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    ものみの塔 1958 | 3月15日
    • 集合者の見た無益な業と価値ある業

      『(眞の)神をおそれその戒しめを守れ是はすべての人の本分たり。』― 伝道之書 12:13。

      1 第一次世界大戦の終わった時から,どんな2つの集合が行われてきましたか。それぞれの集合は誰によつて?

      第一次世界大戦が1918年に終つて以来,すべての国の政治支配者と軍隊は,『ヘブル語でハルマゲドンという所』に集められ,集合させられています。(黙示 16:14,16,新口。エゼキエル 38:7,13)また,平和を愛する男女を全く安全な場所に集める世界的に大きな集合も進んできました。すでにこれらは全地にわたる一つの会衆を形づくつており,しかも多くの他の人々が毎日彼らの許に集められています。第一次世界大戦以来の悩みの時にあつて彼らは,この世すなわち組織制度に何の将来もなく,ハルマゲドンにおける宇宙戦争で終りを告げるという益々多くの証拠を見てきました。この古い世を支持する人々の働きが如何に空しく,また価値のないものであるかを彼らはよく知つています。彼らは単なる風を追い求めて生涯を空しく費やすことをもはや望みません。そしてこれからは価値ある業に生涯を送りたいと望んでいます。その業は今でも喜びと満足を興え,ハルマゲドンで拭い去られることなく輝く新しい世にまで続く良いことを成し遂げます。価値ある業をなしているすべての人は,この世に働いている力とは異なつた力によつて集められています。支配者たちとその軍隊は,サタン悪魔の支配下にある悪鬼の影響によつてハルマゲドンに集められつつあります。平和のみちる義の新しい世にふさわしい業を行う男女は,神をおそれる賢い集合者によつて集められています。この集合者は彼らを教えて価値ある業に導きます。

      2 集合者はどのように自分を明らかにしていますか? 彼自身に関して女性形の称号を用いても良いのは何故ですか。

      2 この集合者は誰ですか。彼が誰であるかを知ることは可能です。昔の最も賢い支配者であり,エルサレムで40年間治めたソロモン王は,彼を予影していました。クリスチャンの世紀が始まる1000年前に,ソロモン王は人間の知恵よりもまさつた1冊の本を書きました。この本は普通に伝道之書と呼ばれていますが,その冒頭において彼は自身を集合者すなわち集める者として語つており,こう述べています。『ダビデの子エルサレムの王,集合者の言葉,「大いなる空!」と集合者は言つた。「大いなる空! すべてのことは空である!」集合者である私はエルサレムにおいて王であつた。』(伝道之書 1:1,2,12,新世)ソロモン王がこの本を書いた言葉で,この本が『集合者』を意味するコヘレスと呼ばれたというのは事実です。ヘブル語でコヘレスという語が女性であるのは本当ですが,『知恵』という言葉も女性であり,しかもソロモン王は神から与えられた知恵のゆえに,あたかも知恵の化身の如く,知恵の象徴として用いられました。更に知恵の盛んな時代のソロモン王が予影した人は,天の知恵の具現としてきわ立つています。―シンゲン 8:12,22-31。

      3 ソロモン王はどのように集合者でしたか。彼は何に集合させましたか。

      3 しかし,ソロモン王はどのように集合者でしたか。また,何に集合させましたか。彼は人々,その民,その臣民,及び友好と善意の他の人々の集合者でした。彼はこれらすべての人々を平和と幸福の神,ヱホバに集合させたのです。ソロモンは7年半の間,エルサレムにヱホバの名のための壮麗な宮を建築することに専心し,その治世の11年目にこれを完成しました。この崇拝の宮を捧げるにあたつて,ソロモンは特に関心を持つすべての人々を呼び集め,集合させました。歴史はこう述べています,『ここにソロモン,ヱホバの契約の櫃をダビデの町すなわらシオンより昇上らんとてイスラエルの長老とすべての支派の頭,イスラエルの子孫の家の長等をエルサレムにてソロモン王のもとに呼び集む。祭司ヱホバの契約の櫃をその処に昇いれたり。すなわち家の神殿なる至聖所の中のケルビムの翼の下におさめたり。』(列王紀略 8:1,6。歴代史略下 5:2,7)このようにして,ソロモンがその民を新しく完成したに宮集めたことにより,神が御名を置かれた場所で彼らの神の崇拝が始まりました。

      4 その本を書いた時,彼が自分を「コヘレス」と呼んだのは何故ですか。彼の本を研究することによつて,今日の私たちはどのように助けられますか。

      4 その民の集合者であつたソロモンは,彼らの最善の福祉を図つて彼らを神の崇拝に導きました。彼らはその神と国家的契約を結び,神を愛し,崇拝し仕えると厳粛に同意していたのです。後になつて伝道之書を書いたとき,ソロモンは自分を「コヘレス」すなわち『集合者』と呼びました。ソロモンが自分をこのように呼んだのは,彼が新しい宮の献納にその民と善意の仲間をまず集めたからというのに留まらず,その新しく書いた本により,この世の実を結ばぬ空しい業から国民として彼らが献身を捧げた神にふさわしい業へその民を集めていたからなのです。彼の書いた「コヘレス」と呼ばれる本の目的は,神の民が道から離れることを防ぎ,あるいはこの世の物質の追求に陥つたとき彼らをひき戻すためでした。この事実は本の最後の章で確証されており,そこでソロモンはこう述べています。『最も大いなる空と集合者は言う。「すべての事は空しい!」集合者は賢くなつたという事のほかに,彼は常に知識を民に教えた。彼は深く考え,尋ねきわめ,あまたのシンゲンをまとめた。集合者はうるわしい言葉を見出そうと努め,真理の正しい言葉を書きしるすことに努めた。』(伝道之書 12:8-10,新世)「コヘレス」の本,そしてかくもよく選ばれた言葉で書かれ,かくも真理を正しく表現したそのシンゲンを研究するとき,今日の私たちはその助けによつてヱホバにいつそう近ずき,奉仕の宝をより深く認識するようになります。

      5 「コヘレス」の本を持つている外に,私たちの持つている更に重要なものは何ですか。私たちがいま耳を傾けることは何故そんなに大切ですか。

      5 しかし,今日の私たちはギリシャ語の翻訳者たちが誤つて伝道之書と呼んだ「コヘレス」の本を持つているだけでなく,私たちにはソロモン王より偉大な集合者がいるのです。その方はソロモン王の予影した主イエス・キリストです。人々がイエス・キリストに聞くことは極めて大切でした。イエスが言われたように,『南の女王が,今の時代の人々と共にさばきの場に立つて,彼らを罪に定めるであろう。なぜなら,彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から,はるばるきたからである。しかし見よ,ソロモンにまさる者がここにいる。』(マタイ 12:42,新口)イエス・キリストが天におられ,天の父ヱホバ神の右にあつて統治されているいま,私たちがイエス・キリストに聞くことはなおいつそう重要です。私たちの世代はこの古い世の『終りの時』に生存している人類の世代なのです。キリストの支配が始まつたという眼に見える証拠は,1914年以来私たちにとつて益々増加しています。私たちは裁きの時にいます。それは王イエス・キリストを頭とする聖なる者の会衆だけでなくて,ハルマゲドンの戦場へと集められているこの世の諸国民の裁きの時です。

