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真の崇拝における会衆の地位ものみの塔 1961 | 6月15日
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真の崇拝における会衆の地位
「わたしはこれらのことをあなたに書いている……神の家でいかに振舞うべきかをあなたに知ってもらいたいからである。神の家は生ける神の会衆であって,それは真理の柱,真理を支えるものである」。―テモテ前 3:14,15新世。
1 特にこの20世紀に顕著になったどんな制度の発展は,エホバの崇拝を前面に押し出しましたか。
20世紀には,以前に一度もないほどの国家的なきぼで,また国際的なきぼで諸制度が発展しました。いろいろの事業,労働,農業,消費者,政治や商業の利害関係を代表する諸制度は,勢力を結集して人々の生活に大きな影響をおよぼそうと努力しています。この只中に,クリスチャン男女によって構成される急速に成長する強力な社会があらわれました。彼らはひとつの目的を持っています。その目的とは,創造者エホバ神の御名,神の御性質および目的について証を立てることです。エホバの証者の新しい世の社会として知られているこの社会は,急速に100万人台に達しつつあります。しかし,その大きさや数が感銘を与えるものではありません。この社会は,あらゆる国から,国家的,人種的,経済的および他の群れから来た男女を代表します。彼らは,すくなくとも179の国土に住んでいる人々で,その教えにおいても,信仰においても,行動においても,またエホバとその支配している王キリスト・イエスに対する忠節においても一致しています。
2 エホバの証者を結合させる三つの要素の中のどれが,時には反対されますか。どんな理由の故に?
2 このすべては,一致をもたらす神の聖霊と御言葉の力を表わすものです。しかし,エホバの証者を良く知る人々は,この一致の中にきわめて肝要な要素を認めます。それは制度です。エホバの証者が一致して伝道のわざを行なうこと,大会をとりきめること,および全地の2万1008の会衆内で同じ行為の標準を維持することに,大きな制度は明白に示されます。時々,ある人々は大きな制度が神の霊的な崇拝と結びついているのを見ると,警戒します。ときには,反対の言葉も聞かれます。たとえば,そこには制度化され過ぎる危険があるとか,神にささげる奉仕や崇拝が,制度にささげられる危険があるということです。ある人々は,こんな風に言います,「大きな制度は,神の御霊が自由に注がれるのをとめてしまい,献身したクリスチャンたちのなかでの愛の自然な表現をとめてしまうのではなかろうか」。
3 (イ)なぜイエスは,地上におられたときに会衆をつくりませんでしたか。(ロ)イエスが会衆を建てるのは,神の目的であったと私たちはどのように知りますか。
3 今日の会衆は,エホバの崇拝と密接なむすびつきを持っています。したがって,会衆に関連するこれらの質問に対する聖書の答を知ることは肝要です。使徒の時代におけるクリスチャン会衆についての聖書的な記録をしらべることは良いことです。たしかに,ある人々が論ずるように,イエスは地上におられたとき,ひとつの制度または会衆を建てませんでした。と言ってもクリスチャン会衆が,人間であった使徒たちの考えついたものという意味ではありません。イエスは,御父がモーセを通して設立されて,当時存在していた組織制度の下に生まれました。それはそのときまだ有効なものであって,彼が別の制度をつくるなら彼は異議を唱える者になったでしょう。しかし,イエスは自分の生命の血をささげることにより,律法を成就するために来ました。それで,神は新しい契約にもとづく新しい組織制度を設立するための基礎を置くことができたのです。イエスは,このことに留意しつつ,隅の首石となる御自身の上に会衆を建てると,言われました。―マタイ 5:17; 16:18。ヘブル 8:6,10-13。
4 使徒たちに告げたイエスのどんな助言は,彼らの中に組織化された取りきめのあることを示しましたか。
4 この会衆のことに留意されていたイエスは,あるとき適用が可能な制度の指導あるいは監督についての原則を使徒たちに教えました。ヤコブとヨハネが,御国でイエスに次ぐ最高の地位を得たいと願い出たとき,イエスは次のように答えました,「あなたがたの知っているとおり,異邦人の支配者と見られている人々は,その民を治め,また偉い人たちは,その民の上に権力をふるっている。しかし,あなたがたの間では,そうであってはならない。かえって,あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は,仕える人となり,あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は,すべての人の僕とならねばならない」。(マルコ 10:42-44,新口)この言葉は,制度がないということを意味しません。むしろ,イエスの弟子たちのなかにおける制度の取りきめは,エホバの道に従って設けられるという意味です。―マタイ 5:45,48。
5 マタイ伝 28章19,20節とヨハネ伝 21章15-17節によると,イエスが使徒たちに与えた責任の中には何がふくまれましたか。
5 イエスは昇天するすこし前,弟子たちに,出かけて行って全国民を弟子として,イエスが彼らに命じたことを教えるように命じました。(マタイ 28:19,20)この中には,存在すべき制度の原則を人々に教え,またちょうどぶどうの木の枝のようにキリストに一つとなる必要を人々に教えることが含まれます。(ヨハネ 15:4-7; 17:20,21)イエスはさらに次のことを示しました,すなわち,彼が言葉と模範によって教えて訓練を与えた使徒たちは,その教えを聞いて受けいれる他の者たちを教えて,霊的な成長を監督するという明確な責任を持つことです。彼らは2,3の教理を教えられるだけで,それからは独立した信者として自分勝手の道を行かせられることはありません。彼らは一致の状態にみちびかれ,羊がおりの中に集められるように,会衆の中に集められます。イエスは,使徒たちを羊飼に任命して「わたしの羊を養いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」「わたしの羊を養いなさい」と命じました。集められるすべての者を世話するというきわめて重い責任は使徒たちに課せられました。―ヨハネ 10:1-17; 21:15-17。
