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  • 権威に従うことにより益をうける
    ものみの塔 1962 | 12月15日
    • 王は神の剣のようでした。(エゼキエル 21:8-23)エホバはバビロンの王を彼の木こりのようになし,頑丈な木のごとく成長したエジプトを伐りたおして服従させました。(エゼキエル 31:2-14)ペルシャのクロス王は,エホバによって油を注がれ,世界強国なるバビロンをいやしめて倒しました。―イザヤ 45:1-4。

      21 (イ)西暦70年,神は御自分の報復者としてだれを用いましたか。だれに対して?(ロ)「権威」が報復者としての役割をはたすのは,それが聖書の預言を成就している時だけですか。あるいは何時?

      21 キリストの使徒の時代中,エホバ神は,西暦70年,ローマの権威を用いて,剣を帯びる彼の報復者にならせました。その年「刑罰の日」,すなわち報復の日は,クリスチャンに反対したイスラエルの国民にのぞみました。それで,その聖都および崇拝の宮は,タイタス将軍のひきいるローマ軍隊によって滅ぼされました。(ルカ 21:20-24。マタイ 23:35から24:2まで)それはイスラエルに対するさばきの日でした。しかし,この世の「権威」が不従順な国民のさばきの日まで待って,それから「怒りを表わす報復者」の働きをする必要はありません。報復者の怒りは,その「権威」の法律手段により,悪事を行なう人に対していつでも示されます。それで,使徒パウロの言葉の真理は,神が一国民に対して預言を実施せられる時だけに限られる必要はないのです。

  • 良心および権威への服従
    ものみの塔 1962 | 12月15日
    • 良心および権威への服従

      1 権威に従うことから最大の益が得られるのは,どんな場合ですか。したがってだれが最大の益を受けますか。

      神が地上で支配することを許す「存在している権威」に,正しい動機で服従するとき最大の益を受けます。恐怖という動機は,かならずしも人に悪行をひかえさせるもの,あるいは「上なる権威」にそむかせない力とはなりません。あらゆる国や地において,最善の動機をもって服従する人々は,キリスト教国に属する人々ではなく,むしろエホバ神に献身していて,御子イエス・キリストの足跡に従うクリスチャンたちです。彼らは神の御心を行なうことに献身しているゆえ,「上なる権威」についての神の取決めにもそむきません。地の住民として,彼らは良い秩序を保ちます。それは上なる権威を通して示される怒りを避けるためばかりでなく,神の御言葉によって解明されるクリスチャン良心に従って生活するためです。

      2 ロマ書 13章5節には,服従をすゝめるどんな強い理由が述べられていますか。その理由のゆえに,服従する人々は何を避けますか。

      2 ロマ書 13章5節(新口)で,使徒パウロは次のように述べています,「だから,ただ怒りをのがれるためだけではなく,良心のためにも従うべきである」。悪行に対する怒りは,地的な「権威」を通して直接示されます。しかし,その権威は正しく行使されるときの僕であるゆえ,それはまた神の間接的な怒りです。地上の「上なる権威」を無視する者あるいは反対する者は,神の取決めに反する者であり,神の怒りを受けるのに価します。罰を喜ぶ人はひとりもいません。しかし,クリスチャンは良心のためにも罰を避けることによって外部の問題を避けるだけではなく,有罪感に責められる内部の問題をも避けます

      3 権威に対するクリスチャンの服従が良心のためであることは,何から分かりますか。それでクリスチャンはどんな苦しみを受けることがありませんか。

      3 真のクリスチャンの場合,法律に従って秩序を保つための主要な動機は恐れではなく,その良心です。それで,彼らの場合,上なる権威に従うことは,良心のない服従ではありません。それは単なる愛国主義ではありません。彼らの良心は,神の御言葉なる聖書について教えを受けるゆえ,万事において地的な上なる権威に従うわけではありません。たとえば,不完全な権威が正しいと考えることが,キリストを通して述べられる神のいましめと衝突する場合がそうです。この場合,権威の手によって私たちは不当の苦しみを受けるかも知れません。このように,クリスチャンの場合,良心に動かされていることが分かります。たとえ不当な苦しみを受けようとも,その良心のゆえに神に従うからです。もし彼が啓発された良心を持たないなら,彼らはそのような苦しみを避けて,個人的な便宜をはかるでしょう。しかし,良心のために彼らが上なる権威によって外部の苦しみを受けるとしても,内部の苦しみを受けずにすみます。彼らは良心の苦しみを受けません。

