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ヱホバを試みるものみの塔 1957 | 8月1日
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ヱホバを試みる
『あなたの寄附の見込み』はヱホバを試みるあなたの積極的な気持を示します
献身したクリスチャンたちがヱホバ神を試みる,そのようなことは実に僭越なことではありませんか?
たしかに,荒野においてイエスが誘惑者サタンに告げたごとく,『「あなた方の神であるヱホバを試みてはならない」と聖書に書かれている。』(マタイ 4:7,新世)しかし,ヱホバを試みるには悪い仕方と良い仕方があるのです。サタンは,宮の尖頭から無鉄砲に飛び降りてみて,果して神の子であるかどうかを証明せよとイエスを誘惑しました。その誘惑に答えたイエスは,申命記 6章16節を引用したのです。その節のところでモーセは『汝マッサにおいて試みしごとく』と語つていました。
マッサという名前のつけられた場所のところでイスラエル人はモーセと言い争い,水の無いことに不平の言葉を述べて『ヱホバはわれらの中に在すや否や』と言いました。『マッサ』という言葉そのものも『試すこと,試錬』を意味します。そのところで,イスラエル人はヱホバを試験していたのであり,実際には「もしあなたが私たちの中にいるなら,なぜ水を与えないのか」とヱホバに指示をしたのです。そのようにヱホバを試みることは悪い反逆のもの,僭越で悪しきものです。クリスチャンが無用な冒険を行つてヱホバを試みることも悪いものです。―出エジプト 17:7。
しかし,ヱホバを試みる正しい仕方もあります。ヱホバ御自身も私たちにそうすることをすすめている仕方です。どのようにしてですか。ヱホバの御言葉に従うことによるのです。ヱホバはこう言われています,『わがみやに食物あらしめんために汝ら什一をすべて我が倉にたずさえきたれ,しかして是をもて我を試み,わが天の窓をひらきて容べきところなきまでに恩沢を汝らに注ぐや否やを見るべし。万軍のヱホバこれを言う。』バビロンに抑留されて後のイスラエル人はヱホバの宮崇拝をなおざりにしていたため,ヱホバはその行の愚かさを指摘しました。―マラキ 3:10。
それで,什一を倉に納めることによつて,ヱホバを正しく試みることができます。―実際のところ,そうするようにヱホバはすすめているのです。ヱホバの倉とは何ですか。私たちの什一とは何ですか。今日どのようにして什一のすべてをヱホバの倉にたずさえることができますか。
マラキの時代にあつた宮は,再建されたヱホバの宮であつて祭司たちやレビ人が仕えていました。その宮は神の霊的な宮を予め表わしたものです。神の霊的な宮は,『忠実にして慧い奴隷』級によつて今日の地上に代表されています。ヱホバはその級を任命して『全財産を』管理させました。―マタイ 24:45-47,新世。
十という数はたいていの場合に全部を表わし示します。しかし,什一は私たちの全部を表わし示しません。ヱホバに献身するとき私たちは只一度かぎり私たちのすべてを捧げるからです。しかし,イスラエル人は年毎にその什一を定期的にたずさえました。イスラエル人の什一は彼らの全部のしるしに過ぎず,実際10分の1でした。私たちの什一も同様に私たちすべての献身のしるしであつて,10分の1でなければならないとか,10分の1に限るべきではありません。使徒パウロもこう示しています,『もし心から願つてそうするなら,持たないところによらず,持つているところによつて,神に受けいれられるのである。』― コリント後 8:12,新口。
さて今日,私たちはどのように什一をたずさえることができますか。ヱホバを試みてヱホバの豊かな祝福を頂くためには,霊的な什一と物質的な什一の両方をヱホバの倉にたずさえなければなりません。霊的な什一をたずさえるとは,清い崇拝の行われている毎週5つの集会に準備をして出席することです。そして,これらの集会に出席するだけでなく,機会のある毎に『私たちの希望を公けに述べて』他の者を『愛と正しい業に』はげまします。―ヘブル 10:23-25,新世。
また,『あかしをするために,全世界に』『御国の福音』を伝道する業に参加するとき,霊的な什一をたずさえます。家から家の伝道をすること,霊的な必要物を感じている者のところに再訪問すること,街頭に立つて通行人に聖書文書を提供し,人々を公開講演に招待することなどです。そのような霊的な什一は極めて大切な什一であつて,これらを倉にたずさえて来るとき私たちはヱホバを試みることになります。そして,容れることのできない程の祝福をヱホバから頂けると期待できます。ヱホバはその種の試みを是認して居られ,御自分の言葉を立証しておられます。全時間奉仕者や熱心な伝道者は,そのことを直ぐに証明することができます。―マタイ 24:14,新口。