会衆は形成される
6,7 最初の会衆は,五旬節後どのように形成され始めましたか。それはどのように指導され,監督されましたか。
6 彼らは弟子たちを集めて,自分たちと交わらせるようにしました。そのことは,それから数日後の五旬節のときに表わされました。新しい会衆が設立された証拠として聖霊が与えられた使徒たちは,大ぜいの人々に伝道して,彼らを集めました。最初の3000人の信者たちは,新しい教えをうけいれて,それから自分勝手な道を行くことをしませんでした。彼らはいっしょにとどまって,使徒たちの監督から益をうけることが必要でした。聖書の記録は次のように述べています,「そして一同はひたすら,使徒たちの教を守り,信徒の交わりをなし,共にパンをさき,祈りをしていた」。―使行 2:42,新口。
7 使徒たちや他のクリスチャン信者たちが伝道するにつれて音信は多くの国々にひろめられて,幾千人もの人々は集められました。彼らはどこにいても ― エルサレムでも,ユダヤとサマリアでも,小アジアでも,ギリシャでも,ローマでも,他の場所でも ― 彼らは仲間の信者たちと交わって,エクレシアすなわち会衆になりました。(使行 8:1; 11:22; 13:1; 14:23,26,27; 16:5。ロマ 16:5。コロサイ 4:16。テサロニケ前 1:1。ピレモン 1:2)使徒たちは,彼らだけでは急速に増加するこの群れを正しく指導することができないと知っていました。それで,彼らは円熟して資格を持つ人々,すなわち教えることに良く通じている人々を訓練して,従属の羊飼,監督,そして奉仕の補佐として任命し,会衆内の全部の者の霊的な必要物を世話させました。アンテオケの会衆は,「預言者や教える者」の奉仕をうけたと知ります。(使行 13:1; 14:23。テトス 1:5-9。ピリピ 1:1)エルサレムにいた使徒たちや古い人々はいちばん円熟していて,エホバに奉仕する経験に富んでいました。また,彼らは羊飼として奉仕する権威をイエスからうけていました。それで,彼らが新しい会衆全部の統治体になることはまったく当然でした。エルサレム会衆内での彼らの経験は,他の者たちが従うべき手本あるいは例になるはずです。―使行 8:14-17; 16:4,5。テサロニケ前 2:14; 1:6,7。ヘブル 6:12。
8,9 (イ)使徒ペテロとパウロは,会衆は何であると考えましたか。(ロ)ヘブル書 13章7,17節によると,会衆内の者はみな監督に対してどんな態度を取るべきでしたか。
8 ユダヤ,サマリア,そして後の小アジア,ギリシャ,ローマ,バビロン,そして他の場所にあった全部の会衆は,実際には神のひとつの会衆をつくりあげました。(使行 9:31)これは神の御霊によって建てられた組織化された取りきめでした。ペテロは,それを人間の制度と呼んでいません。むしろ,それを「神の群れ」と呼び,古い人々をつよく励まして,この群れを熱心に「飼う」ようにすすめています。使徒パウロは,これは神の取りきめであると強調して,エペソから来た監督たちに次の言葉を告げました,「どうか,あなたがた自身に気をつけ,またすべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は……神の会衆を牧させるために,あなたがたをその群れの監督にお立てになったのである」。その会衆は神のものでした。そして,監督は自分にゆだねられている者を教えて訓練し,監督すべき責任を持っていました。―ペテロ前 5:1-4。使行 20:28。テトス 1:9; 2:15,新世。
9 会衆内の者は,みな羊を飼うこの取りきめを神の定めたものと尊重し,それに従わなければなりません。使徒パウロはヘブル人に次の手紙を書きました,「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き入れて,従いなさい。彼らは,神に言いひらきをすべき者として,あなたがたのたましいのために,目をさましている。彼らが嘆かないで,喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと,あなたがたの益にならない」。それで,「私は神に奉仕している。私はあなたに対して責任を負っていないし,あなたは私に対して責任を負っていない」といって,監督からの助言やこらしめの言葉を拒絶することのできる人はひとりもいません。監督は言い開きをしなければならず,会衆のために,それを喜んでします。それ以外の他の報告は独立している者,自分の利だけを求める悪行者に害をもたらします。―ペテロ前 2:13,14。ヘブル 13:7,17,新口。
10,11 (イ)目に見える地的な会衆が「神の家」であるとどんな証拠は示しますか。(ロ)パウロは,真理に関連して会衆にどんな重要性を付していますか。
10 初期の時代にいたある人々は,次のように考えたかもしれません,「会衆は,御言葉と御霊ほど重要ではない。私はその二つには従うが,会衆と交わる必要はないし,制度に従う必要もないと思う」。他の人は神の真の会衆は,目に見えない霊的な交わりであって,目に見える会衆を通しての表現は必要でなかった,と論じたかも知れません。しかし,使徒パウロは会衆内の監督の任命についてテモテに手紙を書き送ったとき,彼は地上における見える会衆の取りきめについて明確に語りました。彼は天的な霊的な取りきめについて語っていたのではありません。彼は次の言葉をつけ加えました,「わたしはこれらのことをあなたに書いている……神の家でいかに振舞うべきかをあなたに知ってもらいたいからである。神の家は生ける神の会衆であって,それは真理の柱,真理を支えるものである」。たしかに,この地的な見える会衆は「神の家」「生ける神の会衆」と呼ばれました。それは重要性のすくないものではなく,「真理の柱,真理を支える」ものでした。―テモテ前 3:1-15,新世。ヘブル 3:4,6。
11 ひとつひとつの会衆ではなく,キリストの弟子たちによる総合の会衆は,多くの器官を持つ人体になぞらえられました。それらの器官は互に協力することが必要でした。クリスチャンが互に協力することを学ぶところは,目に見える会衆内でした。(コリント前 12:4-30)パウロは目に見える会衆について次の手紙を書いて述べました,「神は会衆内でそれぞれの人を立てた」。なぜなら,彼は次に使徒たち,預言者たち,教える者,いやしの賜物,異言,その他について述べているからです。その全部は,奉仕と地上の会衆のわざと関係を持ち,霊的な天的な状態とは関係がありません。―コリント前 12:18,28。
