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『平和に役だつ事がらを追い求めなさい』ものみの塔 1973 | 9月1日
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遂行されます。こうして,組織は前進し,エホバのわざを成し遂げてゆきます。
6,7 (イ)エホバの組織内の平和に関してはどんなことを正しく評価できますか。(ロ)ペテロやヨハネが訓戒しているように,成員は各自平和を守ることに対してどんな責任を負っていますか。
6 エホバの証人の組織に宿る平和は理論ではなくて現実であり,それは神の意志が遂行されている結果であり,神の聖霊の実なのです。それは他からの援助を受けない人間の努力によって生み出されたというよりはむしろ,神からもたらされたものです。そうであるとはいえ,次のように問う人がいるかもしれません。組織内の各人は組織の平和にどのように個人的に貢献しているのだろうか。
7 人が単にエホバの平和な組織にはいったからといって自動的に個人的な平和がもたらされるわけではありません。各自自分の分を果たさなければなりません。使徒ペテロが言明したとおりです。「命を愛して良い日を見たいと思う者は,舌を制して悪を口にせず,くちびるを制して欺きを語らぬようにし,悪から遠ざかって善を行ない,平和を求めてこれを追い求めよ」。(ペテロ前 3:10,11,新)霊感のもとにしるされたペテロのことばによれば,エホバの組織の平和を享受するには,その平和は個人的レベルで実際に役だつ現実の平和でなければならないことがわかります。それは単なる組織上の一般的特質であってはなりません。使徒ヨハネもまた,この点を強調して述べました。「子どもらよ,ことばや舌によらず,行ないと真実とをもって愛そうではありませんか」。(ヨハネ第一 3:18,新)ことばだけでは不十分です。行ないと真実とが必要なのです。
8 どんな質問を考慮すれば,日常生活の中でわたしたちが平和を守っているかどうかがわかりますか。
8 会衆内の他の人たちとの関係において,わたしたちは平和に役だつ事がらを追い求めていますか。そうしているかどうかは次のように自問してみればわかります。わたしの行動あるいは舌の用い方は,対人関係を緊張させたり,何らかの争いを招いたりしているだろうか。あるいは,わたしは恨みをいだいているだろうか。わたしの家族の事情についてはどうであろうか。不自然な緊張感があるだろうか。家族の者は言い争ったり,あら捜しをしたりしているだろうか。厳しいところがあるだろうか。わたしたちはすべて,時おりこうした面では弱点を持っているものです。しかし,わたしたちの決意は平和を維持する決意であるべきです。確かにわたしたちはみな,こうした事がらに沿って改善を図ることができます。
9 使徒パウロと弟子ヤコブは平和に関するどんな事実にわたしたちの注意を向けさせていますか。
9 エホバの組織には平和な関係が保たれているゆえに,その組織の中にいる人はすべて,平和のためにたゆまず働かなければなりません。使徒パウロが率直な命令の形で述べたとおりです。「それですから,平和に役だつ事がらや互いを築き上げる事がらを追い求めましょう」。(ロマ 14:19,新)平和をあたりまえの事がらとみなすことはできません。それは,神に献身的に仕える人びとによって行使される神の知恵を示す証拠です。弟子ヤコブはそのことを次のように明らかに述べました。「上からの知恵はまず第一に貞潔であり,ついで,平和を求め……そのうえ,義の実は,平和を作り出している人たちのために,平和な状態のもとに種をまかれます」。(ヤコブ 3:17,18,新)ここでもやはり,個人的レベルに焦点があてられています。
互いに平和を作り出す機会
10,11 (イ)穏やかさを保つ能力はどのような場合に試みられますか。(ロ)生活上の普通の問題は,平和を作り出すよう努力する機会をどのように提供するものとなりますか。
10 真に平穏な状態とは,物事が思いどおりに運ぶ,あるいは自分の感情もしくは好みに合致するさいの単なる気持ちのよい状態以上のものです。そのような状態のもとでは,わたしたちの平和は試みられません。しかし,わたしたちはある種の圧力を受けた場合,何をしますか。その時こそ平和を追い求めますか。緊張した場合,平静さを保ちますか。
11 会衆内外の個人の間の普通の関係は,互いに平和を作り出すよう努力する多くの機会を提供するものとなります。自分と同様に不完全な他の人びとと絶えず接触していると,時には平和を破る圧力の生ずる場合があります。そうした挑戦は,わたしたちがほんとうに平和を求めているかどうかを試すものとなります。たとえば,今日,口論を引き起こす事がらは数多くありますが,それらはたいてい何ら取るに足りない,つまらない事がらです。口論の起こりそうな状態に自分が巻き込まれそうになっていることに気づいた場合,口論を避けるために何を行ないますか。もし自分の感情を制御し,そうした日常のちょっとした圧力のもとでも首尾よく平和を保つなら,重大な圧力を受けた場合でも平和を維持する土台を実際に据えていることになります。イエス・キリストは言われました。「ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実で(す)」。(ルカ 16:10,新)小さい事がらでいつも人と争うようでは,平和に対する重大な脅威に対処できるものではありません。
12 平和をそこなうおそれのある事情のいくつかを挙げなさい。
12 家族や会衆内の平和をそこなうおそれのある事情にはどのようなものがありますか。王国会館の建造中,おそらく建築工事のある細かい点に関してきびしいことばのやり取りが生じたかもしれません。親がわが子の子どもじみた特徴をあざけるような態度で他の人びとに話し,それとは知らずに子どもにきまりの悪い思いをさせると,時として子どもは憤慨します。時には妻が夫の個人的な欠点について人前でちょっとした冗談を言って,うっかり夫に恥しい思いをさせる場合があります。夫が子どもたちを監督しなかったり,いざという時に妻を助けようとしなかったりすると,まさしく緊張がつのります。
13 どのように自問するのは良いことですか。
13 こうした事情のどれかが,あるいは同類の他の事情があなたの場合にあてはまりますか。平和を得るために,あなたは何を行なっていますか。平和がそこなわれる場合,あなたはいつも他の人の落ち度のことを考えますか。平和を取り戻し,それを保つよう相手が最初に処置を講ずるのを待ちますか。日常生活のちょっとした圧力を克服すれば,結局,エホバの組織内で平和に生活し,楽しく働けるようになれます。