      6 シバの女王が今日の私たちにまさるかどうかを如何に知ることが出来ますか。彼女は特に誰を予表しましたか。

      6 天の大いなるソロモンを認識せず,その知恵と敬虔な業を学ぶため彼のもとに来ないならば,南のシバの女王が残した忠実の例は,今日の私たちを罪に定めるでしよう。ソロモンを認めたゆえに,ユダヤ人でなかつた女王はイエス時代の大抵のユダヤ人よりもまさつていました。女王は今日の私たちよりまさつていますか。今ここに居られる,そしてソロモン王より遙かに偉大な方を認識しないならば,そう言えるのです。集合者イエス・キリストは,シバの女王の予影した善意者の大きな群を今日集めておられ,これら『他の羊』の王なる羊飼となつています。御自身が天の頭である14万4,000の羊の会衆,『小さい群』のうちで地上に残る人々を集めて以来,イエス・キリストはこの事をされてきました。今日御自身に従う羊のような人々のすべてを,イエス・キリストは神の御国の側に,そして神を崇拝する霊の宮へと集められました。これに関して『散在している神の子らを一つに集めるために』と書かれています。―ヨハネ 11:52。黙示 7:1-17。ヨハネ 10:16,新口。

      7 『すべて空なり』と叫んだソロモンは,その中に何を含め,何を含めませんでしたか。

      7 王イエス・キリストの下にある会衆に宛て使徒パウロは書き送つています,『だから,愛する兄弟たちよ,堅く立つて動かされずいつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあつては,あなたがたの労苦がむだになることはないと,あなたがた知つているからである。』(コリント前 15:58,新口)しかし,伝道之書の冒頭においてソロモン王は叫んでいます,『空の空なるかな,すべて空なり。』(伝道之書 1:2)さて,ソロモン王が王イエス・キリストを予表しているとすれば,彼がこのように叫んだのはなぜですか。ソロモン王はここで,ヱホバ神とヱホバの油注がれた王に仕える業のことを語つていません。この事は,ソロモンが包括的に『すべて』と表現した中に入つていないのです。ソロモンが『すべて』と言つたのは,彼が調べて見た限りのもの,彼がその書の中で次々に例をあげて指摘するすべてのものです。それらの事柄はこの世に関係しているもので,神の新しい正義の世において永遠に支配する神の御国すなわち天の御国とは全く関係のない事柄です。神に油注がれて『ヱホバの位』に当時座し,ヱホバの民を裁くための知恵を特に願い求めたソロモンは,人間の行いや活動を調べ,また自らそれを試みるのに最も恵まれた地位にありました。彼自身が次のように語つています。

      8 これらの事にふけつたこと,及び彼の達した結論について,ソロモンは何と言つていますか。

      8 『集合者である私はエルサレムにおいて王であつた。私は心を用い,日の下で行われたすべての事に関して知恵を探り求めた ― これは労苦の多い業であつて,神が人類の子らに与えて為さしめるものである。私は日の下で行われたすべての業を見た。すると,見よ! すべての事は空しく,風を追い求めることであつた。私は私の目が求めたものを遠ざけることをしなかつた。私の心は退かずにどんな種類の喜びをも得た。私の労苦のゆえに,私は心に喜びを得たからである。これは私のすべての労苦から得た私の分となつた。そして私の手の為したすべての業と,成し遂げようとして私が骨折つた労苦とを私は顧みた。すると,見よ! すべての事は空しく,風を追い求めることであつた。日の下に益となる事は一つもなかつた。人にとつて,食い飲みをし,その労苦によつて魂を楽しませるよりも良いことはない。これもまた真の神(ヱホバ,シリヤ訳。ターガム)の御手によるものである。私よりもまさる食い飲みをする人がいるだろうか。』― 伝道之書 1:12-14; 2:10,11,24,25,新世。

      9 このように語つたとき,ソロモンが宮と心からなる神の崇拝を心に考えていなかつたのは何故ですか。

      9 自らさまざまの事を試みた結果,『すべての事は空しく,風を追い求めることであつた』と述べたとき,ソロモン王はエルサレムのモリア山上にヱホバの宮を建築したことを含めていなかつたのです。宮の建築はソロモンの為した最大のことでした。彼が携わつた広範囲な業,彼の建てた家,その植えたぶどう園,その作りなした庭園や公園,灌漑用の池,彼が得た莫大の数に上る僕,婢のことを語るときに,ソロモン王は宮の建築について述べていません。これらすべてのことは彼の言つたように,『私のため』であつて,ヱホバとヱホバの崇拝のためではなかつたからです。他の人々もこれらの事に携わり,楽しもうと努めているのを,ソロモン王は見ました。しかし,ソロモン王が為した如く当時にヱホバの御名のための宮を建てた人は他に誰もありませんでした。彼がこの宮を建たのは,他の人に倣つたのではなく,他の人の行いを試みたのでもありません。これは彼のなした最大の建築の業であつて『大いなる空』ではなかつたのです。神はソロモンによる宮の建築を予言され,神の助けと導きによつて宮は完成されたからです。更に大きな霊的官の模型として,ヱホバがこの物質の宮を用いられた間,それはヱホバの御目的を果しました。(サムエル後 7:12,13。列王紀略上 8:15-21)ゆえに,すべてのものは空であり,風を追うに等しいと述べたとき,ソロモン王は宮そして心から行う神の崇拝を考えていませんでした。私たちもそのことを考えるべきではありません。

