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  • 新しい祭司職の発足
    ものみの塔 1966 | 4月15日
    • のことばに訳されています。シェオールすなわちヘーデースから人の出てくる時がきますか。それらの人々を解きはなつ手段は,どの祭司職に備わっていますか。人類をあがなう価値のある犠牲をささげることのできなかった,アロンの家系のユダヤ人の祭司職ではありません。(詩 49:7-9)まして異教ローマの最高僧院長や,その後継者であるローマ法王とその祭司職でもありません。それはローマの最高僧院長の位ではなくて「メルキゼデクの位にしたがっ(た)」偉大な祭司,天のシオンにいられるイエス・キリストの祭司職のほかにはありません。

      新しい祭司職に属する人々

      7 (イ)だれがイエスとともに新しい祭司職に与りますか。(ロ)ペテロはこの祭司職のかしらですか。証拠をあげなさい。

      7 忠実に対するいっそうの報いとして,神はイエスに対し,花嫁を約束されました。この花嫁はイエスの会衆を構成する大ぜいの追随者から成っています。これらの人々はイエスの足跡に従って忠実に歩み,偉大な大祭司イエスの下で従属の祭司として仕えます。これは真に新しい祭司職です。イエスをかしらとする会衆の構成について言うと,12使徒はイエスの次に位し,そのひとりにペテロがいます。ペテロは従属の祭司の一人です。イエスの追随者であるペテロが会衆のかしらになるはずはありません。ペテロは最高僧院長ではなく,メルキゼデクのさまに等しい偉大な大祭司イエス・キリストの下に仕えるクリスチャンの祭司でした。復活したイエスは,ペテロの死後30年を経て,流刑地パトモス島の使徒ヨハネに次のことを言われました。「わたしは初めであり,終りであり,また,生きている者である。わたしは死んだことはあるが,見よ,世々限りなく生きている者である。そして,死と黄泉〔インフェルニ,ラテンバルゲート訳。地獄,ドウエイ訳,欽定訳〕とのかぎを持っている」。(黙示 1:17,18)人間として地上にいられたとき,イエスはこの同じ権威について次のことを言われました。

      8 死と黄泉に対する権威を受けることについて,イエスは地上にいられた時なんと言われましたか。

      8 「それは,父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に,子にもまた,自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。そして子は人の子であるから,子にさばきを行なう権威をお与えになった。このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き,善をおこなった人々は,生命を受けるためによみがえり,悪をおこなった人々は,さばきを受けるためによみがえって,それぞれ出てくる時が来るであろう」「わたしの肉を食べ,わたしの血を飲む者には,永遠の命があり,わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」― ヨハネ 5:26-29; 6:54。

      9 黄泉の門がクリスチャン会衆に勝たないということは,どのように真実ですか。

      9 イエスは「死と黄泉のかぎ〔黙示1:18〕」を与えられることになっていました。それでペテロや信者の会衆の他の者が彼らの主と同じく犠牲の死を遂げてヘーデースつまりシェオールに下っても,ヘーデース[黄泉]の門は会衆に対して永久に閉じられてはいないと,イエスは権威をもって使徒ペテロに語ったのです。どうしてそう言えますか。イエスは復活後,み父のもとに上り,人類のために犠牲にしたご自分の生命の価値をささげられました。それでイエスはどんな教皇にもできない事すなわち「死と黄泉のかぎ」を用いて門を開き,死から復活させることによってご自分の会衆を外に連れ出すことができるからです。イエスがこの事を言われたのは,イエスをだれと信ずるかについて弟子たちに問われたすぐ後のことでした。マタイによる福音書 16章16節から19節はその時の問答を記録しています。