14,15 (イ)どうすれば平和を首尾よく追求できますか。(ロ)平和を追求することに関して使徒ヨハネはどんな原則を規定しましたか。自分の兄弟と平和な関係を保つことの重要性をイエスはどのように強調しておられますか。
14 平和は神の知恵からもたらされるものであることを忘れないでください。ということは,神の原則に従って生活し,義を実践することを意味しています。であってみれば,単に都合のよい時に形式的に情け深く接するよう努める,つまり多少かけ引きをして問題を避けるのは,キリスト教に則った真の平和などと言えるものでないことは明らかです。そうではなくて,エホバが与える平和は,それよりもはるかに深い何ものかを反映します。
15 その原則はヨハネ第一書 4章20,21(新)に次のように強調されています。「『わたしは神を愛する』と言いながら自分の兄弟を憎んでいるなら,その者は偽り者です。自分がすでに見ている兄弟を愛さない者は,見たことのない神を愛することはできないからです。そして,神を愛する者は自分の兄弟をも愛しているべきであるという,このおきてをわたしは彼から受けているのです」。ここに述べられている主要な原則は,神との平和を保っていたいなら,わたしたちは互いに平和な関係を保たねばならないということです。イエスは山上の垂訓の中でこの点を明らかにして,こう言われました。「それで,供え物を祭壇に持って来て,兄弟が自分に対して何か反感をいだいていることをそこで思い出したなら,あなたの供え物をそこ,祭壇の前に残しておいて,出かけて行きなさい。まず自分の兄弟と和ぼくし,それから,戻って来たときに,あなたの供え物をささげなさい」。(マタイ 5:23,24)言いかえれば,わたしたちの行なうエホバへの崇拝が受け入れられるかどうかは,自分の兄弟と平和な関係にあるかどうかというこの点にかかっているのです。
16 (イ)平和の追求はなぜ必ずしも容易ではありませんか。(ロ)イエスはご自分が和解者であることをどのように証明されましたか。例を挙げなさい。
16 しかしながら,平和の追求は必ずしも容易ではありません。事実,時には非常にやっかいな事がらとなる場合があります。多くの場合,だれがまず最初に,そしてどのように行動するかが問題です。イエスは言われました。「それで,供え物を祭壇に持って来て,兄弟が自分に対して何か反感をいだいていることを思い出したなら」,和解のための最初の処置をあなたが講ずべきです。パウロはこの点を詳しく述べてこう言いました。「ですが,わたしたち強い者は,強くない者の弱いところを担うべきであり,自分を喜ばせていてはなりません。わたしたちはおのおの,築き上げるのに良い事がらによって隣人を喜ばせましょう。キリストでさえ自分を喜ばせることはされませんでした」。(ロマ 15:1-3,新)ですから,霊的に強い人が率先すべきです。ペテロが自分自身の弱さを示してキリストを否んだとき,平和のその破綻した箇所をふさぐ最初の処置を講じたのはだれでしたか。キリストでした。しかも,彼は何と優しくそうしたのでしょう。(ヨハネ 21:15-17)トマスが疑ったとき,トマスに現われ,その信仰を取り戻させることによって,自分自身をではなくトマスを喜ばせたのはキリストでした。信仰を取り戻したトマスは,キリストとの平和な関係に再び引き入れられました。(ヨハネ 20:24-29)キリストはわたしたちすべてに何とりっぱな模範を残したのでしょう。それは愛を実践することにほかならなかったのです。―ルカ 22:24-27。
17 他の人との関係を改善し,平和を作り出す点でどれほどたゆまず努力すべきでしょうか。
17 自分の兄弟との平和な関係を確立するよう,どれほどたゆまず努力すべきですか。パウロはこう答えます。「できるなら,あなたがたに関するかぎり,すべての人に対して平和を求めなさい」。(ロマ 12:18,新)彼はまたこう言いました。「りっぱなことを行なう点であきらめないようにしましょう。うみ疲れてしまわないなら,しかるべき時節に刈り取ることになるからです」。(ガラテヤ 6:9,10,新)しかし,もし兄弟がわたしたちの愛を受け入れず,平和を作り出そうとするわたしたちの良心的な努力を受け入れようとしないなら,その責任は相手が負わなければなりません。
わたしたちの動機づけとなるエホバとの平和
18 他の人との平和な関係を築くための土台とは何ですか。
18 エホバとの平和な関係を得たいとの願いこそ,わたしたちが互いの間に平和な関係を築こうとする動機づけであるべきです。エホバとの平和な関係という土台を得て,それに基づいて努力するのでないかぎり,わたしたちの努力で何が成し遂げられますか。何も成し遂げられません。それでもし,他の人たちと仲良くしてゆくのがむずかしいなら,いつもこの人あるいはあの人について不平をこぼしてばかりいるなら,またつまらない衝突や,気がねから生ずる障害で生活が妨げられるのであれば,解決を図るよう最初に努力すべき所は,エホバとわたしたちとの関係です。わたしたちの目の中には気にさわる垂木があって,わたしたちの兄弟の目の中にはわらがあるのかもしれません。―マタイ 7:1-5,新。
19 わたしたちすべては何を銘記すべきですか。使徒はこの点をどのように強調していますか。
19 わたしたちすべては,不完全性の影響を受けた独自の個性を持っています。しかし,種々の相違や特殊性があるにもかかわらず,わたしたちはエホバとその義を愛するようになりました。そして,それが重要な事がらなのです。パウロは書きました。「だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなくゆるし合いなさい。エホバが惜しみなくゆるしてくださったように,あなたがたもそのようにしなさい。また,キリストの平和があなたがたの心の中を制御するようにしなさい。実際あなたがたは,一つの体としてそれに召されたのです」。(コロサイ 3:13,15,新)ここでパウロは,不満の理由となるものがあることを認めています。しかし,一般の人びととは異なり,わたしたちは神と和解したのです。神は惜しみなくわたしたちを許してくださいました。わたしたちはエホバから正しい良心を得ましたし,献身してバプテスマを受けたので,平和な歩みを開始しました。もし,義の神がそのように喜んで許し,また忘れることができるのであれば,わたしたちはなおのこと互いに対してそうすべきではないでしょうか。