      4,5 (イ)クリスチャンには良い市民となるどんな理由がありますか。(ロ)使徒ペテロはこの事について何を示していますか。それでどんな二つの力がクリスチャンに善行を励ましますか。

      4 神の御言葉によると,私たちは,クリスチャン良心を持つとき,悪を行なわず,むしろ善行を励まされます。私たちは神の目から見て悪いことを行ない,そのために良心の苛責を受けたいと思いません。このわけで,クリスチャンはこの世の人の持たない悪に対する抑制力を持っています。それで,クリスチャンは政治に参加しませんが,良い市民になれます。

      5 クリスチャンはその良心のゆえに,自分がこの古い世の一部でないこと,および政治に介入して地的な政府を運営する,あるいは「上なる権威」の一部になるべきでないと知ります。(ヨハネ 17:14-16)使徒ペテロは,クリスチャンに宛てた最初の手紙の中で,服従について語り,良心について数多く注意をひいています。クリスチャンは,その良心のゆえに悪行をせず,自分と関係しない事柄に介入すべきではないとペテロは指摘しています。(ペテロ前 2:19; 3:16,21)それで,クリスチャン良心および怒りに対する恐れという二重の力のゆえに,クリスチャンは善行の道からはなれません。それは正義を示す正しい国家の法律と一致することです。なぜなら,この世の人々にも,神のつくった最初の人間アダムから受けついだ良心がいくらか残っているからです。

      6 前述のすべてのことは,「上なる権威」に対するクリスチャンの服従について何を証明していますか。

      6 この全部は何を証明しますか。こうです。パウロがクリスチャンたちに「上なる権威」に服従せよと告げたとき,彼らがその良心を断念しなければならぬ,あるいは押しつぶさねばならぬという意味で言ったのではありません。権威の法律と神の御言葉のあいだに食いちがいがあるとき,クリスチャンは良心を無視するべきことをパウロは意味したのではありません。神の律法は正しいものです。クリスチャンは神の律法全部に従うとき,良心について懸念する必要はありません。私たちが神の律法を守って,神のわざをするとき,私たちは良心に苦しめられません。むしろ,良心は私たちを是認し,私たちに心の平和を与えます。神の制度外の権威に服従するときだけ,良心の問題が介入します。私たちは神の不興を買って神の律法を破らないようにするため,良心をとぎすませていなければなりません。

      「上なる権威」に払わねばならぬものを払う

      7 ロマ書 13章6節が税金のことを述べている事実から,「上なる権威」について何がわかりますか。

      7 「あなたが貢を納めるのも,また同じ理由からである。彼らは神の公共の僕として,もっぱらこの務に携わっているのである」。(ロマ 13:6,新口)それで,私たちが税を納めることは,良心にもとづくものでなければなりません。もしパウロがクリスチャン会衆外の「上なる権威」について語っていなかったなら,彼は税のことを論じなかったでしょう。なぜですか。なぜなら,会衆の監督とその奉仕の補佐たちは,監督やその補佐たちを支持するため会衆の人々に税を課さないからです。全世界を管かつする会衆の統治体も税を課さず,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会も税を課しません。会衆の会員の寄付は,それぞれの資力に応じ,自発的な気持からされるのです。それは,この世で払わないなら,「上なる権威」から罰せられるような,税とちがいます。

      8 ロマ書 13章6節については,それが挿入句であることを示すものが何かありますか。それは課税の理由として,どんな事をあげていますか。

      8 聖書の新世訳にしても,あるいは昔と今の他の聖書訳も,「あなたがたが貢を納めるのも,また同じ理由からである」という言葉をかっこの中に入れていません。つまり,あたかも副の考えとして挿入された思想のようにしていません。実は,これらの言葉は文章の残りの部分にむすびつけられ,税を払う理由が示されています。私たちは「公共の僕たち」を支えるために税を払います。彼らは,善をするため,善をする者をほめるため,そして悪をする者に報復するため権威を持っているのです。