      10 伝道之書の中で,神が私たちに与えられた賜物とソロモンが述べているのは何ですか。

      10 創造主ヱホバ神は,御自身の被造物である人間が幸福であり,地上の生命を楽しむことを望まれています。私たちが受け入れるならば,これは神からの賜物です。ソロモン王が神のこの賜物に注意を向けさせている,仕方に気をつけて下さい。『我知る人の中には其世にある時に楽しみをなし善を行うより外によき事はあらず。また人は食い飲みをなしその労苦によりて楽しみを得べきなり。これすなわち神の賜物なり。』また『見よ,我はかく見たり。人の身にとりて善かつ美なる者は(真の)神に賜わるその生命のきわみ食い飲みをなし且その日の下に労して働ける労苦によりて得るところの幸いを身にうくるの事なり是その分なればなり。何人によらず(真の)神が之に富と財を与えてそれに食むことを得せしめ又その分を取りその労苦によりて快楽を得ることをせさせたまうあれば,その事は神の賜物たるなり。かかる人はその年歯の日を憶ゆること深からず,そは(真)の神これが心の喜ぶところに従いて答うることを為したまえばなり。』さらに『ここにおいて我楽しみを讃む。そは食い飲みして楽しむよりも好き事は日の下にあらざればなり。人の労して得る物のうち是こそはその日の下にて(真の)神に賜わる生命の日の間その身を離れざる者なれ。』― 伝道之書 3:12,13; 5:18-20; 8:15。

      11 この『神の賜物』をどのように今楽しむことができますか。神が『労苦の多い業』を人間に与えられた事実と,これは矛盾しますか。

      11 支配している王イエス・キリストすなわち集合者の忠実にして従順な民となり,教えを受ける謙遜な人々にイエス・キリストが授けられる天からの知恵に従つて行動するとき,私たちはこの『神の賜物』をいま楽しむことができます。それでは,『労苦の多い業であつて,神が人類の子らに与えて為さしめるもの』につき,知恵を探り求めたとソロモンが述べているのはなぜですか。これは矛盾ではありませんか。そうではありません! では,どのように神は『労苦の多い業』を与えられたのですか。また,誰に与えられましたか。

      12 何が『労苦の多い業』の基を置いたとソロモンは述べていますか。神はどのようにそれらを人間に与えられましたか。

      12 ソロモン自身がこれを説明して,次のように述べています,『我がさとれるところは唯これのみ。即ち(真の)神は人を正しき者に造りたまいしに人おおくの計略を考え出せしなり。』(伝道之書 7:29)6000年ほど前に,エデンの園で,ヱホバ神は完全な神の像とさまに似せて人間アダムを正しく,また完全に造られました。そして,アダムに妻を与えられたのです。もとの蛇,サタン悪魔の誘惑を受けた彼らは,死ぬことなしに『神の如く賢く』なる他の手だてを考え出しました。ヱホバ神がノアの時代の洪水によつて古い世を滅ぼされたときでさえも,人類が正義と敬虔のうちに新しい出発をするため,ヱホバ神は正しい家族すなわちノアとその妻,結婚していた3人の息子を生き残らせました。しかし,時がたつにつれて,人類はまたもや神の御心といましめに反対して,多くの手だてを考え出しました。この理由で,罪深く堕落した人類に対して神が単に裁きを執行されたとき,神がもたらされたものは利己的な生活を送つている人類にとつて労苦の多いものとなつたのです。罪の罰は死であることを,神はアダムに告げられました。そして,アダムが罪を犯したとき,アダムの腰にあつて未だ生まれていなかつた子孫も,死の罰に定められました。(創世 2:16,17。ロマ 5:12)彼らは単なる獣と同じく死ぬようになつたのです。

      13 この点で人間は獣に等しいことを,ソロモンはどのように示していますか。

      13 ソロモンは語りました,『私は人類の子らについて心の中に言つた。(真の)神は彼らを選んで,彼らが獣であることを彼らに悟らせる。人類の子らに臨むことと,獣に臨むことは同じである。人が死ぬと同じく,獣もまた死ぬ。人も獣も唯一つの霊を持つゆえに,人が獣にまさるところはない。すべての事は空しいからである。人も獣も一つの所に行く,すべて塵から出て,すべて塵にもどる。人類の子らの霊が天に昇るかどうか,獣の霊が地に下るかどうかを知る人があろうか。』― 伝道之書 3:18-21,新世。

      わざわい

      14 人間が各自の働きを何時までも楽しむことが出来なかったのは何故ですか。私たちは何時か死ぬのであれば,何にふさわしい事を証明しようといま努めるべきですか。

      14 死はわざわいです。しかし,アダムは神を恐れ,神の戒しめを守ることによつて,彼自身と子孫の私たちを死から免かれさせることができたのです。死は敵です。(コリント前 15:26)しかし,アダムは愛のうちに神に従い何時までも神の友であることによつて,死という敵の支配から私たちを守ることができた筈でした。死のゆえに,どの男女でもその手の業と働きを妨げなしに何時までも楽しむことができなかつたのです。神は愛の御心から集合者イエス・キリストを通して,死の罰を取り去り,記憶の墓に死んでいる人々全部を復活させる道を備えられました。(コリント前 15:17-24)この事がなければ,人類のすべては獣と同じく絶え間なしに次々と死んで行くことでしよう。罪を愛してことさらにヱホバ神に不従順となる者は,獣と同じく永遠に滅びうせます。彼らは獣のように動物の欲に従つて飲み食いし生活します。彼らは全くの物質主義で,神を顧りみることをしません。獣のように生きることを好み,獣が役立つように,神の御目的に役立つことさえもない彼らは,獣と同じく滅びるにまかせなさい。私たちはどうして獣のようになり,動物と同じく単に利己的な生活を送り,動物と共に死んでゆくべきですか。何時か死ぬのであれば,復活して神の新しい世の生命を受けるに値することを証明するようにいま努め,単なる獣にまさる者となるべきではありませんか。

      15 息子への遺産に関して,どのように災が起り得ますか。遺産を残すにあたつては,どのようにもつと賢く行うことができますか。

      15 言うまでもなく,人類に死が入り込んだことから,ヱホバ神を知らずまた知ろうとしない人々にとつては,多くの災や矛盾と見える事柄が起つてきました。物質を心にかけた父親が息子のために財産,たとえば銀行預金か他の財産を労して積むかも知れません。そこに銀行の破産か,あるいは他の災が起つて父親はすべてを失い,息子に残すものは何も無くなります。俗世間的な人はこれを災と考えないでしようか。ソロモンは語つています,『我また日の下に患の大いなる者あるを見たり。すなわち宝のこれを蓄うる者の身に害をおよぼすことある是なり。その宝はまた災によりて失せゆくことあり。さればその人,子をもうくることあらんも其手には何物もあることなし。』(伝道之書 5:13,14)地に積む富は,過ぎ去るもので何と不確かであり。突然に無くなつてしまうものでしよう,この富は持ち主にとつて,また彼がこのような富を遺産に与えようとした息子にとつて,霊的には害をも及ぼすものです! ゆえに,それよりも遙かによく,また賢いことは,霊的な富を私たちの子供に残そうと努めることです。霊的な富は永続するもので,それは良い名,両親の示す信頼できる敬虔の手本,よいしつけによつて成熟した男女に育てること,神の真理を教える家庭の教育,神の奉仕者となつて他の人に真理を分け与える奉仕の仕方を学ぶ訓練です。物質のものが災を受けても,そのためにこれら霊的な価値あるものを失うことはありません。そして,私たちがたとえ死んでも,真の富という遺産を持たない子供たちが後に残される事はありません。