20 兄弟たちとの平和な関係を持つための主要な事がらとは何ですか。
20 主要な事がらは,わたしたちがキリストを通して享受するエホバとの平和です。その平和は自分の性向や感情を制御するものとなり,わたしたちもまた許したり忘れたりすることができるようになります。そうなれば,わたしたちは,まちがいをしたと考えられる兄弟に対してよそよそしい気持ちを生じさせる,心に食い込む記憶を胸にいだくことはないでしょう。もし,神との平和をそこなわないように守るなら,わたしたちは憤慨させられるままにすることはありません。また,同じ仕方で仕返しをしたり,自分自身と兄弟の間に思考上の障壁を黙って築いたりすることもありません。
謙虚になって,他の人びとの動機を裁かないようにしなさい
21 平和に役だつ事がらを追い求めるさい,謙虚さはなぜ非常に重要ですか。
21 普通,小さな事がらで不和が生じ,手に負えない問題となるのです。一例として,ある問題の取り扱い方に関する自分の考えのほうが仲間のそれよりもすぐれていると思うあまり,その点を証明しようとして激こうしたというようなことがありますか。どうして平和をおびやかすほどに自分の好みを強く主張するのでしょうか。聖書の述べるところによれば,わたしたちは必要以上に自分自身を重視してはならず,「むしろ……健全な思いをいだけるような考え方を」すべきです。(ロマ 12:3,新)もしわたしたちがエホバのわざをし遂げようと努力しているのであれば,特定の仕事をするにはふさわしい方法が普通いく通りかあるものだということを忘れてはなりません。神権的な仕事を成し遂げられるかどうかは,取り決めの効果の度合よりも,働く人びとの穏やかな精神にかかっています。
22 わたしたちは他の人の動機をどのように誤って裁く場合がありますか。それはなぜ危険ですか。
22 また,単に,自分が考えているような仕方で人が答え応じてくれないからといって,人の動機の正しさをとかく疑う場合があるかもしれません。たとえば,王国会館で,自分では先方があいさつをすべきだと考えていたのに,先方のだれかがそうしなかったかもしれません。こちらからはあいさつをしましたが,先方はひとことも口をききませんでした。では,そのことをあれこれ考えはじめ,少し気分を害し,気持ちの上でしり込みしはじめ,先方は反感をいだいているのかもしれない,あるいは自分のことを好きでないのかもしれないなどと考えますか。気がねに感ずる一種の障壁や,よそよそしい気持ちが生ずるのを許しますか。もし自分自身の動機に注意しないと,ほとんどそれとは気づかないうちに黙って自分で判断を下し,仲間の兄弟のクリスチャンとしての信仰に関する自分の見方に疑いをさしはさむ傾向があります。そうするなら,仲間の兄弟の動機を疑わしいものとして裁いていることになります。確かにあなたの兄弟の行動は不完全です。しかし,あなたは欠点の多い自分の行動によって自分の動機を裁いてもらいたいと思いますか。ですから,明らかに次の点に注意すべきです。自分の兄弟の欠点を捜すよりはむしろ,相手の行動を弁護するように努めるべきです。このようにして,とがめだてをする精神をつのらせないようにしてください。―マタイ 7:1,2。
命に関するエホバの見方を保って平和を追い求めなさい
23 平和を追い求めるさい,ヘブル書 13章17節の助言に留意するのはなぜ重要なことですか。
23 平和を追い求めるさい,ヘブル書 13章17節の助言に留意して,会衆内の長老たちに対して従順でなければならず,彼らに服従しなければなりません。わたしたちはある長老を何年もの間知っており,その長老の不完全さやちょっとした風変わりな点などをすべて見てきたかもしれません。しかし,そうした欠点のすべてにもかかわらずエホバは彼を長老の職につけることをよしとされたのです。では,わたしたちはエホバの判断に異議を唱えるのですか。とがめだてをする精神をいだいて,組織をひそかに害そうとしますか。力を合わせて一生懸命働き,エホバがそうした取り決めを設けてくださったことを喜ぶほうがずっとすぐれているのではありませんか。
24 コリント後書 13章11節の述べることを今行なうのはなぜ急を要しますか。
24 新秩序では,争いのために平和がそこなわれることは許されません。であれば,どうして今そのようなことをすべきでしょう。コリント後書 13章11節(新)は何と述べていますか。「兄弟たち,引き続き[今]喜び,[今]再調整を加えられ,[今]慰めを受け,[今]同じ考えを持ち,[今]平和に生活してゆきなさい。そうすれば,愛と平和の神があなたがたとともにいてくださるでしょう」。この良い助言に今従うなら,わたしたちの行なう崇拝は純粋なものとなり,神のみ前に受け入れられるものとなるでしょう。
25 エホバのどんな見方は,兄弟たちとの平和な関係を保つ上で助けとなりますか。
25 命に関するエホバの見方を保つのを助けるため,エペソ書 4章32節(新)はこう述べています。「互いに親切にし,優しい同情心を示し,神がキリストによって惜しみなくゆるしてくださったように,あなたがたも互いに惜しみなくゆるし合いなさい」。エホバが愛を示された兄弟に対して,どうして恨みをいだけるでしょうか。ある緊張した事情が生じた場合,問題には二つの立場があること,また自分の何らかの不完全さも緊張を助長していることを思い起こしてください。綱をぴんと張っておくには,両端で引っ張らねばならないのです。あなたの兄弟も,あなたと全く同様に命を欲しています。彼があなたのささえを必要としているように,あなたも彼にささえてもらう必要があるのです。
26 わたしたちの神との,またわたしたち相互の間の平和な関係を得るには,どんな点を銘記し,適用すべきでしょうか。
26 ささいな事で緊張した関係が生じているように思われるなら,重要な問題を思い起こしてください。次のように自問してみてください。『わたしたちはどうしてエホバの奉仕者になったのだろうか。わたしたちはどこに向かっているのだろうか。わたしたちの人生の目的は何だろう』。こうした非常に重要な事がらをいつも自分自身の前に置いてください。エホバはご自分の民を愛しておられ,そのすべてはエホバにとって貴重な人間であることを知ってください。あなたが自分の歩む道を容易なものにしてもらいたいと思うように,あなたの兄弟の歩む道をも容易なものにしてください。永遠の命の賞を得るには,命の源であるエホバとの平和な関係を得なければなりません。しかし,その平和な関係は,あなたが自分の兄弟との平和な関係を得て初めて保証されるものなのです。ですから,エホバの栄光と自分自身の永遠のしあわせのために,あらゆる事がらにおいて平和を追い求めてください。
