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千年間仕える審判者たちに期待できる事がら神の千年王国は近づいた
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関しては,使徒ペテロが次のように述べた原則が当てはまるように思えます。
53 「今は,裁きが神の家から始まる定めの時だからです。さて,それがまずわたしたちから始まるのであれば,神の良いたよりに従順でない者たちの終わりはどうなるでしょうか。『そして義人がかろうじて救われていくのであれば,不敬虔な者や罪人はどこに出てくるだろうか』」― ペテロ第一 4:17,18。
54 神のめぐみをいたずらに受け,その目的を逸する人たちは,裁きの日の終わりまで生き長らえさせる必要がありますか。何がその理由となりますか。
54 「直き地」に住みながら,神の『めぐみ』をいたずらに受け,その愛ある目的を逸し,また矯正不能であることを示す人たちは,必ずしも千年の終わりまで生き長らえさせられて,地に回復される楽園でとこしえの命を受けるにはふさわしくない者として処刑されねばならないというわけではありません。矯正不能な者であることを示すそうした人びとは,人の住む地を義をもって裁くよう神の任命された者により,何ら不正がなされることなく処刑されるでしょう。それらの人びとの名は命の書には書き記されません。したがって,彼らにとってふさわしいのは,完全な滅びをもたらす「火の湖」で象徴される,ほかならぬ「第二の死」だけです。(啓示 20:14,15)では,「神の良いたより」にいま従順な態度を示し,きたるべき裁きの日のことを考えて,義を愛する態度を培うのは何と賢明で,何と分別のあることなのでしょう。
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一千年にわたる裁きの日の終わりに期待すべき事がら神の千年王国は近づいた
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8章
一千年にわたる裁きの日の終わりに期待すべき事がら
1 サタンが底知れぬ所に入れられる千年の間,地上の住民が義を学ぶといっても,決して途方もないことを期待しているわけではありません。なぜですか。
悪魔サタンが底知れぬ所に閉じ込められる千年の間,地とその住民に対する神からの裁きが世界的に行なわれるでしょう。天の審判者たちは審判を下し,エホバ神の代理を勤めます。地上にいる君としての代表者たちも同様に行ないます。彼らは,エルサレムのヨシャパテ王が民を神に導き返すため国内の至る所に配属させた裁き人のように振る舞います。ヨシャパテはそれら裁き人にこう言いました。『汝らそのなすところを慎め 汝らは人のために裁判するにあらず エホバのために裁判するなり 裁判する時にはエホバ汝らとともにいます 然ば汝らエホバを畏れ 慎みてわざをなせ 我らの神エホバは悪しき事なく人をかたよりみることなく賄賂を取ることなければなり』。(歴代下 19:4-7)そのような天の審判者たちや,そのもとで地上で司法官として仕える君たちがいるのですから,豊かに産物を出す楽園の地の住民がいっしょに千年のあいだ義を学ぶといっても,決して途方もないことを期待しているわけではありません。―イザヤ 26:9。
2,3 (イ)イエスはダビデを通して,どんなベツレヘム人の子孫となりましたか。それで,イザヤは,地上での活動の開始時のイエスをそのベツレヘム人の何になぞらえていますか。(ロ)霊はどんな特質とともに彼の上に留まりますか。彼はどのようにして裁きますか。
2 十世紀にわたるその裁きの日の全期間中,全人類を治める「新しい天」の主要な審判者は,何という資格のある,信頼できる審判者なのでしょう。西暦前8世紀にイザヤが記した,その審判者に関する預言的描写は,暖かさのこもった生き生きとしたものです。その予告された審判者とは,ベツレヘムのエッサイの子であるダビデ王の子孫で,メシアとなった主イエス・キリストです。エホバ神は人間の諸問題を解決させ,また人びとが公正に取り扱われ,地上に義が永遠に確立されるよう取り計らわせるために,それ以上に優れた審判者を供し,任命することができたでしょうか。では,ダビデ王を通してベツレヘム人エッサイの子孫となる,その後代の審判者の特質について,預言者が霊感のもとに述べたことばに十分の注意を払ってください。地上での活動の開始時におけるその子孫のことを,切り倒された樹木の幹から生ずる小さな枝になぞらえて,イザヤは次のように預言しました。
3 「エッサイの切り株から必ず小枝が出,その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に,エホバの霊が必ず留まる。それは知恵と理解との霊,はかりごとと大能の霊,知識とエホバに対する恐れとの霊である。その方は,エホバを恐れることを楽しみとする。彼は単に自分の目に見えるところによって裁かず,単に自分の耳に聞こえる事がらにしたがって叱責したりはしない。彼は義をもって,謙遜な者たちを裁かねばならず,彼は廉潔さをもって,地の柔和な者たちのために叱責を与えねばならない。彼はその口のむちをもって地を打たねばならない。彼はそのくちびるの霊をもって,邪悪な者を殺す。義はその腰の帯となり,忠実はその胴の帯となる」― イザヤ 11:1-5,新。
4 (イ)彼はだれを恐れて人類を裁きますか。(ロ)彼はどのようにして,「エッサイの切り株」から生ずる単なる「小枝」あるいは「若枝」以上のものになりますか。しかし,失望や悩みをもたらすものとはなりません。どうしてですか。
