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    ものみの塔 1974 | 7月15日
    • にあり,人間の手で建てられたものではない,真の霊的神殿の聖なる仕切り室の中で奉仕しています。(ヘブライ 9:11)彼らは,聖なる所の金の燭台が表わしていたように,まだ肉のからだでいる間に霊的啓発を享受します。金の机の上のふた重ねの供えのパンが象徴していたように,霊の食物を食べます。また,聖なる所の中の金の香壇の上で香をささげるかのように,神に祈りをささげかつ熱意をこめて奉仕します。

      また彼らは地上にいる間に,昔のヘブライ人の祭司たちがしたように,他の人びとに対する祭司のつとめを行ないます。霊的に啓発され,養われているため,神のことばを理解する点で他の人びとを啓発し,霊の栄養を与えます。彼らはお互いに強め励まし合います。そして現在では他の幾百万もの人びとに,彼らが生活を清めて,キリストと天における王兼祭司であるその仲間とによる千年にわたる統治のもとで永遠に生きる希望を持って神に奉仕するよう,助けをさしのべています。

      多くの人びとは失望し,踏みつけられ,落胆していて,霊的に非常に悪い状態にあります。僧職者たちまでこの世的である現在のこの事物の体制に頼っても希望はないことを,多くの人は悟っています。昔のエルサレムが破壊される前にも,ちょうどこのようになりました。(エゼキエル 9:4)神の真の祭司たちが神に対して熱心に奉仕するときに宣べ伝える王国の良いたよりは,他の人びとが命の希望を得るよう助けます。人びとは,どのように生活を改めて神と和合するかを教えられます。それらの祭司たちは神の大使として,他の人びとが神と和解するように助けます。(コリント第二 5:20)こうして彼らは非常に重要で有益な霊的いやしのわざを行ないます。

      天への復活

      それら霊で油そそがれた人びとは,しかるべき時に実際に天にはいることを期待しています。―ヘブライ 6:19,20; 10:19-22。

      死に至るまで忠実に奉仕し,「第一の復活」において命によみがえらされるとき,彼らは天の至聖所にはいることを許されます。彼らは神のおられるところにはいります。それは,完全な人間の犠牲の価値をささげるという点で大祭司イエス・キリストと同じことをするためではなく,キリストの犠牲の益を困窮している人類に差しのべるという点で彼らの大祭司とともに奉仕するためです。(啓示 20:6)そのときには彼らは,地に住む人びとに霊的いやしのみならず肉体的いやしも施すでしょう。

      全人類に及ぶ益

      これは全人類にとって,彼ら自身,およびこの地上で再び生きるようよみがえらされる,彼らが死によって失った人びとにとって,良いたよりです。というのは,使徒ヨハネが仲間の従属の祭司たちに確信をもってこう書き送っているからです。「わたしの子どもらよ,わたしがこれらのことを書いているのは,あなたがたが罪を犯すことのないためです。それでも,もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なるかたイエス・キリストがおられます。そして彼はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの罪のためだけではなく,全世界の罪のためでもあります」― ヨハネ第一 2:1,2。

      したがってイエス・キリストは,ご自分の犠牲の価値の適用を,14万4,000人の従属の祭司だけにとどめられるのではありません。イエス・キリストもみ父と同じく不公平ではありません。(使徒 10:34)イエスは全人類を買いもどされました。イエスはご自分の犠牲をあますところなくお用いになります。もしその犠牲の価値を少数の者だけに適用されるとすれば,正義のはかりは平衡を失うでしょう。すべての人間を買いもどされた以上,全人類のなかの,信仰と従順を示す人びとをできるだけ多く,完全な永遠の命に達するよう助けることは,イエスの喜びであり義務なのです。―ヨハネ 3:16。

      ですから,正しい,完全にされた王兼祭司たちが全人類に奉仕するときには,なんと大きな喜びが全地を待ち受けているのでしょう。大祭司を含めてすべての祭司は,人間としての生活をあますところなく経験しています。(ヘブライ 4:15)彼らは人間の境遇,感情,願いなどを十分に理解することができます。過去においてどんな生活をしてきた人であっても,神がキリストを通してもうけられた取決めを聞き入れてそれに従うなら,祭司の助けを受けることができます。なぜなら,「わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださった」からです。(ローマ 5:8)イエスの従属の祭司たちは地上にいたとき,ひどい罪人をも含めあらゆる種類の人びとに伝道しました。彼らは真理に耳を傾け,自分の生き方を変えました。彼らは信仰によって清められました。そして神のことばに従い,その信仰を行ないに表わしました。―コロサイ 3:5-9。

