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  • 責任をはたして各自の荷を負いなさい
    ものみの塔 1963 | 6月1日
    • はその兄弟でもなく,協会でもないからです。その成分は血液から抽出されたものかも知れず,あるいはそうでないかも知れません。ここで各人が責任をはたして自分の荷を負わなければなりません。

      輸血について言えば,聖書とものみの塔協会の出版物を学んだ人は,輸血が聖書に反することを知っています。(創世 9:4。使行 15:28,29)この問題について聖書の述べる事を実際に行なうのは,各人の負うべき責任の荷です。入院して手術を受ける場合,自分の立場を医師に説明したところ「よろしい。では血漿を使いましょう」あるいは「必要なのは酸素を運ぶ赤血球ですから,赤血球を使うことはどうですか」と医師に言われたとします。医学のことに余りくわしくないので,会衆の僕あるいは協会に問い合わせますか。自分の責任の荷を負う用意があれば,そのような必要はないでしょう。次のように医師に尋ねさえすればよいのです。「血漿は何から採ったものですか」「赤血球は何から採ったものですか」「それは何から採ったものですか」。血から採ったものという答えであれば,どうすべきかは明白です。聖書の原則は血液のみならず血の成分を用いて生命を支え,あるいは体力をつけることにかかわっているからです。

      聖書は血を「食べる」ことを禁じているので,輸血は血を消化器官に入れることではないと論ずる人があるかも知れません。しかし輸血は食物を胃に入れるのと同じ働き ― つまり体力をつけ生命を支える ― をもっと直接にするというだけのことで,食べることと輸血との間に相違はありません。病気から身を守るため,健康な人に接種するワクチンは別のものです。虚弱者あるいは病人に輸血するのは,体力をつけるためであり,からだを養うために食物を与えるのと同じです。

      生命の神聖さを尊重することに関して,この責任の荷を負うには,問題の起こる前にあらゆる場合のことをよく考えておかねばなりません。事故にあって出血し,弱くなっているときに考えて決定を下すのではなく,このような事ははっきり考える力があり,また聖書の原則を十分に考慮する時間のあるときに決定しておくべきです。円熟した人は勉強する度毎に,たとえ同じ問題に当面していなくても,いま学んでいる事が自分にどうあてはまるかを熟慮します。このようにすれば,たとえ緊急な事態に直面した時にもとるべき道を知り,従うべき聖書の原則を知ることになります。

      神の知恵を求める

      クリスチャンであるという事は,何時でも,何をする時にもついてまわります。それはある教えを信じて伝道し,ある希望を抱くというだけの事ではありません。神のことばの真理を学びはじめた頃,人は自分が今まで抱いていた信心の間違いを知り,とくに聖書の教えの面にもっぱら関心を向けるかも知れません。しかし知識と理解がすすむにつれ,聖書は教えだけのものではなく,生活の道であることを知るでしょう。聖書の次の言葉の意味がわかってきます。「汝こころをつくしてエホバにより頼め,おのれのさとりによることなかれ汝すべての途にてエホバをみとめよ,さらばなんぢの途を直くしたまふべし」―箴言 3:5,6。

      このようにして,どんな問題が起きても,聖書の原則をまず確かめ,それに従って行動できます。多分に感情のからまった問題でも,エホバ神に信仰のない心理学者に助言を求めることはできません。ヤコブ書 5章13節はこうすすめています,「あなたがたの中に苦しんでいる者があるか。その人は,祈るがよい」。(新口)このような人は常に祈り,問題を正しく解決するために神のことばをしらべます。必要ならば会衆の監督あるいは他の円熟したクリスチャンに尋ねて,この場合に参照すべき聖句をもれなく考慮するようにします。しかし責任の荷は自分で負うのであり,従って他の人に決定してもらうのではありません。献身したクリスチャンとして自分のとるべき道を決定し,自分で事態に対処します。このようにしてエホバの助けに信頼し,神から離れることなく,勇気を以て歩みます。

      分別であって狂信ではない

      聖書の原則に従って行動することは分別のある行いであり,狂信ではありません。箴言 2章 にある通り,かくされた宝をさがすように知恵と悟りを求めるならば,エホバはそれを与えて下さるでしょう。「忠実な思慮深い僕」の制度を通して,神は霊的な食物を与えます。この食物である出版物を何時も利用しなければなりません。(マタイ 24:45-47)クリスチャンの家庭には聖書のほか,1年ごとにまとめた「ものみの塔」と「目ざめよ!」,ものみの塔協会の最近の本,宣教に携わる人々に与えられる出版物を備えておくとよいでしょう。辞書,聖書索引,聖書辞典も有用です。「ものみの塔出版物の索引」(英文)と毎年出る増補分も必要です。神のことばから知恵と悟りを得るために,これらのものはいわば道具の働きをします。

      質問あるいは問題の起きたとき,自分で責任をはたして荷を負うことを習慣にして下さい。出版物の索引また協会の本の巻末にある索引を利用して,その問題をとりあげた箇所また関連のある聖句を参照できます。参照したい本が手許になければ,御国会館にあるかも知れず,あるいはだれか持っている人がいるかも知れません。

      自分でしらべて,最善の結論を出して下さい。子供はその結論が正しいかどうか両親に聞いてみて下さい。妻は献身したクリスチャンである夫に自分のしらべた事を尋ね,まただれでも大切な問題ならば会衆の監督に尋ねるのがよいでしょう。監督は必要な援助を与える一方,その人が自分でしらべ,自分で考えたかどうかを尋ねてみます。宣教に関連した大切な問題を協会に問うことも,時には必要でしょう。しかしだれでも自分でしらべ,その場合にあてはまる聖書の原則を悟るようにすすめられています。協会のすることを自分でも出来るわけです。―詩 119:105。

      自分で責任の荷を負うとき,分別を増し加え,円熟に成長し,エホバ神とその制度にますます有用なものとなります。また危機の時にも,シャデラク,メシャク,アベデネゴのように神の心をわきまえることができるでしょう。そして責任をはたして自分の荷を負うとき,この3人の場合と同じく,エホバから保護され,恵みを与えられます。―ガラテヤ 6:5。

  • 盲目的な服従
    ものみの塔 1963 | 6月1日
    • 盲目的な服従

      ◇ ニューヨーク,オグデンスバーグ司教管区の司教,ジェイムス・J・ナバグは,カトリック教の友愛慈善団体ナイツ・オブ・コロンバスの第67回年次大会に出席した代表にむかって,カトリック教徒は教会からの指示に対してはいかなる疑問をもはさまずに従うべきであると語った。一カトック学徒の言葉を引用して同牧師は言った。「何か白いものを見ても,教会が黒だと言うなら,それは黒いものとして信じなければならない」。

  • 大論争でエホバの側に立つ
    ものみの塔 1963 | 6月1日
    • 大論争でエホバの側に立つ

      リリアン・ルテマンの経験談

      1914年の暑い8月の午後,頭上で飛行機が轟音を立てて飛んでいたとき,私はまだ6歳の幼い少女でした。英国の気持ちのよい庭の中で,私は父のひざによりかかり,おとなたちが,始まったばかりの戦争について話すのを聞いていました。

      私の父は,自由党の活発な党員であり,英国のいなか町にあった産業組合支部の支部長でもありました。母は学校の教師で,あらゆる教育活動に関心をもっておりました。その母が「世々にわたる神の経綸」という本を買ったのです。両親はその本

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