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「互いの間で平和を保ちなさい」ものみの塔 1977 | 11月15日
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「互いの間で平和を保ちなさい」
「あなたがた自身の中に塩を持ちなさい。そして,互いの間で平和を保ちなさい」― マルコ 9:50。
1 一緒に仕事をするグループのメンバーが互いに平和を保つのはなぜよいことですか。
一緒に仕事をしているグループのメンバーが互いに平和を保つのは,どんな場合でも良いことです。口論,対抗意識,不一致などは,彼らに任された共通の事業を危険にさらす恐れがあります。互いの間でくり広げられる凶器なしの「冷い戦争」は,全員が敗北する結果になりかねません。逆に互いの間に平和があると,仕事がうまくいってみんなが勝利者になり,利益を得,幸せになる,という結果を生むでしょう。
2 「互いの間で平和を保ちなさい」と言ったのはどんな教師でしたか。
2 チーム仲間,社会の成員,夫婦,家族などが,「互いの間で平和を保ちなさい」という言葉に従うなら,益を受けることはまちがいありません。この言葉を口にしたのはだれでしたか。それは,最後に世界平和が訪れることを見通していた,遠い昔のある教師でした。その教師はどこかの学校または大学の教室に閉じこもるようなことをせず,実際に野外に出て人々と交わり,個人的に,また公開の集まりで,人々を教えました。教科書としては,聖なる書物を集めたもの,すなわち彼の母国語であるヘブライ語で書かれた霊感による聖書を用いました。彼の教えは19世紀以上存続して今日に至っており,千を上回る言語に翻訳されています。以上の事実から,この有名な教師が,仏陀でも孔子でもなく,ダビデ王の「子」,族長アブラハムの「子」,イエス・キリストであることは明らかです。
3 互いの間で平和を保つようにイエスから言われたのはだれでしたか。それはなぜ驚くべきことですか。
3 イエス・キリストが,あなたがたの間で平和を保ちなさい,と告げなければならなかった相手はどんな人々だったのでしょうか。驚いたことにそれは選ばれた人々のグループで,旅をしながら教えるイエスに二年以上も同行していた人々でした。イエスはこの12人のグループをご自分の使徒として指名しておられました。「使徒」という語は「遣わされた者」を意味しますから,この指名によって,イエスが彼らを選ばれた目的が示されました。彼らはイエスのように教える者となる人々でした。そしてイエスは,彼らを自国の国境の向こうにまで遣わして,諸国民をご自分の弟子とすることを意図しておられました。イエスのお考えは,ご自分の弟子たちの世界的会衆を組織することでした。使徒たちはその会衆の土台石のようになることになっていたのです。
4 使徒たちは平和に関するイエスの教えをすでによく知っていたのに,なぜまた平和に関するこの助言が与えられたのですか。
4 平和の問題に関するイエスの教えに使徒たちは精通していました。前の年に彼らは,ガリラヤの海にほど近いところで,イエスの有名な山上の垂訓を聞いていました。その中でイエスはある幸福について語られました。その一つは,「平和を求める人たちは幸いです。その人たちは『神の子』と呼ばれるからです」というものでした。(マタイ 5:9)ではなぜイエスは海辺の町カペルナウムで,このえり抜きの弟子たちのグループに,「互いの間で平和を保ちなさい」と言わずにいられない気持ちになられたのでしょうか。(マルコ 9:50)なぜ最も親密な仲間に今さらそのようなことを言われたのでしょうか。この助言を与えざるを得ない何事かが起きていたにちがいありません。共通の目的を果たすのに不利となる何事かが互いの良い関係を損なっていたのにちがいありません。イエスがその鋭い言葉を出された理由を知るには,その時のことが記述されているマルコの福音書第9章に戻る必要があります。そうすれば,使徒たちに対するイエスの言葉が今日のわたしたちにとっても良い助言である理由が分かります。
5 カエサレア・フィリピに近い高い山の上でどんなことが起きましたか。またその後,悪霊につかれたどんなケースが処置されましたか。
5 イエスとその使徒たちは,北部のカエサレア・フィリピのあたり,つまり南流してガリラヤの海に注ぐヨルダン川の上流に近いところにいました。そこではイエスは,アンティレバノン山脈のヘルモン山と思われる高い山の上で,奇跡的な変ぼうを経験されました。その変ぼうは,定めの時にイエスが神の王国において受けることになっていた未来の栄光をかすかに示すものでした。使徒のペテロ,ヤコブ,それにヨハネだけが彼らの師のその変ぼうを見ました。山を下りたときにイエスは悪霊につかれた者にお会いになりました。その者は,イエスがいなかった間,他の九人の使徒がいやせないでいた者でした。その苦しむ少年のために必死になっていた父親の頼みで,イエスは特別にがん強な悪霊を追い出されました。こうして,イエスに対するその父親の信仰は大いに報いられ,強められました。―マルコ 9:14-29。ペテロ第二 1:16-18。
6 カペルナウムに着いた後,使徒たちはイエスの質問にどのように反応しましたか。
6 そのあたりから南に下ってガリラヤを通りカペルナウムの町に行くまでの道のりはおよそ40キロでした。イエスと十二使徒は,イエスが本拠にしておられた都市,そのために「ご自身の都市」と呼ばれるようになっていた都市に向かって,彼らだけで静かに歩いていました。(マタイ 9:1)その海辺の町まで徒歩で行く途中でどんなことが起きたか,マルコの福音書の記述から推測することができます。その内容は次の通りです。「それから彼らはカペルナウムにはいった。さて,家の中におられた時,イエスは彼らにこう質問された。『あなたがたは途中で何を議論していたのですか』。彼らは黙っていた。途中で彼らは,だれのほうが偉いかと,互いに議論したからであった」― マルコ 9:33,34。
