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    1977 エホバの証人の年鑑
    • まもなく支部の建物が手狭になったため,1946年6月6日にセントジョンズのペニーウェル通り239番にもっと広い場所を入手しました。新たに到着した宣教者のひとり,チャールズ・クレモンズは支部の監督に任命されました。セントジョンズとコーナーブルックの二大都市に宣教者を集中する取決めが設けられました。「希望」号は孤立した海岸沿いの村々に王国の音信を携える仕事を引き続き行なっていました。しかし何年かするうちに,道路が島を縦横に走るようになりました。他にも便利な設備ができ,海路による伝道は重要でなくなりました。南部とラブラドルの海岸を除き,実質上すべての開拓地に通じる道路がまもなく敷かれました。

      とはいえ,1940年代には巡回監督はまだ旅行の苦労をいろいろ経験しました。たとえば,ジョージ・ストーバーは旅行中に危険な目に遭ったことをこう話しています。『帰りの旅は楽ではありませんでした。国中は冬のさ中で,約53㌔の道のりを歩いて行くうちに気温は零下29度ほどに下がりました。最初の晩,わたしは森の掘っ建て小屋で数名の人々といっしょに泊まり,機会を捕らえて彼らに話をしました。翌日,旅の最後の行程に入り,わたしは湖を渡り始めました。向こう岸に着く前に吹雪になり,小道が埋もれてしまったので,どちらへ行けばよいのかわからなくなりました。わたしは書類鞄を雪の上に置いてそれにすわると,導きを祈り求め,それから新たな確信を抱いて鞄を取り上げました。数歩行くと,湖の別の方角から来ている新しい小道にぶつかりました。わたしは,その小道がわたしの行先に通じていてくれるようにとひたすら願いました。だんだん暗くなってきました。もうじき小道が見えなくなることでしょう。その時頭を上げてまっすぐ前方を見ると,うれしいことに町の明かりが見えたのです。わたしはエホバのご配慮と世話に深く感謝しました』。

      1946年,ガス・バーンズとフォード・プリンスは宣教者を訓練するギレアデ学校の戦後最初の国際クラスに招待されました。卒業後ふたりはニューファンドランドに戻り,バーンズ兄弟は巡回奉仕を引き続き行ない,プリンス兄弟は「希望」号の運転を監督しました。「希望」号は,1955年12月に廃止されるまで,王国の関心事のためになお多くの働きをしなければなりませんでした。数年間のその活動中,孤立した人々に大勢会いました。その多くは,増加の一途を示していた会衆に交わる王国の活発な伝道者になりました。

      1946年から1947年にかけての奉仕年度はニューファンドランドの兄弟たちにとって際立った年となりました。8人の開拓者と38人の伝道者は合計2万5,000冊の文書を配布しました。しかし,1947年の一番の喜びは夏の大会であり,その時特別な歓迎を受けた訪問者はノア兄弟とヘンシェル兄弟でした。ものみの塔協会の会長がニューファンドランドを訪れたのはそれが最初でした。広く宣伝されたその時の講演の主題は「諸国民の永遠の統治者」でした。ノア兄弟自身もその宣伝に参加する喜びを得ました。「希望」号に乗船してセントジョンズ港を巡り,来るべき講演を音響装置を使って発表したのです。

      ニューファンドランド人にバーニーとエバで知られるチャールズとエバ・バーニー夫妻は,区域が広範に散在するコーナーブルックの地域に宣教者として割り当てられました。ふたりが到着してみると,最初のグループは,関心を持つ2,3家族だけを残して引っ越していて,支部事務所には伝道活動が全然報告されていませんでした。しかし,続く6年間に宣教者たちはその近隣の丘陵地帯をあちらこちら歩きまわり,大きな変化をもたらしました。バーニー夫妻が去った時,コーナーブルックにはエホバを賛美し繁栄する会衆ができていました。