会衆の目的
12 どんな意味で初期クリスチャンたちは外国人であるべきでしたか。どんな意味で組織化された群れであるべきでしたか。
12 会衆の目的は何でしたか。すべての信者を訓練して一致させることでした。クリスチャンたちは,はっきり識別されない群衆,交わりのない大群衆であってはなりません。そして各人が自分自身の考えや忠節心を持ち,この世からはなれ,異国で生活する外国人のようにちりぢりの状態で生活すべきではありません。クリスチャンたちは,この古い世では外国人として,一時的な住民として生活しました。しかし,彼らは『霊の家に建てられた生ける石』「聖なる国民,神につける民」になるべきでした。別の言葉で言えば,彼らはひとつの群れとして,ひとつの会衆として,集められ,崇拝のためにむすびつけられることが必要でした。しかも,これは明白な仕方でされるべきでありました。―ペテロ前 2:5-11。
13 エペソ人にあてた手紙の中で使徒パウロの用いた三つの譬は,クリスチャンが明白な仕方の中に一致されねばならぬことをどのように示しますか。
13 会衆の取りきめについての類似の説明は,パウロにより用いられました。彼はイスラエル人とイスラエル人でない人々の両方がキリストのうちに結合し,共通の目的,責務,および同一性をもって一致することを説明しました。「そこであなたがたは,もはや異国人でも宿り人でもなく,聖徒たちと同じ国籍の者であり,神の家族なのである。またあなたがたは,使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって,キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって,建物全体が組み合わされ,エホバの聖なる宮に成長する」。(エペソ 2:19-21,新世)ここでパウロは共通の目的を果たすために組織されている人あるいは物について三つのちがった例を用いています。最初に,「聖徒たちと同じ国籍の者」ということは,特定な権利,特権,責任,およびそのような市民権の与える同一性を共通に分け合うことを示します。パウロは「神の家族」という説明の言葉を用いることにより信仰を持つクリスチャンはみな家族の一単位として組織されたことを示します。どの家族にも,物事についての明確な取りきめがあります。そして,すべての者は家族のかしらを尊敬し,家族の標準にふさわしく生活しなければなりません。パウロは,彼らを「組み合わされ」『建てられた』建物の石と比較することにより,会衆の必要を示しています。これらの「石」は,会衆の機構のなかにあって,型をつけられ,なめらかにされ,きっちり合わせられます。彼らはひとつの群れの民として会衆内で一致しているとき,そして孤立化を求めないときのみ,神の宮であり得ます。そして,真の崇拝を押しすすめるために奉仕することができます。同時に,彼らは天の御国制度内の将来の割当をいただくために訓練をうけます。―コリント前 3:16,17; 6:19。コリント後 6:16。
14 エペソ書 3章10,11節で述べられているように会衆は神の知恵をどのように表わすことができましたか。
14 それで第1世紀のクリスチャンたちは,集まる者たちであって,ちりぢりに存在する者でなく,またたがいに独立の状態で神に奉仕しようと努めるべきでもありませんでした。神の天の取りきめは,秩序正しく調和のとれたものです。したがって,地上にいる神の民の集められた群れは,これと同じ調和を示します。神の大きな知恵が会衆を通して示されるなら,この会衆は良く組織され,調和を保ち,そしてその成員を分かれさせてそれぞれの利害を求めさせることのないようにします。―コリント前 14:33,40。エペソ 3:10,11。
15 会衆に与えられた「賜物」は何でしたか。彼らの目的は何でしたか。
15 神の御霊によって設立された会衆の制度とその目的は,エペソ人に宛てたパウロの手紙の4章の中ではっきり示されています。最初にパウロは油そそがれたクリスチャンが群れのなかにいる他の者に対して持つ責任を示しています,「愛をもって互に忍びあい,平和のきずなで結ばれて,聖霊による一致を守り続けるように努めなさい」。そして11節からは,彼はこのことのための制度的な準備を述べています。すなわち,キリストからの賜物として,監督のわざや教えることが行なわれる会衆です。「彼はある〔賜物〕を使徒,あるものを預言者,あるものを宣教者,あるものを牧者,および教える者として与え,奉仕のわざのために聖徒たちの訓練を目的とされた。それはキリストのからだを建てて私たちがひとつの信仰を持ち,神の御子の正確な知識を得るためである」。それで彼らが御霊によって油をそそがれたにしても,これらのクリスチャンたちが奇跡的に,瞬間に完全になったわけではありません。むしろ,御霊は彼らを会衆にみちびきました。会衆では,御霊 ― 御言葉および制度の取りきめの援助をうけて,彼らはひとつ心になって,奉仕のわざのために訓練をうけることができます。―エペソ 4:11-16,新世。コリント前 1:10。
16 会衆は,どのように愛の中に各人を建ておこす援助をしましたか。
16 油をそそがれた者たちは,会衆内での交わりによって益を与えました。また同時に益をうけました。彼らはこの会衆でもっとも明白に「組み合わせられ」ました。それは目に見えぬ霊的な仕方で行なわれたのではありません。会衆内で彼らは「すべての節々の助けにより,それぞれの部分は分に応じて働き」協力し合います。その結果,「からだを成長させ,愛のうちに育て」て行くことになります。会衆の制度は,愛の表現をおしつぶすとか,消してしまうことをせず,また規則に従うときのように機械的なものにしませんでした。むしろ,すべてのものを訓練して愛のうちに建ておこし,愛を実行する機会を彼らに与えました。―エペソ 4:16。テサロニケ後 1:1-3。ロマ 1:9-13。
会衆は教える制度
17 会衆はどのように教えを一致させましたか。これはどのように益のあるものでしたか。