7 彼らの議論には当然王国の事柄が関係していましたが,それはなぜですか。
7 道中,使徒たちが彼らの指導者イエスの後ろを歩いていたことは明らかです。それでもイエスは彼らの間に議論が持ち上がったこと,しかも興奮して議論していたことをなんらかの方法で見抜いておられました。その論争が弟子たちの間で解決するようにイエスが心を配られたのは正しいことでした。この問題を取り上げられたときの様子から推すと,イエスは弟子たちの議論の的になっていた事柄をご存じのようでした。マルコ 9章30-32節によると,彼らはイエスが以前自分たちに話しておられたことから,自分たちの指導者にかかわる物事が頂点に達しようとしていることを知っていました。彼らはイエスがメシアであること,将来イスラエルの王となる方であることを信じていました。王国に関するたとえ話をイエスが数多くされたのを聞いていました。また,高い山で変ぼうされる直前にイエスが十二使徒全部に対して,「あなたがたに真実に言いますが,ここに立っている者で,神の王国が力をもってすでに来ているのをまず見るまでは決して死を味わわない者たちがいます」と言われたのを聞いていました。―マルコ 9:1。
8 その事に関連してなぜ使徒たちは互いに自分を他と比べることに夢中になっていましたか。
8 使徒たちはメシア王国が早く樹立されることを望むと同時に,自分たちが指導者と共に働くその王国における自分たちのそれぞれの公の地位について考える理由を有していました。ついでに言えば,政治に関心を持つ人は,自然の傾向として,対立候補もしくは競争相手の候補者たちよりも自分のほうを立派な人物に見せようとします。それと同じく,使徒たちも互いに自分を他と比較するようになりました。議論は,だれがこの地位またはあの地位に最もふさわしいかということだけでなく,だれがメシアご自身に次ぐ最高の地位につく資格があるか,という点をめぐってなされました。
9 イエスの質問にどの使徒も答えなかったのはなぜですか。
9 それは,だれがメシアの真価を最も深く認識しているか,したがって王国においてメシアの最も近くにいることを望んでいるか,ということではなかったのです。だれがメシアに次ぐ最高の位を望んでいるかという問題だったのです。不完全な人間の間でそのような議論が行なわれるとき,そこに入り込むのは利己心以外の何ものでもありません。野心を抱いていた使徒たちが,「あなたがたは途中で何を議論していたのですか」とイエスに聞かれたとき,「黙っていた」のも不思議ではありません。使徒たちは自分たちのしていた議論がどんなおほめにあずかる価値もないことを感じていました。自分たちがこの問題において,利己的で,自己本位で,いかに自負心が強いかを示していたことを感じていました。それで彼らのうちイエスの問いに答えた者はひとりもいませんでした。
10 その問題の取り上げ方によってイエスは何を明らかにされましたか。またどんな支配的原則を述べられましたか。
10 しかしイエスはだれの告白も必要とされませんでした。使徒たちの意味深長な沈黙は,彼らがきまりの悪い思いをしていること,恥ずかしく思っていることを示していました。しかし,人々が何を考えているかをある程度理解し得たイエスは,彼らの議論の根拠,問題になっている点が何かを見抜いておられました。イエスがそれに気づいておられたことは,その問題の処置の仕方に示されていました。「そこでイエスは腰を下ろし,十二人を呼んでこう言われた。『第一でありたいと思うなら,その人はみんなの最後となり,すべての者に対して奉仕者とならねばなりません』」。(マルコ 9:35)この言葉によってイエスは,ご自分の王国における,地位に関係した問題を支配する原則がどんなものであるかを明らかにされたのです。
11 したがって,イエスの王国でイエスに加わる人々は,どんな点で,この世の王国の政治家とは異なっていなければなりませんでしたか。
11 イエスの王国はこの世の王国とは異なったものになります。この世の王国では政治家は利己的な野心に動かされます。また,目指す地位につくと他の人々に奉仕するよりも奉仕させる傾向があります。この種の行為は,尊大な気持ち,謙そんさの欠如を無意識に表わすものです。イエスご自身はそのような気質を示されませんでした。イエスの王国でイエスに加わることになっていた弟子たちは,イエスと同じ精神態度を示さねばなりませんでした。そういう理由から後に使徒となったパウロは,将来天の王国の相続者となる見込みのある人々に手紙を書き,次のように述べたのです。「キリスト・イエスにあったこの精神態度をあなたがたのうちにも保ちなさい。彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなど考えませんでした。いえむしろ,自分を無にして奴隷の形を取り,人のようなさまになりました。それだけでなく,人のすがたでいた時,彼は自分を低くし,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になられました」― フィリピ 2:5-8。
12 イエスはご自分が使徒たちに述べられた支配的原則をどのように実例によって示されましたか。
12 イエスにとっては,これは『みんなの最後となり,すべての者に対して奉仕者となる』ことではありませんでしたか。人間の側の謙そんさの模範としてこれ以上立派な模範がありうるでしょうか。しかしイエスは,そういう低い立場を取り地上での命を犠牲にすることになる奉仕の務めを行なうことによって,全創造物の中の第一の地位を報いとして与えられたのです。神のみ子はこうして高められて,創造者ご自身に次ぐ者となられました。そのことは,イエスが天の父,至高の神と同等になるよう強い取ることなど全くお考えにならなかったことと一致します。イエスがそれをされなかったのは,一つには,それが成就しがたいものであることをわきまえているだけの良識を持っておられたからです。―詩 148:13。