      1945年の秋にニューファンドランドに割り当てられた最初の宣教者のグループとともに来たウォルターおよびグレース・ケイニッツはこの島ですでに30年間過ごしました。1962年,ふたりはアルゲンチアとその周辺の開拓地で働く割り当てを受けました。そこではよく,駐とんしているアメリカ海軍の職員に証言する機会がありました。とりわけ相当数の妻たちが王国の音信を受け入れ,彼女たちはやがてアメリカに戻って行きました。

      1952年までにニューファンドランドには21の会衆があり,315人の伝道者が忙しく働いていました。その年にはまたM・F・ラティンが支部の監督に任命されました。

      年ことに新しい会衆が設立され,王国の音信を広める努力を増し加えました。ギレアデで訓練された宣教者,バーナードおよびエリザベス・マーラーの努力により,1952年,ボナヴィスタに新しい会衆が組織されました。1953年にはジョオ・バッツ・アームに,1955年にはステフンビル,ムスグレイブ・ハーバーおよびマウント・パールに会衆が組織され,1957年にはギレアデ卒業生の活躍でポルトーバスクとエプワースに会衆ができ,1958年にはノリス・ポイントにも設立されました。その後,ルイスポート,ハピー・バレー,ベイ・ロバーツおよびウェイブリッジに会衆ができました。セントジョンズ市でも顕著な事が起きていました。会衆が非常に大きくなったため,1963年に幾つかの群れが作られたのです。

      家族が必要のより大きな土地に移ることは,ニューファンドランドにおいて良い結果を生みました。それを通して1964年にラブラドルで,1967年にカーボニアで,1968年にショール・ハーバーでそれぞれ会衆が設立されることになりました。開拓者が勤勉に努力した結果,1969年にはスプリングデールとベイ・ベルテに他の新しい会衆が生まれました。以来ニューファンドランドの業の記録は神権的な進歩を物語っています。

      ニューファンドランドにおけるエホバの民の記録を振り返ると,わたしたちの心はエホバに対する感謝であふれます。1916年に最初の会衆がマクミラン兄弟によって組織されてから1974年に至るまで,記録によれば,すでに360万冊を上回る文書が町や村や外港など同島全土で配布されました。また,その業に300万時間以上が費やされ,関心を抱く人々を養うために100万を超す再訪問が行なわれました。その結果はといえば,過去25年間だけで1,180名を上回る人々は神に献身し,水のバプテスマによってそれを象徴しました。1975年の5月には最高数である1,131名の伝道者が活動を報告しました。しかし,さらに多くの人が神の組織に引き寄せられています。なぜなら,1975年3月27日の主の晩さん式に2,041人が出席したからです。

      この地の孤立した謙そんな人々に真理がもたらされ,かわってその人々が他の人々に伝道したことにはエホバのみ手の働きがあったのでしょう。(使徒 11:19-21と比較してください)良いたよりは遠く離れた場所にも広められました。王国をふれ告げるという偉大なわざにニューファンドランドの兄弟たちを用いることをわたしたちの神が今なお喜びとしておられることを知るのは励みとなります。他方,兄弟たちはそうしたすばらしい好意を受けていることを幸福に思っています。

  • 第1部 ― 南アフリカおよび近隣の区域
    1977 エホバの証人の年鑑
    • 第1部 ― 南アフリカおよび近隣の区域

      雑踏している都会と未開で住民のまばらな奥地,近代的な住宅とアフリカ式の粗末なわらぶき小屋,こうした興味深い対照の見られる国へわたしたちといっしょにいらっしゃいませんか。いろいろな人種の人々の間を歩き,彼らが話すことばを聞いてください。この国の人口2,600万のうち数百万人は英語かアフリカーンス語(オランダ語の古語に起源を持つ)を話し,残りの人々はホサ語やズールー語のような言語を日常語としています。

      これが南アフリカです。国土面積は約122万2,480平方㌔で,興味深い人々が住み,その多くは愛すべき人々です。その中には霊的に良い事柄を切望する人が少なくなく,彼らの願いはエホバのクリスチャン証人がふれ告げる聖書の真理によって満たされています。

      まず歴史を簡単にお話しすると,18世紀と19世紀の2世紀間,南アフリカは激しい戦争の舞台でした。中央アフリカから南下する黒人の“潮流”

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