17 会衆はそれらの人々を愛の中に建ておこしただけでなく,聖書についての彼らの考えと理解を一致させました。あるエペソ人はこんな風な不平の言葉を語ったかもしれません,すなわちこの取りきめは個人の考え,独立の考えをおしつぶしてしまい,自分たちの哲学を発展させるための自由と独立がなく,使徒の考えだけをうけいれねばならぬ,というような不平です。しかし,この取りきめは,会衆の理解の範囲を,ひとりふたりの狭い見解に制限するものではなく,むしろ彼らが「様々な教の風」や「人々の悪巧み」にしたがうことをふせぎました。忠実なクリスチャンたちは,これをある種の『洗脳』戦術と考えませんでした。彼らはこの世から出て来て,その古い人格を捨てさり,神のみこころにしたがってつくられる新しい人格を着ようとのぞみました。会衆の一致した教える計画はこのことを与えました。―エペソ 4:14,17-24。
18 教える会衆が必要でないことを示すため,どんな論議が用いられますか。しかし,何がこれらの論議の偽りなることを証明しますか。
18 会衆から独立したいとのぞんだある人々は,次のように論じたかも知れません。すなわち人は御霊を通して神と交わることにより正確な知識を得ることができる。したがって教える会衆または制度は必要でないというような論議です。彼らはエペソ書 1章17,18節あるいは3章16-19節に言及したかも知れません。そのところでパウロは神が信者に知恵と正確な知識を与えると書き,またキリストは彼らの中に住んで,彼らはこのことを心の中で理解すると述べています。彼らはまたヨハネ第一書 2章26,27節に言及したかも知れません。そこでは,ヨハネはこう書いています,「あなたがた……は,……だれにも教えてもらう必要はない。この油が,すべてのことをあなたがたに教える」。しかし,気をつけるべきことは,これらの言葉は使徒パウロとヨハネが諸会衆に送った指示の手紙の中に見出されるもので,その手紙は会衆内の者たちをいっそう教えるために使用されました。もし御霊が,油をそそがれた者たち全部を直接に教えたなら,これらの手紙が会衆にあてて書かれる必要はなかったでしょう。―ヨハネ第一書 1:3,4。
19,20 初期クリスチャンたちの学んだ真理のいくつかは何ですか。彼らは,どのようにそれらを学びましたか。
19 初期クリスチャンたちは会衆と交わることによって肝要な真理を学びました。そのいくらかをちょっと考えてごらんなさい。非ユダヤ人信者の要求について,エルサレム内の使徒たちや古い人々は決定をくだし,その決定は手紙により諸会衆に送られました。すべてのものをキリストの中に集めて,諸国民を共同相続者にするという神の聖なる奥義の詳細なことがらは,エペソ人にあてた手紙の中で会衆に啓示されました。脱落,不法の人が表われること,キリストの臨在,そして「平和と安全」の叫びがエホバの日の最高潮をしるしづけることについての真理は,会衆に交わっている者たちに説明されました。会衆では,テサロニケ人にあてた手紙や,その写しが研究されました。―使行 15:22-35; 16:4,5。エペソ 3:3-7。テサロニケ前 1:1; 4:13-18; 5:1-11。テサロニケ後 1:1; 2:2-11。
20 初期クリスチャンたちは会衆と交わることによって,コリント人に宛てて書かれた手紙を学びました。コリント人の手紙の中には,主の夕食,御霊の賜物の働き,および復活などについての説明がなされていました。たしかに,使徒の手紙の中で見出される教理の説明は,みな統治体の成員を通して与えられた霊感された指示の言葉であって,それらは会衆を通して油そそがれたクリスチャンひとりびとりのところに来ました。彼らは会衆と交わることによってのみ『正しく治めた』監督たち,『その教えについて忠実な言葉をしっかりと守った』人々から益をうけることができました。そのようにしてのみ,彼らはギリシャ人とユダヤ人のあいだ,割礼をうけた者とうけなかった者とのあいだ,異国人,スクテヤ人,奴隷,自由人,男性と女性のあいだに区別がないということをはっきり学ぶことができました。―コリント前 11-15章。テモテ前 第3章。コロサイ 3:11。
21 会衆はどのようにその識別を保ちましたか。このことは,多くの国々から来た信者たちにどんな影響をおよぼしましたか。
21 会衆は神の誉を述べ伝えてその知恵を示すために,神により建てられました。(ペテロ前 2:9)この理由の故に会衆は神の御心に一致したものです。それはちがった国民の意志や習慣およびその仕方に従いませんでした。(エペソ 4:20-24)この会衆はたくさんの国々にひろまって行きました。しかし,それはその本体,その働きの原則,その清い教え,およびその一致を保ちました。それはいろいろの教理の風に吹きまわされたり,あらゆる種類の行為によってしるしづけられなかったのです。それは会衆に交わる者たちにそのしるしをつけました。それは清く聖なるものに保たれるべきでした。したがって,不道徳な者たちは排斥されました。(コリント前 5:13)それは人々を神の御言葉の真理とむすびつけました。したがって,分裂や偽りの教えを持ちこむ者たちも排斥されました。(テトス 3:10。ロマ 16:17)このようにして会衆はその制度的な同一性とかたちを保ちました。会衆を通して教えられた考えと生活の原則は,信者たちに深い印象を残しました。それは彼らの個人的な生活,結婚と家族生活,そして奴隷と主人のあいだの関係に影響しました。―コロサイ 3:5。エペソ 第5章。
22 最初の会衆は,真の崇拝においてどんな役割を果たしましたか。
22 会衆はクリスチャン信者を教える神の御準備でした。それは彼らにたがいの必要を教え,愛,めぐみそしてゆるしを行なわせる十分の機会を彼らに与え,そして神権的な権威に尊敬を払わせることを学ばせました。それは神の御霊を消したり,愛の表現を圧殺しませんでした。むしろ,教えることや模範によって,それは会衆内のすべての者を愛の中に建ておこして円熟させることができました。それで,彼らは聖霊のはたらきを最も良くうけいれることができました。
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終りの時の会衆ものみの塔 1961 | 6月15日
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終りの時の会衆
1,2 (イ)会衆の脱落は,どのように予告されていましたか。それはどのように起こり始めましたか。(ロ)それは神の目的における会衆の終りをしるしづけましたか。