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神の裁きが行なわれているこの時代に神の会衆の清さを保つものみの塔 1973 | 9月1日
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神の裁きが行なわれているこの時代に神の会衆の清さを保つ
「あなたがたは,少しのパン種が固まり全体を発酵させることを知らないのですか」― コリント前 5:6,新。
1 クリスチャンはなぜ清さについて真剣に考えますか。
身体的また道徳的清さはともに人体の益のために寄与します。このことによく注意すれば,健康な生活を促進できます。人体について言えることはまた,今日地上のあらゆる場所に見いだされる,キリスト・イエスの正真正銘の弟子たちで成る,からだのような会衆についても言えます。エホバ神は ― ご自分のみ名の誉れと,ご自分を愛する人たちすべての永続する益とのために ― ご自身のしもべたちで成るそのからだにそうした健全な清さを要求しておられます。―コリント後 6:17。イザヤ 52:11。マラキ 3:2,3。
2,3 ゆえに,使徒の助言と調和して,クリスチャンの牧者もしくは監督は,どんな義務を必ず果たさねばなりませんか。
2 1,900年前,仲間のクリスチャンに手紙を書き送った使徒パウロはこう勧告しました。「すべての人に対して平和を追い求めなさい。また,神聖なものとされることを追い求めなさい。それなくしてはだれも主を見ることはありません。注意深く見守って……有毒な根が発生して問題を起こし,それによって多くの者が汚されることのないように,そして,淫行の者,またエサウのように神聖な物事の価値を認識しない者が出ることのないようにしなさい。彼は一度の食事と引き換えに初子としての自分の権利を渡しました」― ヘブル 12:14-16,新。
3 それで,すべての人との平和を追い求める一方,神の羊の群れの牧者たちは,好ましくない分子が潜入したり,不意に現われたりする事態から羊の群れを守らなければなりません。牧者たちは,「少しのパン種が固まり全体を発酵させる」ことを現実の事がらとして認識しなければなりません。―コリント前 5:6,新。使行 20:28。
麻薬常用の問題に立ち向かう
4,5 (イ)最近,どんな問題が取り上げられ,祈りのうちに考慮されてきましたか。(ロ)そうした麻薬対策計画の援助を受けている人たちと,別のタイプの薬物投与を受けている人とを比べた場合,どんな大きな違いが見られますか。
4 今日,多くの土地では麻薬の常用は疫病のような問題となっています。確かにそうした習慣を,神の清い会衆に持ち込む余地はありません。a しかし,ヘロインのようなより危険な麻薬のかわりに,(メタドーンとして知られる薬剤のような)ある製品を限度を定めて投与する,政府の後援によるある種の計画の援助を受けている人についてはどうですか。政府の設けたそのような計画の援助を受けている人は,自分は何ら『不法な』ことはしていない,麻薬の常用に伴う独特の幻覚症状も経験していない,自分は『社会の労働成員』としての働きを営むことができると言うかもしれません。もし,そのような人たちがエホバの証人の世界的な規模の会衆の,バプテスマを受けた成員として認めてもらうよう努力する場合はどうですか。そのような人がバプテスマを受けるのを認めるべきでしょうか。
5 これまでにこうした問題が取り上げられ,祈りのうちに考慮されてきました。聖書の見地からすれば,そうした計画の援助を受けている人は聖書的にいって有資格者でないことは明らかです。そのような人は当然,今なお麻薬常用者と考えられるからです。もちろん,薬物治療において,つまり物理的あるいは器質性の疾患の治療に麻薬類を正しく用いる方法はあります。しかし当然のこととして,たとえばメタドーンなどの投薬を受けている人を,インシュリンを必要とする器質性疾患をわずらっている糖尿病患者や慢性関節炎の患者,あるいは苦痛を和らげるために薬物治療を受けているガンの末期の患者と比較できるものではありません。糖尿病や関節炎あるいはガンなどの患者の場合,「強い」麻薬の常用を『断つ』さいの不快な,ひどい苦しみをさえもたらす経験を避けるためにそれらの薬物投与を受けているわけではありません。また,精神的また感情的均衡を保つための『ささえ』として薬物を用いているわけでもありません。一方,医師は患者の苦痛を一時的に和らげたり,危険な時期に眠りを催させたりするために,あるいは外科手術を受ける用意をさせるために鎮静剤を処方するにしても,それは麻薬を常用してそのとりこになるのとは話が違います。
6,7 そうした計画はおそらく『合法的な』ものであるにしても,どんな重大な弱点がありますか。このことから,どんな質問が提起されますか。
6 政府の麻薬対策計画の援助を受けて,メタドーンなどの製品を用いるのは「合法的」ではあっても,このことは問題の決定的な要素ではありません。中には,麻薬常用者が政府の診療所で『合法的に』ヘロインを入手できる国があるかもしれませんが,だからといって,そうした行為は聖書的に正しい行為とはなりません。
7 概してそうした計画では,ある麻薬の代わりに,ヘロインのような麻薬よりは害が少ないと見られる別の麻薬が用いられるにすぎません。ところが今では,メタドーンが他の『違法な』麻薬同様路上で麻薬常用者に売られていることを新聞は報じています。人びとは麻薬を『断つ』さいの激痛を克服して麻薬中毒から解放された生活を始めるよりもむしろ,自分たちの問題に対ち向かってそれを克服するのを避ける,もしくはあとに延ばそうとしています。そのために次のような問題が提起されます。そのような人がバプテスマを受けたところで,いったいどれほどの意味があるのだろうか。それは何を意味するのだろうか。
8 麻薬常用者が麻薬を「断つ」のを渋る態度と,神のみ子の弟子になるのに必要な聖書の要求とを対比させなさい。
8 キリスト・イエスは,だれでもその弟子になりたいと思う者は『自分の苦しみの杭を取り上げて』キリストに従い,キリストのために自分の命をさえ喜んで捨てなければならないと言われました。(ルカ 9:23,24,新。ヨハネ 12:25)バプテスマを受けた人はだれでも,心の中でそうした決定をすでに下しているべきです。もし,喜んで「苦しみの杭」を負い,杭に突き刺されるに至るまで喜んでイエスに従うのであれば,麻薬の常用を「断つ」さいの苦痛を喜んで耐えるわけにはゆかないなどと言えるでしょうか。(ロマ書 6章6節,ガラテヤ書 5章24節,コロサイ書 3章5節と比べてください。)実際のところ,麻薬を「断つ」さいにもたらされる苦しみは,悪い習慣のもたらす当然の結果,つまり『まかれたものを刈り取ること』なのです。―ガラテヤ 6:7,新。