13 イエスの支配的原則によると,会衆内で最も貴重な成員になるのはどんな人ですか。なぜですか。
13 このようにイエスは,ご自分が使徒たちに示した原則に対してご自分を例外とするようなことはされませんでした。天の王国でご自分に加わる者たちが見倣えるように,身をもって完全な範を垂れたのです。事実,イエスの王国の地的臣民となる人々もすべて,イエスの謙そんさと有用さを見倣わねばなりません。では真の価値と重要さについて言えば,会衆内で第一位を占めるのはだれでしょうか。それは,どんな種類の奉仕でも引き受けて行なうほどに謙そんな人,また他のすべての人に仕えることに努める人ではないでしょうか。だれにせよもし利己的な気持ちで第一になろうと思うなら,その人は会衆内のすべての人に対するあらゆる種類の奉仕を行なうために身を低くするようなことはしないでしょう。すべての人に,最も目立たない仕事をしてでも進んで仕えるためには,自分を会衆内で「みんなの最後」にある者とみなさねばならないでしょう。しかしそれによってその人の本質的な価値が下がるわけではありません。例外なしにすべての人に奉仕するので,その人は最も貴重な成員になります。
14 なぜそういう有用な人はみんなの中で事実上「第一」ですか。
14 ですから,その謙そんで有用な人がやむをえず欠席するようなことがあると,非常に寂しく,その人の奉仕のないことが感じられるでしょう。有用さを尺度にして評価するなら,その人は地位の上では第一でないにしても,実際にはすべての人の中で「第一」の人でしょう。もしわたしたちが神の目にそのように評価されるとすれば,そのことのほうが,この世の高位の人々の間で自分がどう評価されるかということよりもはるかに重要です。
キリストの名によって他の人を迎える
15 イエスは,人が他の人を迎えることにつき,幼い子供を例えに用いてどのように話されましたか。
15 外見がどんなに劣っているように見えても,そういうことにかかわりなく他の人々に思いやりを示すということは,互いに仲良くやっていく上で重要な役割を果たします。この点を強調するためにイエスは例えを示されました。イエスがそれをどのように示されたかは,マルコ 9章36,37節に次のように記述されています。「そしてひとりの幼子を連れて来て彼らのまん中に立たせ,両腕をその子にかけて,彼らにこう言われた。『だれでも,わたしの名によってこのような幼子ひとりを迎える者はわたしを迎えるのです。そして,だれでもわたしを迎える者は,わたしだけでなく,わたしを遣わしたかたをも迎えるのです』」。
16 イエスはナザレのご自分の家の中でも,子供への愛をどのように表わされましたか。
16 イエスが幼い子供たちを愛しておられたことを示すケースが幾つか記録に残っています。イエスはご自身の地上の家族の長男でしたから,ガリラヤのナザレで,年下の異父弟(ヤコブ,ヨセフ,シモン,ユダ)や二人かそれ以上の異父妹の世話をするのに,多くのことをしなければならなかったに違いありません。(マタイ 13:53-56)イエスは,その兄弟たちが不完全であり欠点を抱えているからといって彼らを軽べつするようなことはされませんでした。また,家族を養う手助けをせずに兄弟たちをつまずかせるようなこともされず,腕のたつ大工として勤勉に働かれました。(マルコ 6:3)イエスは子供たちの無邪気な性質と,成人した人々にある子供のような特質の評価の仕方を学ばれ,子供をうまく用いて例えを話されました。
17 自分が近づきやすい者であるかどうかの問題に関連して,子供のような人々に関しどんな質問が生じますか。
17 仕事に没頭しているときには子供にわずらわされたくないかもしれません。自負心の強い人,あるいは自分の責任ある地位の重みと威厳を感じている人は,あどけない子供たち,または子供のようなおとなたちに注意を向けるのは,自分のような偉い者のすることではない,と考えるかもしれません。しかし,もし子供のような人がクリスチャンであるなら,あるいはクリスチャンになりたいと思っている総明な人であるなら,どうでしょうか。すでにキリストの弟子であるわたしたちは,自分をその人たちが近づきやすい状態にするでしょうか。またその人たちの必要によく気を配るでしょうか。
18 そのように迎える人はなぜイエスをも迎えることになりますか。
18 もし子供のような人たちを助けようとしないなら,わたしたちは大きな特権と祝福を失うことでしょう。イエスの使徒たちのような円熟したクリスチャンたちが,新しくバプテスマを受けたクリスチャン,つまりひゆ的に言ってイエスが腕に抱いて例えにお使いになった幼い子供のような人たちを迎えようとしないなら,彼らはイエスご自身を迎えていないことになります。なぜそうなりますか。なぜならイエスは,だれでも「このような幼子ひとり」を迎える者はイエスをも迎えるのである,その人は「[イエス]の名によって」そうするからである,と言われたからです。これは次のことを意味します。つまりイエスはそれをあたかもご自分がメシアすなわちキリストとして迎えられたかのようにみなされるということです。その逆もまた真です。
19 子供のような人をそのように迎えることは,だれとの関係に影響しますか。なぜですか。
