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求めるべきもの 正しい良心ものみの塔 1961 | 11月15日
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多くの警告を無視されたために,麻痺してしまった良心は,善い事をするのにうみ疲れています。そのような良心はもはや警告を発しませんし,発したとしても非常にかすかで弱いものです。聞き入れられないということで,すっかりあきあきしています。警告を無視するなら,パロのごとく,善に対して心をかたくなにすることになります。昔のイスラエル人のように,暗きを光と呼び,光を暗きと呼ぶことになります ― これは今日いとも容易に従うことのできる道です。
確実性を得るため訓練は必要
良心は自動的なものではありません。また絶対にまちがわぬというものでもありません。良心は訓練されねばなりません。良心が価値あるものかどうかは,心に取り入れる知識がどんなものであるか,ということでたいていきまってしまいます。たとえば,犯罪とか,一夫多妻あるいは一妻多夫が見られるような環境で訓練された良心は,このようなことを良心のかしゃくなしに受け入れることができます。不文法結婚とか姦淫,淫行が一般に行なわれている,いわゆる道徳的にふしだらな環境でつくられた良心は,このような非行をあたりまえだと思います。また,偽ったり,だましたり,汚職をしたりというように,ずるく立ち回る商売の間ででき上がった良心は,だれもがするから,あるいは認められているからという理由で,このような非行を大目に見るようにします。全くのところ誤って導かれた良心は,非行者の非行を許してしまいます。しかし,良心が許したからといって,神が許してくださるわけではありません。パウロは言いました,「みずからかえりみて,私にはすこしもやましいところがないが,それで義とされるのではない。私をさばく方はエホバである」。―コリント前 4:4,新世。
良心を信用することができるとしたら,それは神の御心に従って訓練された時だけです。神からの教育を受けた良心が,ちくりちくりと痛むとき,それはクリスチャンを助けて生命の道を安全に歩ませてくれます。そのような良心は日々の生活に正しい原則を適用させ,こまごまとした,行動の律法をさだめる必要をなくします。
神の御言葉,聖書の正確な知識は,神の義に従って良心を訓練するのに必要です。なぜなら神の御言葉は生きており,「心の考えと思いとを見分けることができる」からです。神の御言葉は,良心を正義のうちに訓練する力があります。良心が弱いのは,正確な知識が欠けているためです。神の御言葉を研究して,その御言葉に信仰をおくなら,良心を強くすることができます。神の戒めに従うなら,クリスチャンは「よき良心を保て」という命令を守ることができます。―ヘブル 4:12,新世。ペテロ前 3:16。コリント前 8:7。
よき良心を保つ
よき良心を保つためには,常に神の知識を取り入れねばなりません。それから決定を下し,神の御言葉の原則と一致した行動をとるべきです。パウロの言ったように言うことができねばなりません,「わたしはまた,神に対しまた人に対して,良心に責められることのないように,常に努めています」。―使行 24:16,新口。
良心を汚すことは非常に容易です。警戒をゆるめ,聖書の標準のかわりにこの世の道徳的標準をとり入れるなら,良心は私たちのために働かなくなります。あやまちに対して敏感であり大きなまちがいから,教訓を学び取らねばなりません。非行を行なった時,エホバと私たちの兄弟の許しをこうべきです。イエス・キリストの血に対する信仰は,明らかな良心を神に願い求めることを可能にします。(ペテロ前 3:21。ヘブル 9:14; 10:22)それで悪を芽ばえさせたり,自分を常に責めたりしないで下さい。むしろ,神の与える許しを受け入れて下さい。そして祈りと勉強を通して,更に罪を犯さぬよう防壁を作って下さい。
よい良心というのはいろいろと言いわけをするということではなく,私たちの道徳をうつしだす鏡です。それで,その主な特徴は誠実ということです。偽善は良心に敵対するものです。良心がその本分を果たすためには,私たちがそれを正しく用い,その警告をよく聞き入れ,その力を増すようにしなくてはなりません。―ロマ 9:1。コリント後 1:12。