9 (イ)そうした麻薬対策計画の援助を受けながら,バプテスマを受けたいと願う人たちに関しては,どんな質問を尋ねてみるのはもっともなことですか。(ロ)この点で神のみ子はわたしたちのためにどんな模範を残しましたか。
9 では,そのような人は以前の生き方をどれほど完全に『悔い改めて転じた』のでしょうか。(マタイ 3:8。使行 26:20,新)もし,引き続き麻薬中毒にとりこになっているとしたら,はたしてその人は神の奴隷として心や魂,思いや力をこめて自らを神にほんとうにささげることができるでしょうか。(マルコ 12:29,30,新)そうした計画の援助を受けている人は,ピリピ書 4章6,7節(新)が述べるような,神のみことばに対する信仰をほんとうに持っているでしょうか。その句によれば,もし信仰をいだいて神に求めるなら,神の平和が『わたしたちの心と知力を守る』という約束があるのです。その人は神の霊の力を信用しますか。それとも,その力に関しては疑いを表わし,自分の心や知力を守り,自分自身を制する力を失わないようにするための何らかの代用麻薬に頼りますか。その人は神の霊の実である「自制」をどこで示しているのでしょうか。(ガラテヤ 5:22,23,新)イエスは杭に突き刺されていたとき,「もつ薬を混ぜ込んだぶどう酒」を飲もうとはされませんでした。それは明らかに,死をもってご自分の忠誠を最終的に確証するにさいして,ご自分の感覚をことごとく保っておくよう決意しておられたからです。(マルコ 15:23,新世界訳,アメリカ訳)こうしてイエスは,そのような重大な試練にさいして最後まで人間を助けてくださる神の力に頼る模範を残されました。
10,11 バプテスマを受けたいと願っている人たちに対して,それらの人がもし麻薬常用癖に陥っているなら,まずそれを克服することを期待するのはなぜ理にかなっていますか。そうしないうちにそのような人をバプテスマ希望者として受け入れるのは,真の親切ではありません。なぜですか。
10 ヘロインその他の「強い」麻薬の常用を克服するには非常な困難を経験すること,あるいは麻薬の常用を首尾よく克服できるのはごく少数の人たちだけであることは否定できません。しかしながら,麻薬の常用を克服した人びとがいるという事実は,それが克服できるものであることをまさしく示しています。世の人びとが麻薬の常用を克服できたという事実を考えると,神のみ子の真の弟子になりたいと願う人たちもやはりそうすることができるに違いないと信ずる,いっそうの理由が得られます。ある種の麻薬の代わりにメタドーンのような別の麻薬のとりこになるよりもむしろ,挑戦を真っ向から受けて立ち,麻薬にとらわれたそうした状態を克服するための神の助けに頼るべきでしょう。
11 そうしないうちにそれらの人がバプテスマを受けるのを認めるとすれば,それは問題に立ち向かう努力をあとまわしにするのを単に許すにすぎません。それは彼らにとっても真の助けとはなりません。というのは,やがてはその問題に直面し,確固とした立場を取らなければならないからです。政府の設けたそうした計画を利用できなくなる時期がほどなくしてやって来るかもしれないのです。もし,麻薬常用者を会衆の成員として認め,今受け入れるなら,そのような人たちは将来いつの日かに危険もしくは重大な非難をもたらす現実の問題源になりはしないでしょうか。そうなる以前でさえ,そのような人を会衆に正式に受け入れたために,麻薬の使用に対する仲間のクリスチャンの兄弟たちの抵抗力を弱めることになりはしませんか。個人に好意を示したいために会衆全体の益をないがしろにすることはできません。―ガラテヤ 5:9; 6:10。
たばこの常用に関する一貫した立場
12-14 たばこをのむ習慣を他の麻薬の常用と比べることができますか。このことからどんな問題が前面に出されますか。
12 しかしこのことから,依然たばこを使用している人がバプテスマを受けるのを許すべきかどうかに関する一貫した立場が問題になってきます。そのような人たちもまた,吸煙したり,かんだり,かいだりしたりするかどうかにはかかわらず,有害な製品のとりこになっています。1973年4月9日号,サイエンス・ワールド誌の報告を考慮してみてください。
13 「常用癖をもたらす……いわゆるその麻薬はニコチンである。……紙巻たばこを『吸った』後1,2分間,ニコチンは脳にとどまっているが,『最後に一口吸った』後,2,30分たつと,ニコチンの大半は脳を去って他の器官に移ってしまう。……丁度そのころ,喫煙者は紙巻たばこをもう1本必要とする。……ニコチンが切れると,からだはそれを『渇望する』のである。渇望するあまり,時にはニコチンがなくなると,からだは『病気』になる場合がある。禁断症状 ― 一種の病的な気分に襲われる状態 ― が始まる。……そうした症状のいくつかは,眠け,頭痛,胃の不調,発汗,心臓の不規則な鼓動などである」。
14 世の諸政府さえ,たばこの使用の危険性に対する重大な警告を発するよう動かされてきました。では,たばこの常用癖を直していない人に,バプテスマを受ける資格があるでしょうか。
15 聖書では特にたばこのことは言及されてはいないにしても,聖書の原則はこの問題に対する答えをどのように与えていますか。
15 聖書に基づく証拠は,そのような人には資格がないという結論を示しています。当誌の他の号ですでに説明されたとおり,聖書の筆者たちが用いて,のちに「心霊術の行ない」とか「心霊術的な行ない」と訳されているギリシア語,ファーマキアにはもともと「麻薬の使用」という意味があります。(ガラテヤ 5:20; 黙示 9:21,新)この語は,麻薬の使用と心霊術との間の密接な関係ゆえに,心霊術的習慣をさすようになりました。たばこはまた,もともとそのような仕方でアメリカ・インデアンによって使用されました。ですから,たばこを,ギリシア語ファーマキアの語源を供するものになったのと同様の,惑溺性のある麻薬の部類に入れるのは,もっともなことと言えます。たばこのニコチンは,ヘロインや,LSDのようないわゆる幻覚剤などの「強い」麻薬が引き起こすのと同じ精神的また感情的影響はもたらしませんが,それでもニコチン中毒は確かに知力に影響し,人をとりこにする強い作用を及ぼします。第二次世界大戦の終わりごろ,ヨーロッパでは紙巻たばこがお金以上の価値を持ったことがありました。売春婦は数本の紙巻たばこのために身を売り,普通の人びとは食糧の配給券をさえ犠牲にしてたばこを求めたと伝えられています。