      16 物質に富む人に必ずふりかかる別の災を,ソロモンはどのように描いていますか。それゆえ,人はなぜ自分を富の奴隷にすべきではありませんか。

      16 物質的に富む人々は,必ずふりかかる別の炎を心にするべきです。ソロモンはこの災を次のように述べました,『人は母の胎より出でて来りし如くにまた裸にして帰りゆくべし。その労苦によりて得たるものをひとつも手にとりて携えゆくことを得ざるなり。人は全くその来りし如くにまた去りゆかざるを得ず。これまた患の大いなる者なり。そもそも風を追うて労する者何の益をうることあらんや。人は生命のかぎり,暗やみの中に食うことをなす,また憂愁多かり疾病身にあり怒りあり。』(伝道之書 5:15-17)では,どうして人は利己的な富,マモンの奴隷となるべきですか。そして,そのために神の御目的に全く盲目となり,怒り,失望,誘惑,わな,刺し通す痛みを身に受けるべきですか。神と富すなわちマモンに同時に仕えることはできません。(マタイ 6:24)人は自分を肥やして大金持となり,億万長者になるかも知れません。そして死んだ時には,家の中のあらゆるもの,高価な宝石や衣服,空の船,一緒に葬るために殺された奴隷の死骸さえもが墓の中に入れられるかも知れません。しかも,彼が携えて行き,楽しむことのできるものは何一つないのです。彼は何も持たないでこの世に来ました。そして何も持ち出すことができません。獣のように死んだその人は,来るべき世における真の生命と自由のために何の土台をも築くことをしなかつたのです。神の奴隷とならなかつたこのような人にとつて,何という災でしよう!『たとい人が全世界をもうけても,自分の命を損したら,なんの得になろうか。また,人はどんな代価を払つて,その命を買いもどすことができようか。』イエス・キリストのこの質問の答えはおのずから明らかです。―マタイ 16:26,新口。

      17 自己満足についてのどんな災いをソロモンは挙げていますか。ネブカデネザルの場合,どのようにこれは実際に示されましたか。

      17 災を順に挙げたソロモンは更につづけています,『我見るに日の下に一つの患あり是は人のうちに常なるものなり。すなわち(真の)神富と宝と貴を人に与えてその心に慕うものを一つもこれに欠くることなからしめ給いながらも(真の)神またその人に之を食うことを得せしめ給わずして他人のこれを食うことあり是空なり悪しき疾なり。』(伝道之書 6:1,2)手に入れたものを楽しむことができないなら,自分のことより外に考えない人にとつて,それは耐え難いほどの悲しみです。おいしい食物がありながら,胃腸の加減が悪いために食べることができないのは馬鹿にされたようなものです。ヱホバ神は,ネブカデネザルがバビロンにおいて世界支配者になることを許されました。しかし,彼の誇りと高慢,うぬぼれのゆえに神は彼をいやしめられ,彼は気が狂つて,獣になつたと考えました。その時,彼の宮殿のぜいたくな飲食物は彼に合いませんでした。彼は牛のように草を食べることを好みました。7年の間ネブカデネザルにとつて,これは何という災,つらい病気だつたことでしよう!―ダニエル 4:28-37。

      18 流産の子は誰にまさると,ソロモンは述べていますか。このすべては何に由来していますか。

      18 その手に入れた物を楽しむこともなく,墓に入りたいとさえ願いながら送る長い命は,人に満足を与えることなく,気持をいらだたせ,とうてい満ちたりた良いものではありせん。『たとい人百人の子をもうけ,また命長くしてその年齢の日多からんも,もしその心幸に満足せざるか又は葬らるることを得ざるあれば,我言う流産の子はその人にまさるなり。それ流産の子はその来ること空しくて暗やみの中に去りゆき,その名は暗やみの中にかくるなり。また是は日を見ることなく物を知ることなければ彼(命の長い者)よりも安らかなり。人の寿命千年に倍するとも福祉を蒙れるにはあらず皆一つ所に行くにあらずや。』(伝道之書 6:3-6)この生活の外には何の希望をも持たず,生活に何の満足も見出さず,不満と怒りに悩んで長く生きる人よりは,この物質主義の世に生命を始めなかつた流産の子の方がよいのです。このすべての原因は,この世の物質的利益,つまりこの世の利己的な営み以外のことに心を用いなかつたことにあるのです。

      19 政府に関するどんな災をソロモンは述べていますか。このような政府を支持する人々にとつて,ハルマゲドンの時これが災という結果になるのは何故ですか。

      19 ソロモンが述べているもう一つの災は,一人の人または政府が一国を支配した場合です。それは人々を指図し,人々を神からひき離して間違つた道に導くという責任をとります。このような間違つた支配に服従して,神よりもそれに従う人々は,政府のする間違い,また政府が神に敵して行う戦いに対しては,責任を負うことになるのです。政府の愚かに対しては,支配者と共に国民も責任があります。ソロモンは次のように述べています,『われ日の下に一つの患事あるを見たり。是は君長たる者よりいずる過誤に似たり。すなわち愚かなる者高き位に置かれ,貴き者卑き処に坐る。我また僕たる者が馬に乗り,王侯たる者が僕の如く地の上に歩むを見たり。』(伝道之書 10:5-7)いまの『終りの時』にあつて,この世の諸国家は設立された神の御国の前に裁かれています。ゆえに,政治の支配者,裁き人は賢明に振舞い,ヱホバを恐れ,従順にヱホバの子にくちずけせよという神のすすめが,御言葉と神の証者を通して与えられてきたのです。しかし,人々の支配者と指導は,ヱホバ神に対して愚かに振舞うことをやめません。そして彼らの政府はヱホバの御子イエス・キリストによつてハルマゲドンの時に粉々に砕かれてしまうでしよう。政府と支配者のみならず,ヱホバ神とキリストによるヱホバ神の御国に敵して戦つた政府の大きな間違いを支持した国民にとつても,それは世界の災となるでしよう。―詩 2:1-12。

