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  • 「第一の復活」とは何ですか
    ものみの塔 1974 | 3月1日
    • でしょうか。a どれほどの人びとが天的な相続者として「第一の復活」を受けるのでしょうか。どのようにしてその資格にかなうのですか。また,どれほどの期間,そしてどんな目的で支配するのでしょうか。今後の「ものみの塔」誌の記事の中で,そうした問題が考慮されます。

  • エホバは選ばれた者たちに「証印」を押すことを終了される
    ものみの塔 1974 | 3月1日
    • エホバは選ばれた者たちに「証印」を押すことを終了される

      使徒パウロは,霊によって生み出された彼の兄弟たちに,次のように書き送りました。「霊そのものが,わたしたちの霊とともに,わたしたちが神の子どもであることを証ししています。さて,子どもであるならば,相続人でもあります。実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人です。ただし,ともに栄光を受けるため,ともに苦しむならばです」― ローマ 8:16,17。

      この『証しをすること』はどのように行なわれますか。霊によって生み出されたこれらのクリスチャンたちが,神とどんな関係にあるかを知るに至るよう,「わたしたちの霊」つまり彼らの支配的な心的態度となるものが神の聖霊によってつくり上げられるのです。しかしそれは,全く神秘的な方法で行なわれるのではありません。この『証しをすること』においては,神のことば,クリスチャン会衆に対する神の行動,「忠実で思慮深い奴隷」を通して来る『時に応じた食物』,わたしたちの兄弟たちがわたしたちを助けて得させてくれる啓発,神の目的にかんする明確な見解,預言の成就などがすべて,神の聖霊の働きと結びつくのです。

      最終的な「証印」

      今の時代に地上にいる油そそがれた人びとに対する神の行動と関係のある聖書の章句のひとつは,啓示 7章1節から8節です。ここで,「大患難」の破壊的な風を押えている天の使いたちは,14万4,000人の霊的イスラエル人がそのひたいに「証印を押され」るまでその風を放してはならない,と言われています。(マタイ 24:21)この『証印を押す』ということは,どういうことでしょうか。ある人びとはこれを次のような意味に解釈しています。「事物の体制の終結」である,霊的「収穫」の行なわれる間,メシアであるイエスの霊的兄弟の選択は,「四方の風」が地上に吹き始める前の最後の年の,最後の日の,最後の時間の,最後の瞬間まで続けられる。これは正しい解釈でしょうか。そうではありません。なぜですか。―マタイ 13:39,40。

      なぜなら,ここで言及されている『証印を押す』わざは,14万4,000人全部が,とりわけまだ地上に残っている人びと全部が,まだ証印を押されていないかのように,彼らに初めて証印を押すことを意味しているのではないからです。使徒パウロの示すところによると,最初に証印が押されるのは,個人が,天の資産を受け継ぐべく選ばれる時です。パウロは彼の霊的兄弟たちにこう言っています。「そして信じたのち,やはり[キリスト]により,約束の聖霊をもって証印を押されたのです」― エフェソス 1:13。

      したがって,『残れる者』のうちのある人びとは,「生ける神の証印」を携えたみ使いがつかわされる以前に,この最初の意味での証印を押されました。み使いが押すのは最終的な証印です。最初の証印の永続性を確実にするものです。それによって「全[霊的]イスラエル」は救われ,14万4,000人全員は,自分たちに対する召しと選びを確実なものとします。(ローマ 11:26。ペテロ第二 1:10)全部でないにしても,14万4,000人のほとんどは何年も前にすでに最初の証印を押されています。その証印が永久的なものにならないうちに一部の人が不忠実になったため,他の人たちに証印を押さねばならなかったことは事実ですが,この遅い時期に,弟子たちを大々的に集め,初めて証印を押すということは,行なわれていません。もしそれら霊のイスラエル人が,彼らに対する神の目的に忠実であることを証明すべきであるならば,神が『最後の瞬間』になって,この天の相続者の集団の新しい者に最初の証印を押されるということはまずありえません。

      自分を調べる

      もしこの問題が気にかかっているならば,どのようにして自分を調べてみることができるでしょうか。

      まず,天の資産を受け継ぐべく証印を押されるとは何を意味するかについて,自分はどういう見方を持っているかを調べねばなりません。神の油そそがれた霊的イスラエル人のひとりであれば,クリスチャン会衆内における特別の地位と,地を相続することを待つ「大群衆」のひとりである場合よりも大きな尊敬とを受ける権利が得られるという見方をしていますか。霊的イスラエル人のひとりであれば,より深い知識が得られる,とあなたは感じますか。特別の啓示,あるいは預言の解明などを受けると信じていますか。あなたはそうしたものを享受したいという強い望みを持っているかもしれません。あなたは聖書文書の配布や,聖書研究の司会,聖書の質問に答えること,聖書講演を行なうことなどにひいでているかもしれません。また熱意にあふれ,急速に進歩し,模範となる神権的な生活を送っているかもしれません。これは全部事実でしょう。しかしこうしたことは,自分は天の王国に召される資格があるという考えを築く基礎になるものではないでしょう。なぜですか。なぜなら,油そそがれた霊のイスラエル人も「ほかの羊」も神の恵みを受け,両者とも神のご意志に調和した生活を送らねばならないからです。

      ペンテコステ以前に住んでいたサムソンや他の多くの人びとは熱意にあふれ,十分の理解を持っていました。神の霊は彼らの上にあり,その結果彼らは多くの超自然的な偉業を成し遂げることができました。それでもこの「大ぜいの,雲のような」忠実な人びとのだれひとりとして,天的級ではなかったのです。―士師 14:6,19; 15:14。出エジプト 35:30,31。サムエル前 10:6; 16:13。エゼキエル 2:2。ヘブライ 11:32-38; 12:1を比較してください。

      次に自分の背景と性格を検討してみるとよいでしょう。あなたはこの問題を感情的に扱っていますか。天に行くことを唯一の希望として差しのべる偽りの宗教 ― とくに他より一段と感情的である「正統派キリスト教」教派のひとつ ― に属していた人たちは,感情と,過去において持っていた見方とに支配されるかもしれません。あなたは,真理の知識を得る以前に,麻酔剤あるいは幻覚剤を使っていましたか。精神や感情に影響する薬物治療を受けていますか。感情障害か知能障害のために,精神病学上の治療を受けねばならなかったことがありますか。こうした事がらは,天への召しを受けることを必ずしも妨げるものではありませんが,悔い改め,改宗してバプテスマを受けた弟子の場合には,これらは慎重に考慮されねばならない要素です。

      ある人たちは,心がひどく乱れると言いました。天に行く希望を受けたために心の中に『ひどい葛藤』が生じた,と言う人さえ少なくありません。最初のうちそれと戦ったと言った人もあります。しばらくの間すべての希望を失った ― 神が以前の地的希望をしばらくの間取り去られ,それから最後に天的希望をくださった,と言った人もいます。そのような順序は,神が人を扱われる仕方と矛盾していると言えるでしょう。というのは,人は報いを望まずに神に喜ばれる奉仕をすることはできないからです。(ヘブライ 11:6)このこと

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