16 (イ)こうした惑溺性を生む習慣をやめるべきどんな強力な理由がありますか。(ロ)創世記 1章29節はたばこの使用者にとって言い訳の材料となりますか。
16 たばこがからだに悪影響を及ぼすことは周知のとおりですし,それがものを汚す作用を持っていることは一目でわかります。もしたばこを乱用し,その中毒にかかって自分のからだを汚すなら,創造者から命を与えられたことに対して敬意を払うことにはなりません。医学の権威者は,たばこを使用する妊娠した婦人はそうでない人の場合よりも流産を起す危険性がはるかに大きいとして警告していますが,これもまた,生命の尊厳さに対するゆゆしい不敬を示す事例です。たばこの常用者は,神がたばこの木を創造したのであり,たばこは神が「食物」として人類に与えた「草」の一部であると論じて,自分たちの立場を聖書的に弁護することはできません。(創世 1:29,口語)たばこの使用者は,たばこの緑の葉をサラダにして食べたり,あるいはほうれん草のように料理したりして「食物」としてたばこを用いるわけではありません。そうではなくて,たばこの葉を保存し,乾燥した褐色の葉を使用し,吸煙したり,かんだり(汁は飲み込まない),あるいはかいだりして肉体的感覚を充足させるのです。しかも,からだや知力を現に害しながらそうするのです。
17-19 (イ)たばこを常用している人は,もしバプテスマを受けたいと考えているのであれば,どんな鋭い質問を考慮すべきですか。(ロ)同様の事がらは,麻薬に類する他のどんなものの常用者にもあてはまりますか。
17 政府後援による麻薬対策計画の援助を受けている人びとに関して提出されたのと同様の質問を,バプテスマを受けたいと申し出るたばこの常用者に関しても同じように提起できるでしょう。彼らはほんとうに『悔い改めて転じ』ましたか。それとも,聖書の原則に反していることを彼ら自身知っている習慣に依然としてしがみついていますか。(ロマ 6:19。テサロニケ前 4:7; 5:22)コリント後書 7章1節(新)で使徒はこう言っています。「それゆえ,わたしたちにはこうした約束があるのですから,愛する者たちよ,肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め,神への恐れのうちに神聖さを完成しようではありませんか」。たばこの常用者はこのことばを心に留めているでしょうか。神の新秩序で生活する人たちはたばこを常用することはありませんし,たんつぼや灰皿を必要とすることもありませんし,また他の人びとの吸う空気をたばこの煙で汚染したりしないことを,確かにすべての人が認めることでしょう。
18 それでは,今たばこの中毒にかかっている人たちは,その清い新秩序に対する自分たちの信仰と,その新秩序に宿る義に対する自分たちの愛の証拠として,たばこの使用をやめるべきではありませんか。神が裁きを執行する時に,「汚点もきずもない」者として神に見いだしてもらいたいと思うなら,そのような人は,きたるべき「大患難」を通過する経験が何とか変化をもたらして,ニコチン中毒から自分たちを癒してくれるのではなかろうかなどと期待するよりはむしろ,今確固とした立場を取るべきではないでしょうか。(ペテロ後 3:11-14,新)近づく「大患難」のために市販のたばこが入手できなくなってから,周囲の事情に迫られてたばこの常用癖を直すのは,神を喜ばせたいと願う気持ちから今そうするよりも決して容易なことではないでしょう。
19 たばこについていえることは,ある地方におけるビンロージュの実やコカの葉などの習慣性の生じやすい有害な製品の使用についても,同じことが言えます。(それら後者の製品は,明らかに知力を鈍くする作用のあるコカインを含んでいます。)b
断固とした処置を今講ずる必要がある
20,21 こうした点を考えて,エホバの証人は今どんな断固とした立場を取っていますか。こうした立場を取るのは,惑溺性のある製品を常用する人にとってさえ益となります。なぜですか。
20 何十年にもわたってエホバの証人の出版物は,たばこなどの惑溺性のあるこうした製品の使用について警告してきました。エホバの証人の会衆と交わっている人たちはほとんどすべての場合,そうした習慣がまちがっていることを認めています。それで,関心のある新しい人たちは確固とした立場を取るべきであって,ニコチンあるいは他の有害な惑溺性のある物質に依然としてとらわれていながら,バプテスマを受けて会衆に迎え入れてもらいたいとか,王国会館の演壇で資料を用いて話をするのに加えてもらいたいとかと求めて,問題をあとまわしにすべきではありません。c 新秩序が非常に近づいている今,惑溺性のあるそうした有害な習慣をいさぎよくやめようとしない人には,バプテスマを受けてエホバのクリスチャン会衆の成員として認めてもらう資格はないとする立場を取るのは,確かに神のみことばと調和しています。
21 実際,そのような人を会衆に受け入れるなら,それは当人の良心をなだめることになり,その人にとってはあだとなりかねません。そのような人を受け入れずに拒むなら,当人が断固とした処置を講じ,神の新秩序における生活に自ら備える必要を真剣に考えるよう助けることになり,祝福となりうるのです。そうした挑戦に立ち向かうことによって,人は倫理的勝利を得ますし,その勝利は真の強さと,神の力および神が快く助けてくださるということに対する確信とをもたらすのです。
22-24 (イ)バプテスマを受けた人が,依然そうしたものを常用しているとすれば,そのような人は今何をすべきでしょうか。そうすることをそのような人に期待するのはどうして理にかなっていますか。(ロ)バプテスマを受けていながら,そのようなものの常用をやめようとしない人に対して会衆はどんな方策を取るべきですか。
22 では,以前バプテスマを受けていながら,たばこのような惑溺性のある製品またはその他の麻薬などを依然として使用している人,あるいは「メタドーン計画」などのある種の治療を受けたり,そうした習慣をなお続けたりしている人たちについてはどうですか。そうした人びとに対しては,その種の常用癖をやめるための,6か月くらいの適当な期間を今与えることができるでしょう。それらの人はそうした習慣をやめることによって,エホバ神の献身したしもべたちの清い会衆内に留まっていたいとの誠実な願いを示せます。
