのように行なわれるかを認識できるでしょう。すでに見たとおり,最初は使徒たちが統治体としての役割を果たし,後に,エルサレム会衆内の「年長者」もしくは長老としての資格を持った他の人たちがそれら使徒たちに加わりました。彼らの会合の中でも最も明確にしるされている例を見ると,その決定を導く上で神の霊とみことばが非常に顕著な役割を果たしたことがわかります。割礼の問題を討議するために開かれたその集まりでは最初は意見が大きく分かれていましたが,それら二つの力,つまり神の霊とみことばは弟子たちを導いて全会一致の結論を引き出させました。
最初に,使徒ペテロは,割礼を受けていない諸国の人びとにも霊が与えられたことについて述べました。次いで,パウロとバルナバは,自分たちがそうした人びとの間で奉仕したときに霊が働いたことを示す証拠を述べました。最後に,イエスの異父兄弟ヤコブは,明らかに聖霊の援助を受けて聖書のことばを思い起こし,諸国の人びとが神のみ名をもって呼ばれるようになることを予告した霊感による預言に注意を向けました。弟子たちにとっては,ただ従前どおりに,つまりいわば,『それまでのしきたりどおり』にやってゆくほうが容易だったでしょう。しかし,神の霊とみことばの及ぼす鋭い力もしくは影響力は一つの方向を指し示し,彼らの考え方の再調整を要求しました。したがって,ヤコブが問題を落着させる決議を提出したとき,それは全会一致で採択されました。キリストは聖霊を通してかしらの権を行使しましたか。そうであることを弟子たちの一団は知っていたので,その決定を説明した彼らの手紙の中で次のように述べました。『[まず第一に]聖霊と[第二に]我らとは左の肝要なるものの他に何をも汝らに負わせぬをよしとするなり』― 使行 15:1-29。
次いで,この手紙は,エルサレムの統治体を代表する人たちによってクリスチャン諸会衆に伝えられました。そして,諸会衆はその決定を感謝して受け入れ,そのようにしてキリスト・イエスのかしらの権を誠実に認めていることを表わしました。その結果,諸会衆は豊かな祝福を得,信仰は確立され,増加を見ました。―使行 15:22,30,31; 16:4,5。
あなたは神のみ子のそのかしらの権のもたらす益にあずかっておられますか。今日どんな会衆が,神のみことば聖書につき従っていること,またこうしたかしらの権を明かに表わす,神の霊の指導に服していることを明示していますか。エホバの証人のクリスチャン会衆の中に見いだされるその証拠を調べてみてはいかがですか。
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あなたはどれほど人びとのことを気づかっていますかものみの塔 1973 | 3月15日
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あなたはどれほど人びとのことを気づかっていますか
自分の回りの人びとを観察するとどんなことがわかりますか。有害な習慣のとりこになっている人びとがいますか。結婚生活の深刻な問題をかかえた夫婦がいますか。反抗的な子どもを持つ親や,人生はむなしくて無意味だと感じる若者がいますか。他の人とうまくやって行くのに困難を感じている男女がいますか。確かにそのような人たちがいるでしょうし,またあなたはそうした人たちのことをご存じのことでしょう。今日,そうした人たちは何百万人もいます。それらの人びとは自分たちの問題に対処する助けを必要としています。あなたはそのような人たちを助けることができますか。また,そうなさいますか。
もしあなたがエホバの献身したしもべでしたら,そのような人たちを大いに援助することができます。あなたはご自分の経験から,聖書の正確な知識は人びとの生活上の基本的な諸問題の解決に役だつことをご存じでしょう。そのような知識を適用することによって,他の人とあなた自身の関係は改善されました。あなたは,その知識のおかげで危険な生き方に陥らないよう守られ,あなたの人生は有意義なものになったのです。イエス・キリストの弟子となり,エホバ神の忠実な証人になったあなたは,自分が今最善の生き方を享受しており,また将来に対する明るい確かな希望をいだいていることをご存じです。―テモテ前 4:8。
しかし,あなたが学んだことは,他の人に対するあなたの態度や行動にどう反映していますか。多くの人が置かれているひどい境遇を見て,あなたはそうした人びとを気の毒に思っていますか。あなたは心を動かされて,神のみことば聖書のことを人びとに知らせるよう自分にできる限りのことをして努力しますか。そうでしたら,あなたはできるだけ多くの時間をささげて神の真理を宣明することでしょう。
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