19 人を謙そんにする仕事を,「[イエス]の名によって」,つまりイエスの名を重んじて行なうなら,それによってその仕事はより容易に,より気持ちよく行なえるようになります。その行為の動機は高潔です。さらに,その行為はわたしたちとイエス・キリストとの関係のみならず,イエスの天の父との関係ともかかわりを持ちます。そのことは,イエスがつけ加えられた次の言葉に示されています。「だれでもわたしを迎える[すなわち「このような幼子ひとり」を迎えることによって]者は,わたしだけでなく,わたしを遣わしたかたをも迎えるのです」。(マルコ 9:37)メシアとなるべくイエスを地に遣わしたのは,イエスご自身の天の父エホバ神でした。イエス・キリストとその天の父を引き離して考えることはできません。おふたりは目的において,また活動において一つですから,密接な関係にあります。したがって,人がみ子に対して行なうことをエホバ神は自分に対しても行なわれたこととして受け取られます。そういう待遇をご自分が受けたかのごとくに受け入れることを,そういう待遇をした人を祝福することによって示されます。
20 この原則は,わたしたちが仲間のクリスチャンを扱う際にどのように当てはまりますか。王国にあずかるためにはどんな性質が必要ですか。
20 これはわたしたちが仲間のクリスチャンを扱う際に覚えておかねばならない重要な原則です。聖書を理解する点で,あるいは会衆の成員という点で,いわば「みどりご」のような人々を扱う場合には取りわけ重要です。使徒ペテロは,霊感によって第一の手紙を書いたとき,それを受け取る人々に次のように述べました。「生まれたばかりの幼児のように,みことばに属する,何も混ぜ物のない乳を慕う気持ちを培い,それによって成長して救いに至るようにしなさい。ただしこれは,主が親切なかたであることを味わい知っているならばです」。(ペテロ第一 2:2,3)わたしたちはこの「生まれたばかりの幼児」のような人々と「みことば」を分かち合うことができます。それは彼らが成長して救いに至り,円熟したクリスチャンとしてその立場を保持するようになるためです。したがって,自分が近づきやすい者であることを示し,「[キリストの]名によってこのような幼子ひとりを」進んで迎える人は,自分自身が子供のようであることを示すのです。彼らがそういう者であることは,どの部分であろうと王国にあずかるのには必要です。―マタイ 18:2-4。ルカ 18:16。
21 思いや態度が謙そんであること,対抗意識や競争がないことは,会衆にどんな益がありますか。
21 人間の実の家族におけるように,会衆の成員が思いや態度において幼子のように謙そんであれば,互いの関係は穏やかさを帯びてきます。自己中心的な対抗意識や,激烈な競争のないところには,神経を和らげ落ち着かせるふんいきが生まれます。もしわたしたちが,ごく目立たない仕事を行なってでも奉仕する気持ちまた用意があるなら,わたしたちはその通りに他の人々の必要に,また他の人々を元気づけるために,仕えることができます。それは全会衆を築き上げかつ強めて,良い仕事を積極的に行なう方向に動かします。
22 「互いの間で平和を保つ」ようにさせる強力な要素は何ですか。
22 こうして,最も若い人だけでなく,非常なはにかみ屋の人,あるいは聖書の真理を学ぶ点で,またクリスチャンとしての経験を積む面で遅れている人々も大目に見られ,「[キリストの]名によって」会衆の胸に温かく抱擁されます。そのような環境の会衆には,主なる神エホバの霊が満ち渡ります。それは会衆の成員が『互いの間で平和を保つ』のを助ける強力な要素です。結果として兄弟の一致が生まれます。
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「あなたがた自身の中に塩を持ちなさい」ものみの塔 1977 | 11月15日
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「あなたがた自身の中に塩を持ちなさい」
1 わたしたちは自分の「ことば」を何で味つけすべきですか。なぜですか。
有機的に働く,植物中に含まれている種類の塩は,人体の健康に非常に重要なものです。神の崇拝者の組織体の健康にとっても欠くことのできない重要な塩があります。このことと一致しているのは,一世紀のクリスチャン会衆の霊的健康の主要な管理者の一人,すなわち使徒パウロの助言です。彼は直接にはまだ知り合っていなかったある会衆に書き送った手紙の中で,次のように述べています。「あなたがたの発することばを常に慈しみのあるもの,塩で味つけられたものとし,ひとりひとりにどのように答えるべきかがわかるようにしなさい」― コロサイ 4:6。
2 「ある人」がイエスの名を使って悪霊を追い出すのをとどめようとした使徒たちについて,どんな疑問が生じますか。
2 そこでわたしたちは考えます。使徒ヨハネがその師イエス・キリストの注意を引いたときに人々の言ったことは,どれほどその「塩」で味つけられていただろうかと。このことについては次のように書かれています。「師よ,わたしたちは,ある人があなたの名を使って悪霊たちを追い出しているのを見ましたので,それをとどめようとしました。彼はわたしたちといっしょに従って来ないからです」― マルコ 9:38。
3,4 (イ)ヨハネはその時何を期待していたようですか。なぜですか。(ロ)ヨハネの説明にはどんな利己的な要素が見られましたか。それはその問題に対するヨハネの見方について何を暗示していますか。
3 この言葉は,ヨハネが,彼らにクリスチャンの道を教えていた師からおほめの言葉を,よくやったと肩でもたたかれることを,期待していたかのように聞こえます。北部のカエサレア・フィリピに近い所で,イエスが,悪霊につかれた特別にがん強なケースをどのようにいやされたかを,ヨハネは考えていたかもしれません。無力な犠牲者から汚れた霊,すなわち悪霊を追い出す権限を他の者に授けるイエスの権利を守っているのだ,と感じていたのかもしれません。ヨハネの考えでは,イエスから権限を与えられていない者が,悪霊を追い払うのにイエスの強力な名を使う権利はありませんでした。しかし,ヨハネが述べた,名前の挙げられていないある人が悪霊を追い払うのをとどめようとした理由には,幾分利己的なところが見られました。「彼はわたしたちといっしょに従って来ないから」,わたしたちはとどめる行動に出たのだ,とヨハネは言いました。