第1世紀のクリスチャン会衆は,強くて一致しており,清い崇拝をおしすすめるために全く専念していました。しかし,この状態はいま私たちの生活している終りの時にいたるまでの幾世紀間,すこしの妨害をもうけずにつづきませんでした。使徒たちは会衆をキリストに服従させる権威を持っていました。しかし,彼らは次のことを前もって告げたのです。すなわち会衆内の不法の行為を阻止するものとして行なってきた彼らは死んでいなくなり,会衆は不法と偽りの教えに脱落してしまうということです。(コリント後 10:2-6。テサロニケ後 2:3-12。テモテ後 4:3,4。使行 20:29,30)イエスもこのことをあらかじめに告げました。彼はその時の忠実な弟子たちで成立つ会衆を,畑に植えた正しい種類の種子になぞらえました。この譬話によると,敵はにせの植物である雑草を植えることが許されました。その雑草は,収穫の時まで小麦の中で成長することがゆるされます。収穫の時とはこの組織制度の終りの時です。次のような意味になります。すなわち,クリスチャン会衆の明白な同一性と制度的な清さは,背教者たちが成長するので,おおいかくされて腐敗させられるということです。使徒の死後間もなくして,この偽りのものは成長しはじめました。人間の哲学,異教の教理,そして祝いが取りいれられました。政治国家との同盟はつくられ,会衆はこの古い世によって形成され,かたちづけられ,そしてしるしづけられました。―マタイ 13:24-30,37-43。
2 しかし,会衆の考えが失敗したという意味ではありません。イエスがあらかじめに告げた言葉によると,末の日である「終りの時」には,神の真の植物が収穫されて集められそして彼らは神権的に組織された会衆に復旧します。それは終りの時における全クリスチャンの生活に肝要な役割を果たします。いま,このことを示す数多くの預言を考慮してみましょう。そして,それらを現代のエホバのクリスチャン証者の経験と比較してみましょう。
3 (イ)小麦と毒麦の譬話によると,終りの特には神の民に何が起こりますか。(ロ)彼らはどのように『世の光』また『山の上の町』になれますか。
3 イエスは,小麦と毒麦の譬話の中で,次のように言われました。つまり,終りの時には神の真の植物である小麦は倉に集められ,毒麦は束にくくられて御国の外に投げすてられ,燃されてしまいます。「そのとき,義人たちは彼らの父の御国で,太陽のように輝きわたるであろう」。(マタイ 13:43,新口)これはキリストのからだの油そそがれた,復活された成員の天の状態に言及しません。むしろ,復旧された地的な状態に言及しています。彼らが集められて『世の光』として輝くのは,この地上です。一方,背教の制度あるいは,植物は神の教会と主張するこの場所からみな投げ出されてしまうでしょう。(ダニエル 12:3。ピリピ 2:15。ペテロ前 2:9)光ということについては,イエスは弟子たちにこう言われました,「あなたがたは,世の光である。山の上にある町は隠れることができない」。(マタイ 5:14,新口)収穫の時にはキリストの霊的な兄弟たちはひとつの群れまたは会衆に集められます。かくして,彼らは同一性を持ち,教えに一致し,『世の光』となり,『太陽のごとく輝き』ます。彼らの状態は,『山の上にある町』になるため,第1世紀の組織化された会衆の状態に復旧される必要がありました。
4 マタイ伝 24章31,45-47節および25章31-46節では,神の油そそがれた残れる者の状態について何が示されますか。
4 このように集められることは,マタイ伝 24章31節によって支持されています。その聖句の示すところによると,この終りの時には選民は地の四隅から集められます。これらの者たちが会衆として一致することは,45-47節の中でさらに示されています。彼らの状態は,主人の家にいる家人の状態になぞらえられています。彼らは忠実な奴隷により正しい時に食物を与えられます。最初の会衆は,エペソ書 2章19節とテモテ前書 3章15節で神の家と呼ばれました。それで,主人のこの家は制度化された会衆を意味するにちがいありません。この『奴隷級』は,ものみの塔聖書冊子協会と共に働いているエホバの証者の油そそがれた残れる者です。彼らは全世界にわたってこの家の者に霊的な食物をいそがしく供給しています。この奴隷が主人の全財産を管理するよう任命されたことに気をつけなさい。このなかに含まれるものについては,マタイ伝 25章31-46節の羊と山羊の譬の中で強調されています。その譬の中では,羊のような善意者の大きな群れは王キリスト・イエスの恵みをうけるようになります。なぜなら,彼らはキリストの兄弟たちと共におり,兄弟たちを支持して共に働くからです。
エホバの家にのぼる
5,6 (イ)諸国民が流れのごとくつく「家」が高くなることは,イザヤ書 2章でどのように述べられていますか。(ロ)ここではどんな準備がなされるべきでしたか。
5 終りの時における神の油そそがれた僕たちの地的な状態は,天における設立されたシオンの下の組織化された会衆のようであります。そのことは,イザヤ書 2章2,3節でも示されています,「すゑの日にヱホバの家の山はもろもろの山のいただきに堅く立ち,もろもろの嶺よりもたかくあがり,すべての国は流のごとく之につかん,おほくの民ゆきて相語りいはん,いざわれらヱホバの山にのぼりヤコブの神の家にゆかん,神われらにその道ををしへ給はん,われらその路をあゆむべしと,そは法律はシオンよりいで……」もちろん,「シオン」は天に設立されて,律法はそこから出ます。しかし,すべての国から来る人々の群れは,御霊で産み出されていないため,天にはいることはできません。すると,彼らが来るこの「ヱホバの家」は,地上のなにかと関係を持っていなければなりません。それは何ですか。それはエホバの油注がれた証者たちの会衆です。その会衆は,天のシオンと一致しています。使徒時代の会衆は,神の家であったということをすでに示したのをおぼえていらっしゃるでしょう。(ヘブル 3:4,6)神の崇拝の山が他のすべての力や権威よりも高く設立されていることに対応するものとして,彼の家で代表される彼の崇拝は,「高く上げられる」必要があります。すなわちいっさいの地的なもの,制度そして関心事より高くあげられねばなりません。