      こういうわけで,神が油そそがれた,そして神が天において栄光をお与えになる祭司たちは,人間が必要とするものをすべて知っています。従属の祭司たちは,キリストと同じ像にされたので,キリストの持つ同情とあわれみを持っています。(ローマ 8:29)彼らは神のご意志を必ず遂行する,地に人びとを正しく住まわせる,力を持つでしょう。(創世 1:28。詩 150:6)したがって,命を愛し,正しいことや良いことを望む人びとはみな,この祭司職の益を十分に受けるでしょう。これは永遠の命を意味します。―啓示 21:1-5。

      現在のところわたしたちは,この事物の体制を滅ぼすきたるべき「大患難」を生き残るよう,この祭司たちの助けを必要としています。(マタイ 24:21)もしわたしたちが,死者のよみがえりや,地球が楽園になるのをみる,新しい,正しい人間社会を始める人びとに加わりたいと思うなら,神の祭司である代表者たちに今協力することが必要です。彼らが宣明する王国の良いたよりに耳を傾け,神の目的を学び,自分の生き方をそれに合わせるよう行動を起こすことによって,わたしたちは彼らに協力することができます。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1974 | 7月15日
    • 読者からの質問

      ● テサロニケ第一 4章17節は,「生き残っているわたしたち生きている者が……雲のうちに取り去られて空中で主に会(う)」と述べていますが,これはどういう意味ですか。―アメリカの一読者。

      この聖句は,イエス・キリストの共同相続者のうち,イエスが王国の権威をもって臨在する時に生きている人々のことを述べています。

      問題の聖句は,テサロニケ人への手紙の中で使徒パウロが論じている主題に照らして考えるときに最善の理解を得ることができます。次のように記されています。「兄弟たち,死んで眠っている者たちについてあなたがたが知らないでいることを望みません。希望を持たないほかの人びとのように悲しむことのないためです。イエスは死んでよみがえったということがわたしたちの信仰であれば,神はイエスにより死んで眠っている者たちをも彼とともにやはり連れ出してくださるからです。主の臨在の時まで生き残るわたしたち生きている者は死んで眠っている者たちに決して先んじないということ,これが,エホバのことばによってわたしたちがあなたがたに伝えるところなのです。主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパとともに天から下ると,キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです。そののち,生き残っているわたしたち生きている者が,彼らとともに,雲のうちに取り去られて空中で主に合い,こうしてわたしたちは,常に主とともにいることになるのです。それで,このことばをもって互いに慰め合ってゆきなさい」― テサロニケ第一 4:13-18。

      読者の理解できることですが,ここで取り上げられているのは,キリストの共同相続者となる人々の復活です。イエスが王国の権威をもって臨在する時以前死ぬ共同相続者はみなずっと死の眠りに就きます。しかし,イエスの臨在が始まると,これら死んでいる人々はみな,不滅の,霊の命へのよみがえりを受けて主とともになります。テサロニケのクリスチャンが経験していた患難を考えると,これはその人たちにとって大きな慰めとなったではありませんか。―テサロニケ第一 1:6。

      しかし,イエスが文字どおりの意味で天から下り,死の眠りに就いている人々の復活と栄化が地上の人間の目に見えるかたちで起きると考えるべき聖書的根拠はありませんでした。なぜですか。なぜなら,天の霊者であるイエス・キリストは「近づきがたい光の中に住み」,そのさまを「人はだれも見たことがなく,また見ること(が)できない」からです。(テモテ第一 6:16)したがって,イエスの状態はその天の父の状態になぞらえることができます。(ヘブライ 1:2,3)それで,イエス・キリストが『下る』と聖書が述べているのは,エホバ神についてそう述べているのと同じ意味です。例えば,聖書はエホバ神についてこう述べています。「彼天を傾けて下りたまふ 黒雲その足の下にあり」。(サムエル後 22:10。ミカ 1:3)神が見えない天にあるご自分の住まいを文字どおり離れたのではなく,ご自分の注意を地上の人間に向け,ご自身の力を表明されたという意味であることは明らかです。同様にイエス・キリストも,その臨在のさいに,ご自分の注意を下方のこの地上に向け,ご自身の力を行使して,死の眠りに就いているご自分の共同相続者たちを復活させます。