4 「わたしたち」と言ったことは,ヨハネがイエスだけでなく十二使徒全員を念頭に置いていたことを物語っています。以前イエスは,王国の良いたよりを宣べ伝えさせるために,また悪霊につかれた人々を解き放つことをも含めていやしを行なわせるために,この十二使徒をお遣わしになったことがありました。(マタイ 10:1-8。マルコ 6:7-13)そのためにヨハネは,使徒たちだけが肩書を持つ治療者のチームとみなしていました。
5 憤慨している熱心な使徒たちを導くために,イエスはその「ある人」についてなんと言われましたか。
5 したがって,ヨハネとその仲間の使徒たちのように推論すれば,その「ある人」には,悪霊を追い出す際彼らの師の名を使う権利がどこにあるでしょうか。それをするその男は明らかにイエスとイエスの使徒たちの権利を侵害していました。しかしながら,イエスは問題をそのように見ておられたでしょうか。聖書の記録の示すところによると,イエスは,憤慨した熱心な使徒たちをよしとする言葉をひとことも口にされませんでした。マルコ 9章39-41節にはさらに次のように記されています。「しかしイエスは言われた,『彼をとどめようとしてはなりません。わたしの名によって強力な業を行ないながら,すぐさまわたしをののしることのできる者はいないからです。わたしたちに敵していない者はわたしたちに味方しているのです。あなたがたがキリストのものであるという理由であなたがたに一杯の飲み水を与える者がだれであっても,あなたがたに真実に言いますが,その者は決して自分の報いを失いません』」。
6 悪霊を追い出すのにイエスの名を使うことによって,その「ある人」はその名に関して何を行なっていましたか。
6 なぜこの「ある人」はイエスの名を使って悪鬼を追い出す業を阻止されねばならなかったのでしょうか。そうすることによってその人はイエスの名を罵倒しようとしていましたか。メシアの名に泥を塗り,それを卑しいもののようにみせかけ,それに関連して悪いことを連想させていましたか。ユダヤ人の祭司長スケワの七人の息子はのちほど,悪霊払いの呪文,魔術的力を持つ名前としてイエスの名を用いましたが,その人はイエスの名をそのようには用いていませんでした。(使徒 19:13-16)悪霊はその「ある人」に対して,『わたしはイエスを知っている。だが,おまえはだれなのだ』と言って,自分がとりついている人の中に居座わろうとはしませんでした。その「ある人」はイエスの名を本当に信じていて,悪霊たちを追い払うことに成功しました。その行ないによって彼は,イエスの名の力を証明し,イエスの名を実際に賛美していました。
7 その「ある人」はイエスと使徒たちに従ってはいませんでしたが,それでも彼らの味方でした。それはなぜですか。
7 したがって,イエスとその使徒たちに同行していなかったこの「ある人」は,彼らに敵して彼らの証しの業から人々の注意をそらさせようとしていたのではありません。論理上,その人は彼らに同行していなかったとはいえ,彼らに敵してはいなかったので,彼らの味方であったに違いありません。その人がイエスの名前を高めほめる奇跡を行ない,次の瞬間にはイエスの悪口を言うことはまず考えられませんでした。強力な奇跡によってイエスの名に誉れと敬意をもたらし,その後,その名の所有者と使徒たちの悪口をひそかに言うと考えるのは矛盾しており,道理に合いません。したがって使徒たちはそれ以上その人のすることを阻止する行動に出ることはできません。
8 どの原則に基づいてこの「ある人」は報いを受けますか。
8 名前を挙げられていないその人は,自分が行なっていたことへの報いを得ずに終わることはないでしょう。明らかに彼はイエス・キリストの弟子になる見込みがありました。報いに値するとイエスが言われたこと,すなわち渇いている人に,イエスの弟子という理由で一杯の水を与えることと比べて優るとも劣らないことを,その人は行なっていたのです。一杯の水を与えるという行為は,人を楽にするほんのちょっとした行為のように思えるかもしれませんが,イエス・キリストにとっては多くのことを意味するある事柄を示すものでした。つまり,一杯の水を与える者は,メシアとしてのイエスに好意を持ち,キリストの目的を支持するために,自分の能力の許す程度のものを与えたのです。イエスが後ほど定められた原則はこの場合に当てはまります。「これらわたしの兄弟のうち最も小さな者のひとりにしたのは,それだけわたしに対してしたのです」。(マタイ 25:40)王としてのイエス・キリストはこれに報いずにはおかれないでしょう。
意識的に人をつまずかせて死に至らせる
9 イエスの使徒たちの干渉がその「ある人」に与えた影響について,わたしたちの気にかかるのは何ですか。なぜですか。
9 使徒たちが,例の「ある人」にイエスの名を使って悪霊を追い出すことをこれ以上させないようにしようとしたとき,その人に対して彼らが言ったことは,優しさのこもった,塩で味つけられた,気持ちよく聞けるものだったでしょうか。わたしたちにはそれを疑う理由があります。気がかりなのは,「ある人」が,使徒たちの師によって非とされていない立派な業を行なっていたとき,使徒たちが言ったことや示した態度につまずいたかどうかということです。これは実際に重大な問題です。というのは,イエスはつづけてこう言われたからです。「しかし,信ずるこれら小さな者のひとりをつまずかせる者がだれであっても,その者は,ろばの回すような臼石を首にかけられて海に投げ込まれてしまったとすれば,そのほうがよいのです」― マルコ 9:42。
