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    ものみの塔 1965 | 8月1日
    • なぜ寄付を集めないか

      なぜ寄付を集めないのですか。これはエホバの証者の御国会館をはじめて訪れる人がよくする質問です。西アフリカ,ナイジェリアのある町で最近あった出来ごとはその典型的なものです。教会の寄附集めになれていた一青年は集会後,前にきて6ペンスをのせた盆を監督にさし出しました。しかし彼が受けとらないので「どこの教会でも牧師が寄附を断わるなんて見た事がありません」と驚きました。

      確かにこれは普通ではなかったのです。金銭に重きを置く教会とそれは著しい対照をなしていました。1964年9月4日号の「タイム」誌は,「資金調達人」の見出しのもとにこう報じました。「かつては日曜日の礼拝出席者に盆を回すだけでよかったが,今日の教会は資金集めのためビンゴから証券までいろいろな方法に頼っている。資金調達に苦心する結果好みの良さ,分別,寄贈者の心理がやかましい問題となり,全国的な激しい論争をまき起こしている」。勿論これは普段の寄附集めの他に行われているのです。出費をまかなうのに寄附だけでは不十分なのです。

      しかし「タイム」誌の報道によれば聖書の原則は問題とされていないらしい事にあなたは気付きましたか。クリスチャンに問題となるのはその点です。ナイジェリアの青年が驚くのも無理のない事です。エホバの証者は与える事,受ける事その他の面で,聖書の原則に従います。

      寄附集めのため彼らが盆やかごを回さない一つの理由は,聖書にそのような先例がないからです。昔イスラエルで幕屋とか宮の造営の際に特別な資金を必要としたとき,簡単な発表だけで人々は心よく答え応じ,時には「じゅうぶんで,かつ余る」ほど与えました。エホバ神の組織的な崇拝を国民のために行なう責任があったレビ人は十分の一を受けましたが,これは彼らが土地を相続しなかったからです。―出エジプト 35:5; 36:4-7。歴代志上 29:9。

      キリストと使徒の時代にも彼らが寄附を集めたことはどこにも記録されていません。むしろキリストは使徒をつかわしたとき,「ただで受けたのだから,ただで与えるがよい」と教えました。イエスは使徒をつかわした時に「病人をいやし,死人をよみがえらせ,らい病人をきよめ,悪霊を追い出」す力を彼らに与えたのですから,その事はなお注目に値します。奇蹟を行なってのち,寄附を集めるのは容易なはずです。にも拘らず彼らはそうしませんでした。また初期クリスチャンが十分の一を納めたという記録もありません。自発的寄附が十分あったからです。―マタイ 10:8。ルカ 8:3。

      この事は,1960年11月30日付スコットランド日報の伝えた方法とはたしかに大きな違いがあります。それによると1400名の教会員がいるある教会で寄附しないために235名が除名され,他の239名も今後寄附額をふやさないなら除名すると警告されました。

      なぜその必要がないか

      会衆の前で寄附盆を回す事,ビンゴゲーム,教会の夕食,バザー,慈善寄附,競買,誓約する事など,聖書に先例がなく,すすめられてもいない方法で,おだやかに教会員を圧迫するのは自らの弱さを認める事になります。どこかに間違いがあるのです。何かが欠けています。何が欠けているのですか。感謝の気持ちが欠けているのです。感謝の気持ちがあれば,うまい言葉で欺したり,強制する手段は不必要です。教会が人々に霊的食物を与えていない事が原因で感謝の気持ちが欠けているのではありませんか。

      神のみことば聖書に基づく健全な霊的食物を受けるなら,人々は神がなさった事を感謝し,奉仕と寄附の面で自発的に答え応じます。彼らが神の善を学ぶにつれ,神にならう者になりたいと望みます。イエスはその事を次のように教えました。「こうして,天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は,悪い者の上にも良い者の上にも,太陽をのぼらせ,正しい者にも正しくない者にも,雨を降らして下さるからである。それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」。―マタイ 5:45,48。

      それに加え,神を愛する人と交わる喜びと生活の導きを受け,それに神と聖書への信仰,また,神の国と正義の新しい秩序への希望が強められるにつれ,ペンテコスト後の初期クリスチャンと同様,心の正しい人は物質面で感謝の気持ちを表わしたいと願います。―使行 4:32-35。

      見逃がせないのはクリスチャン崇拝を導く人の模範です。モーセ,ダビデ,イエス,キリストまた使徒たちの模範は彼らが仕えた人々に良い影響を与えたに違いありません。初期クリスチャン会衆に,給料をもらう牧師はいませんでした。事実,牧師と平信徒の区別はなく,すべての人が機会のあるごとに,また自分の能力に応じて伝道しました。みんなから仕えられ,給料をもらうどころか導く者には大きな義務がありました。イエスはこう述べています。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は,仕える人〔ディアコノス,『しもべ』〕となり,あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は,僕とならねばならない」。コリントのクリスチャンがパウロの費用をまかなうため,自発的寄附の特権を認識しなかった時でも,彼は寄附を集めず,テント作りで自分の生計を立てました。―マタイ 20:25-27。使行 18:3。コリント前 4:11,12; 9:11,12。

