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正直は人に訴える目ざめよ! 1975 | 3月22日
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「道徳,礼儀,正直の高い水準を保っているゆえに,彼らはどの都市で大会を開こうと,良いものだけを持ち込んでくる」。
家を離れ,親しい人々に見られていないときでも,これらのクリスチャンは正直です。報道されているところによれば,ホテルやモーテルの客の中で三人にひとりは,ホテルやモーテルのものを盗んでいます。しかしこれらのクリスチャンは,そのような人ではありません。ニューヨーク・タイムズ紙は次のように報じています。「ホテルやモーテルの物品をおみやげに盗んで行く人は,アメリカ中でたいへんな数に上る。……持ち去られる物品の価格を正確に算定するのは不可能だ」。
したがって,カリフォルニア州サンバーナジノの,ある大きなモーテルが,エホバの証人であるひとりの婦人に感謝状を出したのも不思議ではありません。彼女は自分の荷物にまぎれ込んで持ち帰ったタオルを送り返したのです。モーテルの主人の手紙の結びにはこのように記されていました。
「タオルをお返しくださったのは,あなたが初めてです。わたくしどもの備品調べによりますと,昨年中に五百本以上のタオルがなくなっています。お手紙をいただきましたことはまことにうれしく,またのお越しをお待ちしております」。
このクリスチャンが正直であることの,なんとりっぱな証しでしょう。しかも彼女のような,大ぜいの真のクリスチャンは,このような点で正直でありたいという願いを培ってきました。
生活のあらゆる面において,人は何事をするにも正直を第一にしなければなりません。そして正直という点で,ますます敏感になるにつれて,ほかにも学ばなければならない事があります。それはなんですか。つり合いという事です。
つり合いのとれた見方
自尊心を持つ人は,物の大小を問わず盗人と見られることを望みません。しかし他の極端つまりばか正直と見られることは,おそらくクリスチャンの兄弟たちの間においてさえ望まないでしょう。それで何が盗みになるかという事は,必ずしも常に割りきっては決められないことを悟るようになります。日常生活において原則をあてはめる際には,どちらともにわかには決め難い事柄が多くあることに,すぐ気づくでしょう。
クリスチャンは,十戒の第八番目が単に「汝盗むなかれ」と命じていることを知っています。(出エジプト 20:15。マタイ 19:18。ローマ 13:9)生活の多くの面において,先のタクシー運転手と宝石の場合のように,このことばを理解して適用することは比較的に容易です。しかし,たとえば公衆電話をかけているとしましょう。通話を終えたとき,硬貨が電話器の中に落ちずに返却されたらどうですか。それを持ち帰るのは不正直でしょうか。
それを良いとするにせよ悪いとするにせよ,いずれか一方の答えがすべての場合にあてはまるでしょうか。ある人は,問題の硬貨を持ち帰るべきでないとするかもしれません。しかし別の人は,以前に同じ公衆電話を使ったとき,料金をきちんと入れたのに電話の切れてしまったことが何度かあったのを覚えているかもしれません。硬貨を持ち帰るべきか否か ― これはその時の情況を知る人が自分で決めるべき問題ではないでしょうか。
あるいは別の例を考えてみてください。勤め先の会社の鉛筆を持ち出すことは,良くないことであると,すぐに批判されるかもしれません。しかし宣伝の目的で,社名入りのペンや鉛筆を従業員がばらまくのを奨励している会社もあります。
また,せりによる売り買いが行なわれる場合はどうですか。ある国においては,商品,たとえば毛布を売る人は,実際の価値より高い値段をわざとつけます。一方,買い手は,その毛布がどれほどの価値のあるものかを知っていても,初めからその値段をつけるのは愚かであることを承知しています。掛け値をやりとりするのが,せりの方法だからです。ふつう買い手が高い買値をつけるのに応じて,売り手はやっと値段を下げ,双方の同意する値段が決まります。
あなたが買い手であると仮定すれば,毛布のほんとうの価値よりも低い値を初めにつけたからといって,自分が不正直であると感じますか。品物の価値どおりの値を初めからつけて,結局,高い金を払わされるほうが,『もっと正直』ですか。あるいは売り手であると仮定すれば,高い値段から出発しないために,いつも損をして売るのが,はたして当然のことと言えるでしょうか。それが道理にかなっているとは思われません。ふつう買い手と売り手のどちらも,双方の同意する最終的な値を前もって知っているわけではありません。掛け値をやりとりするのは,それを決めるための方法また慣習にすぎないのです。
これら二,三の例からわかるように,つり合いはどうしても必要です。円熟したクリスチャンは,「汝盗むなかれ」という聖書のことばを知っています。同時に,この律法を生活において適用することに熱心に努めるとき,情況を考慮すべきことも承知しています。また,人はそれぞれ『自分のまくものを刈り取る』という事も知っていなければなりません。(ガラテア 6:7)あまりにも自由な見方をしているといざという時に信用されない傾向があるかもしれず,一徹すぎても現実に合わなくなるおそれがあります。
正直さのかかわる問題でどんな決定をするかには,他の人にわからない要素の関係している場合があります。クリスチャンは,自分自身の人生の経験からそのことを知っています。それで情況が自分のと似ている場合でも,他の人のすることをすぐに非難したりはしません。むしろ,仲間のクリスチャンがすべての事を正直に行なおうと誠実に願っているものと信ずるでしょう。このように思いやりを示すことは,イエスの次のことばとも一致します。「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」― マタイ 7:12。
エホバの証人は世の人々と著しい対照をなしています。この世は不正直という点で知られていますが,エホバの証人はそれとは正反対であることに努めています。一般にエホバの証人は正直という印象を世間に与えています。不正直に傾いている現代の世の大多数の人とは異なって,エホバの証人は,前述の例の示すように自分たちの生活において,すすんで原則を考えます。それ自体も驚くべきことです。
あなたの知っている人の中で,すべての事に正直であろうと誠実に努めている人がどれだけいますか。五十人でも百人でも二百人でも,そのような人と交わるのを想像してごらんなさい。それは世界各地の王国会館で,エホバの証人が互いに知り合うようになるときの楽しい経験です。彼らは互いを兄弟姉妹と考えており,暖かい同じ家族の者のように互いに信頼し合っています。それはあなたの心に訴えるものではありませんか。
もしそうであれば,エホバの証人の王国会館で彼らと交わってはいかがですか。エホバの証人がなぜ異なっているのかを,ご自分の目で確かめてください。
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世の影響を受けている目ざめよ! 1975 | 3月22日
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世の影響を受けている
■ 多くのカトリック教徒の生活により大きな影響を与えているのは,教会ではなく,この世です。それで,全米カトリック司教会議は次のように指摘しています。「いずれにせよ多くの人々は,カトリック教徒の大多数にとって世俗の社会の影響は,よかれあしかれすべて,教会の影響以上に大きな意味を持っている,と言うであろう」。
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