4 この主要な審判者はエホバを恐れることを実際に喜びとし,そうすることに真の楽しみを見いだす方ですから,間違いなく,人のためにではなく,エホバのために裁きを行ないます。ですから,彼は人を恐れずに,神のみを恐れて判決を下します。確かに彼は,生ける唯一真の神エホバに対するそうした健全な恐れゆえに賢明な方であるに違いありません。彼は固く根を降ろした「エッサイの切り株」から生ずる単なる「小枝」もしくは「若枝」のような状態に留まることなく,かえって生けるエホバのみ子,より偉大なダビデとして,天的な王威を呈する頑丈な「大木」のようになりました。(イザヤ 61:3,新。エゼキエル書 17章22-24節と比べてください。)エホバの強力な霊は,王としての偉大な立場に高められたこの方の上に留まって,その責任ある職務を遂行するのに大いに必要な知識や理解力や知恵を授けるのです。したがって,彼は神の右で即位した王として,エホバの誉れとなる方であって,神によって任命された審判者である彼は,地上の住民に失望や悩みをもたらすことはありません。
5 法の厳正な施行を支持し,裁き人としてのソロモンよりなおいっそう勝った者として,彼はえこひいきをせず,物事を正しく弁別できることをどのように示しますか。
5 地上では正義が確立されます。天のその審判者は彼の原型ともいうべきソロモン王よりもさらに優れた識別力を働かせるでしょう。そのソロモン王は,二人の遊女が起こした難しい訴訟の場合のように極めて優れた判決を下しました。問題の遊女はふたりとも,死んだ子供は自分の子ではないと唱え,生きている子供をわが子だと主張しました。その生きている子供のほんとうの母親がだれかを明らかにしたソロモンの特異な方法に関してはこう記されています。「イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって,さばきをするのを見たからである」。(列王上 3:16-28,口語)同様に,より偉大なソロモンは物事の外見や単なる伝聞にしたがって裁くのではなくて,正確な事実が明るみに出され,真実の弁明が行なわれ,その結果,正しい判決が下され,刑が執行されるよう取り計らいます。また,身分の低い者よりも身分の高い者に,あるいはおとなしい者よりも尊大な者に特別に目をかけたりなどはしません。
6 彼は「大患難」のさいに講ずる措置によって,審判者として職務につく千年の期間が義の行なわれる時になることをどのように示しますか。
6 エホバの霊に満ちあふれているこの審判者は,千年にわたって審判者としで仕える時代がどんな時期になる見込みがあるかを示すため,ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」で最高潮に達する,きたるべき「大患難」にさいして,ご自分が身分の低い,おとなしい人たちの解放者であることを自ら示されるでしょう。(マタイ 24:21。啓示 7:14; 16:14,16)彼が天の軍勢に与える命令や指図は,その口から出る「杖」のようになります。というのは,司令官としての彼の言われる事は成就して,不義を宿す『古い地』は粉々に打ち砕かれてしまうからです。そのくちびるはエホバの霊によって動かされ,地上の邪悪な者たちに対するご自分の態度や気持ちを表明します。したがって,そのような者たちは死刑に処されます。高慢で,尊大で,邪悪な者たちは一掃され,この地球はことごとく清められます。もちろん,そうした者たちの,見えない支配者であるサタンは鎖で縛られ,底知れぬ所に入れられてしまいます。
7,8 (イ)人類を益することとして,それはどうして審判者があたかも義の帯を結び,忠実の帯をしめるようなものとなりますか。(ロ)それは人類に変化を生じさせるという点で,どんな影響を人類に及ぼしますか。
7 実際,エホバにより任命された審判者として一千年にわたってその職務につくイエス・キリストに人類が期待できるのは,ほかならぬ義と人類の関心事に対する忠実です。それはあたかも,この天の審判者が義の帯を結ぶ,つまり義によって支えられる,すなわち義のわざに携わるべく帯をしめるようなものです。そうです,あたかも,忠実という特質の帯をつけ,それをしめる,もしくはご自分が神の規準にしたがって裁く人びとの関心事を忠実に預かる証拠として自ら帯をしめるようなものです。その結果,この地には何という平安と静けさがもたらされるのでしょう。その時,人びとの互いに対する態度は何と変わることでしょう。他の人たちに益となる,性格上の何とすばらしい変化が見られるのでしょう。次のように述べたイザヤの預言的なことばは,そのことを実に楽しく描いています。
8 「〔義〕はその腰の帯となり,〔忠実〕はその身の帯となる。おおかみは小羊と共にやどり,ひょうは子やぎと共に伏し,小牛,若じし,肥えたる家畜は共にいて,小さいわらべに導かれ,雌牛と熊とは食い物を共にし,牛の子と熊の子と共に伏し,ししは牛のようにわらを食い,乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ,乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても,そこなうことなく,やぶることがない。水が海をおおっているように,〔エホバ〕を知る知識が地に満ちるからである」― イザヤ 11:5-9,口語〔新〕。
性格の変化
9 神の霊は個人の性格のそうした変化をいつから,まただれの上にもたらしましたか。
9 おおかみ,ひょう,熊,たてがみのある若いライオン,コブラその他の毒蛇になぞらえられる,人間の性格を想像してみてください! そのような性格を持ってはいても,神の王国の音信についに答え応じて,自分たちの性格を変え,子羊や子やぎ,小さな子供や乳飲み子,あるいは乳離れした子供などのようにおとなしくて,穏やかな他の人たちと仲よくやってゆけるようになった人びとは少なくありません。西暦33年のペンテコステの祭りの日に集まったクリスチャン会衆の上にキリストを通して神の聖霊が注がれて以来,神の霊は会衆の成員をキリストに似るよう変化させるべく働いてきまし
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