      その人々の復活は人間の目に見えるものでしたか。そのようなことはありえません。なぜですか。なぜなら,彼らは『イエス・キリストの復活と同じ様になって彼と結ばれている』からです。(ローマ 6:5)彼らはイエスと同じような復活を経験します。そして,イエスの復活について,聖書は,彼は「霊において生かされた」と述べています。(ペテロ第一 3:18)弟子たちに見えるかたちになるために,イエスは物質化して肉の体を着けねばなりませんでした。これは,彼が確かに生かされたということを弟子たちに証明するのに役だちました。(使徒 1:3)しかし,彼の復活は人間の目には見えないものでした。イエスの墓を見張っていた人々は「おののいて,死人のように」なりましたが,イエスが復活するのを見たためではなく,墓から石を転がしのけたみ使いのためでした。―マタイ 28:3,4。

      同様に,イエス・キリストの共同相続者たちの復活も目に見えないものです。しかし,彼らの場合,聖書は,彼らが地の近くにとどまり,その復活のすぐのちに,自分が生きていることを仲間の信者たちに表わす,とは示していません。

      こうした背景に照らして認識できることですが,生きている者たちが『取り去られる』ということは,ある人々が「こうこつ」と呼ぶような状態の中で彼らの血肉の体が上方に浮かびはじめて主イエス・キリストに会うということを意味しているはずはありません。イエスは文字どおりの意味で空中や雲の上にいるのではありません。見えない霊の領域である至高の天で「近づきがたい光の中に」おられるからです。しかしそれでも,『取り去られる』ということは,復活に関連して実際に起きる事がらと関係があるに違いありません。

      これは,彼らが滅びに定められたこの人類世界から『取り去られる』ことと関係があるのでしょうか。あるいは,イエスとともに天の相続財産を受け継ぐべく割り当てられているので,彼らが高められ,『キリスト・イエスとともに天の場所に座る』ことをさしているのでしょうか。(エフェソス 1:3; 2:6)そうではありません。パウロがテサロニケ人への手紙の中で論じているのはその点ではありません。

      『取り去られる』ということは,イエスの共同相続者が死ぬさいにテサロニケのクリスチャンたちが互いを慰めるために用いることのできる点でした。明らかな点として,神の民の会衆内に死があるさいに,共同相続者が滅びに定められたこの世から離れているということそのものは真の慰めの源ではありません。また,こうして世から離れ霊的な意味でイエスと結び付いているとしても,それは「常に主とともにいる」ことではありません。キリストの共同相続者が一たびその地上の歩みを終えると,その状態はそれで終わりとなります。彼らはその後,復活のさいに身をもって主とともにいるようになり,それは永久に続くからです。そして,当然,滅びに定められた世も過ぎ去ります。さらに,今地上にいてしばらくの間世から離れていても,のちに不忠実になって,主イエス・キリストとともになる報いからはずれる人もいます。―啓示 2:10。

      したがって,テサロニケの人々に対するパウロのことばが指摘しているのは,キリストが王国の権威をもって臨在する以前に死ぬ人の復活と,地上の生涯を全うしてその臨在中に死ぬ人の復活には多少の違いがある,という点です。その違いは啓示 14章13節の中に読み取ることができます。そこにこう記されています。「今からのち[つまり,イエスが王国の栄光をもって到来したのち]主と結ばれて死ぬ死人は幸いである。しかり,彼らはその労を休みなさい,彼らの行なったことはそのまま彼らに伴って行くからである,と霊は言う」。キリストの臨在以前に死んだその共同相続者たちは死の眠りに就かねばなりませんでしたが,その臨在中に地上の生涯を終える人は眠りに就く必要がありません。彼らは直ちによみがえって天的な命を受けます。彼らはその地的な労をやめ,そのまま天での奉仕に入ります。彼らは目に見えない霊者として「取り去られ」,いわば雲(見えないことの象徴)のうちに入り,目に見えない主と永久にともになります。これは,コリントの人たちにあてた使徒パウロのことばと一致しています。「わたしたちはみな死の眠りにつくのではありませんが[つまり,将来の復活を待って死の状態にとどまっているわけではありませんが],わたしたちはみな変えられるのです。一瞬に,またたくまに(です)」― コリント第一 15:51,52。

      したがって,パウロがテサロニケ第一 4章13-18節で書いているのは,基本的には,励みとなる次の音信です。つまり,油そそがれたクリスチャンで主の臨在以前に死ぬ人々は死の眠りに就く。待ち望んだその臨在が始まる時,彼らはよみがえり,不滅の霊的被造物として天の命を受ける一方,油そそがれたクリスチャンでその臨在の時に生きている人々は死の眠りには就かない。彼らは死のさいに直ちに変えられ,天に取られて永久にキリストとともになる。

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