      会衆はだれの上に建てられるか

      10 会衆の基について,イエスはなんと言われましたか。またペテロに対して何を約束されましたか。

      10 「シモン・ペテロが答えて言った,『あなたこそ,生ける神の子キリストです』。すると,イエスは彼にむかって言われた,『バルヨナ・シモン,あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは,血肉ではなく,天にいますわたしの父である。そこで,わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして,わたしはこの岩の上に教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは,あなたに〔なんのかぎ? 黄泉ではなく〕天国のかぎを授けよう。そして,あなたが地上でつなぐことは,天でもつながれ,あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう』」― マルコによる福音書 8章27節から30節およびルカによる福音書 9章18節から21節も見てください。

      11 (行間翻訳の部分を含む)マタイによる福音書 16章18節にあるイエスのことばを,いまどのように検討することは有益ですか。

      11 マタイによる福音書 16章18節のこの句は論争の的となっています。そこでギリシャ語原文をここにかかげ,その下に音訳および「マーシャル・D・リット師が英語に直訳したネッスル・ギリシャ語テキスト新約聖書の行間希英翻訳」の逐語訳を示すことにします。

      Καγω δε σοι λεγω οτι δυ ει Πετροζ και επι

      カゴ デ ソイ レゴ ティ ス エイ ペトロス カイ エピ

      「我は また汝に 告ぐ〔,〕- 汝はなり ペテロ および 上に

      ταυτη τη πετρα οικοδομησω μου την εκκλησιαν,

      タウテイ ティ ペトライ オイコドメソ マウ テン エクレシアン

      この - 岩 我は建てん わが - 教会

      και πυλαι αδου ου κατισχυσουσιν

      カイ ピュライ ハイダウ オウ カティスクヒュウソウシン

      および 門 黄泉の であろう ない 勝つことが

      αυτηζ.

      オーテス

      これに」

      12 (注を含む)(イ)ギリシャ語本文において,「ペテロ」と「岩」の間にどんな相違が認められますか。(ロ)アラミヤ語(シリヤ語)訳もどのようにこれと一致していますか。(ハ)ここに述べられた「岩」がだれであるかを知るうえに,使徒パウロのことばはどのように役立ちますか。

      12 ペテロ(ペトロス)と岩(ペトライ)の相違を認めることは困難ではありません。ギリシャ語本文においてペトロスの語は男性形であり,ペトライの語は女性形である点に相違があるのです。同様な相違はラテン・バルゲート訳にも認められます。アラミヤ語(シリヤ語)訳もペテロと岩のそれぞれにつく接頭辞によって両者の区別を示しています。b イエスがペテロにむかって,「あなたはペテロである。わたしはあなたの上にわたしの教会を建てよう」と言われていないことに注目してください。イエスはペテロがペトラ(岩)であるとは言わず,ペテロ(ペトロス)の上に教会すなわち会衆を建てるとも言われていません。それは前節に示したギリシャ語本文からも明らかです。イエスはご自分を基としてその上に教会つまり会衆を建てると言われたのです。使徒パウロもコリント前書 10章4節の中で,イエス・キリストが岩であることを明らかにしています。「みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち,彼らについてきた霊の岩〔ペトラ〕から飲んだのであるが,この岩〔ペトラ〕はキリストにほかならない」。

      13 (イ)岩について弟子たちに語った時,イエスはどの預言を考えていられたに違いありませんか。(ロ)会衆の建てられる岩がペテロでないことは,パウロのどんなことばにも示されていますか。

      13 イエスは精通していられたイザヤ書 8章14節および28章16節の預言を考慮に入れられたに相違ありません。その預言は次のように述べています。「主はイスラエルの二つの家には聖所となり,またさまたげの石,つまずきの岩となり,エルサレムの住民には網となり,わなとなる」「それゆえ,主なる〔エホバ〕はこう言われる,『見よ,わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石,堅くすえた尊い隅の石である。「信ずる者はあわてることはない」』」。〔文語〕「イスラエルの二つの家につまづきの岩」となったのはペテロですか。クリスチャンが救われるために信ずるのはペテロですか。そうでないことは全く明白です。それはイエス・キリストです。パウロはローマ人への手紙 9章32,33節および10章4節においてこの預言をキリストに適用し,この点を疑間の余地なく明白にしています。「彼らは,つまずきの石につまずいたのである。『見よ,わたしはシオンに,つまずきの石,さまたげの岩〔ペトラ〕を置く。それにより頼む者は,失望に終ることがない』と書いてあるとおりである。キリストは,すべて信じる者に義を得させるために,律法の終りとなられたのである」。