      9 クリスチャンが税をおさめるのは,マタイ伝 22章21節と調和して,どのように正しいことですか。この点に関して,どんな事柄はクリスチャンの責任ではありませんか。

      9 エホバの民は税を納めることを避ける,あるいはのがれようとしません。彼らは良心的に税を納めます。ユダヤ人のパリサイ人は,異邦人のカイザルに良心的に税を納めることはできないと信じていましたが,イエスはマタイ伝 22章21節で,そうするように命じました。公共の僕あるいは官吏の行なう良い奉仕に対して税を払うことはエホバの律法と一致することです。税は,公共の官吏を支持します。彼らはクリスチャン会衆のしない奉仕をします。これらの「公共の僕」が公共の金全部をどのように費すかは,税を払うクリスチンの責任ではありません。それは公共の僕の責任です。それについて私たちが良心を悩ます必要はありません。神は御子イエス・キリストが政府に介入することを許可しませんでした。同じく神はキリストの足跡に従う弟子たちが政府に介入することを許可しません。それで,この世にいる私たちクリスチャンは地的な政府を自分たちの手で運営するかわりに,他の人と同じく税を払わねばなりません。

      10,11 (イ)各人はどんな場合に「神の僕」として働き,どんな場合にそうではありませんか。(ロ)権威の濫用にもかゝわらず,「公共の僕」はどんな働きをしますか。

      10 それで,これらのこの世の人々のおかげで,政治に介入しないクリスチャンは政府を運営しなくてもすみます。しかも政府は,多くの面でクリスチャンに益を与えるのです。すると,比較的な意味において,政府の官吏は「神の公共の僕」であって,これらクリスチャンが第一に神の御国を求めてその伝道に専念するとき,神の民に有益な目的を果たします。もちろん,これらの「公共の僕」が奉仕せずに反対するとき,彼らが自分をあがめる独裁者になるとき,彼らがエホバのクリスチャン証者を迫害するとき,彼らはそれらの面で神の公共の僕でなくなります。しかし,全部の面ではありません!

      11 なぜですか。なぜなら,それ以外にも彼らが公共につくしている他の奉仕があるからです。迫害を受ける証者たちもその奉仕から益を受けます,たとえば郵便局,消防署,水道,学校,公共の交通運輸,道路の維持その他です。さもなければ,迫害を受ける証者たちは独裁政権や全体主義的な政府の下にいて,存在することもできず,生き残ることもできないでしょう。独裁者たちは生き残りませんが,エホバのクリスチャン証者たちは生き残ります!

      12 神が圧制者を許すことは,献身した神の民にとってどんな意味がありますか。どんな結果となりますか。

      12 神は御自分の献身した民の忠実を験すため,しばらくのあいだそのような独裁者や全体主義的な圧迫者たちの活動を許します。また彼らがこの世の「上なる権威」に平和に服従しているかどうかも験されます。迫害を受ける証者たちがこのように忠実を保って耐え忍ぶことによって,この世の人々は証者たちの従順な態度を見,彼らの無罪なることを悟ります。迫害をそそのかした偽りの告訴者たちは,意識的な偽り者として恥をかかされます。

      13 「上なる権威」について言えば,エホバの証者が政治に参加しないことから,どんな事が言えますか。

      13 エホバの証者は政治に参加せず,政治職に立候補しません。彼らはこの世の人々に人間の政府の運営をまかせねばならないのです。私たちの益のために,そしてクリスチャン奉仕を拡大するために,私たちがそのような上なる権威を用いることは,神の御心です。

      14,15 (イ)したがってクリスチャン宣教のため,私たちは何を利用しますか。その行いはイザヤ書 31章1-3節と一致しますか。(ロ)そうでなければ,なぜ私たちはカイザルに何も払う必要がないのですか。

      14 そのために,私たちはそのような権威の供給する警察の保護,図書館,交通の設備,船舶の施設,郵便局,学校などを利用します。外国の支部事務所とか宣教者の仕事に関連して,私たちは領事館や大使館を利用して,その援助と保護を求めます。私たちには国務省へ行き,外国にある資産が悪用されたり,代表者が悪い仕打

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