10 そのような「小さな者」のひとりを意識的につまずかせることは何に相当しますか。なぜですか。
10 つまずいて倒れる人は「小さな者」であるかもしれません。しかし小さいからといって,つまずかせる人にとりその重大さが減少するわけではありません。なぜでしょうか。それは「信ずるこれら小さな者」が関係しているからです。これはその人がイエスを神のメシアなるみ子と信じていたことを示しています。「小さな者」のその信仰はその人に永遠の命への道を歩ませます。ですから,もしだれかが意識的に,計画的に,思いやりのない態度で,永遠の命への道を歩んでいるそのような「小さな者」を当然の理由で立腹させ,命の道を踏みはずさせて滅びに至らせるとするなら,それは人を殺すも同然の行為です。つまずかされる人に対して愛がないことを示すものです。
11 意識せずに他の人をつまずかせることは,意識的に人をつまずかせることと,どんな点で異なりますか。
11 ヨハネ第一 3章15節には次のように記されています。「すべて自分の兄弟を憎む者は人殺しです。そして,人殺しはだれも自分のうちに永遠の命をとどめていないことをあなたがたは知っています」。わたしたちは無意識のうちに,気づかないで,人の感情を害し,しかもかなりひどく害してしまい,それが原因でキリスト教の信仰から脱落するという取り返しのつかない結果にならないよう願う場合があるかもしれません。人の感情を傷つけたことが分かったなら,しかるべき注意を払って事態を正します。しかし,もし無関心で,仲間の信者の霊的福祉を意に介せず,各人には良心の権利というものがあってその権利を存分に利用することは自由なのだ,と論ずるなら,その人は利己的で,他の人の永遠の命,またその人と神との関係を考えない,愛のない行ないをしていることになります。キリストはその信者のために死なれたのに,その信者の価値を過小評価しています。―ローマ 14:15。
12 人を意識的につまずかせ倒れさせる人への憤りをイエスはどのように表わされましたか。
12 もしクリスチャンと称する者が,「信ずるこれらの小さな者のひとり」をつまずかせることをかまわず,その人の永遠の命を安く評価していることを示すならどうなりますか。そういう場合,イエス・キリストは,意識的に人を倒れさせる者の命を大切にお考えになりません。イエスは,人を意識的につまずかせる者に対する憤りを表明されました。どのように? もし人の感情を害するそのような言語道断なむとんちゃくな者が,浮き上がらないように大きな臼石をつけられて深い海に沈められるなら,そのほうが他の人のためにはよいことまた安全なことだろう,とイエスは言われました。
13 つまずかせることについて,わたしたちは特にどんなことに注意すべきですか。
13 ですから他の人々を,たとえどんなに目立たない人であっても,つまずかせ倒れさせないように努めるのは,自分にとって益となるのです。また,クリスチャンであるという主張ゆえにわたしたちがより多くのことを期待する人に自分がつまずかないようにするのも良いことです。しかしわたしたちは,自分自身をつまずかせないように用心するほど,自分のとこしえの命の見込みを高く評価しているでしょうか。自分自身をつまずかせる? そのとおりです。どのように?
14 イエスがつけ加えられた注意によると,わたしたちはどのように自分をつまずかせ倒れさせる恐れがありますか。
14 「信ずるこれら小さな者のひとり」をつまずかせることについて語られた後,イエスはさらにこう警告されました。「そして,もしあなたの手があなたをつまずかせることがあるなら,それを切り捨てなさい。あなたにとっては,不具の身で命に入るほうが,二つの手をつけてゲヘナに,すなわち消すことのできない火の中に行くよりはよいのです。また,もしあなたの足があなたをつまずかせるなら,それを切り捨てなさい。あなたにとっては,足なえの身で命に入るほうが,二つの足をつけてゲヘナに投げ込まれるよりはよいのです。また,もしあなたの目があなたをつまずかせるなら,それを投げ捨てなさい。あなたにとっては,片目で神の王国に入るほうが,二つの目をつけてゲヘナに投げ込まれるよりはよいのです。そこでは,うじは死なず,火は消されないのです。」― マルコ 9:43,45,47-49。
15 イエスが言われたゲヘナとは何ですか。イエスはそれを何の象徴として用いられましたか。
15 上記のような場合には,火で滅ぼされることをイエスは指摘されました。イエスの時代に,イエスの言われたゲヘナすなわちヒンノムの谷は,エルサレムの南から南西にかけて横たわっていました。イエスの言葉は,このゲヘナが都市の塵芥焼却場に使われていたこと,また復活の希望を伴う栄誉ある葬式をしてもらうだけの価値のない者と考えられた犯罪者がそこに投げ込まれた事実を確証します。もししかばねが火中に落ちずに,ゲヘナの火で温かくなっている斜面か岩だなの上に落ちたなら,それは腐敗し,うじに食い尽くされたことでしょう。都市のごみ捨て場に投棄される物を完全に焼却するために,火は昼夜の別なく絶えず燃やされていました。それでゲヘナは,イエスがユダヤ人の書士とパリサイ人に,「へびよ,まむしらの子孫よ,どうしてあなたがたはゲヘナの裁きを逃れられるでしょうか」と言われたように,永遠の滅びの象徴となりました。―マタイ 23:33。
16 ゲヘナに投げ込まれた人はなぜ命にも,神の王国にも入ることがないのですか。