      20 すべての人の共通の終りは死であるゆえに,人の心の状態どのようですか。どのように人は慰めのない絶望の状態に自らを置いていますか。

      20 死者の復活という希望を持たず,誰でも死ぬときにすべてが終ると考えているために,人間は日の下にあるもう一つの災を助長します。『すべての人に臨むところの事の一つなるは是日の下に行わるる事の中の悪しき者たり。そもそも人の心には悪しき事充ちおり,その生ける間は心に狂妄を抱くあり後には死者の中にゆくなり。』(伝道之書 9:3)欧米の民主主義政府は,1956年以来ハンガリーに起きたことを見て,恐ろしい災と呼んでいます。しかし,圧制は世界の他の場所においても行われつつあるのです。貧しい人々は自分ではどうすることもできません。しかし,ヱホバ神とヱホバ神の御国に頼らないならば,彼らが助けを得るどんなよりどころが他にありますか。この災の状態を評して昔の集合者は次のことを述べました,『ここに我身をめぐらして日の下に行わるる諸の虐遇を見たり。ああ虐げらるる者の涙ながる之を慰むる者あらざるなり。また虐ぐる者の手には権力あり彼らはこれを慰むる者あらざるなり。我はなお生きる生者よりも既に死にたる死者をもて幸なりとす。またこの二者よりも幸いなるは未だ世にあらずして日の下に行わるる悪事を見ざる者なり。』― 伝道之書 4:1-3。

      21 ヱホバを崇拝しなかつた人々の政府の下にある状態について,ソロモンがよく批評できたのはなぜですか。

      21 ソロモン王はここで神の御国の地的模型である彼の国に行われていたことを述べていません。ソロモンが賢い王として支配した間,政府の圧制はなかつたのです。人々は『ダンよりベエルジバに至るまで安らかに各々そのぶどうの樹といちじくの樹の下に』住み,『飲食して楽しめり,』(列王紀略上 4:20-25)ヱホバを崇拝しなかつた人々の圧制的な政府とは異なつた特色をもつゆえに,昔の集合者の王国はきわだつていました。そこでソロモンはそれらの政府の下にある災の状態について良く批評できたのです。

      22 どんな知識を持つゆえに,ヱホバの証者は圧制を加える政府の下にあっても自らを憐れみませんか。また,彼らは憐れむべき人々に対して如何に憐みを表しますか。

      22 無信仰で物質主義の人の手にあり同じく圧制的な政府の下で今日生活していても,ヱホバの証者は自分をあわれんでいません。彼らには慰める者がいます。ヱホバが日々助けて下さることを彼らは知つています。ヱホバの証者である彼らのヱホバへの忠実は,このように圧制的な状態の下でいま試みられていることを彼らは理解しています。そして,昔の集合者が語つたことを知つています。『汝国の中に貧しき者をしいたげる事および公道と正義を枉ぐることあるを見るも,その事あるを怪しむなかれ。そはその位高き人よりも高き人ありてその人を伺えばなり。又それらよりも高き者あるなり。』(伝道之書 5:8)私たちは知つています,最高会議,最高裁判所あるいは人間が地で最高と呼ぶどんなものにしても,それらの上には無限に高い,最高至上者ヱホバ神と彼の右の手にあつて治められるヱホバ神の王イエス・キリストがおられます。ヱホバ神とイエス・キリストは上なる裁き主であられ,鉄のカーテンも竹のカーテンも上なる裁き主の眼をさえぎることはできません。ハルマゲドンのとき,彼らの裁きはしいたげる者すべての上に執行されるでしよう。宇宙の最高法廷の裁き主がとられる御処置こそ,しいたげられているヱホバの証者は確信と忍耐をもつて待ち望んでいるものです。神の御言葉と霊に支えられ,胸に神の愛を満たしている彼らがあわれむのは,この災な状態の中で希望もなく,助けもない気の毒な人々のことです。聞く耳を持つ人々に彼らは恐れることなく伝道し,人類の唯一の希望,唯一の助けである神の御国の良いたよりを宣べ伝えます。

      いとわれた生活

      23 将来について何が確かではないゆえに,ソロモンは災の生活をいとうと述べましたか。

      23 神の御国の外にある人間すべての災を心に留めたうえ,当時の地上で最も賢い人であつた彼の王位をどんな者が継ぐかも知らなかつたソロモン王は,こう語りました。『ここにおいて我世にながらうることを厭えり。おおよそ日の下に為すところの業は我に悪しく見ゆればなり。即ち皆空にして風を捕うるが如し。我は日の下にわが労してもろもろの働きをなしたるを恨む。そは我の後を嗣ぐ人に之を遺さざるを得ざればなり。その人の智愚は誰かこれを知らん。しかるにその人の日の下に我が労して為し知恵をこめて為したるもろもろの業を管理るに至らん是また空なり。我身をめぐらし日の下にわが労して為したるもろもろの働きのために望みを失えり。今ここに人あり知恵と知識と才能をもて労して事をなさんに終には之がために労せざる人にすべてを遺してその所有となさしめざるを得ざるなり是また空にして大いに悪しし。』― 伝道之書 2:17-21。

      24 ヒンヅー教徒はどのように生命を見ますか。生命にはソロモンの述べたような災しか無いとすれば,生命に対してどんな態度を採ることはもつともですか。

      24 物質と肉体の世界における生命は苦しみの連続以外の何ものでもないという宗教の考えのために,ヒンズー教徒は生命をいとうと公言します。それで彼らは永遠の無,すなわち,最善至福の時と彼らが考える一種の涅槃に吸収されることによつて,無になることを求めます。この古い世の生命にはソロモンの描いたような災しかないとすれば,名利を追う物質的な生活をソロモンがいとつたのも当然でしよう。生活には何の目的もないことになります。生きることに,永続の価値あるものは一つもないことになるでしよう。あれこれの小さな災が絶えない地上の生活は,最後にはすべての人と,獣があう死という大きな災に終つて,誰でも体は墓に入ります。そして,誰でもが行く墓すなわちシヨールには,死人のために何がありますか。よく聞いて下さい。

      25 生きている者と死人との相違は何であると,ソロモンは述べていますか。死人にとつてショールには何がありますか。

      25 『生ける犬は死せる獅子にまさればなり。生ける者はその死なんことを知る。されど死ぬる者は何事をも知らず,また報いをうくることも重ねてあらず。その憶えらるる事も遂に忘れらるるに至る。またその愛も憎しみも,嫉も既に消えうせて彼らは日の下に行わるる事にもはや何時までも係わることあらざるなり。すべて汝の手に堪うることは力をつくして之を為せ。そは汝の行かんところの陰府には工作も計謀も知識も知恵もあることなければなり』― 伝道之書 9:4-6,10。

