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神が予知する事柄ものみの塔 1970 | 11月1日
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10,11)神のそのような予知の働きによって定められた事柄の実現は,一部は神ご自身の力の行使に,そして一部は人間の行動にかかっていました。(使行 4:27,28)しかしその行動を取る人間は,みずから進んで,神の敵であるサタン悪魔にあざむかれたのです。(ヨハネ 8:42-44。使行 7:51-54)それで神は,パウロの時代のクリスチャンたちが『悪魔のたくらみに無知でなかった』ように,油そそがれた者に対して敵のいだく邪悪な欲望やたくらみを予見されました。(コリント後 2:11)また神の力は明らかに,預言されていた方法,または時に適合しない,メシヤに対する攻撃やたくらみは,いかなるものでもくじき,あるいは阻止することができました。
予定説を唱える者は,神の犠牲の小羊としてのキリストが,「世の〔ギリシア語,コスムー〕創〔カタボレー〕の前よりあらかじめ知られ」ていたという,ペテロのことばを,神は人類の創造以前にそういう予知を働かせた,という意味に解釈します。(ペテロ前 1:19,20)「創」と訳されているギリシア語「カタボレー」の文字どおりの意味は,「投げること,または下に置くこと」で,ヘブル書 11章11節に書かれているように胤を『やどす』ことを指すこともあります。これはつまりアブラハムが,子を生むために,人間の種を投げ落とし,受精するようにサラがそれを受けたということを意味します。ヘブル書 4章3,4節に示されているとおり,神が最初の人間夫婦を創造されたとき,人類の世の「創」はありましたが,その後その夫婦は,神の子としての地位を失いました。(創世 3:22-24。ロマ 5:12)しかし彼らは,神の過分のご親切により,種を投げ落とし(まき),みごもって子孫を生み出すことを許されました。その子孫のひとり,つまりアベルは,神の恵みを受け,罪のあがないと救いにあずかる立場を得た者として聖書に明示されています。(創世 4:1,2。ヘブル 11:4)イエスが,ルカ伝 11章49節から51節で,「世の創より流されたるすべての預言者の血」に言及し,これと,「アベルの血より…ザカリヤの血に至るまで」ということばを対比させておられることは,注目に価します。このようにしてイエスは,アベルを「世の創」,つまりその総括的な時と結びつけておられます。
メシヤすなわちキリストは,約束の裔となり,彼を通して,地のもろもろの国の正しい人々が祝福を受けることになっていました。(ガラテヤ 3:8,14)その「裔」のことが初めて語られたのは,エデンにおける反逆がすでに始まったのちでしたが,アベルの誕生よりは前でした。(創世 3:15)これは,メシヤを通してくる支配にかんする「奥義」が示されたときより4,000年以上まえのことです。ゆえにこの奥義はたしかに,「長き世のあひだ隠れた」ものでした。―ロマ 16:25-27。エペソ 1:8-10; 3:4-11。
予定の時になってエホバ神は,ご自身の長子に,預言されていた「裔」の役目を果たしてメシヤとなることを任命されました。御子が,造られる前から,またはエデンで反逆が起こる前から,そのような役目につくべく「予定されていた」ことを示すものはなにもありません。預言の成就を託された者としての御子の神による最後的な選びも同様,先だつ根拠なしに行なわれたのではありません。御子が地につかわされる以前,神と御子が親密な交わりをもたれた期間がありました。その交わりの結果,神が,預言的な約束と予影を御子は忠実に成就すると確信できるまでに,御子を知られたことは疑う余地がありません。―ロマ 15:5。ピリピ 2:5-8。マタイ 11:27。ヨハネ 10:14,15とを比較してください。
『召された者と選ばれた者』
