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  • あなたはどのように自分の生活を導きますか
    ものみの塔 1982 | 10月15日
    • 20,21 会衆の指針に関してわたしたちは何を学べますか。それらに関してどう考えるべきですか。

      20 ある規則は特に会衆のためになります。例えば,昔,あるクリスチャンたちは異言を語ることができました。パウロは,ただ二,三人の人が一度に話すこと,順番に話すこと,翻訳者がそこにいるようにすること,などを指示しましたが,それらの規則は平和と秩序を促進しました。(コリント第一 14:26-33)同様に今日の会衆の長老たちも,王国会館の出口に物を置かないようにすること,不必要に席を取らないこと,近所の人々や安全を考慮に入れて駐車することなどに関する指示を与えるかもしれません。こうした会衆に関する規則には,パウロが異言について述べた助言と同じ目的(平和ときちんとした秩序)があるのですから,非聖書的であるわけではありません。このことと関係があるのは,「あなた方の間で指導の任に当たっている人たちに従い(なさい)」という聖書的な助言です。(ヘブライ 13:17)うそや盗みなどの罪を避けるのは神への従順を表わすことなので,この聖句は,会衆内の事柄に関し長老たちの導きに従うことに言及しているに違いありません。長老たちが律法主義的になって,「神の相続財産である人々に対して威張る」ことをしないなら,そうするのも難しいことではありません。―ペテロ第一 5:3。

      21 他の「規則」,あるいは物事の行ない方は全世界の羊の群れを益するものです。例えばエホバの証人は自らの証しの業に関して報告を提出するよう求められています。(使徒 2:41,42; 8:14と比較してください。)個人の自由という極端に走る人は,この手順に同意しないかもしれません。しかし,どんな良いことがなされるかを考えてみてください。羊の群れを監督する人々はその報告を通して,王国の証しの業がどの程度まで行なわれているか,どこに助けが必要か,新しい弟子たちから成る会衆をいつ設立することができるかに関して知ることができています。それにわたしたちも,世界中の報告を楽しく読んできたのではないでしょうか。(エゼキエル 9:11。マルコ 6:30。使徒 14:21-23; 15:3; 19:1-6)神がご自分の民を指導しておられることを確信するなら,わたしたちは支持と協力の精神を表わすことができます。

      22 良心の問題をさらに深く学ぶ必要があるのはなぜですか。

      22 聖書には,特定の律法や規則以上に,賢明なクリスチャンが「自分の道においてとがのない」状態を保つために適用できる,助けになる様々な原則が含まれています。(詩編 119:1)原則は特に,自分の良心を神の考えに合わせる面で助けになります。しかしこのことは“良心の問題”に関して何を意味しますか。中には,“もしそれが,自分の良心で決める問題なら,何をするかは全く個人的な事柄だ”と考える人がいました。次の記事ではこの問題を調べ,良心から最大の益を受けるためにどのように自分の良心を訓練できるかをさらに深く学びましょう。

  • 神が与えてくださった良心から益を得る
    ものみの塔 1982 | 10月15日
    • 神が与えてくださった良心から益を得る

      「その神の律法は彼の心の中にあり,その足取りはよろけない」― 詩編 37:31。

      1,2 自分の良心を導きとすることについて懸念すべきなのはなぜですか。(箴言 12:15; 14:12)

      神は,クリスチャンに広範に及ぶ法典を与えてはおられませんが,幾らかの律法,つまり絶対的な規則や,わたしたちの信仰と良心に応じて適用するための多くの原則は与えておられます。しかし,良心を持っていることと,良心から十分の益を得ることとは別問題です。“もし,ある事柄で自分の良心が痛まないなら,それには問題がない”と考える人は少なくありません。その考え方は正しいでしょうか。

      2 わたしたちの罪深い肉体のゆえに,良心はわたしたちを誤導することがあり,良心は弱くなったり,欺かれたり,汚されたりすることがある,と聖書は示しています。「偽り者,害をもたらす野獣,無為に過ごす大食家」として知られていたクレタの1世紀の住民を考慮すると,“自分の良心を自分の導きにせよ”という考え方の危険性がよりよく理解できます。―テトス 1:10-12。