  • 集められた人々の価値ある業
    ものみの塔 1958 | 3月15日
    • 集められた人々の価値ある業

      1 私たちの働きが前の記事に述べられたように災に終る必要がないのはなぜですか。私たちの生命が永遠に役立つものとなるように,どんな道が備えられましたか。

      しかし,罪と死の悪しき現在の世にあつて為す私たちの業は,先に述べた如く災に終らねばなりませんか。そして,私たちが生きることをいとうのは当然と言えるでしようか。私たちの生きることは,ただ空しく,風のように捕え得ぬものを追うに過ぎないのですか。そうではありません。この世に仕えることをやめて,神の新しい世のために働くならば,そうではないのです。神の新しい世のために働くという意味は,ヱホバ神に奉仕するということです。そして,ヱホバ神のために為す働きは決して無駄に終ることがありません。その敬虔な業のためにどれほど多くの迫害や反対を受けようとも,その業は価値あるものです。神なしで私たちは何も成就することができません。人間は不完全であり,まぎれもなく罪深く,天の法廷から罪に定められて居り,それゆえに死の道をたどつているのです。何を試みても,どれほど激しく働いても,これらの条件のために彼らは常に挫折し,常に災に終ります。自分自身ではこの窮境から逃れることができません。しかし,ヱホバ神は道を備えられました。それによつて私たちの生活は意義あるものとなり,崇高な目的を持つことができ,永遠にわたつて有用になり得るのです。この道はヱホバ神の集合者イエス・キリストの御国によるものです。

      2 どんな働きは『神からの賜物』ですか。人間の働きに関する神の御目的は何ですか。

      2 働くことは神からの賜物であることを心に留めましよう。働きとはつまり神への奉仕の業です。神が正しい人間をエデンの園に置かれたのは,人間が働くためでした。人間が正しい働きの場所から追われて後も,神は,人間の働きが無駄に終り,死のためにその働きが災に終ることを目的とされませんでした。(創世 2:7,8,15)人間は自分の働きを幸いとして喜び,働きの成果を見,それを楽しみ,働きの益を子供たちに伝えるようにと,神はもくろまれたのです。

      3 神を崇拝するために,人は何をしなければなりませんか。神の賜物である働きについて,私たちはどのように恵みを得ますか。

      3 正しい完全な人間が創造主より命ぜられた業を従順に行いつづけたならば,それは神を崇拝することでした。神を崇拝することが,空しく災に終ることは決してありません。それはヱホバ神の宇宙至上権の下における永遠の生命を意味します。時に『崇拝』と訳されるヘブル語の言葉は,実際に『奉仕』を意味することを心に留めましよう。(列王紀略下 10:20-23。出エジプト 12:25,新世,欄外)神の奉仕に働くなら,私たちは神を崇拝しているのです。怠惰で怠けているなら,私たちは神を崇拝していません。私たちは神に倣つていません。人間は神の像と様に従つて造られたゆえに,人間は働かねばならず,また無駄に働いてはなりません。偉大な集合者であるイエスはかつて次の事を言われたからです。『わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである。』(ヨハネ 5:17,新口)ソロモンも述べました,『我(真の)神のもろもろの業を見しが人は日の下に行わるるところの事を究むるあたわざるなり。人これを究めんと労するもこれを究むることを得ず且また智者ありてこれを知ると思うもこれを究むることあたわざるなり。』(伝道之書 8:17)永遠に続く新しい世にあつて,人類は神の業の内奥までをきわめようとして探りつづけることでしよう。しかし,探りきわめることはできません。為すべき価値ある業を神から与えられていることを認識し,その業が何であるかを見出してからそれをなして神の同労者となるとき,私たちは恵まれています。それは決して空しい賜物ではありません。

      4 私たちは今日,誰に集められねばなりませんか。その後どんな一歩を進めますか。その一歩に対して,どんな態度を採るべきですか。

      4 災に終るこの世の無意味な業,無益で空しい業から私たちをひき離すために,ソロモンは「コヘレス」すなわち「集合者」の本を書きました。罪に定められたこの古い世において『神が世の人に授けて之に身を労せしめ給うもの』から今日離れるために,私たちはイエス・キリストの声,神の書かれた御言葉に表わされている彼の知恵に耳を傾けて,偉大なソロモン,支配している王イエス・キリストにより,集められねばなりません。イエス・キリストを通し,私たちはヱホバ神に来て,信仰と愛のうちに全くヱホバ神に献身しなければなりません。その行いが何を意味するか,また,それによつて私たちは今やどんな者となつて,何をしなければならないか,そのすべてを私たちは慎重に考慮しなければなりません。神に奉仕し,永遠に神の御心を行うと誓うことを不必要に延ばすべきではありません。しかし,それと同様に,私たちは考えなしに神への献身の誓いをなしてはなりません。しかし,一度このような厳粛また取り消すことのできない誓いを結んだならば,それをみだりに取り上げて災に終ることのないように,誓いを守らねばなりません。ですから,イエス・キリストを通してヱホバ神への全き献身を誓うとき,私たちは誓いを果そうと真剣に決意しなければなりません。心にないことを愚かにも,また考えなしに口に出して,献身の誓いを言葉だけのものにしてはならないのです。

      5 口を開いて誓うことに関し,ソロモンは何と述べていますか。神を恐れる事は,誓いに対してどのように示されるべきですか。

      5 『汝(真の)神の前にありては軽々しく口を開くなかれ。心を摂めてみだりに言を出すなかれ其は(真の)神は天にいまし汝は地におればなり。されば(意図する以上のことを約束せず)汝の言を少からしめよ。それ夢は(この世の)事の繁多によりて生じ,愚かなる者の声は(軽々しく口にした,また考えなしに情に動かされて口に出した)言の多きによりて知らるるなり。汝神に誓願をかけなば之を還すことを怠るなかれ。神は(言葉の多い)愚かなる者を悦びたまわざるなり。汝はそのかけし誓願をはたすべし。誓願をかけてこれをはたさざるよりは寧ろ誓願をかけざるは汝に善し。汝の口をもて汝の身に罪を犯さしむるなかれ。また使者の前にそれは遇誤なりというべからず。おそらくは(真の)神汝の(誓いの言を怒り汝の手の所為を滅ぼし給わん。それ夢多ければ空なる事多し。(軽々しい誓いの)言の多きもまた然り。汝ヱホバをかしこめ。』― 伝道之書 5:2-7。

      6 神に誓いを立てることによつて集められた人は,遠ざかること即ち孤立することをなぜ避けなければなりませんか。

      6 神に誓いを立てることによつて,支配している王イエス・キリストに集められた人は,イエス・キリストの集められた崇拝者の全部と共に留まらなければなりません。このような誓いをした人は会衆から孤立したり,また遠ざかるべきではありません。シンゲン 18章1節は私たちに訓戒しています,『おのれを人と異にする者は,おのれの欲するところのみを求めて,すべての善き考えにもとる。』その人は離れていることに対して口実を設け,自分を正当化しようとするでしょう。しかし,そうするとき,人は愚かに振舞つており,自分の誓いを果す力を弱めているのです。実際,神の御心を行うという誓いに反する行いをしています。神が御自身の集められた人々を通してのみ与えられる助けを自分から受けないようにしているその人が,災にも倒れることは間違いありません。

