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神から授かった資産を用いるものみの塔 1963 | 8月15日
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をするのにためらう必要があるでしょうか。最善のものを古い世に与えて,新世社会のほうを惜しみ惜しみ支持するなど,なんと愚かなことでしょう。物資は生かして用いることができます。家族が神のわざのために少しの物を犠牲にするなら,それによって家族のなかのひとりかそれ以上の者が,毎日良いたよりを伝道するという特権にあずかることができます。またある人たちは,家を離れ,必要の大きな場所に行って宣教の仕事をするための態勢をととのえるでしょう。物質的にわざを支持するのも良いことです。しかし神から授かった個人的資産を用いて自分自身伝道に参加することは,御国宣明のこの最後の時代において最も重要なことです。「収穫は多いが,働き人が少ない。だから,収穫の主に願って,その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタイ 9:37,38,新口)神が与えてくださった多くの資源を考えてください。あなたが物質の富をもっていてもいなくても,時間,影響力,力,権力,健康,生来の才能,素質,理性力,知識,話す力,命そのもののほうがはるかに貴重であることを忘れないようにしましょう。いまその資産を,神の御心に一致して十分に用いているなら,あなたは最も賢明な投資をしているのです。エホバはあなたのその資産に加えて永遠の生命を与えることを約束されています。しかもエホバは約束を必ず守られるかたです。―マルコ 10:29,30。
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喜んで与えることはさいわいものみの塔 1963 | 8月15日
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喜んで与えることはさいわい
喜んで与えることは,今日,キリスト教国において余り行なわれていません。聖書によれば,神は喜んで与える人,惜しむことなく,心から進んで与える人を祝福します。では教会の資金集めについては何が言えますか。
教会主催のビンゴゲーム,富くじ,名前と金額をしるすようになった寄付袋をどう思われますか。寄付盆を回したり,小額の寄付をする人には気まずい思いをさせ,無理をしてまでも多くの額を出すよにう仕向けるのは,よいことですか。リーダース・ダイジェスト1963年2月号(英文)に次のことが出ていました。「フランスのある小村で,牧師はちょうを捕える網を寄付箱にして日曜日のさい銭のあがりをふやした。硬貨は網の目から落ちてしまう。紙幣でなければ網の目にかからない」。
このような方法は喜んで与える気持をおこさせ,祝福に導くものですか。そうではありません。喜んで自発的に与える気持はおさえられ,与える喜びも失われてしまうでしょう。クリスチャンは与えることから大きな喜びを得るはずです。使徒パウロは,初期クリスチャンと会衆の古い人に次のさとしを与えました,「『受けるよりは与える方が,さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを,万事について教え示したのである」。(使行 20:35,新口)しかし受け取る人の思惑を気にして仕方なく与えるときには,喜びがありません。また威信を高めるために多額の寄付をする人は,自分の求める報い,すなわち人からのほまれを得るだけで,イエスの語ったさいわいを得ません。(マタイ 6:1-4)今日では仕方なく出すことが多くなっていますが,昔はそうではなかったのです。初期クリスチャンの例を考えてみましょう。
初期クリスチャンは喜んで与えた
初期クリスチャンはどんな気持から与えましたか。歴史家エドワード・ギボンによれば,「互に遠く離れた地に住む人々の間でも,助け合いが盛んに行なわれた。裕福な兄弟は乏しい会衆を喜んで助けた」1。与えることは自発的であったため,それには喜びがありました。教会史家ネアンダーは次のことを書いています,「旅人,貧しい人,病人,老人,やもめ,みなし子,信仰のゆえに投獄された人を助け,世話することは,クリスチャン社会全体の規模で行なわれた。このために崇拝の集まりにおいては,自発的な寄付がきまってさし出されたのである」。2
俸給を受ける牧師,什一,寄付盆などは,初期クリスチャンの中にありませんでした。「何事も簡素だった初期教会において,奉仕者は手づから働いて生活した」。3 「どんなに小さくても,崇拝の場所にはかならず箱がおかれ,集まった人々はそれぞれの寄付をそこへ入れた」。4 何時入れるか,どれほど入れるかは全く各人の自由でした。(西暦)190年頃キリスト教に改宗したターツリアンはこう書いています,「月に1度あるいは望む時に,各人はその志に従い,そして余裕のあるときにだけ,何がしかのささげ物を携えてくる」。5
このように初期クリスチャンは集まりの場所にかならず箱を置いて,各人が望むだけのものをその中に入れました。小額の寄付も快く受け入れられました。きわめて小額の貨幣二つを賽銭箱に入れたやもめを見て,このやもめは他のだれよりも多く入れたのであると語ったイエス・キリストの言葉を,初期クリスチャンは覚えていました。(ルカ 21:1-4)また使徒パウロの述べた次の原則を知っていたのです,「もし心から願ってそうするなら,持たないところによらず,持っているところによって,神に受けいれられるのである」。(コリント後 8:12,新口)特別な資金が必要になったとき,初期クリスチャンは各人の財政状態に応じて出来るだけのものをさし出しました。「一週間の初めの日ごとに,あなたがたはそれぞれ,いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき……なさい」。―コリント前 16:2,新口。
このような与え方をした人は,豊かに祝福されました。その人々は心からすすんで与えたので喜びを感じ,また神から祝福されました。またその資金は多くの人の益のために用いられました。そのもたらした祝福を,パウロは次のように書いています,「各自は惜しむ心からでなく,また,しいられてでもなく,自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。こうして,あなたがたはすべてのことに豊かになって,惜しみなく施し,その施しはわたしたちの手によって行われ,神に感謝するに至るのである」。(コリント後 9:7,11,新口)このように与えたことによって,仲間のクリスチャンの必要がみたされただけでなく,あふれるばかりの感謝が神にささげられました。それは真実の真仰を表わすものであり,神に賛美をもたらしました。
初期クリスチャンがしたのは,仲間の信者を助けることだけではありません。神の国の福音を伝道して未信者を助けることもしたのです。使徒パウロの宣教のわざを経済的に助けた初期クリスチャンは,神の国をひろめることに力をかしました。それで使徒の次の言葉を実感をもって味わったに違いありません。「福音のために,わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」。―コリント前 9:23,新口。
今日のクリスチャンも喜んで与える
今日においても真のクリスチャンは,喜んで与えることの祝福を味わった初期クリスチャンにならいます。このように与えることは,どこで行なわれていますか。エホバの証者の御国会館を訪れる人は,それを見るでしょう。エホバの証者の御国会館また他の集会の場所には,たとえどんなに小さな場所であっても,寄付箱が備えられています。寄付箱が回ってくることは決してありません。すべては自発的なものであり,人はその志に従って望むだけのものを箱に入れます。気まずい思いをしたり催足されたり,あるいはそれと反対に表彰されたりする人はありません。寄付金は監督の俸給にあてられるのではなく,会館の維持,その地域における神の国の福音伝道のために使われます。
全世界にわたり2万2000を数えるエホバの証者の会衆は,その地域また国だけでなく全地に
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