23 神のみ子の真の弟子となるために,「強い」麻薬の常用癖を断つ,非常に苦しい経験に耐えられるのであれば,たばこあるいは同様の製品の常用者が,自分たちの常用癖を断つさいの,もっと軽い苦しみを経験するわけにはゆかないとして反対する,もっともな理由はないはずです。そうした苦しみを経験するのを拒む人は,それよりもずっと困難な挑戦に直面しながら,「強い」麻薬を使用する習慣を克服しようと努力している人にとって,確かに非常にみじめな手本になることでしょう。
24 すでにバプテスマを受けた人が,人をとりこにする有害な製品の常用をいさぎよくやめようとしない場合はどうですか。そうなれば,そのような人はエサウのように『神聖な物事の価値を認識して』はおらず,エホバの清い民のひとりとなる特権よりも,そうした習慣のほうを好んでいることを示しています。ですから,その種の人はクリスチャンにふさわしからぬそうした行ないのゆえに会衆から除かれるべきです。―コリント前 5:7。ヘブル 12:15,16,新。
25 有害な常用癖を今やめる人は,バプテスマを受け直す必要がありますか。
25 たばこ,あるいはその他の有害な製品の常用をやめる人は,バプテスマを受け直す必要がありますか。いいえ,必ずしもそうする必要はないようです。責任をもたらし,良心を教育するのは知識です。(テモテ前 1:13)彼らは自分たちの習慣が『妨げ』とはならないという理解を会衆から与えられたので,そうした理解に従ってバプテスマを受けました。(使行 8:36,新)もちろん,もしある人が,自分はそうした習慣を持っていたために,『やましい良心』をいだいたままバプテスマを受けたと感ずるのであれば,その人はバプテスマを受け直すことに決めるかもしれません。そうするのは,その人が自分で決めるべき事がらです。
神からの審判が下される時代
26 これまでに到達した結論に関しては,どんな事がらを銘記すべきですか。
26 エホバのクリスチャン証人の霊的また道徳的な事がらに関するこうした裁定は,ある人びとにとっては非常に厳しいものと思えるかもしれません。しかし,これは独断的で専横な処置を講じようとする努力の表われではありません。この厳格さは実際のところ,書きしるされたみことばを通してご自身の考えを明らかにしておられる神から出ていることなのです。人類のこの世代の人びとが生きている時代からすれば,今は,神を喜ばせ,近づきつつある神の義の新秩序にはいりたいと欲する人びとが行ないの清さに慎重に注意を払うべき時です。
27-29 (イ)1世紀当時の統治体の一成員として使徒ペテロは,なぜ,またどんな主題に関して仲間の兄弟たちに手紙を書き送りたいという衝動を感じましたか。(ロ)神の裁きを受けるとき,だれが是認されるかに関してどんな重大な質問が提起されますか。
27 19世紀前,つまり西暦1世紀当時のクリスチャン会衆の統治体の一成員であった使徒ペテロは,エホバの民の諸会衆に助言や指示をしるした手紙を書き送りました。ペテロは,クリスチャン会衆が当時エルサレムとその神殿を中心にしたユダヤ教の事物の体制の最後の時期を経過しつつあることを,はっきり悟っていました。彼の主人,イエス・キリストはそうした最高潮がその世代のうちに起きるであろうことをすでに予告しておられたのです。(マタイ 23:36; 24:34)当時は,とくにキリスト教に改宗したユダヤ人にとって非常に重大な時代でした。また,ローマ帝国によるクリスチャンに対する迫害がまさに始まろうとしていた事実を考えれば特にそうでした。そこでペテロは,仲間のクリスチャンに手紙を書き送りたいという衝動を感じました。
28 その最初の手紙は,西暦66年に起きたローマ帝国に対するユダヤ人の反乱のほんの少し前の西暦62ないし64年ごろに書きしるされました。その反乱に続いて,西暦70年にユダヤ人のエルサレムとその神殿は滅びました。自分の死が迫っていることを知っていたペテロは,キリスト教に改宗していない世の人びととともに彼らの「放とうの同じ下劣なよどみにまで」走るようなことがないよう戒める責任があることを痛感しました。たとえ迫害をこうむっても,身の破滅を招くそうした道を避けることがいかに緊急なことかを強調するため,ペテロは次のように書いて,終わりが近いことを示しました。「しかし,すべての事物の終わりが近づきました。ですから,健全な思いをもち[麻薬を用いて現実から逃避することなく],祈りのために目ざめていなさい」。(ペテロ前 4:4-7,新)問題はいよいよ深刻なものとなっていました。なぜなら,神の裁きを表明する過程がクリスチャン会衆に関連してすでに始まっていたからです。神によって調べられ,吟味されるとき,いったいだれが是認された者として立てるでしょうか。それはのんきに構えている人でもなければ,世の放蕩の道に従う人たちでもなく,腐敗し,堕落した肉を喜ばせる,キリスト教の精神に反する事がらに故意にふける人たちでもありません。(箴 1:32,33)使徒ペテロは書きました。
29 「クリスチャンとして苦しみに遭うのであれば,その人は恥じることはありません。むしろその名によって神に栄光を帰してゆきなさい。今は,裁きが神の家から始まる定めの時だからです。さて,それがまずわたしたち[神の家]から始まるのであれば,神の良いたよりに従順でない者たちの終わりはどうなるでしょうか。『そして義人がかろうじて救われてゆくのであれば,不敬虔な者や[クリスチャン会衆内の]罪人はどこに出てくるだろうか』。そうであれば,神のご意志にしたがって苦しみに遭っている者たちは,善を行ないつつ,自分の魂を忠実な創造者にゆだねてゆきなさい」― ペテロ前 4:16-19,新。
30 バプテスマを受けたクリスチャンが,それも特に現在,どの程度にせよ,「不敬虔な」者や「罪人」のまねをするのは,なぜ非常に危険なことですか。
30 たとえクリスチャン会衆内で「義」の立場を保っているとはいえ,イエス・キリストの忠実な追随者は「かろうじて救われて」いるのです。バプテスマを受けたクリスチャンがどの程度にせよ,「不敬虔な」者や「罪人」のまねをするなら,その人の救いはいよいよ困難になるでしょう。それとも,その人は救いを受けるには全くふさわしくない者であることを示そうとしているのでしょうか。これはクリスチャンが今日覚えておくべき事がらです。確かにわたしたちの世代に関してはまさしく,「すべての事物の終わりが近づきました」と言うことができます。神は目下,崇拝者たちで成るご自分の家に対して審判を下しておられる最中です。このことはマラキの預言の中でも言及されており,その3章は,エホバが『契約の使い』としてのイエス・キリストを伴って,ご自分の霊的な神殿に来られる時のことを述べています。神聖な審判者エホバはだれに対して,律法破棄者また罪人に対するように不利な証しをなさるでしょうか。エホバはマラキ書 3章5節〔新〕でこう告げておられます。