6 エホバ神の崇拝者であるイエスの忠実な追随者たちは,『山の上にある町』にならねばなりません。キリストの兄弟たちで構成されるこの会衆は見られるだけでなく,忙しくその光を輝かさねばなりません。すべての国の人々は,それを見て,そこに来ることができます。この「町」は,諸国から来た人々を教育し,訓練する準備をも設けます。「神われらにその道ををしへ給はん,われらその路をあゆむべし」。それで,「ヤコブの神の家」についてのこの預言は,末の日の会衆としての宮級の残れる者のなかでエホバの崇拝がたかくあげられることを前もって告げたものです。それは清い崇拝の中になされます。かくしてエホバに賛美をささげて,すべての国から来る他の羊の大いなる群衆を集め,教え,訓練することができます。彼らは,地上で永遠の生命を得るでしょう。
7 (イ)宮は何を代表しますか。黙示録 7章で予告されているごとく大いなる群衆はどこで神に奉仕しますか。なぜこれは真実ですか。(ロ)このことは,どのようにハガイの預言と合いますか。
7 このことが終りの時に行なわれることは,黙示録の本の中に記録されている別の預言の中でも示されています。そこでは次のことが示されました。すなわちキリストのからだの成員である14万4000人の油そそがれた残れる者の最後の者が集められて印せられた後,そして御座についた王キリスト・イエスがサタンを天から追い落として,サタンとその制度に対する患難を始めて後,あらゆる国や言葉から来る男や女の大群衆は広範囲な伝道のわざにより集められ神の宮で奉仕するようみちびかれます。(黙示 7:1-4,9-17; 14:1-6)これらの者たちは神の御霊で印せられておらず,また「地からあがない出された」者でもありません。それで,彼らは,復活した御国相続者で構成される天の宮にキリスト・イエスと共にはいることができません。それでも,「彼らは,神の御座の前におり,昼も夜もその聖所で神に仕えている」と聖書に記されています。この宮は,地上にあるいくらかの「生ける石」によって代表されねばなりません。最初の会衆については,次のように述べられていました,「神の宮は聖なるものであり,そして,あなたがたはその宮なのだからである」。このことを知る私たちは,次のことが理解できます,すなわち,ここで言及されている宮は,いまわずかな残れる者になった今日のキリストの油注がれた追随者たちの会衆で代表されているのです。(コリント前 3:16,17; 6:19。コリント後 6:16)大いなる群衆は,会衆内の宮奉仕にみちびかれています。したがって,イザヤ書 2章の預言と黙示録 7章の預言は,ハガイの預言と一致します。ハガイの預言によると,神が御自分の「家」あるいは崇拝の宮を復旧してのち,神は諸国民をふるって,諸国民のうちの『たから』『たからのごとく大事にする者』,『のぞましい者たち』を家の中にみちびき入れ,光輝で家をみたします。―ハガイ 1:7,8; 2:7-9。
8 会衆の状態は,イザヤ書 60章でどのように述べられていますか。どんな二つの群れは,それに集められていますか。
8 いろいろの預言は,家や宮が終りの時に復興された会衆の予表であると述べています。しかし,町も用いています。イザヤ書 60章でその光を輝かせと天のシオンあるいはエルサレムに告げられた言葉は,復興した残れる者にも適用します。ここでは,油注がれた残れる者の会衆は,町の一部として述べられています。それは,霊的なイスラエル人,シオンの子たちの最後の者をまず集めて,それから諸国民を集める場所になります。町の「石垣」は,「異邦人」によって建てられています。彼らは復興した残れる者を援助して,『羊の群れ,畑,そしてぶどう畑』の世話をしています。―イザヤ 60:4,9-11; 61:5。
9,10 終わりの時にエホバを代表するどんな種類の制度を,私たちは期待すべきですか。このことについて歴史的な事実は何を示しますか。
9 これらの預言全部や他の預言は,終りの時になると,地上の神の僕たちが集められ,神の真の会衆が復興されることを示します。神の真の会衆は,『世の光』として顕著な存在となります。今日,ふたつの級の人々を持っているそのような制度は存在していますか。すなわち,キリストとともに共同相続者になる保証を持っていて,数が減少してゆく小さな群れと,地上で永久に生きることを希望して,あらゆる「国民,種族,人種,および言語」から来る男女と子供たちの急速に増加している群れです。
会衆を識別する
10 証拠は明白に次のことを示します。すなわち,いまエホバの証者として知られているクリスチャンたちは,80年以上ものあいだ神の御心を行なってきました。そして,これらの預言や他の多くの預言の成就を経験しました。1870年代から1918年までのあいだに,彼らが集められて真理の光のうちに成長したことは,主エホバがその宮に来ることに対して,選んだ者たちを準備することでした。エホバの御国がキリストによって設立されたとき,彼らは地上におけるそのわざを終了して,天に取られると,期待していました。しかし,彼らは他のわざがゆだねられているということを学びはじめました。(マラキ 3:1-4。マタイ 24:45-47)終りの時のあいだ御国のこの良いたよりは全世界に伝道されるべきでした。そして,神の油そそがれた僕たちは,大群衆の人々に神の道を教えるために会衆内で良く組織されることが必要でした。―マタイ 24:14。黙示 14:6,7。
11 1919年から1931年にかけて油そそがれた者の活動と経験は何でしたか。彼らはどのように明確に識別されましたか。
11 1918年までの歴史は次のことを示します,すなわちこの小さな会衆は,第一次世界大戦中のきびしい迫害によって,はなはだしい分裂状態にさらされました。しかし,1919年には,彼らは,再組織されて,「地」に復興しました。すなわち神のめぐみの状態に復興しました。そして,ハガイ,イザヤ,および他の多くの人々の述べた預言の成就を経験しはじめました。彼らは広範囲な伝道のわざを始めました。それは次の12年間,この世界に対する神のさばきを公表しただけでなく,選民の残れる者をも集め,14万4000人をほとんど完成しました。このときまでには,エホバの僕たちの理解は進んで,教理についての数多くの間ちがった考えや,上なる権威者エホバとキリスト・イエスに対する彼らの関係についての間ちがった考えは清められました。この群れは,エホバの証者という名前を得ることによっていっそう明白に識別されるようになりました。そして,地上におけるひとつの僕級つまりエホバの会衆を構成する多くの者を示しました。―イザヤ 43:10-12。
12 (イ)この会衆内ではどんな管理の取りきめが期待されますか。そして,なぜ?(ロ)このことにおいて,アレゲニー会衆の円熟した兄弟たちはどんな役割を持ちましたか。
