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世界の人に喜びを与える結婚式ものみの塔 1967 | 8月15日
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僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは,すなわち預言の霊である』」― 黙示 19:10。
20 ヨハネが天使の前にひざまづいたことは,一部の宗教家によってどう見られるかもしれませんか。天使は,このようなことが禁ぜられている理由をどのように説明しましたか。
20 この天使は明らかに,ヨハネに黙示を伝えるためイエスによって遣わされたのと同じ天使です。(黙示 1:1)この天使は“相対的な崇拝”と言うべきものをさえ許しませんでした。黙示の偉大な源であるエホバ神のみを崇拝すべきであり,すべての預言はエホバの御子,油そそがれた王であるイエス・キリストをあかしするために霊感されました。イエス・キリストは真理です。すなわち宇宙を治めるための,また人類に生命を得させるための神の定めです。天使はこれらのことをヨハネに思い起こさせました。預言に霊感を与えるのはエホバであり,したがって天使は「神だけを拝しなさい」と命じました。
結婚式は一定の期間にわたる
21 (イ)花嫁の成員のある者が,はじめて花むことともになったのはいつですか。(ロ)現在死ぬ残れる者は何を経験しますか。(ハ)大いなるバビロンが滅びてのち,婚礼に招かれる残れる者については何が言えますか。婚姻が完了するのはいつですか。
21 聖書の預言と現代におけるその成就が証明するところによれば,イエス・キリストは西暦1918年,父なるエホバ神とともにさばきのため宮に来られました。イエス・キリストは花嫁の成員のうち死の眠りについていた者たちにまず注目し,彼らを復活させました。言うまでもなく,彼らはそのとき花むこと一緒になったのです。ついで黙示録 14章13節は次のように述べています。「『今から後,主にあって死ぬ死人はさいわいである』。御霊も言う,『しかり,彼らはその労苦を解かれて休み,そのわざは彼らについていく』」。ゆえにこれらの人々は死ぬとただちに天の花むこに加わります。バビロンが滅びてからも,油そそがれた残れる者の一部が地上にいることは確かです。彼らは朽ちない不滅の霊者に変えられて愛する花むことともになるために,やがては死ななければなりません。これらの人々のうち最後の者が復活して天に上げられる時,小羊の婚姻は完了します。しかしこの婚姻の最大の益が人類にもたらされる前に,花むこにはなすべき戦いがあるのです。それがどように行なわれ,また彼と花嫁とがどのように“家族”の世話にとりかかるかは,本誌の次号以下にとりあげられます。―コリント第一 15:51,52。
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「自ら心で決めたとおりに」施しますかものみの塔 1967 | 8月15日
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「自ら心で決めたとおりに」施しますか
わずか9歳の少年でしたが,彼の心には神の御国の福音が根ざしていました。このことは,アテネにあるものみの塔聖書冊子協会の支部事務所に送った彼の手紙から明らかです。「1年に1回の学校の試験にぼくが100点でパスするならば500ドラクマ[約6100円]をプレゼントしてあげようと両親が言いました。ぼくは試験にパスし,両親は自分の思うように使いなさいと言って約束した贈物のお金をくれました。ぼくはよく考えてから,このお金を良いたよりの出版物の拡大のために使おうと決め,監督をとおしそれを送ります」。a
立派なことですか。そうです。しかしとくにめずらしいことではありません。というのは,神の御国の福音が子供の心を捕えることは,ソールスベリーのものみの塔協会支部事務所に手紙を書いたローデシヤの5歳の子供のことからもわかります。「親愛なる兄弟,わたしのお父さんがお菓子を買うようにくださった1シリング[約50円]を協会に寄付します。お菓子を買うかわりに,それよりもっとたくさんのことに役だてたいので協会に送ろうとわたしの心にきめました」。b
そうです。そのような利己心のない精神を子供が示すのは立派なことですが,「ぼくはよく考えてから決めました」と書いた9歳の子供や,「協会に送ろうとわたしの心にきめました」と言い表わした5歳の子供の考え方 ― これら二人の子供の円熟した考え方 ― はもっと立派なことです。
二人の子供はまず最初にある程度考えたようです。次に利己心のないとっさの思いを表わすよう子供の小さな心で決め,それを実行したのです。そうすることにより,彼らは霊感によるパウロの次のすすめに従って行動したことになります。「豊かにまく者は豊かに刈り取ることになる……自ら心で決めたとおりにすべきである」― コリント第二 9:6,7。
使徒パウロはこのすすめにより,神の御霊によって得られた人間性の知恵と理解を表わしています。私達はキリスト教のために,給料のうちからいくらかを寄付するよう,十分に考慮した末,心で決めたかもしれません。しかし,お金を手離す段になると,それはたやすいことではないでしょう。自分の心で決めることは支払うよりもはるかに容易なのは明らかですが,忠実さの試験や神の前で自尊心を保つことの試験と共にその人の認識の試験となります。私達が心できめた時にはキリスト教を深く認識していました。ところが実際に与える段になると,急に自分の必要物が気にかかりさし迫ったもののように思えるでしょう。この原則は誓いをたてることに関する原則とよく似ています。―伝道の書 5:4-6。
この原則は生活の多くの場合に適用できます。たとえば,夫は病気で床に伏しているかもしれません。彼は妻の示す手厚い看護と愛情に感謝し,快復したならさっそくバラの大きな花束を買うかあるいは上等な食事につれて出かけようと決心します。しかし病気がなおるとそのことを忘れるか,あるいは無駄で感傷的な考えのように思って消し去ってしまうかもしれません。彼が病気の間,妻のなしたすべてのことに深く感謝し,快復したときにしようと決めていたことは立派であり分別のあることでした。それで彼は病気の時に心に決めたとおりに実行しなければなりません。
崇拝に関して
この原則はクリスチャン生活の中で多くの場合に適用されます。たとえば時間に間に合うように会衆の集会に出席することはどれほど大切か,よく心に銘記しているかもしれません。またこのことは神の御言葉,神のとりきめなどに尊敬の念を示すものです。それでこれから時間に間に合うように行こうと決心します。しかし次の集会の時になると,もっと早く出かけるように自分にむち打つことはそれほど簡単なことではありません。けれどもそうする責任があり,自分の心で決めたためにこれを実行しなければなりません。
また,クリスチャンは会衆の奉仕会で野外奉仕に関する助言やすすめに注意深く耳を傾け次の日曜日は午前中3時間奉仕して神の御国の福音を家から家に伝え,再訪問しようと心で決めるでしょう。しかし天候が少し悪くなるとか,「聞く人」がほとんどいないとか,ほかの人が1時間あるいは2時間でやめるかもしれません。それで自分の心で決めたこと
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