-
正しい動機で与えるものみの塔 1954 | 7月15日
-
-
信者たちに恥づかしい気持ちを起させるようにしていました。次のような具合です『他の者たちからも,我々は学べる』また『この熱心を,我々も持つべきである』しかし奇妙なことには,カトリック信者には,彼らは実際にいくら献金したのか全く知らされていません。成績の良くない比較をして,献金することをすすめるべきでしようか? いいえ,そうではありません。争いと党派心の気持ちから献金すべきではありません。各人は,それぞれの主人に立つか,または倒れるのです。―ピリピ 2:3。ロマ 14:4。
おなじ出版物の別の号で,ひろく宣伝されているローマ・カトリックの教会長の一人は,献金をすすめて,献金は罪をつぐなう手段であると言いました。『皆さんの過去の生涯の中に,つぐなつてもらいたいと欲するものがあるならば,……皆さんの身代り金をこの欄の上にピン着けして,大僧正フルトン・ジー・シーンに……または皆さんの司教管督者のところに送りなさい。』献金をすることについて,それは正しいすすめ方ですか? いいえ,そうではありません。なぜならば,私たちの罪がぬぐい去られるのは,銀とか金によるのではなくして,キリストの尊い血によるからです。罪のゆるしを得るのは,自分を義しいものとする業によるのではなく,ただ信仰によるのです。―ペテロ前 1:18。ロマ 11:6。ヨハネ第一書 2:1。
カトリックでも,新教徒でも,宗教制度は,ますます十分の一税を献金することを強調しています。それで,1953年12月1日号のユナイテッド,プレスの急報は,次のような見出しをかかげました『3100万人は,賃銀の10分の1を教会に献金するよう求められる。』そのことは,聖書の中に教えられているのであるから,収入の10分の1を献金することは宗教的な仕事にたいして支持を得るため良い方法ではないかと,ある人々は必らず言うことでしよう。
モーセの時から,キリストの時までイスラエル人は10分の1を献金しました。しかし,律法から自由にされているクリスチャンたちは,10分の1をおさめる必要はありません。(ロマ 10:4)そしてまた,私たちはヱホバに献身しているのですから,私たちは十分の一税をヱホバに与えるだけでなく,すべてのものをヱホバに与えるべきであるということを忘れてはなりません。丁度信仰によつて,ヱホバの安息を7日のうち1日だけ私たちが楽しむだけでなく,毎日楽しむということと同じです。(ヘブル 4:1-11)また,経済上の事情で,あるものは10分の1献金ができても,あるものはできないということにも注意すべきです。これと関連して,次のことを見ることは興味深いことです。合衆国の法律によると,人や法人が,宗教とか慈善の目的のために献金するならば,その献金額は,課税されるべき全収入の20パーセントまでに控除されるということです。
新教徒の牧師たちは,資金蒐集の説教が30以上も書かれている1冊の本を強制的に求めさせられました。それらの説教によつて,『2万ドルから30万ドルの金が集め』られています。アメリカ合衆国北カロライナ州,ウイリミントンの一牧師は,1953年9月21号のタイムという雑誌の中で,このように言つています『今日の教会の中には,そんなにも多くの特別な財政についての運動があるので,「私がキリストの福音を伝道することのできる日曜日は,1年のうちに3日しかない。」』強調をするために,この牧師は大げさに言つていたのかもしれませんが,しかしこの方法についてはどうでしようか? 聖書の中のどこを見ましても,モーセや予言者たち,キリストや彼の弟子たちが資金蒐集の説教を伝道したなどということは全然書かれてありません。
ある宗教団体は,手紙を送つてその成員たちに,いくらの金額を出すかということを誓約させます。他の団体は,委員を任命して,その教区内にいる人々を個人的に訪問します。また別の団体は,献金を強調している映画を行います。他のものは,また慈善会,富くじ,くじ引き,そしてビンゴの遊びなどを行つています。またある団体は,毎年の終りに冊子を出版する程までもして,そしてその冊子の中で,成員がどれ程の金額を割り当てられていたか,また実際にどれ程献金したかということを,僅かな1円にいたるまでも,黒白ではつきり書き表わされます。そしてまた,集金盆や集金籠はいつもあり,つねにしばしば廻されます。これらの方法のうち,どれを選ぼうかなどと考えて,多くの時間をついやす必要はありません。なぜならば,それらの方法はみな一つのものを共通に持つているからです。すなわち聖書からの支持はないということです。
聖書から見て正しい方法