12 この会衆は,名前と証言のわざによって識別されはじめただけでなく,その統治の取りきめによっても識別されはじめました。預言によると,それはエホバの神権制度,エホバの家あるいは宮を地上で代表する会衆でした。故にそれは神権的に統治されるべきであって,民主的に統治されるべきではありません。そして,使徒の時代のときと同じく,エホバのみちびきは,会衆内の霊的に円熟した者を通して明白に示されます。第1世紀にあったことは終りの時にも期待できます。すなわち,組織化された最初の群れ,あるいは会衆内で監督として奉仕した円熟していた兄弟やその補佐たちは,真の崇拝の拡大に率先しました。彼らは伝道のわざを他の地方に拡大し,新しい会衆若い会衆の助言者および模範として奉仕しました。1879年およびそれ以前の時から,ペンシルバニア州アレゲニーの復興した残れる者の最初の集合した群れは,指導的な会衆の役割を果たしました。そして,その地の円熟した兄弟たちは,他の会衆の監督たちと協力しつつ,伝道のわざの拡大を組織し,新しい会衆をつくることに率先しました。アレゲニーにいたこの古い兄弟たちの群れから,いま「ものみの塔」として知られている雑誌は,世界の多くの場所に送られました。その雑誌は,すべの会衆内における聖書研究の基礎として用いられました。これは,彼らの考えと,聖書についての理解を一致させ,その伝道の方法を協同させることに役立ちました。
神権的な処置
13 (イ)会衆内で民主主義的な方法の代りに神権的な方法をいれかえることはなぜ必要でしたか。このことはイザヤ書 60章17-22節でどのように前もって告げられていましたか。(ロ)このとは,1919年と1938年中にどのようになされましたか。
13 しかし,それぞれの会衆は,主として独立しており自治のものでした。自分たちの『長老』を選出し民主主義的な仕方の中に研究や奉仕の取りきめの多くを決定しました。しかし,大いなる群衆の人々を集めて,神の御心を教えるためには,この取りきめの改善は必要でした。さもなければ,指示の方法や真の崇拝の標準は,会衆の円熟の程度にしたがい,場所によってかなりちがうでしょう。会衆で行なわれる監督の仕方が劣るならば,イザヤ書 60章17-22節に前もって告げられていたごとく,真実の原則,神のみちびきの原則を採用することが必要です。1919年,ものみの塔協会は「黄金時代」を配布するわざを始めました。そのとき,ものみの塔協会は,会衆の統治体として奉仕しており,全世界の伝道を効果的に監督するため,その本部事務所と部員をニューヨークのブルックリンに移しました。このものみの塔協会はそれぞれの会衆に奉仕監督者を任命することによって,神権的な支配の取りきめを始めました。1932年の10月までには,全世界の会衆は「選出制長老」を排除して,聖書の預言といっそう一致するようになりました。彼らはまたもっとも円熟した,霊的な分別心を持つ兄弟たちを選んで「奉仕委員」として奉仕させ,協会の任命した奉仕監督者を援助させました。この発展は,1938年までには完了しました。そのとき,全世界の会衆は,「協会」,「忠実にしてさとい奴隷級」の指導の下にすべてを組織してもらいたいというねがいを述べました。協会は,それから後は会衆内のすべての監督とその補佐たちを任命しました。そして,いっさいの研究と伝道の取りきめを指示します。エホバの聖所あるいは油そそがれた者の地上の会衆をエホバとの正しい関係にはいらせるために,このことは必要でした。しかし,次の目的のためにもそのことは必要でした。すなわち,地上にある神の会衆が,神の御心を行なうために諸国家から集められた大いなる群衆を教えて訓練する適当な場所になるためにも必要だったのです。
14,15 (イ)なぜこの神権的な支配の形式の変化は,特に1938年までに完成されることが必要でしたか。(ロ)このことは,大いなる群衆の者たちに何を保証しましたか。(ハ)イザヤ書 51章3節から52章2節によると1919年に油そそがれた者の会衆が復興するとともに何が実際に起こりましたか。
14 会衆を神権的に建ておこすことにより,会衆は神の道の学べるところとしておもて立ってきました。油そそがれた者の会衆が民主主義的な投票によって指示されることは不適当でした。民主主義的な投票では,大多数の者 ― おそらくその大部分は未熟な者たちが指示することになり,霊的に円熟した者たちは指示しないでしょう。そのことは,大いなる群衆が集められるとき,なおさらいっそう不適当でした。なぜなら,諸国民から来た者たちは,大多数を占めて,神の御こころに従うよりは自分たちの意志に従って会衆を形成し始めることができるからです。しかし,そのような事がらについての神の監督は,きわめて明白です。そして,神権的な監督は,1938年までにはまったく行なわれていました。そのときには,「他の羊」すなわち大いなる群衆の者はまだ少数でした。
15 この監督の原則は,必要でした。伝道のわざを管理するだけでなく,大いなる群衆の者をみな訓練して,ハルマゲドン前の終りの時のあいだ神の御心に従わせるために必要でした。かくして,彼らは訓練をうけ,ハルマゲドン後には秩序のある神権的な仕方で地を清めて美化することができます。油注がれた者の会衆は,模範になるべきでした。ここに別の預言であるイザヤ書 51章3–52章2節の成就が見られます。その預言は,次のことを示しています,すなわち油そそがれた残れる者が1919年に神との正しい関係および神への奉仕に復興したとき「新しい地」は設立されました。それは新しい世の社会の形成の初まりです。この社会は,大いなる群衆を集めて訓練します。そして,それは新しい組織制度の下に運営する会衆として,組織化された形態として,この古い組織制度を終わらせるハルマゲドンの戦いにも生きのこります。―「新しい天と新しい地」の319-337頁を見てください。
16 神権的な取りきめは,どのように会衆にその清さを保たせ,残れる者と大いなる群衆のあいだの正しい関係を保たせましたか。