勤勉な神のしもべは,常に自分の良心を調べて正します。良心が適当な注意を受けるなら,それは神のしもべを導き一そう高い義務と徳行に対して,よりよく答え応ずるようにさせる力になります。一方,怠慢なしもべ,あるいはもっとまがった人の良心は,その働きをやめてしまうでしょう。
すべての悪しき者に対する神のさばきの執行を思って,私たちは恐れおののきます。(マラキ 3:5)しかし,こわいからという理由だけで悪をさけ,善を行なうのであってはなりません。正義を良心的に愛するというのが,私たちを動かす原動力でなくてはなりません。それでパウロは次のように言っています,「だから,ただ怒りをのがれるためだけではなく,良心のためにも従うべきである」。それで,良心のために,私たちは神に従い,良いことをしたいと思うべきです。―ロマ 13:5,新口。
他の人の良心
クリスチャンは自分自身の良心だけでなく,他人の良心のことをも考えるべきです。自分の良心をないがしろにするなら,それは無感覚になり,それ自体いやしと保護を受けることができません。他の人の良心を無視するなら,その人たちを怒らせ,生命に至る道の途上,彼らをつまずかせることになります。パウロはこのことをよく知っていました。パウロは,自分が自由に振舞ったために,兄弟の弱い良心を痛めるようなことがあれば,その自由を犠牲にしてもよい,と言いました。―コリント前 8:7-13; 10:27-29。
一方,パウロは,偽りの宗教家たちの誤って教育された良心をただ満足させるために,自分の良心を妥協させるというようなことをしませんでした。自分たちの良心を再教育するのは,宗教家自身の責任でした。弱い良心に対して思いやりを示さねばなりませんが,どのような状態にあっても,この世の人々の持つ汚れた不敬虔な良心をクリスチャンの導きとすべきではありません。
もし,全世界が,クリスチャンの真の良心を持っていたとしたら,人々は兄弟が兄弟に対するように,お互いに責任を感じることでしょう。人々は動かされて自分自身だけでなく,隣人や敵を愛するでしょう。クリスチャンの良心があるところでは,殺したり,貯えた物や労苦の実を滅ぼしたり,世界中の何百万という家々の一致をおびやかしたいという気持ちがおこらないでしょう。ただ,神の原則に従って生活し,平和に生きたいという願いがあるのみです。それですべての人はよい良心を求めるべきです。神にそのような良心を願い求め,その願いと一致して行動して下さい。―マタイ 5:43-48。
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ロシアにおける迫害ものみの塔 1961 | 11月15日
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ロシアにおける迫害
共産主義者たちが用いる一つの迫害の手段は,治安警察署員によって開かれる集会です。数百人の町の人々が集められますが,その中に私たちの兄弟たちがいるわけです。それから,共産党の種々の協力機関の乾部たちは,1959年のコルホーズナヤ・プラウダ紙が伝えたように,「この宗派は,一つの地下政治組織で,ソビエト政府に対する破壊活動をつづけており,新しい戦争のことを公然と宣伝している」とエホバの証者を非難します。すると参会者は,自分たちの地域にいるエホバの証者がその活動を中止して信仰を捨てることを要求し,証者はそのことについて公衆の前で質問されます。信仰を捨てることを拒否する者を,その土地から排斥する宣言文が作成されます。証者たちは職場から追い出され,生活の手段を失います。
責任の地位にある兄弟は,方々で開かれたこの種の集会について報告を寄せていますが,さらにこうつけ加えています,「しかし彼らはまだ,大した成果をあげていません。エホバのあわれみにより,大多数の兄弟姉妹は,励ましを受けてしっかりとした態度を保っています。そして,むずかしい問題があるにもかかわらず,多くの小さなグループに分かれて集まり合い,命の食物を共に楽しみ,また主の他の羊を集めることに最善の努力を払っています」。―1961年のエホバの証者の年鑑より
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