      7 互いに交わることについて,2人の集合者は何と述べましたか。神に誓いを立てた人々が会衆の集会から離れることができないのは何故ですか。

      7 偉大な集合者は言われました,『ふたりまたは三人が,わたしの名によつて集まつている所には,わたしもその中にいるのである。』(マタイ 18:20,新口)昔の集合者ソロモンは語りました,『二人は一人にまさる其はその(共になした)労苦のために善き報いを得ればなり。すなわちその倒るる時には一人の人その伴侶を助けおこすべし。されど孤身にして倒るる者は憐れなるかな之を助け起す者なきなり。又二人ともに寝ぬれば暖かなり。一人ならばいかで暖かならんや。人もし其一人を攻め撃たば二人して之に当るべし,三根の繩はたやすく切れざるなり。』ヱホバを崇拝するためにヱホバの霊的な宮に集められた人々は,誰でも一つの同じ誓いをしているのです。その誓いを果すため,愛をもつて助け合い,その誓いを一緒に果さねばなりません。そうすれば,サタン悪魔とその世に打ち負かされる人は一人もないでしよう。それゆえに,会衆の集会や大会などに出席しなくても大丈夫という人は一人もいません。その人々は共にいて一つであるという気持と,互に依存し,互に必要であるという気持を強くしなければなりません。

      御国の活動をするとき

      8 私たちの集合者は,私たちが彼に来ることについて何と述べましたか。私たちが王の命令を守るどんな理由を,ソロモンは挙げていますか。

      8 私たちがヱホバに誓いを立てたときに私たちを集めた方は,支配している王イエス・キリストです。イエス・キリストはこう言われました,『わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ,だれもわたしに来ることはできない。』(ヨハネ 6:44,新口)私たちがイエスの足跡に従つて彼に仕えるようにと,ヱホバは私たちを油注がれた王に引き寄せられました。私たちがヱホバに誓うとき,ヱホバの油注がれた方の御国を支持することを私たちはヱホバの前に誓つているのです。ヱホバの王はヱホバが私たちに与えられた指導者だからです。私たちの誓いを果すに当つて,私たちはヱホバの油注がれた王の命令に従わねばなりません。集合者は述べています,『我言う王の命を守るべし既に神をさして誓いしことあれば然るべきなり。早まりて王の前を去ることなかれ其は彼は凡てその好むところを為せばなり。王の言葉には権力あり然れば誰か之に汝何をなすやということを得ん。命令を守る者は禍患を受くるに至らず智者の心は時期と判断を知るなり。万の事務には時あり判断あり是をもて人大いなる禍患をうくるに至るあり。』― 伝道之書 8章2-6節。

      9 御国とその宣明に関して,ヱホバはどのように凡てのものの時をよく計られましたか。

      9 集合者が次のことを述べたのももつともです。『天が下の万の事には期あり万の事務には時あり。我神が世の人に授けて身を之に労せしめ給う所の事件を見たり。神の為し給う所は皆その時に適いて美麗しかり。』(伝道之書 3:1,10,11)ヱホバは『諸国民の七つの時』の終る確かな年を定められました。それで,1914年には,油注がれた御子の手を通してヱホバが御国の活動を始めさせる時が来ました。その後,御自身の定められた時である1918年の春に,ヱホバは裁きの業のために王なる使イエス・キリストを伴われて御自身の霊的な宮に来られました。ヱホバの時の予定に従い,その事の後に,御自身の羊の『小さい群』,ついで『大いなる群衆』の集められる時が来ました。次に羊たちが最後の業をするヱホバの時となりました。その業は設立されたヱホバの御国を全世界に宣明し,この古い世の終りを全人類に警告することです。今や王であるイエス・キリストは,世の終りに関する予言の中で,御国の宣明を私たちに命じて,こう言われました。『そしてこの御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。』― マタイ 24:14,新口。

      10 王の命令,私たちの誓い,およびヱホバの王に対する挑戦を拒絶することに関して,私たちはどのように知恵を示しますか。

      10 私たちは知恵を示して王イエス・キリストの命令を守り,とりわけ神の御心を行うと約束した神への誓いを重んずるゆえにそうしなければなりません。集合者はその事を私たちに命じています。私たちはすでに約束しました。私たちは偽り誓う者になることはできません。私たちは誓いを破つてはなまりせん。最高至上の神の前で誓つた事柄によつて,私たちの義務はヱホバの位に坐る王の命令を遂行することです。私たちの御国の務めをなおざりにして,王を否認し王から離れ去ることはできません。それは悪い事です。この世の支配者に加わり,ヱホバの王に挑戦して『汝何をなすや』と言うことはできません。彼らも私たちも,王が『すべて其好むところ』を行うのを止めることはできません。そして,今の時に王が好むところは,神の御国のこの良いたよりを至る所で,すべての種類の人に伝道させることです。王の言葉は支配の力です。サタンの世を挙げての挑戦にも拘らず,王の言葉は成し遂げられるでしよう。また,いま遂行されつつあります。

      11 集められた者である私たちが賢い心を持つなら,何を知り,悟りますか。従つて世の災を避けるために何をしますか。

      11 伝道には努力が必要であり,また伝道すると迫害を受けるというので,クリスチャンと称える人で御国伝道に加わることを望まない人があります。それでも良いたよりの伝道は低調にならず,また止まることもありません。退く人々が止めても,伝道はかならず続けられて行きます。伝道は王の命令に従うことであり,王の命令は『権力』だからです。私たち,集められた者が賢いならば,ハルマゲドンの戦い前の『終りの時』にあたり,神が御国伝道を取り極められていることを知ります。また,今は神の定められた伝道の時であり,神は人間の事物万端,そして私たちの行うことをも裁かれていることを悟ります。私たちは神の是認の裁きを欲するゆえに,王を通しての神の命令を守ります。この事をする私たちは,この世のすべての人の行く手をさえぎつて彼らを悩ましており,ハルマゲドンのときに大災害となつてふりかかる災を経験しないでしよう。

      12 (イ)誰の時に従つて私たちは自分の時を合わせるべきですか。どのように?(ロ)何を行わないための口実を探してはなりませんか。なぜ?