「召された者」,または「選民」のクリスチャンと関係のある聖句を,さらに考慮しなければなりません。(ユダ 1。マタイ 24:24)彼らは,「神の預め知り給ふところに随ひて……選ばれたる者」(ペテロ前 1:1,2),『世の創の前より選ばれた者』,『神の子としてあらかじめ定められた者』(エペソ 1:3-5,11),『はじめより救いに選ばれ,招かれた者』と言われています。(テサロニケ後 2:13,14)これらの聖句の解釈は,問題の聖句が,特定の個人をあらかじめ選び定めることを指し示すものか,あるいは人々のひとつの級,すなわちクリスチャン会衆,天の御国でキリスト・イエスの共同相続者となる人々の「一体」(コリント前 10:7)を,あらかじめ定めることを示すものかどうかによって左右されます。―エペソ 1:22,23; 2:19-22。ヘブル 3:1,5,6。
もしこれらのことばが,永遠の救いに予定された特定の個人を意味するとすれば,その人々が,不忠実になるとか召しにそむくことは,絶対にないはずです。というのは,神の予知は常に正確であって,彼らに予定された運命が実現を見ずに終わるとか,その実現が妨害されることなどあり得ないからです。ところが,霊感を受けて前述のことばを書いた同じ使徒たちの示すところによると,キリストのあがないの犠牲の血によって「買われ」,「潔められ」,「天よりの賜物を味ひ,聖霊に与る者となり……来世の能力……を味」った者の中にも,悔い改めができないまでに背教し,滅びをみずからに招く者がいます。―ペテロ後 2:1,2,20-22。ヘブル 6:4-6; 10:26-29。
一方,これをひとつの級,すなわちクリスチャン会衆,または召された者の「聖なる国民」(ペテロ前 2:9)全体に適用するものと見るならば,さきほど引用した聖句は,神がそのような級(ただしその級を構成する個々の人間ではない)の生み出されることを予知し,予定されたという意味になります。またそれらの聖句は,予定の時に,その級の成員となるべく召された人すべてが従うべき『型』を神がそのお目的のままに規定された,つまりあらかじめ定められたことをも意味します。(ロマ 8:28-30。エペソ 1:3-12。テモテ後 1:9,10)神はまた,その人たちに遂行させるわざと,彼らが世のもたらす苦痛のゆえに試みられることとを,あらかじめ定められました。―エペソ 2:10。テサロニケ前 3:3,4。
それで,神が予知力を行使されることは,神の正しい御意志に従うよう努力する責務から,人間を解放するものではありません。
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読者からの質問ものみの塔 1970 | 11月1日
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読者からの質問
● ヨハネの第一の書 5章18節の,「神から生まれた人はすべて,罪をならわしにしない。…しかし,神から生まれたそのかたは,彼を見守っておられ,よこしまな者が彼をしっかり捕えることはない」ということばは,どうして正しいと言えますか。―アメリカの一読者より
この聖句を理解するには,まず第一に,使徒ヨハネが,その手紙の中で繰り返し強調している点,つまり,罪を犯すことと,故意に罪をならわしにすることとは違うということを,はっきり知らねばなりません。ヨハネは,問題の聖句の中で,神によって生まれたクリスチャンは罪を犯さない,とは述べていません。それどころか,ヨハネは前の章で,クリスチャンは罪を犯す場合が確かにあることを,つぎのように明示しています。「これらの事を書き贈るは,汝らが罪を犯さざらんためなり。人もし罪を犯さば,我らのために父の前に助主あり,すなはち義なるイエス・キリストなり」― ヨハネ第一 2:1。
しかし,真のクリスチャンは罪を犯すのを習慣にすることはありません。それは,ヨハネが,さらに続けて述べているとおりです。「罪をならわしにする者はすべて,同時に不法をならわしにしているのである。ゆえに,罪は不法である。あなたがたはまた,そのかたが明らかにされたのは,わたしたちの罪を取り去るためであることを知っている。そして,彼には罪がない。彼とともにとどまっている者はすべて,罪をならわしにしない。罪をならわしにする者はだれも,彼を見たこともなければ,彼を知るようになったこともないのである。幼い子たちよ,あなたがたはだれにも迷わされてはならない。正義を行ないつづけている者は,そのかたが正義にかなっておられるとおりに,正義にかなっているのである。罪を行ないつづけている者は,悪魔から生じている」― ヨハネ第一 3:4-8,新。
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