      3 良心はクレタ人にどんな影響を与えていましたか。

      3 すべての民の場合と同じように,クレタ人も生まれつき良心を持っていました。しかし彼らは良心から益を得ていなかったのです。使徒パウロはクレタのテトスに手紙を書き,こう言いました。「清い人たちにとってはすべてのものが清いのです。しかし,汚れた不信仰な人たちにとって清いものは何一つありません。彼らは思いも良心も汚れているのです」。(テトス 1:15。ローマ 2:14,15)大部分のクレタ人の良心は無感覚になっており,その良心は道徳的な事柄,つまり清い事柄を行なわせる助けにはなりませんでした。(テモテ第一 4:2)多くのクレタ人にとって『清いものは何一つありませんでした』。なぜそう言えますか。良心が汚されていたため,彼らはすべての状況を,よこしまなことを行なうための機会とみなしました。『そのことで自分の良心が痛むことはない』と言ったかもしれません。しかし本当は良心が痛むべきでした。ところが,西暦33年のペンテコステには,クレタ人のユダヤ教徒つまり改宗者が何人かエルサレムにいました。彼らは霊的な知識のおかげで,偽り者,害をなす大食家にならずに済んだでしょう。そしてイエスを受け入れた人々は,正しい,機能する良心を持つようにというイエスの教えからさらに大きな助けを得ました。―使徒 2:5,11。テトス 1:5; 2:2-5; 3:3-7。

      4,5 パウロの例から,良心について何を学べますか。

      4 ところが良心は,神の言葉に絶えず接して正しいことを行ないたいと思っている人をさえ誤導することがあるのです。サウロ,つまりパウロは,聖書に精通しており,モーセの律法に従って熱心な崇拝を行なっていましたが,神のご意志の漸進的な展開には歩調を合わせていませんでした。預言の成就としてメシアが到来し,伝道し,死んだ後も,パウロはパリサイ派のユダヤ教を実践し続けました。パウロの良心は,『会衆を迫害すること』,および『イエスの弟子たちに対する脅しと殺害の息をはずませること』を思いとどまらせるものとはなりませんでした。―フィリピ 3:4-6。使徒 9:1,2。

      5 これらの例は,良心がわたしたちを誤導し得ることを示しています。わたしたちは,良心上の問題で聖書の特定の律法では扱われていない,決定を要する問題に度々直面しますから,どうすれば自分の良心を訓練し,良心から最大の益を得られるかを知る必要があります。これから三つの分野を考慮しましょう。

      神の言葉は何を示しているか

      6,7 神の言葉が良心の問題においてわたしたちを助けることのできる一つの方法を挙げてください。

      6 神の完全な言葉,聖書の中には,神の考えや原則に関してわたしたちを啓発し,わたしたちの良心を教育できる数多くのものが含まれています。すでに注目したとおり,ヨセフは,姦淫を非とする,書かれた神の律法を持っていたわけではありませんが,ヨセフの良心は正しく教育されていました。神のお目的は,夫と妻(「二人」)が姦淫を行なう第三者に邪魔されることなく一つの肉体となることであるという事実に基づいて,ヨセフは推論したのでしょう。またヨセフは,姦淫に関する神の立場を示した,神の友アブラハムに関連した経験を知っていたに違いありません。―マタイ 19:5。創世記 2:24; 20:1-18。

      7 わたしたちも同様の益を得られます。例えば,国籍や人種や背景の異なる人と食事をしたり仕事をしたりする招待を受け入れるかどうかという決定に直面するかもしれません。それは個人的に決定を下すべき事柄です。しかし,公平かつ公正であられる神の態度について,聖書からすでに学んでいるなら,教育されたわたしたちの良心は,何らかの偏見に囲まれて成長したとしても,それらの偏見をみな消し去ってしまうでしょう。わたしたちはそれに応じて行動します。(使徒 10:34,35。ヤコブ 2:1-4)このように,聖書の様々な原則は,わたしたちにも助けとなるのです。