      施しを左右する聖書の原則

      また施しを左右する聖書の原則を理解すれば,寄附集めを不必要にする助けとなります。神を喜ばせ,無私の気持ちで施す事は一つの原則です。自分の施しを宣伝する人を罪に定め,イエスはこう助言しました。「あなたは施しをする場合,右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは,あなたのする施しが隠れているためである。すると,隠れた事を見ておられるあなたの父は報いてくださるであろう」。パウロも同じ点を指摘し,施しが愛の動機からでないなら「いっさいは無益である」と述べました。無私の気持ちからの施しだけが神に喜ばれるものです。それは自分をはなれ,おもに他の人に関心を払う事だからです。私たちはいくらあげなければならないかではなく,いくらあげることができるかと自問すべきです。―マタイ 6:2-4。コリント前 13:3。

      神がごらんになるのは贈物の大きさではなく,その人の持ち物と贈物との関係であり,これも施しに関するもう一つの聖書の原則です。そうです。「もたないところによらず,持っているところによって,〔贈物は〕神に受け入れられるので」す。これは公正で,理にあった,思いやりのある配慮ではありませんか。宮のさいせん箱にわずかな価値の硬貨2枚を入れたやもめのことを話した時,イエスはこの原則をたとえによって示されました。彼女はだれよりもたくさん入れました。人々はあり余る中から献金しましたが,彼女は「その乏しい中から,持っている生活費全部を入れたからである」。この原則はわずかしか与える事のできない人に大きな励みを与えます。神はそれを十分とみなし,同時に多く持つ人には多く与える事を励ますからです。このようにしてみなが分に応じて与える事になります。―コリント後 8:12。ルカ 21:1-4。

      この点に関する聖書の他の原則は「神は喜んで施す人を愛」されるという事です。これは金銭の施しに限らず,私たちに罪を犯す人にゆるしを与える事をも含め,あらゆる種類の施しに適用される原則です。「慈善をする者は快く慈善をすべきである」。心からの施しは惜しみない施しです。―コリント後 9:7。ロマ 12:8。

      エホバのクリスチャン証者は聖書の原則に従って施すため,彼らの法人組織である,ものみの塔協会は,全世界の伝道,宣教活動のため,毎年数百万ドルの経費を支払う事ができるのです。マタイ伝 24章14節の成就として御国のよいたよりが全世界に伝道される事を願う人は,御国会館にある寄附箱に入れるだけでなく,余裕に応じて支部事務所に寄附を送ることができます。わざを効果的に計画するため,協会は,定期的に寄附できる人にこれから1年間に大体どれ程の寄附をしたいと望まれるか年に一度,手紙で知らせて下さるようすすめています。そうしたからとて寄附の催促があるわけでなく,また実際に寄附したかどうか調べる事もありません。それは誓約書ではなく,単に「寄附の見込み」です。ただ手紙か葉書で一こと,これからの1年寄附したい旨を知らせて下さればよいのです。日本に住む人は東京都高輪局区内港区芝三田豊岡町1,ものみの塔聖書冊子協会宛に寄附の見込みを送る事ができます。

      これは寄附の請求でもなく,また施す人に義務を負わせる事でもありません。寄附の見込みによって,協会はわざを効果的に計画する事ができるのに加え,それを支持したいと望む人は自分がどれくらい寄附できるかを考え,また使徒のすすめに従ってそれを実行して行くことができます。「各自は惜しむ心からでなく,また,しいられてでもなく,自ら心で決めたとおりに」,また,神と隣人への愛に動かされ,自分の事情がゆるす範囲でそうすべきです。そしてこの実際的な計画は聖書のすすめるところです。初期クリスチャンは次のようなさとしを受けました。「一週の初めの日ごとに,あなたがたはそれぞれ,いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき,わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい」。寄附を集める事にパウロも賛成ではありませんでした。―コリント後 9:7。コリント前 16:2。

  • 集会の出席を認識する
    ものみの塔 1965 | 8月1日
    • 集会の出席を認識する

      ◆ 昨年7月イランのテラン全衆の一伝道者は戸別伝道の際にアッシリア人の家族に出合いました。家族の中でかなりの興味を示したのは一人息子でした。御国奉仕の提案に従って「楽園」の本を配布してその場で研究を始めました。毎週の研究を約束したこの青年はものみの塔研究に出席し,組織と交わる招きを受けた時に問題に直面しました。日曜日は出勤日でありしかも仕事先が町から100キロもあるからです。しかし真理への理解が深まるにつれて,さらに進歩するために集会の出席が必要である事を悟りました。そこでその青年は仕事を都合して,毎週日曜日のものみの塔研究に出席するはっきりした取りきめを設けました。それから木曜日の集会に来はじめた彼は間もなく神権宣教学校にはいり,話しの割当てでよい進歩を示しました。いまでは定期的によいたよりを伝えるわざに参加しており,最近開かれた小さな巡回大会で浸礼希望者として立ち上った3人のうちの一人となった事は全衆にとって大きなよろこびでした。この事はみな1年以内に生じたのです。「御国奉仕」にある協会の提案に従い興味を持つ人を組織に導く事の大切さがよくこの例からもわかります。

      ― 1965年度エホバの証者の年鑑から

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