      12 いまの時は,かつてなかつたほどに重要な時です。私たちは自分の誓いに一致して,私たちの時を神の時に合わせましよう。今は王の救いのたよりを伝道すべき神の時であることを,自ら証明しましよう。また,今の時に定められた特別の業を間違いなく行いましよう。そのとき,私たちは価値ある業をしているのです。この最も重大な時に,間違つた業をするなら災に終ります。それは『最も大きな空』にふけることです。今の時に神の命ぜられたこの業以外の業はすべて『空で』あつて,人が今どれほど労してもそれから益を得ることはありません。(伝道之書 1:2,3)ですから,私たちが今なすために神の与えて下さる業,すなわち『神の賜物』を受け入れましよう。外見で事柄を判断して之は利のない業であると考えて,この『神の賜物』を用いず,この業に携わらない口実を探すことのないようにしましよう。『風を伺う者は種播くことを得ず雲を望む者は刈ることを得ず。』(伝道之書 11:4)たとえ,外見は不利に見えようとも,「業に励め!」を私たちの標語にしましよう。『汝朝に種を播け夕にも手を休むるなかれ其はその実るものはこれなるか彼なるか又は二者ともに美なるや汝これを知らざればなり。』(伝道之書 11:6)私たちが時間を浪費することなく,この最大の機会を前にして怠け者とならないようにと願つています。

      13 私たちはあるだけの力を御国奉仕に用いなければなりませんが,それはなぜですか。この点について,若い人々への集合者のどんな戒しめは適切ですか。

      13 災に終る仕事に力を浪費することのないように私たちは願います。ハルマゲドン前のいま,私たちの力を御国奉仕に使う時はきわめて短いのです。私たちは十二分の力を御国奉仕に捧げることを願います。若い人々はこの点で特別な機会を持つています。災の多くて空しい業に青春をあやまり用いるなら,時を経て神はその事のゆえに彼らを裁かれます。集合者はこう警告しています。『若い者よ,お前の若さに喜べ。若い日にお前の心が自分に善をなすようにせよ。お前の心の道に歩み,目に見るところのものの中に歩め。しかし,これらすべての事のために,(真の)神はお前を裁かれることを知れ。お前の心から悩みを取り去り,その身から炎をのぞけ。若さと生命の盛んなことは空しいからである。』― 伝道之書 11:9,10,新世。

      14 (イ)災いを避け,若さと盛んな生命を空しく用いないために,何をすることを集合者は若い人々に告げていますか。(ロ)今日の大抵の子供たちは若い時代を空費して老年に達する機会がないのは何故ですか。

      14 青年男女はどのように災を避け,心の苦しみを免れて,若さと盛んな生命を空しく過さないようにできますか。集合者は答えています,『汝の若き日に汝の造り主を憶えよ即ち悪しき日の来り年のよりて我は早何も楽しむ所無しと言うに至らざる先。……しかる時には銀の紐は解け金の盞は砕け吊瓶は泉の側に破れ車は井戸のかたわらに割れん。しかして塵は元の如くに土に帰り霊魂(霊)はこれを授けし(真の)神に帰るべし。』(伝道之書 12:1-7)今日の大多数の少年少女には,その若さと盛んな生命を浪費して空しい生涯を送り老令の災の多い日にまで生き延びる機会がないという事は不幸な事実です。神の時の定めに従えば,ハルマゲドンの宇宙戦争の災は,未だ若く盛んな彼らを打ち倒してしまうでしよう。彼らは偉大な創造主を憶えることをせず,価値ある業をなして創造主に奉仕していないからです。

      15 なぜ,私たちは実験してみる必要がないのですか。霊感されたソロモンの言葉に注意を払うことによつて私たちは何を避けますか。

      15 これで,私たちは集合者の述べたことを考慮した訳です。私たちは,何が『最も大きな空』であり,何が『災の多い業』であるかを知りました。経験によつて自らそれを証明するため,試みてみる必要はありません。王であり,そのすべての富と機会を得た彼が必要な試みをすでに行つています。そして,彼はその試みによつて見出したことを私たちに告げています。私たちはその霊感された言葉に聞き従つて,最も大きな空を避け,災をまぬかれるでしよう。

      16 (イ)では,このことに関する私たちの結論は何であり,その正しい結論に基づいてなす行いは何であるべきですか。(ロ)私たちの価値ある働きはどんな裁きを受けますか。

      16 彼と共にこれらすべての価値ある事柄を考慮した私たちは,何と結論し,また,その正しい結論にもとずいて何を行うべきですか。彼の言葉に述べられている如く,この事です。『事の全体の帰する所を聴くでべし云く(真の)神を畏れその誡命を守れ是はすべての人の本分たり。(真の)神は一切の行為ならびに一切の隠れたる事を善悪ともに審判たまうなり。』(伝道之書 12:13,14)神の裁きを受けないように隠すことのできるものは何もありません。ゆえに,私たちの前に置かれた義務は明らかです。個人的な,すなわち隠された生活においても,すべての人の前に明らかな外の生活においても,私たちは神の戒しめを守つて神を恐れることを証明できますように。そのとき私たちの業は価値あるものであり,私たちは神の是認の裁きを受けて,来るべき神の正義の世には神の祝福された会衆と共に永遠の生命をかちうることになります。―伝道之書 8:12,13。

  • 空しく待つこと6年間
    ものみの塔 1958 | 3月15日
    • 空しく待つこと6年間

      ● マサチユーセッツ州,ボストンに住む,びつこで,寝たきりの83歳になる未亡人は,老人扶助金から毎週10セント貯めました。それは,もし彼女の教会の牧師が訪ねて来たら渡すためでした。6年待つた後,1人のヱホバの証者が訪問して聖書の研究をはじめました。8ヵ月余りたつてからこの未亡人は,それまで貯めていたお金を証者に差し出して是非「貧者の一灯」を受けて下さいと強く主張しました。証者はそれを外国に宣教者を送るための援助として「ものみの塔協会」に送りました。

  • 赤い宗教
    ものみの塔 1958 | 3月15日
    • 赤い宗教

      ● かつてのモスコーの宣伝機関の長官,カール・ラデクはあるとき語りました。『御存じのように,この共産主義は宗教である。わが国の若者はその福音を伝道しなければならない。彼らはそのために喜んで死ぬ。』

  • 家族の反対を克服する ― ユーゴースラビヤ
    ものみの塔 1958 | 3月15日
    • 家族の反対を克服する ― ユーゴースラビヤ

      私たちが,ヱホバの証者の大会に出席する時にきづくことは,証者たちの中で婦人が大きな割合を占めていることです。そして私たちは,彼女たちが持つ良いたよりの伝道を押し進めるための決意と熱心を尊敬します。『主みことばを賜う,その佳音をのぶる婦女はおおくして群をなせり。』婦人たちは,外国宣教に,また,御言葉を必要とする多くの場所に特別開拓者として出かけて行きました。また,彼女たちは,会衆に居残つてしつかりと立ち,制度を支持し,良いたよりを伝道するために非常な忍耐をして来ました。ヤコブは言いました,『忍び抜いた人たちはさいわいであると,わたしたちは思う。』(ヤコブ 5:11)ユーゴースラビヤ

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