      8 良心によって決定すべき問題に直面したとき,わたしたちはどうすべきですか。

      8 『正しい良心を保つ』ために問題に決着をつける必要がある場合には,その問題に関するエホバの言葉を探し求めるべきです。それはわたしたちの良心と決定に影響を及ぼすことができ,また影響を及ぼすはずだからです。(ペテロ第一 3:16)明白な律法を探すだけではなく,関係した何らかの聖書的な原則があるかどうかにも関心を持つべきです。イエスは,そのような決定に関するご自分の考えを示すようなことを言ったり,行なったりしておられるでしょうか。その問題を論じている聖書研究の手引きを調べてみることができます。また,関係した聖書の原則を見付けるのを助けてくれそうな仲間のクリスチャンに相談することもできます。言うまでもなく,この段階に進むときには,自分の責任を仲間のクリスチャンにゆだねようと考えてはならず,『あなただったらどうしますか』と尋ねてもなりません。―ガラテア 6:5。

      9 良心の問題を決定する際の目標は何ですか。

      9 個人的な決定を下さなければならない状況下で,誠実なクリスチャンは,神のみ前に清い,うずくことのない良心を保てるような道に従うべきです。次のように言える自分を大事にしなければなりません。「わたしたちの良心も証しをしていることですが,わたしたちが世にあって,いや,とりわけあなた方に対して,神聖さと敬虔な誠実さとをもって,……行動してきた,ということです」。(コリント第二 1:12)クリスチャンがエホバとその原則をどれほど愛しているかは,良心の問題に関してどんな決定を下すかに表われることでしょう。

      他の人々はどのような影響を受けるか

      10,11 古代コリントの食物に関する問題は,良心にかかわる問題についてどんな2番目の面を示していますか。

      10 クリスチャンの願いは,自分が神に見倣う者となるよう良心によって動機付けられることなので,良心に関連した決定を下す際には,他の人に対する愛ある関心が大きな影響力となるはずです。パウロが食物に関係した様々な事柄について書いたとき,問題になったのはこの点でした。

      11 コリント会衆では,偶像にささげられた肉についての懸念が生じました。偶像礼拝の儀式の最中に犠牲の肉を食べることは,クリスチャンにとって偶像礼拝になったことでしょう。しかし,神殿とのかかわりを持つ食堂のような店や公の肉市場で売られている余った肉を食べることは罪ではない,とパウロは説明しました。(コリント第一 8:10; 10:25。使徒 15:29)にもかかわらず,以前に偶像を崇拝していたクリスチャンの中には,宗教に関係なく公に売られている肉であっても,それを食べることに過敏な(良心の弱い)人がいました。パウロは弱い良心を肯定したわけではありませんが,これらの兄弟たちのことを考慮するよう他の人に勧めました。これらの人々をつまずかせたり,再び偶像礼拝を良心的に自由に行なえると感じさせたりするようなことをするのは,愛のないことだったでしょう。

      12,13 他の人の見解や良心を考慮すべきなのはなぜですか。例を挙げてください。

      12 パウロはわたしたちすべてが必要とする態度を示しました。「食物[あるいはほかの何か]がわたしの兄弟をつまずかせるなら,わたしはもはや二度と肉を食べません」。自分の良心で決める問題で,それゆえに自由に行動できるとき,他の人の良心を無視し,『キリストがそのために死んでくださったわたしたちの兄弟を破滅に陥れる』なら,わたしたちは神の前における良い立場を失うことになりかねません。パウロは,「わたしの自由がほかの人の良心によって裁かれるということが,どうしてあってよいでしょうか」と尋ねました。(コリント第一 8:3,11-13; 10:29)それが“個人的な良心の問題”と感じられるとしても,その問題が他の人を傷つけるなら,それはエホバからの不利な裁きを受けることになりかねません。このことから,“もしそれが,自分の良心で決めるものなら,それには問題はない”という考えが,いかに人を欺きやすいかが分かります。

      13 ある夫婦の経験を考慮してみましょう。この夫婦は聖書研究を行ない,集会に出席し,バプテスマを目前に控えていました。会衆内の一人の長老はその男の人に,自分はある映画を見て楽しかったと語りました。その男の人は答えました。『えっ! あなたは年齢制限指定の映画を見に行かれるんですか』。a この長老は,この種の映画(この世からもいかがわしいとみなされているもの)の中にも,文句がつけられそうな面を除けば,価値のあるものがあると述べて,自分の行動を弁解しようとしました。しかし,この男の人は影響を受けたようです。そのあとこの人の進歩は妻の進歩より遅くなりました。この長老がコロサイ 3章2節から8節,エフェソス 5章3節から5節,マタイ 7章12節などの聖句を考慮していたなら,それらの聖句はこの長老の良心と行状に影響を与えていたことでしょう。―コリント第一 9:22,25-27。