聖書から見て正しい方法とは,何ですか? それは,献金する機会または特権があるという事実を知らせることであり,そしてうけ取つた自発的な寄附の額によつて,自国と外国の宣教での,この仕事の拡大は決定されるということです。そのことは,モーセの時代に行われた方法です。その時は,美しい天幕または集会所を建てて,それに飾りをつける時でした。イスラエル人は早速に従つて寄附をしましたので,充分以上になつたから寄附を持つてくるのを止めなさいと彼らはすぐに言われました。―出エジプト 35:4,5,21; 36:3-7。
そうです,真に献身したクリスチャンは,自発的に献金します。一生懸命に働いた金をいくらか手離すといつても,心理学に知られているいろいろの手段を用いる必要はありません。『与えることは,受けるよりも,もつと幸いである』また『自由の人は富むであろう』そしてまた『正しい業に富み,自由であり,よろこんで分ける』というのは財産についても言えるのであつて特権であると彼らは良く認識しています。(使行 20:35,新世。シンゲン 11:25,改訳。テモテ前 6:18,新世)彼らはまた次のことをも知つています『ゆたかに播くものは,ゆたかに刈り取るであろう』そしてすべての者は『その心に決心した通り,おしむことなく,また強制されずに行いなさい,なぜならば神は気持よく与える者を愛されるからである。』彼らは,『よろこんでしよう』としますので,それは『人の持つているものに従つて神によつて特にうけ入れられるものである。』(コリント後 9:6,7; 8:11,12,新世)宮を建てるために,ダビデは材料を集めましたが,その時にダビデが話した要点を,彼らはよく認識しています。すなわち,そのように与えることは,神が先づ最初に彼らに与えたものの一部を,たんに戻すのにすぎません。―歴代志略 29:14。
そのような理由によつて,必要とするすべてのことがらは,毎年に協会へ通知し,来る年のあいだに,どれだけを献金することができるかと希望するものを知らせることです。こうするならば,協会はその仕事を計画することができ,また寄附をする人たちは,この問題にたいして十分良く考えることができます。
日本に住んでいる人々は,手紙か葉書を東京都港区芝三田豊岡町1番地ものみの塔聖書冊子協会にあてて送ることができます。これらの『良い希望』について書く時次のようなことがらを書くことができましよう。『私は次の12ヶ月のあいだ,ヱホバを讃美する仕事のために……円の金額を寄附したい希望を持つております。私にとつて都合良き時,そしてキリスト・イエスを通してのヱホバ神の豊かな御親切によつて私が繁栄する時に,それだけの金額を寄附といたします。(署名)』あなた自身も憶えていることのできるように,その葉書きまたは手紙のうつしを取つておくことは良いことです。
ヱホバ神のすべての僕たちは,すべてのことは,ヱホバ神に依存しているということを良く認めています。それで,彼らの仕事の上にヱホバ神の祝福があるように,彼らは一致結合してヱホバ神に祈ります。―コリント前 3:6。
-
-
ギレアデの22級の卒業式ものみの塔 1954 | 7月15日
-
-
ギレアデの22級の卒業式
ギレアデにある『ものみの塔』聖書学校の卒業式は,いつも心をあたたかくし,信仰を励まし強める時です。そしてこのことは,22級の卒業式の時に,特に真のように見えました。22級の120名の生徒は,37の違つた国々から来ました。日本を代表する最初の二人のギレアデの生徒は,この級と共に卒業しました。
土曜日に降つた雪とそして風のために,ギレアデのある北部ニューヨーク州のフインガー・レーク地方の風景は,美しい白でおおわれ,1954年2月7日,日曜日の卒業式の太陽の光りをうけて,きらきらと輝いていました。午前9時に,式は歌と祈りで始められました。学校のある御国農園の僕や,学校の4人の講師たちは,最初の1時間のあいだに,簡単な批評の言葉や,別れの忠告を与えました。また,地の隅々から受け取つた多くの電報が読まれました。
それから,『ものみの塔』協会の会長でもあり,また,『ものみの塔』聖書学校の校長であるエヌ・エツチ・ノアは,『ヱホバの恵みある御親切をうけてから,その目的を誤り用いるな』という題で,級に講演をいたしました。その題は,コリント後書 6章1節(新世)に基いています。講演は,あからさまで,熱がこもり,そして心をひき立てるような講演で,実際的な教訓が十分に述べられましたので,出席していた人は,みなその話しから利益を受けました。
他のいろいろな事柄の中でも,私たちのすべての特権は,ヱホバの恵みある御親切の表われであると,ノア兄弟は強調しました。私たちが手をゆるめたり,逆行するならば,その目的を誤り用いることになります。私たちが,長い年月のあいだ神の奉仕に従事していても,ハルマゲンドが過ぎ去るまでは,その目的を誤り用いる危険があります。私たちは注意を払つて,他の者たちが私たちの中ににがにがしいことを植えつけないようにし,そしてまた,私たちの毎日の振舞いにも注意をしなけれ
-