      新しい祭司職を認めることが必要

      14 (イ)会衆の基について,ペテロ自身がどのように理解していましたか。(ロ)マタイによる福音書 16章18節のイエスのことばを理解するにあたって,なぜ慎重でなければなりませんか。

      14 ペテロは,教会がペテロ自身の上に建てられるという意味にイエスのことばを理解しましたか。ペテロは自分が主よりも偉大な祭司であると考えましたか。ペテロの主はメルキゼデクに似た大いなる祭司であり,神の大祭司であって,ペテロはその従属の祭司にすぎないのです。この点についてペテロ自身のことばを聞いてみましょう。「あなたがたは,主が恵み深いかたであることを,すでに味わい知ったはずである。主は,人には捨てられたが,神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて,あなたがたも,それぞれ生ける石となって,霊の家に築き上げられ,聖なる祭司となって,イエス・キリストにより,神によろこばれる霊のいけにえを,ささげなさい。聖書にこう書いてある,『見よ,わたしはシオンに,選ばれた尊い石,隅のかしら石を置く。それにより頼む者は,決して,失望に終ることがない』。この石は,より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが,不信仰な人々には『家造りらの捨てた石で,隅のかしら石となったもの』,また『つまずきの石,妨げの岩〔ペトラ〕』である。しかし,彼らがつまずくのは,御言に従わないからである」。(ペテロ第一 2:3-8)教会の建てられる基がペテロであると考えるのは不合理です。ペテロのことばをしりぞけて,みことばに不従順な者となることのないように,十分注意しなければなりません。わたしたちはつまずいて滅びに落ち込むかもしれないからです。

      15 (イ)新しい祭司職はその完成のとき何から成り立ちますか。(ロ)それによって,どんなまさったものがもたらされますか。

      15 ゆえに使徒パウロが明快に論じているとおり,「祭司制に変更があれば,律法にも必ず変更があるはずで」す。(ヘブル 7:12)イエスは新しい祭司職のかしらです。そして12使徒をはじめ過去1900年の間イエスが集めてこられた,全部で14万4000人を数える,そしてひとりのかしらキリスト・イエスの下にあるイエスの追随者は,新しい契約に関連して仕える新しい祭司となります。神の過分の恵みによって,イエスは事物の新しい制度を建てました。それは不完全な祭司と動物の犠牲をともなう,ユダヤ人の事物の古い制度にかわるものです。キリストご自身の犠牲に基づく事物の新しい制度は,新しい契約の下に運営されています。キリストの犠性は,人類の罪の許しを可能にします。

      16 (イ)動物またミサの犠牲のようにくり返してささげる犠牲はなぜ必要ありませんか。(ロ)メルキゼデクのさまに等しい大祭司としてイエスはどこにいられますか。(ハ)イエスは人類のために何を用意されていますか。新しい祭司職の下で,イエスの犠牲の益はいつ人類に与えられますか。