      14,15 長老たちの一団の良心が,ある個人的な事柄と関係を持つことがあるかもしれません。どのようにですか。

      14 他の人のことを考慮するとは,他の人の良心に反する事柄を認めてほしいと彼らに頼まないようにすることも関係しています。例えば,会衆の長老たちは王国会館で行なわれる結婚式に関して,それがどのように行なわれるか,王国会館をどのように飾り付けるかなどを許可する上で責任を負っています。b ある会衆の長老たちはこう書いています。「ある結婚式では,花嫁の付き添い全員が扇を使って正面通路を出口へ進みました。次の結婚式では最初のものをしのごうとして,花嫁の付き添いたちがかさを振り回しながら正面通路を出口へ進みました。その次のものは勢い,より大がかりで立派なものになりました。彼らは20人の花嫁付き添い人と20人の案内人を望んだのです。王国会館は,まるでサーカス小屋ででもあるかのように用いられるようになりました」。

      15 これは個人で決定すべき“良心の問題”だったのでしょうか。そうではありません。たとえ婚約中の二人の良心が,度の過ぎた突飛なことを許すとしても,長老たち全体の良心を無視することはできません。長老たちは個人的な好みを押しつけたいとは思いませんが,長老たちが関心を持っているのは,会衆全体の平和と調和と霊性です。そして長老たちは,『真理の柱また支えである,神の家の者たちの中でどのように行動すべきかを知る』よう,彼らを良心的に助けてゆかなければなりません。―テモテ第一 3:15。コリント第一 10:31。

      16 自分の良心で決める問題に決着をつけなければならないとき,あなたは何を考慮すべきですか。

      16 したがって,“良心の問題”に関して決定を下すべき事態に直面したなら,(1)その点について神の言葉が述べている事柄,(2)自分たちの決定が他の人々にどのような影響を与え,他の人々をどのように巻き込むかということを考える必要があります。しかし,重要な三つ目の側面があります。

      わたしたち自身はどんな影響を受けるか

      17 良心は,ニューヨーク市の一兄弟にどのような影響を与えましたか。

      17 ナチュラル・ヒストリー誌の1981年8月号に,市内の会社に緊急な荷物や手紙を配達する,ニューヨーク市の自転車配達人に関する記事が掲載されました。この種の仕事を始めた人の実例の中に,次のことが含まれています。「41歳の配達人ドナルドは,自分の収入によって妻と15歳の息子を養うことができる。ドナルドはフィルムを現像する仕事に携わっていたが,その仕事との縁を切った。ポルノ関係のものを製造する上で果たしていた自分の役割を,エホバの証人として容認できなかったからである。配達人としてドナルドは自分の良心にやましい点はないと感ずるだけではなく,自分の自由な時に仕事を打ち切り,人々を改宗させるために一層多くの時間をささげることができる」。

      18 (イ)この兄弟はどのように自分の決定を下すに至ったかもしれませんか。(ロ)このことからあなたはどんな教訓を得られますか。

      18 仕事を決定する際には様々な要素が関係してきます。(26ページの枠の中をご覧ください。)ドナルドの場合のように,スナップ写真,自家製の映画,宣伝映画,商業用映画などのフィルムを現像する会社で働くクリスチャンがいるかもしれません。徐々にポルノに関係したものが扱われるようになっています。あるところまでくると,クリスチャンの良心は自分をとがめるようになります。自分自身がポルノや他の不法な活動にいや応なく巻き込まれていることに気付くかもしれません。ポルノを扱う会社と同列に見られるためか,あるいは依頼されている仕事のためか,その理由はともかく,会衆内の特権を得ている人,あるいはそれを追い求めている人の特別な関心の的である「とがめられるところのない」状態を保つためには,自分はその仕事を辞めなければならないと思うかもしれません。他の仕事を探すときには,確信を持ってエホバの祝福を求めることができます。(テモテ第一 3:2,8-10。ローマ 13:5)汚れたものから害を受けるよりも,そのような仕事を辞めるほうを選んだクリスチャンは数多くいるに違いありません。(マタイ 5:28と比較してください。)ですから,良心で決定すべき問題に直面するときには,『もし自分がこのことを行なうなら,あるいは退けるなら,それは自分にどんな影響を及ぼすだろうか』と尋ねるべきです。自分の良心を無視し,それをまひさせて悪いことを将来行ないやすくさせるべきでは決してありません。―テモテ第一 4:2。ユダ 10。エフェソス 4:18,19。