16 ゲヘナの刑を宣告された人々は,神の王国に入りません。天でキリストと共に統治するのでもなく,キリストの千年統治中,王国の地的領域に入るのでもありません。ゲヘナの刑を神から宣告される人は,五体そろっていても,命に入ることは全くないのです。したがってゲヘナは,無存在,滅び,神の不利の裁きによる破滅を表わします。イエスの時代の偽善的な書士やパリサイ人がつまずいてゲヘナに落ちたように,献身しバプテスマを受けている今日のクリスチャンも,つまずいてゲヘナつまり永遠の滅びを神から宣告される可能性がないとは言えません。ユダ・イスカリオテのことを思い出してみましょう。
17 ユダ・イスカリオテはどのように自分をつまずかせて盗みを行なうに至りましたか。
17 このケリヨトのユダは,イエスとその十二使徒の会計をあずかっていました。そのうちに彼は金箱に入れられるものを欲しく思うようになり,箱の中に手を入れてその欲深い目が見たものを勝手に取り出し,着服しました。目と手につまずかされるままになってユダは盗みを働くに至り,エホバが遣わされたメシアのものを盗むことまでしたのです。イエスの死の五日前,(エルサレムに近い)ベタニヤでイエスのために宴会が催されたとき,ユダは人々に施すことに賛成しているような,偽善的な言葉を口にしました。そのことについては次のように記されています。「だが,彼がそう言ったのは,貧しい者たちを気にかけていたためではなく,彼が盗人であり,金箱を持っていたが,そこに入れられる金を常々くすねていたからであった」― ヨハネ 12:6。
18 最後にユダは,自分の肢体につまずかされるままに何を,そしてどのように行ないましたか。
18 最後にはユダは,さらに金を得ようとして,その足で祭司長および神殿の指揮官たちに会いに行き,銀貨30枚で自分の師であるイエスを売り渡す約束をしました。(ルカ 22:1-6)次いでユダの足は,裏切り者の報酬をその欲深い手に握るために,武装した男の一隊を導き,過ぎ越しの夜ゲッセマネの園でイエスを逮捕させました。(ルカ 22:47,48。マルコ 14:10,11,43-46。マタイ 26:14-16,47-50; 27:3-5)ユダはその裏切り行為をした後,自分の手の中にある30枚の銀貨に欲深い目を注ぎながらしばらくは満足していました。ユダにはもはや,彼の目と手と足が一緒になってしでかした事柄を元に戻すすべはありません。彼はそれらの肢体が自分をつまずかせるままに,許されない罪を犯したのです。(マタイ 27:4)絶望の果て,ユダは自ら命を絶ちました。腸が出てしまった彼のしかばねは,エルサレムの実際のゲヘナに投げ込まれなかったかもしれませんが,彼の「魂」はゲヘナが象徴するものの中で滅ぼされました。(使徒 1:16-19。マタイ 10:28)イエスは十分の理由があってユダのことを「滅びの子」と言われていたのです。―ヨハネ 17:12。
19 イエスはどんな意味で,「だれもみな火をもって塩づけされねばならない」と言われましたか。
19 イエスは,弟子がその手や足や目につまずかされるままにゲヘナに落ち込むことについての話を終えるとき,「だれもみな火をもって塩づけされねばならないからです」と言われました。(マルコ 9:49)言い換えれば,肢体が自分をつまずかせるにまかせて取りかえしのつかない罪を犯す者はみな「火をもって塩づけ」されねばならない,ということです。そういう人が塩づけされるのに用いられるその火というのは,イエスがその前に話しておられた火,すなわちゲヘナの火のことです。このように塩づけされる当人にとってこれは何を意味するのでしょうか。それは人が塩で塩づけされる場合に受ける影響とは異なります。それはその人の滅びを意味するでしょう。古代の都市ソドムとゴモラに,死(または塩の)海の近辺の天から火が降りそそいだ,すなわちそれらの都市が「塩づけされた」とき,それらの都市は滅びました。(ルカ 17:28,29)つまずき倒れたことを自分以外のだれのせいにすることもできない人々を扱う際のこの原則を,エホバは,犯すべからざる「塩の契約」に対する場合と同様に固守されます。―レビ 2:13。民数 18:19。歴代下 13:5。
20 「火でもって塩づけ」されないように自分を守るには,罪を犯す手,足,また目をどのように取り除くべきですか。
20 「火で塩づけ」されないようにするには,罪を犯す手または足をどのように切り捨て,罪を犯す目をどのように捨てればよいのでしょうか。文字通りにこれを行なったところで,実際の手,足,または目を通して現われた間違った衝動が正されるわけでも,取り除かれるわけでもありません。それを取り除く処置は,ひゆ的な方法で実行されねばなりません。使徒パウロはイエスの助言に従う方法を示し,次のように述べました。「ですから,淫行,汚れ,性欲,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,地上にあるあなたがたの肢体を死んだものとしなさい。こうした事柄のゆえに,神の憤りは臨もうとしているのです」― コロサイ 3:5,6。
21 どのようにしてこの『死んだものとする』過程を実行しますか。
21 そのように『死んだものとする』には,地上にある実際の肢体に関して本当に自制心を働かさねばなりません。例えば,ポルノ文学を読んだり,不潔な内容の映画やテレビ番組を見たりしないように自分の目を抑制しなければなりません。あるいは盗みとか不道徳な行ないをすることに自分の手を用いないように,また劣情をかき立てるダンスをすることを促す,あるいは『この世の友』につき合って誘惑の多い場所に行くことを促す足を喜ばせないようにしなければなりません。「世にあるもの」,すなわち「肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと」への愛着を霊的に断ち切らねばなりません。―ヨハネ第一 2:15-17。箴 6:16-19。
わたしたちが内に持つべき「塩」