16 増加して行くこの会衆すなわち新しい世の社会は,あらゆる国,種族,人種,および国民から80万以上の男女や子供たちを集めました。しかし,それはこれらの人々が以前に持っていた考えや習慣にしたがわず,これらの全部は神の御こころにしたがってつくられました。彼らは教えをすなおに受けいれ,柔和で,愛の心を持ち,平和を追い求めて,仲間の信者全部と一致しています。いま油注がれた者の数は1万4000人にもなりません。それとくらべるとき諸国民から来るこれらの者の数は80万以上で,油注がれた者ひとりに対して約54人という多数になっています。しかし,彼らは神の道にしたがい,「忠実にしてさとい奴隷」級である残れる者によって教えられます。彼らが出てきたこの世は,利己主義,不道徳,偽り,不正直,無神論,霊媒術,そして他の数多くの邪悪な考えや行為によって大きく影響されています。しかし,これらのものは神の真の会衆内にはいりこんでいません。今日,不道徳な行いや偽りの教えでもって会衆を堕落させようとつとめる者たちは,第1世紀の会衆の場合のように,排斥されます。かくして会衆の清さは保たれて確認されます。
17,18 (イ)残れる者の数が年々,すくなくなって行くとき,制度はどのように拡大して,しかも179の国々にいる幾十万の人々を訓練し監督することができましたか。(ロ)どんな聖句は,このことを前もって告げましたか。
17 すべての国々から幾十万という大ぜいの人々が集められたことは,拡大するとともにその神権的な機構を保持する制度を必要としました。そのことは,イザヤ書 54章2,3節で前もって告げられていました。しかし,油注がれた者の数がだんだん小さくなって,残されている者が年々年を取り,病気勝ちになるとき,この小さな会衆はどのように拡大することができますか。テモテ後書 2章1-3節にあるパウロの助言に従って大いなる群衆の者を訓練することによります。そうすれば,彼らは監督としての資格を持ち,他の者を教えることができます。これらの者たちの中の幾千人という人々は,会衆の僕になるよう訓練をうけました。しかし,それだけにかぎらず過去20年のうちに幾千人という人々が開拓者として全時間奉仕にはいり,孤立したところで働くようになりました。一方,他の者たちは新しい地でわざを開くため特別の訓練をうけて新しい会衆を形成し,いわば娘の「まち」を建ておこしました。それは神の家からくる教えをすべての者に与えるためです。このすべては,油注がれた残れる者の監督の下に行なわれました。―イザヤ 60:10; 61:4-6。
18 それで,残れる者がひとりもいない会衆はたくさんあります。また,残れる者がいない国さえもあります。しかし,179の国々にいる人々が2万1000以上ある会衆内の神の「家」に来ることは可能です。なぜならすべての監督は「忠実にしてさとい奴隷」の会衆の取りきめを通して教えられ,訓練されたからです。すべての会衆は,各地の監督や他の者によって管理されます。それらの者たちは,会衆,巡回区,および協会の支部事務所を訪問して調査します。かくして,制度のすべての部分は,神の御こころと一致調和のうちに保たれます。このようにして,油そそがれた級は,神の羊の群れを牧します。
19 残れる者と大いなる群衆の両方の成員は,急速に拡大しているこの制度をどのように見なしますか。彼らはたがいの関係をどのように見ますか。
19 「大いなる群衆」の数は,ますます増加する一方,キリストの油そそがれた者の「小さな群れ」の残れる者の者は減少して行きます。それでも,完全な一致があります。そして増加する群衆の者たちは,その大きな数を利用して制度内の目立つ地位を得ようとつとめません。「大いなる群衆」の者たちは,会衆を通してなされるエホバの神権的な取りきめに忠節と従順を示すことにより減少して行く油そそがれた者の群れに最大の尊敬を示します。彼らは,今日多数であり,伝道の仕事を多くしているから,その功は自分たちに与えられねばならぬと感じません。彼らは,それはエホバの栄光に帰するものであり,地上にいるエホバの忠実な油そそがれた者をエホバが是認していることを明白に示すものと認めます。また,油そそがれた者たちは,数が増加しているこの群衆とその若々しい,力にあふれた熱心をうらやみません。むしろ,彼らは長年にわたるつらい仕事のむすんだ実を見て,これらの者が彼らの熱心,エホバへの従順と忠節という模範に従っているのを見てよろこんでいます。「されどなんぢらはヱホバの祭司ととなへられ,われらの神の役者とよばれ…」。(イザヤ 61:6-11)神の真の会衆だけが,そのようなふたつの群れの人々の愛と一致を示すことができます。
20 (イ)終りの時における神の僕たちの正しい状態について,聖書と事実は何を示しますか。(ロ)すべての者にはどんな行動がつよくすすめられていますか。
20 それで,第1世紀のクリスチャン会衆の例から見ても,また私たちの時代に関するたくさんの預言をしらべて見ても,次のことははっきり証明されます。すなわち,「終りの時」におけるいまの神の真の僕たちの正しい状態は,各人がたがいに独立して自由勝手にふるまう,しまりのゆるい交わりではありません。むしろ,それはきっちりつまった制度化された会衆であって,全世界的に一致し,結合しているものです。そして,キリストの霊的なからだの霊的に円熟し経験を積んだ油そそがれた残れる者の監督をうけています。この雑誌の読者は,ひとりのこらずこの会衆であるエホバの証者のところに来て,彼らと交わり,彼らの教え,崇拝,わざ,そして会衆の制度を聖書と比較するよう,つよくすすめられています。「いざわれらヱホバの山に登りヤコブの神の家にゆかん,神われらにその道ををしへ給はん,われらその路をあゆむべし」。神が今日ともにおられる民を探し出してください。そして彼らとともに交わりなさい。―イザヤ 2:2-4。ゼカリヤ 8:20-23。
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無能力になった調停者ものみの塔 1961 | 6月15日
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無能力になった調停者
「アメリカおよびソビエト・ブロックの指導のもとに行なわれる西欧諸国間の紛争によって,調停者としての国際連合は最初から無力なものにされてしまった。
「独立諸国の一つの国際政府によって平和を確保しようとする幾多の試みはすべて,それらの試み自体に内在する矛盾の犠牲となってしまった。独立諸国の効果的な政府を樹立するということは,国家の主権そのものを直接攻撃することによってのみ除去される名辞の矛盾のように思われる」。―「大英百科辞典」第17巻,414頁(1959年)。
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