物質的な什一
しかし,それで全部というわけではありません。全世界にわたる伝道の業をするためには,資金が必要です。それで,イエスとその使徒たちが町から町に良いたよりを伝道して行つたとき,多数の婦人はいつしよにいて『自分たちの持ち物をもつて一行に奉仕した』と聖書に書かれているのです。(ルカ 8:1-3,新口)今日でも,伝道の業を支持するために物質的な寄附をすることにより,私たちはヱホバを試みます。そのような金銭の寄附はもちろん自発的になされるのであつて,強制されるべきものではありません。
1956年11月19日,ロッキー・マウンティン・ニュース紙に報ぜられているような状態は,ヱホバの崇拝者の中に存在しません。その紙上で,一人の母親は,牧師が自分の幼児に『クリスチャン名』を与えなかつたと書いていました。その理由は,いろいろの事情のために,その婦人の教会献金が後れていたからだというのです。また,ヱホバの崇拝者の間に寄附盆を廻すということもありません。1956年5月28日のタイムス誌に報ずるところによると,寄附盆を廻すことは,年長者が昔ほどに教会へ出席しなくなつた理由の一つになつています。新しい世の社会内ではパウロの次の助言が守られています,『各自は惜しむ心からでなく,また,しいられてでもなく,自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。』― コリント後 9:7,新口。
実体の物質の什一をたずさえてヱホバを試みる際に,多くの仕方があります。その一つは,それぞれの御国会館を維持するために自発的な寄附をすること,また困つている兄弟たち,特に全時間奉仕者を援助すること,更には,私たちの出席するいろいろな大会で寄附をすることです。実際のところ,そのような大会に行くためとか,出席するための費用は,私たちの什一をヱホバの倉にたずさえることであつて,ヱホバを試みることになります。
しかし,特に私たちがものみの塔協会の本部もしくはその支部事務所の一つに直接の寄附をするとき,私たちはそのような什一をたずさえることになります。この寄附は,いろいろな面で働く幾千人という全時間奉仕者を支えるだけでなく,費用のかかる法廷裁判の出費をまかなう為に用いられます。その法廷裁判は『福音を弁明し立証する』ためです。―ピリピ 1:7,新口。
実体の物質的な什一を納めてヱホバを試みる結果,非常に大規模な全世界の伝道の業が組織され,運営されることができます。1957年度の「ヱホバの証者の年鑑」(英文)の示すごとく,1956年度中に約64万人の奉仕者は162のちがつた国々で『御国の福音』伝道に参加し,8700万時間以上を伝道に費しました。たしかにヱホバは御自分の言葉を立証して居られ,什一のすべてをたずさえる者たちに祝福を注がれています。
『あなたの寄附の見込み』
私たちは実体の物質的な什一をたずさえるということで,ヱホバを試みます。私たちがよろこんでそのことをすると示す為に『あなたの寄附の見込み』という取極めがあります。つまり,葉書なり手紙なりで,来るべき年の間,協会にどれ程の金額を寄附し得るか,ということをものみの塔協会に知らせる仕組です。これによつて,協会は計画を正しく立てることができ,また私たちは寄附するものについてはつきりした目標を持ちます。全世界には81の支部事務所があります。それで,みなさんの住んでいる国の支部事務所に送付して下さい。
『あなたの寄附の見込み』の文面はどのようにすれば良いでしようか。次のように書くことができます,『私は次の12ヵ月の中,御国の良いたよりを伝道する業のため, ― の金額を寄附したい希望を持つております。私にとつて都合良いとき,そしてキリスト・イエスを通してのヱホバ神の過分の御親切により,私が繁栄するときに,それだけの金額を寄附します。』(署名)282頁には支部事務所の住所が出ています,支部事務所全部の住所は,協会出版物の一番最後の頁に出ています。
ヱホバ神は,私たちの物質的な『什一』も,霊的な『什一』も必要としません。しかし,その愛と智の御心から,私たちが霊的にも物質的にも什一のすべてを倉に納めてヱホバを試みる機会を備え給うたのです。私たちがなせばなす程,ヱホバは新世社会の全体に注がれるのと同じように,私たち一人一人にその祝福を注がれるのです。その祝福は非常に豊かであるため,私たちには容れることができないでしよう。