      16 したがって,アロンの家系に属するレビ人の祭司が宮でくり返しささげた犠牲あるいはキリスト教国の祭司がミサごとにくり返す犠牲のように,くり返しささげる犠牲は必要ありません。キリスト・イエスのひとつの儀牲がすでにささげられました。それで今は犠牲をくり返すことが問題なのではありません。キリストの犠牲の務めは行なわれました。キリスト・イエスは天のシオンで任についておられ,試みを経た,尊い隅の石としてすえられました。それはイザヤ書 28章16節の預言の成就です。19世紀前に地上のシオンはキリストを拒絶しました。しかしキリストはいま霊的なシオンすなわち天のシオンに住み,人類のための生命のパンを十分に用意されています。それはキリストがご自分を犠牲にされたからです。キリストは生命のパンを喜んで与えられます。ヘブル人への手紙 9章28節にパウロが述べているように,「キリストもまた,多くの人の罪を負うために,一度だけご自身をささげられた後,彼を待ち望んでいる人々に,罪を負うためではなしに二度目に現れて,救を与えられるので」す。1918年にキリストは,ご自分とともにならせるために,忠実な会衆を復活させることを始められました。近い将来にキリストとともになることを期待する少数の人々がなお地上にいます。キリストの千年統治のあいだ,従属の祭司たちから成るキリストの会衆は天においてキリストとともに王また祭司となり,キリストの犠牲の益を,地上の忠実な人類に施す栄光ある特権に与るでしょう。ゆえにすべての人が信仰を抱いてそのもとに来なければならないのは,司教や教皇ではなく,天のシオンにいますメルキゼデクのさまに等しい大祭司イエス・キリストです。―黙示 20:6。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1966 | 4月15日
    • 読者からの質問

      ● イエス・キリストのかたわらで刑柱につけられた悪人は,どんな方法で刑柱につけられましたか。釘づけされたのですか,あるいは縛りつけられたのですか。―英国の一読者より

      この悪人たちは刑柱に縛りつけられたようです。ローマ人が行なった,刑柱を用いる処刑法について,大英聖書辞典(第1巻,377頁)は次のように述べています。「運命の場所に連れてこられた時,その犯罪者は衣服をはぎ取られて,裸同然にされたうえ,十字架に縛りつけられるか,あるいは釘づけにされると,十字架は持ち上げられ,立てられたのである」。キリストとこの悪人たちを刑柱につける際に,もしユダヤ人の処刑法が用いられたとすれば,最初に殺されてしまい,それから死体が刑柱に取りつけられたことでしょう。(申命 21:22,23。ヨシュア 10:26)しかし彼らは生きながら,刑柱につけられたのです。(ルカ 23:32-46)それで彼らが刑柱につけられたときには,ローマ人の処刑法が用いられ,釘づけにされるか,縛りつけられたのです。

      イエス・キリストの場合には苦しみの杭に釘づけされたことがわかります。死んで復活させられて後,イエスは幾度も化身しましたが,その肉体には釘づけにされた傷あとがありました。たとえば,あるときイエスはトマスを招き,ご自分の両手に釘づけにされた傷のあることを確かめさせています。(ヨハネ 20:19-29)このように聖書は,イエスが苦しみの杭に釘づけされたことを示していますが,イエスのかたわらで処刑されたその悪人たちが刑柱に釘づけにされたか,縛りつけられたかは明示していません。そのために,ものみの塔協会は,たとえば「失楽園から復楽園まで」という本の141頁に,聖書に示されていることおよび,ローマ人が,釘づけにする処刑法と,縛りつける処刑法の両方を用いていた事実を認める絵をかかげているのです。そのさし絵では,イエスは苦しみの杭にだけに釘づけされており,他の悪人たちは縛りつけるという簡単な方法で刑柱にかけられています。

      ● マルコによる福音書 15章33節に記録されている,イエスが刑柱につけられた時に生じた暗闇は日食によるものですか。―アメリカの一読者より

      聖書はこの暗闇に関して簡単に述べています。「昼の十二時になると,全地は暗くなって,三時に及んだ」。(マルコ 15:33)マタイによる福音書 27章45節とルカによる福音書 23章44,45節の記録も根本的にはこれと同様ですが,ルカは「太陽は光を失い」と観察的なことばをつけ加えています。

      霊感を受けた福音書の筆者は,この異常な暗闇の起こったことを神のわざとして記録しました。ところがある注釈者たちは,長年の間このできごとを科学的に説明しようと試み,イエスが刑柱に釘づけされた時,偶然に日食が起こったと述べています。しかしイエスが死なれたのは西暦33年の過ぎ越しの日であって,広く認められているようにこの日は満月

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