22,23 (イ)最後にイエスは,どんな塩づけに言及されましたか。(ロ)イエスは使徒たちに,どんな塩を彼らの中に持つように言われましたか。なぜ彼らにそれを言われましたか。
22 イエスは塩に関連した話を,不親切な仕方で終えられたのではありません。(マルコ 9:33-49)つづけて次のように言われました。「塩はよいものです。しかし,もし塩がその効きめをなくす[すなわち塩辛さがなくなる]ことがあるなら,あなたがたは何をもってそれに味をつけるのですか。あなたがた自身の中に塩を持ちなさい。そして,互いの間で平和を保ちなさい」― マルコ 9:50および脚注。
23 実際の塩は調味料として普通よいものです。「味のない物は塩がなくて食べられようか。すべりひゆのしるは味があろうか」とヨブ(6:6,口)は尋ねます。塩は確かに食用となる物を口に合うようにします。しかし,イエスの時代に普通に用いられていた品質の塩は,もしその塩辛い効きめをなくしたなら,それから混じり物を除くことができなかったので,料理用や食用には向かないものになりました。人間がその塩自体に味をつけなおして食用に供することもできませんでした。イエスが塩を例えに使われたのは適切でした。イエスは十二使徒に,「あなたがた自身の中に塩を持ちなさい」と言われました。それにしても,なぜ彼らにそれを言われたのでしょうか。それは,彼らがカペルナウムに帰る途中で議論をし,彼らの中にこの立派なひゆ的塩がないことを露呈したからでした。
24 そのひゆ的な塩は何ですか。
24 その種の塩は,他の人を扱う際に品位ある振舞いをさせる,人の持つ性格の特質を表わします。その塩は,人が言うことを,いわば聞く人の口によく合うもの,飲み込みやすいもの,消化しやすいものにします。ですからこれがあると人は,そばにいて気持ちのよい人,望ましい人になります。―箴 16:21,23。
25 本物の塩を一緒に食べることさえ,どんな有益な結果を生みますか。
25 主人と客の場合のように,一緒に塩を食べるとき,それを食べる人の間には親しみ,すなわち良い関係が生まれます。塩は雇い人に支払う賃金として用いられたことさえありました。(エズラ 4:14)ひゆ的塩を自分の性格の特色として持っているのは良いこと,また重要なことです。使徒パウロはその点を強調して次のように書きました。「外部の人びとに対しつねに知恵をもって歩み,自分のために,よい時を買い取りなさい。あなたがたの発することばを常に慈しみのあるもの,塩で味つけられたものとし,ひとりひとりにどのように答えるべきかがわかるようになりなさい」。(コロサイ 4:5,6)箴言 15章1節にも注目してください。
26 わしたち自身の中にひゆ的な塩を持つことは,イエスが使徒たちにお与えになったどんな最後の諭しを守るのに助けになりますか。そしてイエスの弟子としてのわたしたち自身にどんな結果が及びますか。
26 自分の中に塩を持ち,それで自分の言葉を味つけるなら,イエスが十二使徒との話を終えるときに言われたことをするのに,つまり『互いの間で平和を保つ』のに役立ちます。(マルコ 9:50)わたしたちが如才なく振舞い,思いやりを持ち,健全で,人の心をいやすような物の言い方をするなら,キリストの弟子としての互いの平和な関係が促進されることは間違いありません。わたしたちの中に神の霊があることはそれによって明らかになります。「霊の実は,愛,喜び,平和」だからです。(ガラテア 5:22)また,「上からの知恵はまず第一に貞潔であり,ついで,平和を求め」ます。(ヤコブ 3:17)したがって,平和に関するイエスの諭しに従うときには高度の知恵が示されます。それは競争の激しい,分裂した,崩壊しつつあるこの世界のただ中にあって,キリストの真の弟子であることを示すしるしです。それはキリストの支配下に組織された神の民としてわたしたちを団結させるのです。
[700ページの図版]
『自分の中に塩を持つ』とは,他の人に対して品位ある振舞いをさせる特性を持つことを意味する
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あなたの信仰は生きた信仰ですかものみの塔 1977 | 11月15日
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あなたの信仰は生きた信仰ですか
信仰という敬虔な特質は,極めて望ましいものです。(ヨハネ 3:16。コリント第二 5:7。ヘブライ 10:38)とはいえ,信仰には単に信じることだけでなく,それ以上の事柄が含まれています。聖書の筆者であるヤコブは「ああむなしい人よ,あなたは,業を別にした信仰が無活動であることを知りたいと思いますか」と尋ね,次いで,「実に,霊のない体が死んだものであるように,業のない信仰も死んだものなのです」と述べています。(ヤコブ 2:20,26)クリスチャンの信仰は発展しないものであってはならず,地を美しく飾る植物のように,生き続け,成長し続けなければなりません。―テサロニケ第二 1:3。
神が古代イスラエル人にカナンの地を与えると約束された時に,イスラエル人の取った態度から,この点に関する貴重な教訓を得られます。神は,超人的な支援をイスラエル国民に与えると保証し,次のように言われました。
「わたしは使をあなたの前につかわし,あなたを道で守らせ,わたしが備えた所に導かせるであろう。あなたはその前に慎み,その言葉に聞き従い,彼にそむいてはならない。わたしの名が彼のうちにあるゆえに,彼はあなたがたのとがをゆるさないであろう。しかし,もしあなたが彼の声によく聞き従い,すべてわたしが語ることを行うならば,わたしはあなたの敵を敵とし,あなたのあだをあだとするであろう」― 出エジプト 23:20-22,口。
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