      19,20 (イ)良心と信仰は,わたしたちの宣教に関し,どのような影響を及ぼすことがありますか。(ロ)富んでいようといまいと,わたしたちはどんなことを願うべきですか。

      19 ドナルドが下した良心的な決定を考慮する際には,この人がエホバとの是認された関係を追い求めたことに加えて,自分の信仰をもっとふれ告げたいと願ったことに注目すべきです。この点は,パウロが信仰と良心を結び付けたことと一致しています。「この指令が目ざしているものは,清い心と正しい良心と偽善のない信仰とから出る愛です」― テモテ第一 1:5。

      20 『自分の足取りがよろけない』ようにするため,また「神のみ旨をことごとく」広めるためにより多くの時間と注意を振り向けられるよう,自分の信仰と,正しい良心に対する願いに動かされて調整を施すのは,ほめるべきことです。(使徒 20:26,27)しかし,状況からすると宣べ伝える業においてより多くのことができそうなのに,そうしない人々をどう見るべきでしょうか。そのような人々は仕事から多大の収入を得ているかもしれず,この体制で快適な生活を送るために必要な十分の経済力をすでに得ているように見えます。ところがそのような人々は,開拓者として全時間弟子を作る業に歓びを感ずるのではなく,仕事や家や楽しみごとの規模を広げるために働き続けます。c (マルコ 10:17-22; ルカ 12:16-21と比較してください。)このような分野で他の人を裁くのは,わたしたちの分を越えたことです。「わたしたちは各々,神に対して自分の言い開きをすることになる」からです。むしろ,清い良心を享受できるよう,偽善のない信仰に動かされて神に十分奉仕するようにしましょう。―ローマ 14:1-4,10-12。

      正しい良心によって導かれる

      21 わたしたちの良心はどんな積極的な影響をわたしたちに及ぼすことができますか。

      21 正しく教育された敏感なクリスチャンの良心は,良いことを行なうようわたしたちを導きます。パウロの場合がそうでした。パウロは,「自分の兄弟たち」である仲間のユダヤ人に深い関心を払っていたため,こう書きました。『わたしの良心が聖霊によって共に証ししています。わたしの心には大きな悲嘆と絶えざる苦痛があります』。(ローマ 9:1-3)そうです,パウロはキリスト教の良いたよりを彼らと分かち合うため,できることすべてを行なったのです。

      22 良心が,規則以上の動機付けを与えることができるのはなぜですか。

      22 わたしたちの場合も同じであるべきです。神から与えられた良心の価値を認識するなら,ただ規則の観点から物を考える傾向に陥ってはなりません。規則は,要求や目標を最小限にとどめてしまうことがあるのです。しかし愛と信仰によって鼓舞された良心は,わたしたちにより多くの要求を課し,より大きな犠牲と利他的な行為へとわたしたちを動かすことでしょう。そのようにして,わたしたちは確かに自分の良心から益を得ます。それは,神から非とされる結果を招くような事柄からわたしたちを守り,神が確かに是認される事柄を行なうようわたしたちを助けてくれます。わたしたちの良心が,良いたよりをふれ告げる業に一層多くあずかるようわたしたちを導くとき,特にそのことは真実です。パウロがテモテに述べたこと以上に優れた益があるでしょうか。パウロはこう語りました。「自分自身と自分の教えとに絶えず注意を払いなさい。これらのことをずっと続けなさい。そうすることによって,あなたは,自分と自分のことばを聴く人たちとを救うことになるのです」― テモテ第一 4:16。

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