たしかに,是認された仕方でヱホバを試みることができます。それはヱホバに讃美を帰すと共に私たちに永遠の祝福をもたらします。
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ヱホバの制度に尊敬を示しなさいものみの塔 1957 | 8月1日
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ヱホバの制度に尊敬を示しなさい
『我子よ,汝の父のいましめを守り,汝の母の法を棄つるなかれ。それ,いましめは燈火なり,法は光なり。こらしめは生命の道なり。』― シンゲン 6:20,23。
1 キリスト教国の子供たちは誰ですか。その状態はどんなものですか。
キリスト教国の子供たちは,この世の組織制度の子たちです。キリスト教国はこの世の組織制度の主要な部分だからです。キリスト教国の子供たちは,多くの言語で幾千万冊と配布されている燈火,すなわち聖書を持つています。しかし,その子供たちにとつては聖書は,火の点ぜられていない燈火のようです。なぜですか。なぜなら,この世の組織制度の父と,その自堕落な裔なる『キリスト教国』は,子供たちの心を暗まして燈火の光を見させないからです。更に悪いことには,彼らはその燈火に対する正しい認識を得させずに故意に子供たちを外に追い出し,そして,子供たちをして真暗闇の窮乏の状態にさまよわせているのです。強力な手によつて阻止されないなら,覆いのかけられている聖書そのものももぎとられていたでしよう。キリスト教国内にいる古い世の子供たちは,そのような状態なのです。―コリント後 3:15; 4:4,6。
2 どんな意味深い面で新世社会の子供たちは,キリスト教国の子供たちとちがいますか。
2 ヱホバの証者の新世社会の子供たちを見るとき,それはなんという対照なのでしよう! 彼らも一つの燈火を持つています。実際のところ,それは同じ燈火である神の書かれた御言葉です。しかし,詩篇 119篇105節にはこう書かれています,『なんじの御言葉はわが足の燈火わが路の光なり。』彼らは光を持つているのに,キリスト教国の子供たちが光を持つていないのはなぜですか。両方とも同じ燈火なる神の言葉,聖書を持つています。そのちがいは何処にあるのですか。その答はこうです,顔に覆いのかけられて居ない彼らは,天の御父の光り輝く御言葉を見つめ,また母のごとき制度を通して与えられる啓開の教えをも受け入れたからです。シンゲン 6章20,23節にこう書かれています,『我が子よ,汝の父のいましめを守り,女の母の法を棄つるなかれ。それいましめは燈火なり。法は光なり。教のこらしめは生命の道なり。』
3 聖書からの光を持ちたいと欲する人々には,何が要求されていますか。
3 しばらくのあいだそれを考えてごらんなさい。父のいましめと母の教なる法の二つの事柄が言われています。そのシンゲンの説明によると,父のいましめは火のついている燈火ですが,また母の教なる法からの光もあります。この世には,神のいましめの書かれている本,聖書で充ちています。それであるなら,なぜ人々は正しい道を見つけることができないのですか。なぜなら,母の教なる法,すなわち光を持つていないからです。ヱホバ神は聖なる御言葉を全人類に与えられました。この御言葉の中には,生命の路を歩むのに必要なすべての知識が記載されています。しかし,その御言葉を自立で語らせるとか,あるいは生命の真理を自立で輝かせる,というのは神の取り極め給うことではありません。神の御言葉は『光は義しき人のためにまかれ』と述べています。(詩 97:11)シンゲンに言われている母の教なる法,すなわち光は,神の制度を通して備えられるのです。真理の光の中に歩むためには,ヱホバ神を私たちの父と認めるだけでなく,その制度を私たちの母と認めねばなりません。
4 イスラエル人たちは,どの程度まで父と母を尊ぶように要求せられましたか。そして,今日のクリスチャンは,どの程度まで?
4 自らクリスチャンと言い,神は自分の父であると言う人々の中には,こんな風に誇る人がいます。つまり,自分一人だけで神と共に歩んでおり,神は彼らの歩みを個人的に導かれているというのです。そのような人々は母の教なる法を棄てているだけでなく,実際には神の女を街路に投げ出しているのです。神の真理
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