31-33 (イ)マラキ書 3章5節は,惑溺性のある製品に今とりこになっている人たちの直面している重大な危険をどのように指摘していますか。(ロ)心霊術と麻薬の使用との間に関係があることを,聖書中の他のどんな証拠が示していますか。
31 『われ汝らにちかづきて審判をなし〔魔術師〕[ギリシア語七十人訳によれば ― ファーマコウス]にむかい姦淫を行なう者にむかい偽りの誓いをなせる者にむかい雇い人の価をかすめ寡婦とみなしごをしえたげ異邦人を押しまげ我をおそれざるものどもにむかいて速やかに証をなさんと万軍のエホバいいたもう』。
32 悪行に関してエホバが速やかに証しをする対象として指摘している最初の者が「魔術師」であることに注目してください。キリスト以前のアレキサンドリアのユダヤ人が翻訳したギリシア語七十人訳は,「魔術師」をギリシア語のことばファーマコウスを用いて訳出しました。これは黙示録 21章8節で用いられているのと同じことばです。その箇所である翻訳者たちはこの語を「魔術師」と訳していますが,新世界訳はそれを「心霊術を行なう者」と訳出しています。古代の魔術師たちは実際,心霊術を行なっていました。そのような者たちに適用されたギリシア語のことばは,文字どおりには,「薬剤師」ではなくて,「麻薬売買者」を意味しています。古代の魔術師は当時の麻薬販売人だったのです。
33 キリスト教時代以前の作であるギリシア語七十人訳は,これと関連のあるギリシア語のことばファーマコン(文字どおりには「麻薬」を意味するが,「魔術」と訳されている)を少なくとも5回用いています。偶像崇拝に走った古代イスラエルの女王イゼベルはそうしたファーマコン(複数形の)もしくは「魔術」にふけりました。(列王下 9:22,七十人訳)彼女は,エホバの刑執行者として行動したエヒウ王によって処刑されました。専門の「魔術師」あるいは心霊術を行なう者たちを後援した人びともやはり,心霊術的な行ないに携わり,罪に定められました。
34-36 (イ)こうした習慣が今批判され,注視されているのはもっともなことです。なぜですか。(ロ)このようなわけで,神の羊の群れの中で牧者として仕える人たちには,どんな責任が課されていますか。
34 であれば,麻薬の常用が一般に広まり,たばこの使用が増大している今日,そうした事がらにふける人たちが批判,注視されるのは少しも不思議なことではありません。最高の審判者であるエホバ神は,ご自分の霊的な神殿におり,その聖なる場所で神を崇拝していると唱える人たちを特に吟味しておられます。エホバは,魔術師もしくは心霊術を行なう者たちに対して速やかに証しを行なうと約束されました。それらの者たちは昔から,習慣性を生ずる,人をとりこにする麻薬と関係を持っていたのです。
35 エホバが速やかにわたしたちに対して,わたしたちが麻薬もしくは習慣性を生ずる他の有害な植物類,つまり悪霊の影響に人をさらすものの常用者であることを証しなさるのを,わたしたちは欲していますか。きたるべき「大患難」のさいに,そのようなものの常用者たちに対してエホバが下す裁きは,彼らの滅びを意味します。(黙示 21:8)この「事物の体制の終結」の時の今,エホバ神がご自分のクリスチャン証人たちの会衆の中にそのような常用者のいることを欲しておられないのは,まさに確かなことです。約束の「新しいエルサレム」について黙示録 22章15節(新)はこう述べています。「その外にいるのは,犬,心霊術を行なう者[麻薬売買者,王国行間逐語訳],淫行の者,殺人をする者,偶像を礼拝する者,また,すべて偽りを好みそれを行ないつづける者である」。
36 ですから,これらの指示は,エホバ神に対する責任を痛切に感じて出されているのです。したがって,そうした好ましくない分子がエホバのクリスチャン証人の会衆のバプテスマを受けた成員として認められ,受け入れられるようなことがないように注意するのは,神の羊の群れの霊的な監督である長老たちの義務です。
[脚注]
a この問題に関する聖書の教えを詳しく論じた1973年7月1日号「ものみの塔」誌,396-407ページをご覧ください。
b そうした製品に関してもっと詳しい資料を得たい人は,1973年1月15日号「ものみの塔」誌46-49ページをご覧ください。
c 「王国を宣べ伝え,弟子を作るための組織」(英文)と題する本の98ページ,5節をご覧ください。
[531ページの図版]
世の多くの人びとにとって,喫煙は楽しみの一つとされているが,それはキリスト教の趣旨にかなう事がらであろうか
[533ページの図版]
献身してバプテスマを受けた,エホバの証人になりたいと願う人は,たばこの使用を避けなければならない
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遠い北国からの報告ものみの塔 1973 | 9月1日
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遠い北国からの報告
● アラスカは北方の広大な寒い地域に位置しています。そこでは,892人のエホバのクリスチャン証人が喜びのうちに良いたよりを宣明しています。彼らはこの地域に住む32万以上の人びとに音信を伝えようと努力しています。しかし,それは容易なことではありません。アラスカの土地は広大で,人びとは遠くに散らばって住んでいるからです。それらの人びとのところへ行く唯一の手段は飛行機ですが,その方法は時々利用されており,よい見込みがあります。アラスカ支部の監督,ロンコ兄弟からの手紙には次のように書かれています。「陸路では行くことのできない178か村の人びとに証言を試みるという,非常に大きな挑戦が残されています。兄弟たちは,命の音信を携えてそれらの人びとのところへ行く計画を絶えず練っています。それらの村落に住む4万3,424人の人びとに会うことができるよう,エホバの霊と導きを祈り求めています。王国のわざに忙しく携わるなら,成果はあります。それは確かに楽しい仕事です」。―「1973年のエホバの証人の年鑑」から。
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